リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐ 作:烏賊メンコ
トレセン学園には在籍しているウマ娘の数が多いため、いくつもの保健室がある。俺がぶつかってきたウマ娘を案内したのは事故現場から一番近い保健室で、再度痛みや怪我がないことを確認した俺はほっと安堵の息を吐いた。
「それで君は……あーっと、すまん。君の名前は?」
ウマ娘に怪我がないことを確認した俺は一度席を外し、近くの自販機で缶コーヒーと人参ジュースを買ってから名前を尋ねた。人参ジュースを差し出すと、ウマ娘は申し訳なさそうに受け取る。
そのウマ娘の心情を表すように黒い耳は倒れて下を向き、尻尾も力なく垂れている。俺のことを警戒しているような雰囲気はないが、落ち込みが酷くてどうでも良いと思っているのかもしれない。
「…………」
ウマ娘は俺の質問に何も答えなかった。聞こえてはいるようだが、名乗るのを嫌がっているような感じがする。
(うーん……困ったな。名前がわからないんじゃ、この子の担当トレーナーにも連絡できんぞ……)
御宅のウマ娘を保護しているんで、引き取りに来てくださいという連絡さえこのままではできない。最悪、駿川さんに連絡をして引き取ってもらうしかないが、この子が目を腫らすほどに泣いているのも気がかりだった。
(中等部の子だろうし、時期で考えると未勝利戦で勝てないとかそういうパターンか? もしかして引退しようとしてるとか……)
ダートのレースでは見たことがないため、おそらく芝のレースを主戦場としているウマ娘なのだろう。だが、ダートと比べて芝は選手層が分厚い。メイクデビューで将来のGⅠウマ娘とぶつかり、自信が根こそぎ圧し折られるウマ娘が毎年のように出る魔境だったりするのだ。
俺は保健室の灯りの下で、改めて眼前のウマ娘を見る。身長はウララよりも若干高く、145センチ前後といったところだろう。ウララが140センチのため、近い背丈のウマ娘の身長はわかりやすいのだ。
しかし、その表情は自信がなさげで、涙を流しているのもあって暗く落ち込んでいるように見える。ウララも未勝利戦で勝てていなければいずれこうなっていたかもしれないと思うと、どうにも胸がざわついて放っておけない。
俺が缶コーヒーのプルタブを開けると、ウマ娘の体がびくりと震えた。それに苦笑をしながら熱々のコーヒーを一口飲み、ほっと息を吐く。
「ふぅ……ま、名乗りたくないならいいさ。そのジュースを飲んだら寮まで送るから、まずはその涙をどうにかした方がいいな」
そう言って俺は保健室に置かれていたティッシュを差し出す。これでウララが相手ならば自分のハンカチで涙を拭くのだが、初対面のウマ娘にそんな真似をしたら最悪蹴られかねない。
ウマ娘は僅かに戸惑っていたが、ティッシュで涙を拭き、人参ジュースに口をつけてからぽつりと呟く。
「名前は……ライスシャワー、です」
「ライスシャワー……ああ、だから自分をライスって呼んでるのか」
俺は合点がいった。そしてコーヒーを再び口に運んでから、小さく首を傾げる。
「しかし、ライスシャワーか……」
「っ……」
俺が繰り返すように名前を呼ぶと、ウマ娘――ライスシャワーの表情が小さく歪んだ。
恐怖を堪えるような、怯えるような、負の感情によるものである。それを不思議に思いつつ、俺は思ったことを口にした。
「良い名前だな」
「……えっ?」
ライスシャワーといえば、結婚式で新郎新婦に向かって祝福の意味を込めて米を撒くことだったはずだ。実りの象徴である米を撒くことで新郎新婦の未来が実り多いものであることを祈り、子孫繁栄を願うといった内容だった気がする。
うちのハルウララもそうだが、ウマ娘ってのは縁起が良かったり風情があったりする名前が多い気がした。中には何故そんな名前にしたんだ? って思うような名前もいるが。
「ライスは……ライスシャワー、だよ?」
「ん? それは今、聞いたよな?」
何か聞き間違えて、名前を呼び間違えたのか。俺は念押しするように名乗るライスシャワーを不思議に思う。
「ライス……シャワー、だよ?」
「お、おう……そうなのか。君はライスシャワーなのか」
そう答えながら、なんだこの会話、と俺は内心で首をひねった。それと同時に俺の脳みそはライスシャワーという言葉に何か意味があるのかと必死に検索をかけている。だが、結婚式で撒く米以外に思い当たるものはなかった。
実は俺が知らないもののどこかの国の言葉で、『あなた、頭が高くてよ?』などと言われているのかもしれない。仮にそうだとすれば弱気な外見に見合わぬ高飛車ぶりである。
(いやねえわ。さすがにそれはねえわ……つまり、名前で連想される何かがある?)
