リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐   作:烏賊メンコ

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第101話:新人トレーナー、春の天皇賞に挑む その2

『生憎の空模様の下で始まります、芝3200メートルGⅠ、天皇賞春。バ場状態は重の発表となっています』

『辛うじて重という発表ですが、ほとんど不良バ場と変わらないぐらいコンディションが悪そうですね。雨も止みませんし、今日のレースは荒れるかもしれませんよ』

 

 京都レース場にファンファーレが鳴り響き、実況と解説の男性がそれぞれ声を発する。しかし雨の影響か、普段と比べるとレース場に響き渡るその声は小さく聞こえた。

 

 雨は止まない。しかし、バ場状態はギリギリで重と言える範疇らしい。

 

 春の天皇賞は3200メートルで、スタート位置は向こう正面になる。スタートしてからすぐに淀の坂と呼ばれる急勾配の坂が待っており、コースを外回りで1周半してゴールを目指すことになる。

 

 悪いバ場状態に雨。それに第11レース目で芝のところどころが抉れており、場所によっては重どころか不良バ場と呼べるぐらいコンディションが悪化していると見るべきだろう。

 

 これほどバ場状態が悪いと、普通に走るだけでも足を取られるし加速した状態だと滑って転びかねない。キングもそうだが、他のウマ娘にも怪我がないことを祈る他ない。

 

『1枠1番、キングヘイロー。3番人気です』

『先月の大阪杯で2着でしたし、去年の菊花賞で3着と長距離の適性も示したことで3番人気に推されています。今日の悪天候と重バ場でどのような走りを見せるのか注目したいですね』

 

 この状況で内枠……それも1枠1番のスタート位置は正直微妙なところだ。ダートなら喜べるけど、芝だと内ラチは芝が剥げている場所が多い。

 

 雨の中でのトレーニングも積んでいるけど、晴れや曇りかつ良バ場でのトレーニングと比べれば機会自体が少ないし怪我が怖いから頻度もそれほど多くない。

 

 キングはゲートインする前に観客席に向かって笑顔を……ん? 観客席というか、俺を見てる? 距離があるから確信は持てないけど、今、キングと目が合っている気がする。

 

 キングもそれを確認したのか、何故か柔らかい笑みを浮かべた。続いて苦笑を浮かべると、ゆっくりとした足取りでゲートに入る。

 

『3枠3番、スペシャルウィーク。4番人気です』

『若干人気が下がりましたが、去年の菊花賞ではセイウンスカイと共に世界レコードに匹敵するタイムで走った子です。長距離のレースはお手の物でしょう。黄金世代の一人としてどんな走りを見せるのか注目です』

 

 スペシャルウィークは気合十分、といった様子で観客席に向かって拳を突き上げる。すると大きな歓声が上がり、それを確認すると笑顔でゲートインした。

 

『4枠5番、マチカネタンホイザ。6番人気です』

『去年の春の天皇賞ではトウカイテイオーと競って4着でしたね。今年こそは戴冠となるのか……期待しましょう』

 

 マチカネタンホイザもスペシャルウィークと同様に、気合十分といった様子である。むん、と胸の前で両拳を構えてゲートに入る。

 

 去年の春の天皇賞ではライスが勝ったものの、最終直線でトウカイテイオーに並んで競ったウマ娘だ。油断はできないだろう。

 

『7枠11番、ビワハヤヒデ。1番人気です』

『先月の大阪杯でとうとうGⅠの冠を被ったこのウマ娘が1番人気です。春のシニア三冠の中継点、ここで二つ目の冠を被ることができるのか……今年も注目したいウマ娘が多くて困りますね』

 

 ビワハヤヒデが観客席に向かって手を振ると、これまでで一番大きな歓声が上がった。それにビワハヤヒデは微笑んでゲートに入る……と、なにやら髪の毛が気になるのか、しきりに自分の髪を手で払っている。

 

(髪が長い上に量もあるし、この雨だと水を吸って重たくなりそうだな……)

