リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐ 作:烏賊メンコ
ウララの3戦目、中山レース場で行われた未勝利戦の翌日。
俺はトレーナー用の共用スペースで椅子に腰をかけ、行儀が悪いと思いながらも両足を組んで椅子の背もたれをギィギィと鳴らしていた。
「…………」
俺は無言で両手に持った物体――新聞に目を落としながら眉を寄せる。
大手の新聞社が発行している競馬新聞ならぬウマ娘新聞というべき代物だったが、そこには昨日のレースに関する記事が載っていたのだ。
その記事では1着フューダルテニュアと2着デュオタリカー、そしてレースの中盤で脱落したカスタネットリズムについて取り上げられていた。
フューダルテニュアがゴール直後に減速できないまま転倒し、デュオタリカーを巻き込む形で地面を何度も跳ねながら転がり、ようやく動きを止めた。それによって二人は負傷し、ウイニングライブも取りやめになったのだ。
昨日ばかりはさすがのウララもレース後に笑顔がないほどの惨事だった。問題は、レース中盤で転倒したカスタネットリズムを含め、怪我どころかウマ娘としての選手生命を絶たれかねないほどの故障を起こしてしまったことだ。
今日は朝からトレセン学園に所属するトレーナーが会議室に集められ、自身が担当するウマ娘に関してこのような事故が起きないよう注意喚起が行われた。
フューダルテニュア達を担当していた各トレーナーは理事長に個別に呼び出され、事情聴取を受けてからなんらかの処分が下るらしい。
譴責処分程度の軽い罰で済むのか、トレーナーライセンスが剥奪されるような事態にまで発展するのか。共用スペースでは先ほどからその話題で持ち切りで、俺は自分の眉間にどんどんしわが寄っていくのを自覚する。
「どうぞ」
そうして俺が不機嫌さを周囲にばら撒いていると、桐生院さんがカップに注いだコーヒーを持ってきてくれた。
「……ああ、こりゃどうも」
「昨日は大変でしたね」
俺がコーヒーを受け取ると、桐生院さんが隣の椅子に座って話を振ってくる。俺は失礼だと思いながらも新聞から視線を外さないままで頷いた。
「レースの開始前から様子がおかしいとは思っていましたが、まさかあんなことになるとは思いませんでしたよ。ったく、先輩方は何を考えてたんだか……」
フューダルテニュア達の育成を担当していたトレーナー達は、俺よりもトレーナーとして先輩になるがお世辞にも評判が良いとは言えない人達だった。
人間よりも優れた身体能力を持つウマ娘だが、その走る速度の凄まじさから怪我をする子は珍しくない。転んで膝を擦り剥くなどの軽い怪我で済むウマ娘もいれば、走っている最中に骨折してしまうウマ娘もいる。
俺が育成を担当しているウララも、転んで擦り傷をこさえるのは割とよくあることだ。練習だけでなく日常生活でも転んで膝小僧に擦り傷を作るのは勘弁してほしいところである。そのため俺のポケットの中にはウララ用の可愛い絆創膏が常に入っているほどだ。
しかし、ウララが負ったことがあるのは擦り傷程度で、練習ができなくなるような重篤な怪我は一度たりとも負わせたことはない。練習をする際は常に準備運動をさせ、練習が終わった後は整理運動を徹底させて怪我の予防に努めた成果といえるだろう。
昨日の事故に関しては、最終直線で横並びになっていなければウララも巻き込まれていた可能性がある。
「ふぅ……」
俺は桐生院さんが淹れてくれたコーヒーに口を付け、大きな息を吐く。もうじきウララのトレーニングが始まる時間だが、いつまでも不機嫌な顔をしていてはウララを怖がらせてしまうだろう。
そう思って俺が眉間を揉み解していると、桐生院さんがほっと安心したような息を吐く。
「お互い、担当しているウマ娘の怪我には気を付けましょうね?」
「ええ……もちろんです」
俺はトレーナーとしては新人だが、何があろうと自分が担当するウマ娘にあのような怪我は決して負わせるまいと固く決意するのだった。
それから三十分後。今日のトレーニングに顔を出したウララの様子は、普段と異なっていた。
常日頃笑顔で、普段にもまして機嫌が良い時は笑顔で飛び込んでくるようなウララだが、今日は難しい顔をしている。頭部の耳は力なく垂れ、尻尾もへにょりと地面を向いていた。
俺が知る限り、そんなウララの顔を見るのは初めてだった。ついでにいえば、トレーニングに来たというのに練習用のジャージ姿ではなく、制服のままだった。