トレーナーである俺に対し、名前を言えばそれで通じると思っているのか。つまり、俺が知らないだけで有名なウマ娘である可能性がある?
俺は無言でスマートフォンを取り出すと、検索サイトで『ウマ娘 ライスシャワー』と打ち込む。
そうするとあら不思議、途中で検索候補が出てきたかと思えば、『ウマ娘 ライスシャワー 菊花賞』というとんでもないワードが表示されているではありませんか。
まさかと思いながら検索してみると、眼前のライスシャワーが今年の菊花賞に出走しており、なおかつ1着を取ったことがわかった。
「なん……だと……」
俺は多分、今、とんでもない顔をしている。あまりの衝撃に、ただでさえイケてるとは言えない顔が崩壊してそうだ。
俺の反応をどう思ったのか、ライスシャワーは怯えたように身を縮こまらせる。ぷるぷると震える姿は小動物のようで、ウララ以上に庇護欲をそそるものだった。
そんなライスシャワーの震える姿を見た俺は、心の底から思ったことを呟いてしまう。
「ライスシャワー……君、高等部だったのか……」
「……え?」
蹴り飛ばされても文句を言えないことを、思わず呟いてしまった俺である。
菊花賞はクラシック三冠と呼ばれる3つのGⅠレースのうちの一つで、クラシック三冠と言うからにはクラシック級のウマ娘しか参加できない。つまり、眼前のライスシャワーはウララよりも年上で高等部の生徒なのだ。
クラシック級のウマ娘だけが出走できる皐月賞、日本ダービーこと東京優駿、そして菊花賞の3つをまとめてクラシック三冠と呼ぶが、この3つのGⅠを制したウマ娘こそが俗に言う三冠ウマ娘である。
皐月賞は4月前半に行われるレースで、芝の中距離2000メートル。
日本ダービーは5月後半に行われるレースで、芝の中距離2400メートル。
菊花賞は10月後半に行われるレースで、芝の長距離3000メートル。
この3つのGⅠを制覇したウマ娘となると、俺がテレビで初めて見たウマ娘であるシンザン、トレセン学園の生徒会長を務めるシンボリルドルフなど、ウマ娘の中でも極々一握りの者だけで、数えるほどのウマ娘しか達成していない偉業である。
それほど価値のあるGⅠである以上、参加するウマ娘は全員強い。三冠を取れれば競馬史ならぬウマ娘史に名前が残るし、三冠ではなくとも冠の一つを被るだけでもとてつもない栄誉となる。
栄誉となる――のだが、この時の俺は、GⅠがどうとかよりもライスシャワーが高等部の子だという事実に驚愕していた。
ライスシャワーはウララの隣に並べば同い年にしか見えないだろう。そう思わせる小柄さで、なおかつ気弱な姿は下手するとウララより年下に見えかねない。
(ライスシャワー……今年の菊花賞で1着を取ったウマ娘……写真も載ってるけど、本物じゃねえか……)
俺はスマートフォンに表示された画像と目の前のライスシャワーを見比べる。制服と勝負服、表情の暗さと泣き腫らした跡という違いはあるが、間違いなくライスシャワー本人だった。