 

 ロングヘアーなのはキングも同じだけど、ビワハヤヒデは髪の毛の量がすごい。アレでは走りにくいだろうな、なんて思う。

 

 そういう点では俺の隣に立つライスも髪の毛が長くて量があるため、こういう天気の時は大変だ。ライスがしっとりライスになってしまう。ウララも留めている髪を解くとかなりロングヘアーなんだけど、キングが毎日のように手入れをしてあげているから綺麗だしなぁ。

 

『4枠4番、ナイスネイチャ。2番人気です』

『とうとうこのウマ娘が春の天皇賞に初登場です。先月の大阪杯では3着でしたが、有記念をはじめとした長距離のレースでは何度も3着に入った実力派ですからね。大きな期待がかかります』

 

 ライスやトウカイテイオー、メジロマックイーンがドリームシリーズに進むということもあって、今のシニア級の()はこのナイスネイチャだろう。GⅠでこそ未勝利だが、いつ、どのレースで勝ってもおかしくない怖さがある。

 

『5枠6番、ナリタタイシン。8番人気です』

『先月の大阪杯では6着でしたが、着々と力をつけているウマ娘です。今日のこの重バ場で得意な追い込みがどこまで伸びるのか……それ次第でしょうね』

 

 大阪杯では調子が良さそうだったし、今日も大阪杯の時と同様に調子が良さそうだ。しかし解説の男性が言う通り、ナリタタイシンが得意としている追い込みが今回の状況でどこまで伸びるか次第だろう。

 

『6枠8番、セイウンスカイ。5番人気です』

『昨年の菊花賞ウマ娘にして世界レコードを記録したウマ娘です……が、菊花賞以降の成績が影響しているのか人気がやや下がり気味ですね。今日のレースでステイヤーとしての適性を見せつけるのか注目したいと思います』

 

 セイウンスカイは観客席に向かってひらひらと右手を軽く振ってからゲートに入っていく。仮にセイウンスカイが菊花賞の時と同様に世界レコードのペースで走れるのなら強敵だけど、今日のこの雨とバ場状態だとどんなもんか……。

 

『7枠10番、オイシイパルフェ。12番人気です』

『13人中12番人気となりました。しかし大阪杯の走りが印象に残っているのでしょう。観客席からは大きな声援が飛んでいます』

 

 オイシイパルフェは……今回はどうなんだろうな……大阪杯の2000メートルならまだわかるけど、春の天皇賞の3200メートルかつ雨かつ重バ場で前回みたいな走りは難しいと思うんだが……それでも警戒は必要か。

 

 そうやってゲートインが進んで行く中、俺はふと記憶を探った。

 

 そういえば、去年は春の天皇賞をライスが走るよりも先に、ウララが端午ステークスを走ったんだよなぁ、なんて思い出す。

 

 ウララが端午ステークスをレコードで勝ち、バトンを受け取ったライスも春の天皇賞をレコードで勝つというダブルレコードを達成したのだ。

 

 あれからもう、一年が過ぎた。去年の今頃はライスが再度春の天皇賞に挑むことはあっても、まさかキングの育成を担当することになるなんて微塵も思っていなかった。本当、何があるかわからないもんだ。

 

 そんなことを考えて苦笑していると、隣のライスがポツリと呟く。

 

「今日はバ場状態が悪そうだけど、キングちゃんは大丈夫かな……」

「その辺はしっかりと注意するように伝えてあるし、キングなら大丈夫だろうさ」

 

 こういう悪条件でのレースの注意点も、キングにはしっかりと伝えてある。というか、ウララがメイクデビューで砂を目に浴びるというアクシデントに見舞われたため、かなり厳しく指導していた。

 

 ただまあ、注意していてもアクシデントは起こり得る。

 

 今日の場合ダートではなく芝だが、これまでのレースで芝が抉れている部分を通れば泥を跳ね上げるし、コースに溜まった水が飛んでくる危険性もある。そもそも、ウマ娘の速度で走っていれば雨粒が目に当たることでさえ脅威だ。