「うーん……あっ、トレーナー」
何事かを悩みながら歩いてきたウララだったが、俺の顔を見て駆け寄ってくる。俺はそんなウララを迎えると、苦笑を浮かべながら服を指さした。
「どうしたんだ? さすがにその格好じゃトレーニングできないぞ?」
俺がそう言うとウララは首を傾げ、自分の格好を見下ろす。そして数度首を傾げたかと思うと、何がおかしいのか理解して尻尾をピンと立たせた。
「あわわっ……ごめんねトレーナー。考えごとしてたら着替えるの忘れちゃった……」
しかしすぐさましゅんと下を向くウララの尻尾。ウララの表情も沈んでおり、それを見た俺は苦笑を深めながら練習用のコース傍にあるベンチへウララを誘う。
どのみち、今日はレースの直後ということで軽い調整メニューにするつもりだったのだ。ウララの精神状態によってはそのまま休ませてもいいかもしれない。
俺はウララをベンチに座らせると、近くの自販機に足を向ける。そして人参ジュースと缶コーヒーを購入すると、ウララのところに戻ってその隣に腰を下ろした。
「ほら、まずはこれでも飲んで落ち着きな」
「わー、にんじんジュースだ! ありがとうね!」
ペットボトルの人参ジュースを渡すと、ウララの表情がパッと明るくなった。ふたを開けて勢いよくジュースを飲むと、満足そうに息を吐く。俺もコーヒー缶のプルタブを開けると、中身に口をつけて一息吐いた。桐生院さんが淹れてくれたコーヒーと比べると、かなりまずかった。
そうしてちびちびと飲み物を口に運び、ウララが落ち着いたのを見計らってから口を開く。
「昨日のレース、どうだった?」
それはレースが終わる度に聞いていたことで、昨日はさすがに聞きそびれたことだった。ウララは自身の額に指を当てると、そのまま首を傾げる。
「えっとねー……楽しかったけど、楽しくなかった?」
ウララにしては珍しい返答だった。2戦目のレースでマークを受けた際、ちょっと楽しくなかったとは言ったがウララの表情を見るとわかる。本当に楽しくなかったんだな、と。
今回の事故がウララに悪い影響を与えていないか不安に思うが、俺が見る限りレースに対するトラウマのようなものは刻まれていないようだった。
「楽しくなかった、か」
「うん……途中までは楽しかったよー? 前にだれもいなくて、このままゴールまでいけるのかなって思ってたもん。トレーナーが言ってたブーイングライブ? ができるぞって」
「ウイニングライブな」
なんだブーイングライブって。1着を取ったウマ娘に対してブーイングでもするのか。せっかく勝ったのにブーイングされるとか、されたウマ娘にとってトラウマになりかねんぞ。
「でもね、リズムちゃんが転んじゃって、大変だーって……その後もテニュアちゃんとデュオちゃんが転んじゃったから……」
そう言ってウララはスカートの裾を握り締める。一緒に走ったウマ娘が怪我をしたから楽しめなかったと、どこか悲しそうに言う。
そこで1着を取れなかったから、負けたからと言わないのがウララの性格の表れだろう。優しいと見るべきか走ることに命をかけるウマ娘として甘いと見るべきか、俺もすぐには判断できない。
それでも負けは負けで、あの時のウララは最後の最後で勝ちきれなかった。練習通りの走りができていれば、きっと勝てたと俺は思う。
1着になろうと死に物狂いで駆けて行ったフューダルテニュアとデュオタリカーに、ウララは気持ちの面で負けていたのだ。
だが、俺はウララにあれほどまでの覚悟を持ってレースに挑めとは言えない。もちろん1着を取ってほしいが、一度の勝利のために自身の選手生命を――下手すれば命すら賭けて走れなど、言えないのだ。
そのためどう言ったものかと悩んでいると、俺が口を開くよりも先にウララが顔を上げて俺をじっと見る。
「ねえ、トレーナー……みんなが
耳をぺたんと倒しながら、ウララが言う。普段の明るさが鳴りを潜めて、どこか悲しそうに話すウララの姿に俺は開きかけた口を閉ざした。そしてもごもごと口を動かしたあと、深い、深いため息を吐く。
「俺はウマ娘じゃないから、死んでもレースで1着を取りたいって気持ちはわからんよ……ただ、ウララに
俺は正直に打ち明けた。1着を取るのはウマ娘で、それを取らせるのがトレーナーだと。
ここで、『その意味を知るために1着を取ってこい』と発破をかけようかとも思った。多分、トレーナーとしてはそれが正解なんだろうとも思った。
だが、俺の口はまったく違うことを口走っていた。