ウララがダート路線かつ短距離やマイルだけということもあり、適性がまったく被らない芝の長距離に出走しているライスシャワーのことはまったく知らなかった。
ウララが未勝利戦に勝つまでは短距離ダートでぶつかる未勝利のウマ娘に関する研究ばかりで、最近はようやく上のクラスのウマ娘の研究に取りかかったばかりなのだ。正直、芝のレースにまで研究の手を伸ばすのは時間がいくらあっても足りない。
(いかん、ウララの育成にばっかり集中してて芝のクラシック戦線なんてまったく気にしてなかったぞ……桐生院さんと話す時も、ハッピーミークがジュニア級だからその辺の話しかしなかったし……)
さすがにこれはまずいと思った。どれだけウララの育成に熱中していたんだと我に返った気分である。暇があればウララに施すトレーニングの検討をしたり、ウララに食べさせる人参ハンバーグの新型を作ってみたりしていたが、仕事に熱中して周りが見えなくなったサラリーマンのようだ。
俺はここ最近の自分の生活を振り返って少々呆然としたが、まあ、それもいいか、などと思いながらスマートフォンを操作していく。すると今年の菊花賞のレース映像が見つかったため、なんとなしに再生ボタンを押した。
「おお……本当に出てるじゃないか……ん? しかも2番人気か。大したもんだな……」
GⅠのレースで2番人気になるということは、相当強いウマ娘なのだろう。目の前で自分のレース映像が再生されるライスシャワーはひどく居心地が悪そうである。
人参ジュースを飲むライスシャワーとはいまいち結び付かないが、スマートフォンの画面に映ったライスシャワーは黒いドレスにしか見えない勝負服を身に纏い、出走の時を今か今かと待っている様子だった。
そして始まる、クラシック三冠の終着点。
レース展開としては1番人気のミホノブルボンが逃げを打ち、ライスシャワーを含めた他のウマ娘達がそれを追う展開になった。実況の話を聞く限り、ミホノブルボンは無敗かつクラシック2冠を手にしているらしい。
(やっぱり芝のレースは選手層が分厚いなぁ……みんな良い走りをするウマ娘ばっかりだ。というかこのミホノブルボン、無敗でクラシック2冠とかシンボリルドルフ級じゃねえか)
間違いなくトレセン学園でもトップクラスのウマ娘だろう。そう思いながらレース映像を眺めていると、とうとう最終直線に差し掛かる。
だが、そこで俺はふと違和感を覚えた。
(ん? このミホノブルボンってウマ娘、長距離はあまり得意じゃないのか? 速いは速いけど、最終直線でバテてるような……)
顔には出ていないが、最終直線を進むうちにミホノブルボンのスタミナが尽きかけているような気がした。今はともかく昔のウララはスタミナがまったくなかったため、バテるウマ娘の顔というのはなんとなくわかるのだ。
そして、そんなミホノブルボンを捉えるように、漆黒のウマ娘がその背後から姿を見せる。
(っと、後ろからライスシャワーが差しにきて……お……おお? おおおおっ!?)