 

 そんな周囲の状況に注意しつつ、他のウマ娘の動きに注意しつつ、更には3200メートルという長丁場に備えてスタミナ配分を考えて走る必要がある。また、芝のコースでバ場状態が悪いと足を取られるから普段よりスタミナの消耗が激しいし、パワーもいるのだ。

 

 スタミナに関してはそこまで心配していない。今のキングなら3200メートルでも問題なく走り切れる。スタミナが尽きようとも、キングはド根性で走り切ってしまうだろう。

 

(問題はパワー……というよりこの悪条件での加速力かな……)

 

 そうなると、あとはバ場状態がどこまで影響するかだ。しかし走りにくいのはキングだけでなく、出走するウマ娘全員に共通することだ。だから、あとはレースの展開次第なんだが……。

 

(……キング?)

 

 ゲートに入ったキングは、何故か目を瞑って空を仰ぐようにして上を向いている。まるで雨を浴びながら()()()()()()()()()()ようで、その仕草に俺は首を傾げた。

 

『8枠12番、アンチェンジング。9番人気です』

 

 最後にアンチェンジングがゲートインをすると、キングは目を見開いて視線を前に向ける。

 

「お……」

 

 そしてスタートを切るためにやや前傾姿勢を取ったその姿に、俺は自然と声を漏らしていた。

 

(なんだ……? キングの雰囲気が変わった?)

 

 距離があり、雨の中という視界が悪い中でもそれが伝わってくる。右回りの1枠1番ということで観客席からでも一番見やすい場所にキングがいるが、俺の目にはキングが強く輝いて見えた。

 

 そして、京都レース場から観客のざわめきが消えていく。その代わりにしとしとと、あるいはザァザァと、雨音だけが響いていく。

 

『各ウマ娘、ゲートイン完了……スタートしました』

 

 普段はバタン、と聞こえるはずのゲートの音も、今日ばかりは遠い。雨音に紛れるようにしてゲートが開き、ウマ娘達がゲートから飛び出していく。

 

『おっと、スタートで出遅れたウマ娘が……3人。2番ステイシャーリーン、9番クピドズシュート、12番アンチェンジングがやや出遅れたスタートです』

『12番のアンチェンジングは追い込みが得意なのでまだ良いですが、他の2人の出遅れが痛いですね。ただ、3200メートルのレースなのでまだまだ取り返しはつきますよ』

 

『さあ、ハナを切ったのは8番セイウンスカイ。続いて11番ビワハヤヒデ、1番キングヘイロー、3番スペシャルウィークが前に出ます。それに続いて13番ミニキャクタス、4番ナイスネイチャ、5番マチカネタンホイザ、7番インペリアルタリス。そこから1バ身ほど離れて6番ナリタタイシン、10番オイシイパルフェ、出遅れた13番クピドズシュート、2番ステイシャーリーン、12番アンチェンジングがシンガリ付近』

『出遅れたクピドズシュートは逃げウマ娘ですから前に行きたいでしょうね。2番ステイシャーリーンは差しが得意ですし、今の位置はやや不慣れでしょう』

 

 雨の影響か、バ場状態が悪いからか、スタートで3人出遅れた。短距離ならば致命的な出遅れだが、長距離ならまだ巻き返しも可能だろう。ただし、今日の悪条件でどれだけ巻き返せるかは状況次第、としか言えない。

 

 キングは3番手につけているが、逃げウマ娘がセイウンスカイ以外に出遅れたクピドズシュートしかいないからだ。それでもキングは淀の坂を一気に駆け上がると、距離を離そうとするセイウンスカイにくらいついていく。

 そのすぐ隣にはビワハヤヒデがいるが、キングは前を向いて競り合うようにして駆けていく。

 

 淀の坂を抜けて、外回りで第3コーナー、第4コーナーも抜けて、ホームストレッチにセイウンスカイを先頭としたウマ娘達が駆け込んでくる。

 

