「っし……これで最後だな」
大きなタライの上に氷柱を置いたトレーナーは、一息つきながら額の汗を拭う。
七月の下旬。重度の夏負けになってしまった私は、寮の空き部屋に移動し療養することになった。
私のベッドを取り囲むように設置された、巨大なタライと、その上にそびえ立つ氷柱。そして扇風機の数々。
はじめは元の部屋で安静にするだけでもいいと思っていたが、この氷の数は流石にセカンドちゃんの迷惑になりそうだ。
「ごめんね、大事な時期に体調崩しちゃって」
「だぁから、体調崩すのは仕方ねえって。特に今回は俺の責任だ」
私が体調を崩したことに、一番責任を感じているのはトレーナーだった。
ウマ娘が暑さに弱いのも、今年の夏がとりわけ暑いことも、分かっていたはずなのに、もっと気に掛ければ良かったと。車の中で何度も謝られた。
お医者さんの話通りなら、十月までは本格的なトレーニングはできず、静養することになるのだろう。菊花賞は十一月の半ば。トレーニング、調整のためのレースに使える期間は一ヶ月と少しほどしかなくなる。
貴重な時間が、まるで氷のように溶けて無くなっていく。
菊花賞には、セカンドちゃんも出る。そしてきっとケヤキちゃんも出てくるだろう。他にも、夏を超え、秋に向けて力をつけてきたウマ娘たちも出てくる。
そしてなにより、ウメちゃんも出走する。
彼女たちは三ヶ月と少し、菊花賞に勝つためにトレーニングを積んでやってくる。
数多いる同世代の中でも、クラシック戦線に参戦することを許された、選りすぐりのウマ娘たちがさらに力をつけてやってくる。
「まあ、なんだ。トレーニングだとかレースだとかは忘れて、今はとりあえず休め」
「……うん、そうだね」
目を閉じる。氷が効いてきたのか、さっきよりもほんのり部屋が涼しくなっていた。
***
「あれ、ウメノさん?」
「ん……ああ、セカンドか」
昼下がり。トレーニングを終えた私は食堂でウメノさんと出くわした。
「今からお昼? 良ければ一緒にどう?」
「うるさいのがついてくるけど、それでもいい?」
「うるさいの?」
「私だよ! って誰がうるさいのだ!」
「今元気よく返事したじゃない」
ウメノさんの陰から元気よく飛び出してきたのは、茶髪で声に違わず活発そうなウマ娘だった。
はじめて会うウマ娘だったが、私はその姿に見覚えがあった。
桜花賞、オークスを勝利し、現在ティアラ競走において頂点に立つ、二冠ウマ娘のカネケヤキさんだ。
ツンと受け流しているウメノさんに対して、ワーワーと抗議していたカネケヤキさん。二人を見てポカーンとしている私を見ると、得意げな顔を浮かべ、こちらに向き直って口を開いた。
「ふふん、もうシンザンの時みたいに間違えないんだから! その顔は、あなただれ? って顔でしょ!」
「えっと、なんであなたがここに? って顔」
「また間違えた! なんで? ねえなんでよぉウメ!」
「知らないわよ……こんなのだけど、大丈夫?」
ユサユサと体を揺すられながら、ウメノさんは問いかけてきた。首振り人形のようなペースで頭が揺れているが、表情は依然としてツンとしたまま。多分、もう諦めているんだろう。心なしか諦観の念が見てとれる。
「うん、大丈夫よ。仲良さそうでいいわね」
「……色々と言いたいことあるけど、まあいいわ。ほらケヤキ、お昼食べに行くよ」
「お昼! 私お腹すいた!」
抗議はもういいのか、カネケヤキさんはウメノさんの体をパッと手放した。そのままカウンターに進んで食事を受け取り、席に着く。
「そういえばはじめましてねセカンド! この前の毎日杯見てたよ!」
「ありがとう。私もカネケヤキさんのオークス見てたわよ」
「ケヤキでいいよ!」
どうやらケヤキさんも私のことを知ってくれていたらしかった。ダービーの約一ヶ月後に私が出走し、一着をとることができた毎日杯を見てくれていたらしい。
シンザンちゃんは愛想がいいという意味で親しみやすいが、ケヤキちゃんは元気がいいという意味でとても親しみやすそうだ。口ではうるさいのだとか雑に扱っているウメノさんが、なんだかんだで一緒にいることからも、いい子だろうというのも窺える。
「もう三ヶ月と少しもしたら菊花賞かぁ。みんなと戦えるの楽しみ!」
「その前に夏を越えないとでしょ。ケヤキはクイーンステークスもあるんだし」
「ウメノさんは夏どうするの?」
「私は毎日王冠とセントライト記念に出るつもり。セカンドは?」
「私は京阪杯と神戸杯かな」
「そう……あ、ねえ今日シンザンは? 一緒じゃないの?」
「あー、シンザンちゃんは……」
私は二人に、今朝シンザンちゃんの身に起きた事件のことを話した。