逃げ切ろうとするミホノブルボンと、それを差そうとするライスシャワー。更にマチカネタンホイザも必死に追走しているが、ミホノブルボンとライスシャワーには届いていない。
俺が内心で声を上げたのは、ミホノブルボンを差そうとするライスシャワーの顔が見えたからだ。
「これは……」
――鬼気迫るとはこのことか。
映像越しだというのに、絶対に差す、絶対にミホノブルボンに勝つんだという意思が伝わってくる。もちろん他のウマ娘達も必死なのだが、このレースにおいてはライスシャワーの気迫が頭一つ、いや、二つか三つは抜けているだろう。
ライスシャワーはそのまま差し切り、1着でゴールを駆け抜ける。それを映像で眺めていた俺の口から、心からの賞賛を込めた呟きが勝手に零れ落ちた。
「――こりゃすげえ」
「えっ?」
スマートフォンという小さな画面でも、ライスシャワーの走り方からは凄まじさが伝わってくる。
序盤から終盤まで1番人気のミホノブルボンを徹底的にマークし、最後の直線で抜き去るその姿。スピード、スタミナ、瞬発力にコースの位置取り。そして何よりも、何がなんでも差し切ってやろうというその気迫。
レースで走るライスシャワーの姿は、今、俺の目の前に座っている彼女とは似ても似つかない。だが、ライスシャワーの走りを見た俺は、感動にも似た気持ちを抱きながら自然と呟いていた。
「大したもんだ……いや、これは本当にすげえ。無敗のクラシック三冠候補相手にこの走りはとんでもねえな……なによりこの気迫が良い。くぅ……良い気迫だなぁ」
うちのウララにこの子の気迫が十分の一でも良いから備わってくれれば、と思わず考えてしまう。未勝利戦で勝った時は
本当に、このライスシャワーはウララに見習わせたいぐらい気迫のある走りをしていた。いやでも、ウララがこんなに気迫溢れる走りをしたら俺は自分の正気を疑うやもしれぬ。
このライスシャワーを育てたトレーナーは誰だろうか? できれば話をしてウマ娘のトレーニング方法を聞かせてほしい。このライスシャワーの走りは、ウララの育成にもきっと良い影響を与えると思うのだ。
俺がレース映像の余韻に浸っていると、ライスシャワーから呆然とした視線が飛んできているのに気付く。俺はそれに慌てると、スマホを置いて咳払いをした。
「ごほん……っと、すまんな。最初にいうべき言葉があったよ」
俺がそう言うと、ライスシャワーは何故かびくりと体を震わせる。しかし俺はそれを気にせず、笑顔を浮かべながら拍手をした。
「菊花賞1着おめでとう、ライスシャワー。君はすごいウマ娘なんだな」
勝者には賞賛が必要だ。ウララが未勝利戦で勝った時、観客の声援がどれほどありがたくて、どれほど嬉しかったか。そう思った俺は、心からの賛辞をライスシャワーに向ける。
「っ……う、うぅ……あ、あああああああああああああぁぁっ!」
「え!? んんっ!? なんでぇっ!?」
そしていきなり、縋りつくようにして号泣されたのだった。
号泣するライスシャワーを宥めること10分少々。この10分は俺のこれまでの人生で最も長い10分だったといっても過言ではないだろう。
Q、保健室で男のトレーナーが幼い外見のウマ娘を号泣させています。外野からはどう思われるでしょうか?
A、自首しよう、なっ!
自首は冗談としても、他人に見られたら確実に誤解されるだろう。ウララが相手なら担当トレーナーだと言い張ることができるが、ライスシャワーはさっき会ったばかりなのだ。イケメンなトレーナーなら絵面的にセーフかも知れないが、俺の場合顔面セーフならぬ顔面アウトである。
「あーあー……涙どころか鼻水まで出ちゃってるじゃないか……可愛い顔が台無しだなこりゃ。ほら、チーンしろって」
俺は縋りつかれて泣かれたことで、ジャージの上着が大惨事になってしまった。それでも服は洗えばいいやと気にせず、まずは目と鼻がやばいことになっているライスシャワーをどうにかしようと足掻く。