『先頭を走る8番セイウンスカイ、ただいま1000メートルを通過しました』

『1000メートルの通過タイムは……1分3秒8ですか。これはかなりスローペースですね。いえ、スローペースにならざるを得ない、と言うべきでしょうか』

 

 解説の男性がそう言うが、セイウンスカイもわざとスローペースに持ち込んでいるわけではなさそうだ。走りにくいバ場、気を抜くと滑りかねない芝、降り注ぐ雨。それらが普段と比べるとスタミナを奪い、スピードを抑えざるを得ない状況に追い込んでいるのだろう。

 

 一応、向こう正面から第3コーナーに突入した時点で内ラチを避けて、コースの真ん中付近をウマ娘達が駆けている。それでも第11レースともなるとところどころ芝が抉れているし、水を吸った地面から芝や泥が跳ね跳び、後続のウマ娘達に降り注ぐこととなる。

 

 セイウンスカイは先頭を走っているため雨に濡れているだけだが、2番手争いをしているキングでさえ勝負服や靴がところどころ泥で汚れていた。更にその後ろのウマ娘達はというと、勝負服だけでなく顔や髪に泥が付着した状態で走っている。

 

 そんな状況で走っているということもあり、観客達は普段よりも大きな声で声援を飛ばす。頑張れ、雨に負けるな、転ぶなよ、なんて声があちらこちらから飛んだ。

 

『先頭は変わらず8番セイウンスカイ。その2バ身後方では1番キングヘイローと11番ビワハヤヒデが2番手争い。そのすぐ後ろには3番スペシャルウィークが控えています。さらにその後ろ、1バ身後方に13番ミニキャクタス』

『この状況ではセイウンスカイの逃げ足もいまいち発揮できていませんね。ただしその分、後ろを走るウマ娘達も走り辛そうにしていますよ』

『先行集団から僅かに離れて4番ナイスネイチャ、5番マチカネタンホイザ、7番インペリアルタリスが固まって走行。更にそこから2バ身ほど離れて9番クピドズシュート、2番ステイシャーリーン、6番ナリタタイシン、10番オイシイパルフェ、12番アンチェンジングが集団となって走っています』

 

 まだ中盤にもなっていないこともあり、各ウマ娘は無理に前に出ることはせずに足を溜めているようだ……いや、足を溜めているというか、全体的に抑えて走らざるを得ない状況ってだけか。

 

『各ウマ娘がホームストレッチを駆けていきます。残り2000メートル。一体誰が新たな冠を得るのでしょうか』

『まだまだ様子見ですね。このタイミングで仕掛けるのは早すぎますし、このバ場状態ではすぐに力尽きますよ』

 

 解説の男性の言葉を証明するように、セイウンスカイを先頭にしてウマ娘達が走る。ホームストレッチを抜け、第1コーナー、第2コーナー、そして向こう正面へ突入しても、大きな動きはない。

 

(半分はとっくに過ぎた……それでも動かない、か)

 

 向こう正面に入り、残り1400メートルを切った。それでも大きな動きはない……いや、大きな動きこそないが、明らかに表情が変わっているウマ娘が複数いる。

 

 一人は先頭を駆けるセイウンスカイだ。スタートから先頭を走り続けていたが、思ったよりも消耗が激しいのだろう。雨が降り注いでいるためどれほど発汗しているかはわからないが、遠目に見ても表情に苦しさが混ざり始めている。

 

 そしてもう一人、表情が変わったというか、スタートする前から今に至るまでビワハヤヒデの様子がおかしい。どこか走り辛そうにしている。

 

 キングは……まだ余裕があるが、普段と比べるとスタミナの消耗が大きいようだ。雨に濡れ、勝負服は雨を吸い込み、今もなお全身に雨が降り注いでいる状況である。好天かつ良バ場と比べればどうしてもスタミナの消耗が激しくなってしまう。

 