「なあ、ウララ。実は俺って中学に上がる頃までは天才って言われてたんだぜ。信じられるか?」
「……?」
俺の突然の話にウララは不思議そうな顔をするが、そんなウララに構わず俺は話を続けていく。
「小学生の頃は勉強で1番、運動でも1番だった。クラスでも1番モテた……ってことは全然なかったけど、昔の俺は割とすごいやつだったんだ」
そう言いつつも、俺の顔は勝手に苦笑を浮かべていた。話していて自然と過去形になってしまう自分が情けないやら、悲しいやら。
「トレーナーは今でもすっごいよ?」
「ははっ、ありがとな……でもなぁ、中学に上がると勉強で負けるやつがいるし、運動でも俺よりすごい奴がいてなぁ。俺なりに頑張ってみたけど、1番ってのは手が届かない存在になっちまったよ」
前世なんてアドバンテージがあったはずだというのに、凡人はどこまでいっても凡人だった。俺のメッキは割ともった方だと思うが、やっぱり年数が経つとボロボロと崩れてしまう。
中学生の頃でさえその程度だったのだ。トレーナーの養成校に進まず高校に進学していた場合、今頃どうなっていたか。もっとも、トレーナーの養成校での成績も誇れたものではなく、トレーナーになった今でさえ桐生院さんを始めとした同期達には負けている状態だが。
「そんな俺だけど、ある日両親に連れられてウマ娘のレースを見たんだ。それまでは興味がなかったんだが、これがまた感動してなぁ……心が震えたよ。興奮して、すげぇって思った」
トレーナーを志した時、俺には打算もあった。前世にはない職業で、高収入で、どこか楽しそうだという思いがあった。
しかし、俺はウララの育成を担当してから今までのトレーナー生活で、強く思ったのだ。
この子を、このウマ娘を強くしたい。1着を取らせてやりたい。ウイニングライブでセンターで踊ってほしいって、そう思ったのだ。
どんな時でも楽しそうで、明るく笑うウララが真っ先にゴールを駆け抜ける姿。それを見てみたいと思ったのだ。
最初は担当するウマ娘が見つからず、なおかつハルウララという俺でも知っているぐらい有名な名前だったからスカウトした。しかし、俺はいつしかウララに夢を見ていた。
「レースが終わった後、1着を取ったウマ娘が嬉しそうに、誇らしそうに踊って歌ってたんだけど、俺からするとそれがすごく眩しく見えてなぁ……」
頑張る若者を見て喜び、満足感を覚えるほど歳を取ったつもりはなかったのだが。輝かんばかりの笑顔を浮かべるウマ娘の姿を見て、俺が抱いた感情は何と表現するべきか。
「ウララ達ウマ娘が一生懸命走って、1着を取ろうと頑張る姿っていうのは……あー、なんだろうな。夢みたいで、希望で溢れてて……尊いものなんだよ」
俺自身、何と言うべきか言葉が見つからなかった。そのため曖昧な表現になってしまい、苦笑を浮かべながらウララの頭を優しく撫でる。
子どもの頃はかけっこで1番だったとか、テストで100点を取っただとか、クラスで1番元気が良かっただとか。歳を取って振り返ってみると小さく見えることでなら
しかし歳を取るにつれ、自分の周囲に人が増えると1番というものは途端に遠くへ行ってしまう。大抵の人にとって1番というものは無縁の存在になってしまうのだ。
「ウララが楽しいから、ワクワクするからレースを走りたいっていうのなら、それもいいさ。俺はウララが楽しみながらレースに勝てるよう鍛えるだけだし、ウララならいつかきっと、1着を取れるって信じてるからな」
だから、と言葉を置いて、俺は笑う。
「いつか1着を取れたら、どんな気持ちになったか俺に教えてくれよ」
ウララが1着を取りたいと願い続けるのなら、俺もそれを支えるだけだ。
この世界でも人気のあるウマ娘はグッズ販売される。ぬいぐるみだったりキーホルダーだったり、様々なグッズが作られるのだ。ただし、それは人気のあるウマ娘――それこそGⅡやGⅢで優勝し、GⅠにも常連のように出場するレベルのウマ娘に限った話である。
前世でどこか聞いた覚えがある名前のウマ娘は、例外なく強い。それを思えば前世ですさまじい知名度を誇ったハルウララも、強いウマ娘になるのだろう。
あれほどの知名度があったということは、無敗でGⅠ全て制覇したとか、世界的に有名な凱旋門賞で1着を取ったとか、とんでもない記録を打ち立てた可能性もある。
俺の隣に座るウララからは、そんなすごかったかもしれない馬の面影はなかった。3戦0勝で重賞どころかオープン戦にも未だ出ることができない、未勝利のウマ娘だ。
――でもよ、ハルウララなんだぜ?