ひとまず涙を拭いて、鼻をかませて、あとは何をすれば落ち着いてくれるのかと必死に考える。この子高等部だけどウララと同じ感じでいけない? 無理? などと自問自答してしまったが、とりあえずは何故ここまで泣くのかを尋ねた。
「ら、ライスは、悪い子……だから……ブルボンさんのクラシック三冠を阻止したから、ファンの人達が怒って……ウイニングライブでも、わ、わだじはっ……」
「あーっとぉ……ウイニングライブがどうしたって?」
そう言いつつ、俺はライスシャワーに抱き着かれている体をなんとか動かしてスマートフォンを操作する。そして『ウマ娘 ライスシャワー 菊花賞 ウイニングライブ』で検索すると、いくつものサイトがヒットした。
「…………」
そして、思わず無言になる。
某巨大掲示板でのコメントなどを切り貼りしたサイトだったが、そこには『ますお』なるハンドルネームの人物がライスシャワーのウイニングライブに関して写真を貼ると共にこれはファンとしてどうなんだと言及し、それを読んだ者が大勢噛みつくという流れになっていた。
俺が見た写真に写っていたのは、ライスシャワーのウイニングライブに関するものだ。
ただし、センターのライスシャワー、2着のミホノブルボン、3着のマチカネタンホイザの三人がいるというのに、観客側が振っているサイリウムはミホノブルボンを表す赤色とマチカネタンホイザを表す黄色の二色しか存在しない。写真のため実際に聞くことはできないが、この時ブーイングも飛んでいたらしい。
『ますお』という人物はミホノブルボンが負けたのは悔しいが、勝ったライスシャワーは賞賛されるべきだという意見を主張していた。しかしそれに同調する意見は少なく、ミホノブルボンの無敗での3冠を見たかったという声が大きいようだ。
「ブーイングライブ……実在したのか……」
思わず小声で呟く俺。以前ウララと話した時に出てきた言葉だったが、まさか実在するとは思わなかった。というか、実在してほしくなかった。
俺が生で見たウララのウイニングライブは、涙が出るほど嬉しくて、感動するものだった。あの時一緒にウララと踊ったウマ娘二人は引退してしまったが、胸を張って誇れるウイニングライブだったと俺は思っている。
自分が応援しているウマ娘が負けて悔しいのは理解できる。だが、GⅠという晴れ舞台で勝ったウマ娘をウイニングライブで非難するなど、到底許せるものではなかった。
もしもウララが同じ目に遭ったならば、その場で暴れない自信がない。傷害でしょっ引かれるとしても、大暴れしそうだ。
「ライスシャワー……君のトレーナーはどうしたんだ?」
俺でさえそう思うぐらいなのだから、ライスシャワーのトレーナーが感じた憤りはどれほどのものか。そう思って俺が尋ねると、ライスシャワーはぐずぐずと鼻を鳴らす。
「ら、ライスのトレーナーさんは……その、レースに出るために名前を貸してくれてたけど、ファンの人から色々言われて、気に病んで、休職するって……」
そのライスシャワーの言葉に、俺はピンとくるものがあった。先ほど休職するというメールを回してきた人物がライスシャワーの担当トレーナーだったのだろう、と。
(ライスシャワーだけじゃなく、担当のトレーナーにまで文句を言ったのか? ミホノブルボンのファンってやべえ……いや、それだけミホノブルボンが期待されてたってことか?)
ミホノブルボンがそういった流れに扇動したのでなければ、ファンが暴走してしまったのだろう。将来を嘱望された有名なスポーツ選手が思わぬところで躓いた時、
無敗のクラシック三冠ウマ娘が誕生する瞬間を生で見たかったという気持ちも、まあ、わからないではない。しかし、その場にいなかったし、ウマ娘を育てる立場にある俺からすると、理解はできても納得はできなかった。
(でもこの子のトレーナーは既に休職しちまったみたいだしなぁ……うーん……)
その辺りの事情もライスシャワーの心を責め立てているのだろう。レースに出るために名前を貸していただけだとしても、ライスシャワーからすれば担当トレーナーで、迷惑をかけた相手だということに変わりはない、のだが――?