 そしてもう一人。キングの後ろに控えた形になるスペシャルウィークだが、ギラギラとした眼差しで前を見据えている。飛んでくる水や泥に構わず、虎視眈々と前を狙っているのが見えた。

 

 後方のウマ娘に大きな変化はないが、前方を駆ける4人に関しては観客席からでも変化が見て取れる。

 

『さあ、向こう正面の半ばを過ぎて2度目の淀の坂がウマ娘達を出迎えます。先頭のセイウンスカイが淀の坂へ突入。それに続いてビワハヤヒデとキングヘイローも淀の坂へ。スペシャルウィークもそれに続いて……っと?』

『セイウンスカイ、がくんとスピードが落ちましたね。いえ、これは……』

『どうしたことか! 先頭を走っていたセイウンスカイが一気に減速!? いや、淀の坂に差し掛かったウマ娘が続々と減速している!?』

『スタミナの消耗が激しいんでしょう。内回りは高低差が3メートル程度ですけど、外回りは400メートルの距離で高低差が4メートル近くありますからね。しかも途中から第3コーナーに突入しますし、今日の悪条件で2周目となるとガツンときますよ』

 

 普段よりもスタミナの消耗が激しいとあって、先頭のセイウンスカイだけでなく他のウマ娘達も走るペースが落ちている。それはキングも例外ではなく、ややペースが落ちていた。

 

 ――だが、あの子は()()()()()なのだ。

 

『全体的にペースが落ちた影響か順位も変わらない……なんてことはなかった!? ここで動いたのは1番キングヘイロー! グングンと淀の坂を駆け上がっていく!? それに続くようにして3番スペシャルウィークも速度を上げている!』

『おお……良い根性ですねぇ。ここで足を溜めず、敢えて前に出ますか……これが吉と出るか凶と出るか……』

 

 キングは歯を食いしばり、淀の坂を駆け上がっていく。スペシャルウィークがその斜め後ろについて加速しているが……根性勝負なら俺のキングに勝てるウマ娘はいないぞ。

 

『ビワハヤヒデを置いてキングヘイローとスペシャルウィークが先頭を狙う! しかしここで動いたセイウンスカイ! 先頭を譲るものかと言わんばかりに加速している!』

『第3コーナーに突入しましたし、淀の坂を抜ければ残り800メートルです。ただ、問題は……』

 

 淀の坂は登るのもきついが、外回りの場合登り切ると今度は100メートルちょっとの距離で急勾配の坂を下る必要がある。約100メートルで高低差3メートルを超える下り坂を駆け下りるのだ。

 

 足腰にかかる負担は相当なもので、なおかつ急勾配の坂を駆け下りながら第3コーナーを曲がっていく必要がある。

 

『続々とウマ娘達が淀の坂を駆け上がり、今度は下り坂へと差し掛かります』

『ここでどれだけ()()()()()が勝負の明暗を分けると言っても過言ではないでしょうが……』

『おおっとここで動いたのは最後方! 10番オイシイパルフェが上がってきた! 大阪杯でも見せたロングスパートをこの京都レース場でも見せるというのか!?』

 

 減速した隙を突いてセイウンスカイをかわそうとしたキングだったが、セイウンスカイも譲らず必死に前へと逃げている。そして後方……というか最後方、いつの間にかシンガリに落ち着いていたオイシイパルフェがここで一気に伸びてきたのが見えた。

 

『下り坂を利用しての急加速! ロングスパートと呼ぶにはすさまじい加速だ! このままゴールまでもつのか!? 大外を回って一気に6、7、8人とかわして先行集団を捉え――』

 

 あれはまずいぞ、なんて俺が呟くよりも先に、オイシイパルフェの体が不規則にぐらつく。そして第3コーナーの半ばで遠心力に負けて、そのまま弾かれるようにして外へと吹き飛んだ。

 

『上がってきたオイシイパルフェにアクシデント発生!? 外側に膨らんでそのまま転倒した!? 地面を跳ねて!? ああっ!?』

 