これだけ明るく前向きで、がんばり屋で、トレーニングにも一生懸命で、レースを見る者の心を震わせるウマ娘なんだ。前世で聞いたことがある有名な名前だからって、そんなものはもう関係ない。
俺はトレーナーであり、ウララの一人目のファンだ。この子に勝ってほしいし、勝たせてやりたい。ウララがウイニングライブでセンターを務める姿を見てみたい。
ウララがレースで負ければ本当に悔しくて、何故勝たせてやれないんだって強く思う。自分のトレーナーとしての未熟さが歯痒くて、ウララに対して申し訳なく思ってしまう。俺がもっとしっかりしていれば、ウララに勝たせてやれるはずなんだって思うのだ。
ウララがレースで負ける度に、あるいは日頃のトレーニングで成長を実感する度に、そう思う。
最初は打算や成り行きでウララの担当になったが、俺はこの子の――ハルウララのトレーナーだから。
この子が負ける姿を見たくないのだ。
「うーん……やっぱり、よくわかんないや」
「そう、か……」
俺の話を聞いていたウララは、目を瞬かせながら首を傾げる。そんなウララの反応に俺は苦笑してしまった。
言葉を尽くして説明したとしても、理解はできても納得するかは別の話だ。ウララ自身が納得して1着を取りたいと強く願ってくれなければ、どうにもならない。
俺もトレーナーとしてウララが勝てるよう、もっと勉強するしかないだろう。ウマ娘の育成に関しては養成校で習ったが、ウマ娘を勝たせるための方法は俺がこれから身をもって覚えていくしかないのだ。
いっそのこと、ウララの調子が悪かろうが、周囲のウマ娘からマークされたり妨害されたりしようが、一切関係なく1着を取れるぐらいウララを鍛えた方が早いのかもしれない。
それだけウララの能力を伸ばせるかは未知数だが、実力がつけばウララにも自然と勝利への欲求が湧いてくる可能性がある。
怪我をさせず、それでいて可能な限りウララの能力を伸ばせる練習法。それを頭の中で組み立て始めた俺だったが、それまで首を傾げていたウララが小さく呟いた。
「……でもね。トレーナーがわたしのことを思ってくれてるのは、よくわかったよ」
その呟きに俺が気付くと同時に、ウララはベンチから立ち上がる。そして俺に向かって振り返ったかと思うと、これまでに見たことがない種類の笑顔を浮かべていた。
「だからわたし――すっごく、すっごーく! がんばろーって思ったよ!」
そう言って拳を突き上げるウララ。続いて自分の胸を叩いたかと思うと、笑顔で宣言する。
「見ててねトレーナー! わたしすっごく頑張っちゃうんだからっ!」
そんなウララの宣言に、俺はぽかんとした顔になった。レースに勝つだとか、もっと強くなるだとか、そういった強気な発言というわけではない。
頑張るという言葉は普段通り、いつも通りのものだ。だが、ウララの表情がこれまでとは違って見える。
「は……はははっ! ああ、そうだな! でも怪我はしないようにな!」
「うん! よーし! さっそくこれから練習だー!」
そう言ってコースに向かって駆け出すウララだったが、服は学生服のままで靴もトレーニング用のものではない。
そのため地面の砂に足を取られ、スカート姿にも拘わらず盛大に転んでしまったウララの姿に俺は苦笑してしまった。
(案外、このままの方が大物になるのかもしれんな……)
今日のところは軽い調整メニューにするつもりだったが、せっかくやる気が上がったウララを止めるより、少しでも走らせて昨日のレースのことを忘れさせた方が良いのかもしれない。
俺はウララに着替えてくるよう指示を出して、怪我をしないよう、それでいて少しでもウララが強くなれるようトレーニングメニューを考え始めるのだった。
次の出場レースとして決めたのは、一ヶ月後。
10月前半に東京レース場で行われる未勝利戦、ダートの1300メートル。
奇しくもメイクデビューと同じ場所で、同じ距離だ。
そこで俺は、思わぬものを見ることになる。