(……待って、いやちょっと待ってくれ。驚きと怒りでそのまま流すところだったけど、この子、まさかとは思うけど……)
俺は不意に、とんでもないことに気付いて背中に冷や汗が噴き出る。今しがた聞いたライスシャワーの話が本当なら、この子はもしかすると、とんでもないウマ娘なのかもしれない。
「あの、ライスシャワーさん? レースに出るためにトレーナーが名前を貸してくれてたって言うけど、普段のトレーニングはどうしてた……んですか? レースの対策とかも、トレーナーは……」
思わずさん付けでライスシャワーの名前を呼ぶ俺。何故なら、仮に予想が的中した場合、この子は――。
「……? ライス、自分でトレーニングしてたよ? レースも、皐月賞の頃からブルボンさんをずっとマークしてて、菊花賞なら差せると思って……」
俺の言葉に涙を拭いつつ答えるライスシャワー。つまり、この子はトレーナーの指導なしでGⅠに出走できるだけの実力をつけ、なおかつずっとマークしていたミホノブルボンを菊花賞という大舞台で実際に差し切ったようだ。
それだけライスシャワーというウマ娘の才能が優れているのか、あるいは努力を重ねたのか、もしくは信念が強いのか――その全てか。
最初からしっかりと育成してくれるトレーナーの下にいたならば、無敗のクラシック三冠ウマ娘への挑戦権を持っていたのはミホノブルボンではなくこの子だったのかもしれない。
「ライスが走ると、みんなを不幸にするもん……ライスが走っても誰も喜ばないし、勝ってもがっかりするだけ……だからもう、ライスは走るの辞めようって……」
俺がたらればの話を考えていると、ライスシャワーが俯きながら呟く。それを聞いた俺は咄嗟に止めようと思ったものの、ライスシャワーが今どんな心境かを思えば軽々と止めるのも憚られた。
「……せっかく菊花賞で1着を取ったのにか?」
「うん……次は有馬記念に出るつもりだったけど、他の人を不幸にしたくないもん……」
俺は遠回しにもったいないぞと促してみるが、ライスシャワーは俯いたままで答える。
「そう、か……」
ウマ娘の引退に関しては本人の意思が尊重される。未勝利だろうと諦めずにトレセン学園に残り続けて挑戦し続けるウマ娘も少なからずいるし、骨折などの故障で長期離脱してもリハビリしてからレースに復帰するウマ娘もいるのだ。
諦めなければ――そう、諦めさえしなければ、ウマ娘には多くのチャンスが広がっている。
ただ、外野がどうこう言っても、ウマ娘本人が諦めてしまえばどうにもならない。
故障が酷くて走りたくても走ることができない、負け続けてもう走りたくない、どれだけ頑張っても速く走れない。理由は様々だろうが、心が折れてしまえば立ち上がるのは容易ではないのだ。
だが、ライスシャワーは心が傷ついてこそいるが、折れてはいないように見える。ファンから心無い言葉を投げかけられ、今にも折れてしまいそうだが、辛うじて踏み止まっているように見えた。
「ライスシャワー、君はすごいウマ娘なんだな」
「…………え?」
俺はそんなライスシャワーを賞賛する。出会って数十分、言葉を交わしたのは今日が初めてだが、菊花賞の映像を見ればわかる。
この子は、本当にすごいウマ娘なんだと。
「他の人を不幸にするってことは、有馬記念でも1着を取る自信があるってことだろ?」
ライスシャワーは
それはきっと、これまでライスシャワーというウマ娘が積み重ねてきた努力が形作った自信なのだろう。ライスシャワーにその気がなかったとしても、無意識の発言にこそこの子の本質が見えている気がした。
この子はきっと、本当に強いウマ娘なのだ。ただ、周囲から浴びせられた悪意で心が傷つき、弱ってしまっているだけで。
「菊花賞で一冠、有馬記念で勝てばGⅠの二冠ウマ娘だ。そこから更に天皇賞春で1着を取ったりしたら、君はGⅠで三冠を達成できる……クラシック三冠とはいかないけど、それはミホノブルボンを超えるってことじゃないか?」