 実況だけでなく、観客席からも悲鳴が上がる。

 

 もしもオイシイパルフェに幸運があるとすれば、足を滑らせた原因――水をたっぷりと吸い込んだ芝と地面がクッションになったことか。コースをバウンドしたオイシイパルフェは、滑るように着地すると()()()()()()をなぞるようにそのまま駆け出す。

 

『んっ!? 無事!? 無事なのかオイシイパルフェ!? 派手に転倒したように見えたがそのまま駆け出した!?』

『というかオイシイパルフェだけじゃなく、7番のインペリアルタリスと9番のクピドズシュートも転倒していますね……』

 

 オイシイパルフェに目を取られたのか、それとも抉れた芝に足を取られたのか。第3コーナーで複数のウマ娘が転倒する。急な下り坂かつコーナーということで()()()()()()()()のが功を奏したのか、転倒したウマ娘達はすぐさま立ち上がって駆け出した。

 

 オイシイパルフェを含め、転倒したウマ娘達は今まで以上に泥だらけになったままで走っていく。その姿に観客席からは声援が飛び、その声援が届いたのか、既に大きな差がついてしまっているというのに諦めた様子もなくウマ娘達が駆けていく。

 

『と、とりあえず転倒したウマ娘達は無事なようで……えっ!? 第4コーナー半ばにして順位が大きく変わっている!? 先頭はスペシャルウィーク! セイウンスカイは限界か!? 3番手にキングヘイロー……んっ!? キングヘイロー、何やら様子がおかしい!』

 

 オイシイパルフェ達に目を取られていた俺は、そんな実況の声に慌てて視線をキングへ向ける。するとたしかにキングの様子がおかしい。速度が落ちており、右目をこすっている。

 

 まだ距離があり、雨も降っているためよく見えない。だが、キングの顔の右半分が泥で汚れているのが見えた。おそらくだが、俺が視線を切ったタイミングでセイウンスカイかスペシャルウィークが跳ね上げた泥が直撃したのだろう。

 

「っ!?」

 

 それに気付いた俺は、反射的に口を開きかける。両目で走るのと、片目で走るのでは大きな違いがある。遠近感が狂うし、下手すればそれが影響して転倒しかねない。

 だが、俺が止めるよりも先にキングが加速した。それまで閉じていた右目を開いているが……泥が入っていたら、痛いしろくに見えないだろう。それでもキングは前を向いて駆けていく。

 

『先頭のスペシャルウィークが残り400の標識を通過! 減速したキングヘイロー、最終直線に入るなり一気に加速した! 先頭との距離は約3バ身! 更に後続、ビワハヤヒデも上がってきている!』

『キングヘイローは……どうやら目に泥が入ったようですね。それでも減速するどころか加速していますが……いや本当に良い根性です』

 

 顔の右半分もそうだが、これまでの走りでキングは勝負服が泥だらけになっている。勝負服だけでなく靴や手足も汚れていて、髪の毛に泥が付着しているのが見えた。

 

 それでも、そんなものに構うものか、なんて言わんばかりに駆けるキングのその姿。この悪条件でスタミナも底が見えているだろうに、キングは必死に前へと駆けていく。

 

『先頭に立ったスペシャルウィークが更に加速していく! 逃げ続けていたセイウンスカイはズルズルと後退! それをかわしたキングヘイロー、スペシャルウィークをじりじりと追い上げていく! そして2冠目を目指して上がってきたぞビワハヤヒデ! 更にやっぱりこのウマ娘! ナイスネイチャも上がってきた!』

『ここからはほぼ平地です。あとはどれだけスタミナが残っているか、それとどこまで根性がもつかですよ』

 

 雨を切り裂くようにして、ウマ娘達がホームストレッチを駆けていく。最終直線、最初にゴールを駆け抜ければそれで良いと言わんばかりに、足場の悪さを忘れたようにウマ娘達が加速していく。

 

「いっけえええええええええ! キングウウウウウウウウウゥゥ! いっけえええええええええええええぇぇっ!」

 