ミホノブルボンどころか、仮にシニア級になって開催されるGⅠを全て制覇した場合、七冠ウマ娘シンボリルドルフを超える記録になる。この子の距離適性は知らないためさすがに全てのGⅠを制覇できるとは思わないが、仮に二年連続で有馬記念を勝った場合、有馬記念二連覇という偉業にもなるのだ。
そう思うと、目の前で泣く少女がとんでもなく大きな存在に感じられた。
「というか、君なら春シニア三冠とか、秋シニア三冠も狙えるんじゃないか?」
春シニア三冠は大阪杯、天皇賞春、宝塚記念の3つのGⅠを制したウマ娘に贈られる称号で、秋シニア三冠は天皇賞秋、ジャパンカップ、有馬記念の3つのGⅠを制したウマ娘に贈られる称号だ。
この子にはそれだけの偉業に挑戦する権利がある。そしてその権利はウマ娘の中でも限られた一握り、いや、一握りどころか一つまみぐらいにしか与えられない。
俺はトレーナーとして働き出してまだ半年程度の新人だが、ウマ娘にとって1勝というのはとても大切で、重みがあるものだと知っているつもりだ。その1勝を挙げられずにトレセン学園を去る者、地方の学園に移籍する者、怪我で引退を余儀なくされた者、その数は決して少なくない。
1勝を挙げて、オープン戦を勝ち抜いて、重賞にも出て、G1に出て、1着を取る。それがどれほど困難で、ほとんどのウマ娘が心の底から望んで、でも届かない夢だと敗れ去るのか。しかし、このライスシャワーはそれを叶えた。自らの力で叶えてみせたのだ。
「でも……でもっ! ライスは……ライスはぁ……」
だから、トレーナーとしては心底惜しいと思いつつも、俺は言う。
「そうだな……どんな決断を下すかは君次第で、外野の俺がとやかく言えることじゃないな……でも、さ」
俺はスマートフォンに表示していた菊花賞のレース映像を指さし、小さく笑う。
「君の走りを見てファンになった身からすると、もっと走ってるところを見たいと思ったよ」
トレーナーとしては彼女の決断を尊重してしまうから、今、ファンになった人間として俺は言った。
故障して、走りたくても走ることができないというのなら話は別だ。それで無理をして走っても、故障どころではない不幸が起きてしまう可能性が高い。
だが、ライスシャワーは見た限り故障もなく、傷ついた心でもターフに舞い戻って走りたいと思っているように感じられた。
俺はウララの走りに自分の夢を乗せている。今は少ない数の夢を背負うことしかできないウララだが、これからもっと多くの人々に夢を抱かせてくれると信じている。
そして俺の目の前で涙を流す小さなウマ娘は、現時点でさえ何千、何万人という人間の夢を乗せて走れるだけの力があるのだ。そうでなければ菊花賞で2番人気には推されないし、無敗の三冠ウマ娘を目指すミホノブルボンを差し切るなど不可能なはずだ。
「……ほん、とう? ライスは……ライスは、走っても……いいの?」
「もちろん。それを決めるのは他人じゃない。君が諦めない限り、その権利が君にはあるんだ」
ライスシャワーの走りには、それだけの力があると俺は思った。ミホノブルボンの無敗の三冠が見れなくて文句を言ったファンすらも黙らせ、熱狂させるであろう力が。
(この子のトレーナーが休職したってことは、現在フリー……誰かトレーナーがいないと有馬記念どころかレースに出られない状況だろうけど、GⅠウマ娘だし、あの走りを見たらどんなトレーナーでも諸手を挙げて迎え入れてくれるだろうな)
ただし、この子を育てたいトレーナーはたくさんいたとしても、実際に育てるにはトレーナーとして相応の腕がいるだろう。
たとえばチームリギルを率いる東条トレーナーならば、ライスシャワーを見事に育て上げてくれるのではないか。ほとんど話したこともないが、この子が再びターフで駆ける姿を見るためならば土下座でもなんでもして頼み込む所存である。
問題はチームリギルにライスシャワーと同じクラシック戦線で争うウマ娘がいないかどうかだが、菊花賞の面子を見る限りいないようだ。外野から何か文句を言われたとしても、東条トレーナーならば睨み一つで黙らせてくれそうである。
「君がまだ走りたい、勝ちたいって思いがあるのなら、手を伸ばしてくれるトレーナーはいくらでもいるよ。俺の方からも理事長や駿川さんに話をしておくし、君ならトレーナーに逆オファーを出しても喜んで受け入れられるさ」
ライスシャワーの現状を知れば、理事長や駿川さんも協力してくれるだろう。ライスシャワーに世間から向けられている悪意を少しでも減らしてくれるに違いない。
「でも、ライスはまた、トレーナーさんに迷惑をかけちゃうから……」
「トレーナーってのはウマ娘に迷惑をかけられてなんぼってなもんだよ。トレーナーが迷惑をかけることもあるけど、一緒に頑張って、一緒に勝利を目指すのがトレーナーってもんだろ?」
少なくとも、俺とウララはそうやって進んできたつもりだ。
「君にその気があるのなら、今から早速……って、もうこんな時間か。さすがに理事長も駿川さんも帰ってるよな」
俺は保健室の壁にかけられている時計を確認してそう判断する。というか、気のせいでなければウマ娘達の寮の門限ギリギリのような気がするんだが。
「うわっ!? 本当に門限ギリギリじゃねえか!?」
ウマ娘によっては夜に自主訓練を行う者もいるため、寮の門限はそれなりに遅い。しかし、時計を見るといつの間にか午後十時になろうかとしていた。
慌てだした俺を見て、ぽかんとした表情になるライスシャワー。その表情から今まであった絶望感が薄くなっているのを見た俺は、ライスシャワーを立たせてから手を伸ばす。
「寮まで送るから、今日のところはここまでだな。ほら、一緒に行こう。走れるか?」
苦笑しながら伸ばした俺の手に、おずおずとライスシャワーの手が触れた。
保健室から出て、飲んでた缶コーヒーと人参ジュースの空き缶を自販機横のゴミ箱に叩き込み、すぐさま校舎から外に出るとそのまま走り出す。寮の門限に間に合うかは本当にギリギリだ。
しかし、俺にはウララを鍛える最中に鍛えた自前の足がある。なんでウマ娘を鍛えるために自分も一緒に走っているのかと同期から苦笑まじりに突っ込まれたことがあるが、足には自信があるのだ。
ライスシャワーを先導するように走る俺だったが、いつの間にか腕から抵抗がなくなり、ライスシャワーがすぐ隣を走るようになった。
綺麗なフォームで走るライスシャワーを見て、俺は思わず笑ってしまう。
「なんだ、やっぱり走ることが好きなんじゃないか」
「……うん、やっぱりライス、走るの好きみたい」
俺が笑いかけると、ライスシャワーは控えめな笑みを返してくれる。外の暗さに溶け込むようにして翻るライスシャワーの黒髪は、その笑顔に負けず劣らず綺麗だった。
そうしてライスシャワーが入寮している美浦寮の前まで送り届けた俺は、一走りしたおかげかライスシャワーの顔から険が取れているのを見て小さく安堵する。
「ふぅ……よし、ギリギリセーフだな……なんか寮長っぽい子が睨んでるけど……」
寮のガラス製の扉越しに、肌が焼けててスタイルが良いウマ娘から鋭い視線が飛んできている。多分、美浦寮の寮長であるヒシアマゾンだろう。俺が無言で頭を下げると、ヒシアマゾンはライスシャワーの表情を見て僅かに驚き、その後にどこか安心したようなため息を一つ吐いてから扉を開けてくれた。
腕組みして、なんか滅茶苦茶睨まれてるけど、多分良い子だな、この子。
「それじゃあな、ライスシャワー。夜更しせず、しっかり風呂で温まってから寝るんだぞ?」
「うん……ライス、がんばる……がんばってみるね」
その言葉を聞けただけでも、話を聞いた甲斐があったというものだろう。俺は自宅に帰るためにその場から駆け出すのだった。
翌朝、トレセン学園に出勤するなりライスシャワーの件を報告するべく理事長室に足を向けた俺は、いきなりの突撃にも拘わらず理事長室に迎え入れられた。
「昨晩、ライスシャワーさんから電話がありまして……是非ともあなたにトレーナーとして担当してほしいそうです」
「……え? なんですって?」
そして、駿川さんから放たれた言葉に思わず耳を疑うのだった。