 傘が邪魔だ、と思いながらも俺は声を張り上げてキングを応援する。観客達のテンションも既に最高潮で、それぞれが応援しているウマ娘に向かって思い思いに声を張り上げる。

 

「がんばれえええええええぇぇっ! キングちゃんがんばれえええええええぇぇぇっ!」

「がんばってキングちゃん! がんばってぇっ!」

 

 ウララとライスもキングを応援する。必死になって、俺達は叫ぶ。

 

『上がってきた! 上がってきたぞキングヘイロー! スペシャルウィークも必死に駆ける! その差は3バ身から2バ身! いや、あと1バ身と少しまで縮まっている! しかしすぐ後ろにビワハヤヒデとナイスネイチャが迫ってきている!』

 

 雨と泥に濡れながらも、決して俯くことなく前を向いて走るキング。その姿は泥で汚れてもなお美しく、輝かしいものだ。

 

「いけえええええぇぇっ! キングッ! 勝てええええええええええぇぇっ!」

 

 だからこそ、勝利を願わずにはいられない。勝て、勝ってくれと、俺は必死に叫ぶ。

 

 俺を自分にとって最高のトレーナーだと言ってくれたキング。なら、この時だけはこう思う他ない。

 

『キングヘイロー伸びた! 届くか!? スペシャルウィークまであと僅か! しかしゴールまでもあと僅か! スペシャルウィーク! そのまま逃げ――』

 

 最高のトレーナーに育てられたウマ娘もきっと、最高なんだと。少なくとも、俺にとって最高のウマ娘なんだと。

 

『――切れない! キングヘイロー! 僅かにかわして先頭でゴール! キングヘイローがスペシャルウィークをかわして今、ゴール!』

 

 最後は飛び込むようにして、キングがゴールを駆け抜ける。そして荒く息を吐き出し、大きく深呼吸を繰り返す。

 

 3200メートルという長丁場。そして悪すぎるバ場状態と天気に、スタミナを使い果たしたのだろう。キングは両足を震わせており、今にも倒れそうだ。

 

 しかし、キングと同じように荒い息を吐きながら、抱き着くようにしてスペシャルウィークがそれを支えた。見ればスペシャルウィークも足が震えており、キングを支えているのか、スペシャルウィークが支えられているのかもわからない状態である。

 

 それでもスペシャルウィークがキングに何かしら声をかけ、キングは口の端を吊り上げるようにして笑って答えている。

 

『着順が確定いたしました。1着1番、キングヘイロー。勝ち時計は3分19秒6。2着はクビ差で3番、スペシャルウィーク。3着は2分の1バ身差で4番、ナイスネイチャ。4着はハナ差で11番、ビワハヤヒデ。5着は1バ身差で6番、ナリタタイシン』

 

 着順掲示板が点灯し、着順が確定したことを伝える。途中で転倒したウマ娘達も無事にゴールを通過しており、俺は大きく、肺の中の空気全部を吐き出すような息を吐いた。

 

「勝った……か……」

 

 バ場状態と天気の悪さから、去年ライスが記録したレコードには4秒近く届かない。それでも、俺の胸の中にはたしかな達成感があった。

 

 俺はゆるゆると頭を振ると、ゴール先のキングを見る。スペシャルウィークだけでなくナイスネイチャやビワハヤヒデが祝福するように声をかけているが、そのほとんどが力を使いきったのか足を震わせていた。

 

 それでも何かを思い出したのか、キングは観客席へと向き直る。そして大きく深呼吸をすると、指を三本立てた右手を高々と掲げた。

 

 GⅠ3勝目を示すそのパフォーマンスに、観客達から大きな声援が上がる。

 

 泥で汚れていようと、立派な姿だった。それを見ていた俺と、キングの視線が不意にぶつかる。

 

 キングは俺の顔を見てふっと微笑むと、無事だった左目で俺に向かってパチリとウインクをしたのだった。


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