リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐   作:烏賊メンコ

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いつもこの作品を読んでいただきありがとうございます。
いつの間にかUA数が10万を超えてました。
日間とか週間とかのランキングにも載り続けててビックリしてます。
誤字報告も助かっています。ありがとうございます。

ただ、たまにある誤字報告なんですが、作品中でウマ娘世界に「馬」という漢字がないと書いたものの、主人公視点での話では使用しております(有馬記念とか馬鹿とか)。
馬という漢字がある世界からの転生者なので、その辺りはスルーしてもらえると助かります。

なお、ウマ娘が馬という漢字を使っていたらツッコミをいただけると助かります。
でも有馬記念は『馬』の下の点が二つバージョンがないので、そのまま使用したいと思います。


第19話:新人トレーナー、悩む

 平日の夕方や休日はウララとライスのトレーニング、それ以外は情報収集と精査に追われる俺だったが、どんどん過ぎていく日々と比べると情報の整理はそこまで進んでいなかった。

 

 最低限度情報をまとめ終わったものの、突貫作業のため正直抜けや漏れがないか不安である。しかし、最低限とはいえ形になってきたため、俺としては安堵する思いだった。

 

 今日も今日とてウララとライスのトレーニングを終え、トレーナー用の共用スペースでパソコンと格闘していた俺だったが、まとめた情報を確認して頭を抱える。

 

(わかっていたことだが……重賞で戦ってきたライスとぶつかる相手となると、全員レベルが高いし数も多い……中にはGⅠで勝ってる子もいるし、GⅠで勝利してなくとも入着はザラって子ばっかりだぞ……)

 

 あーうーと声を漏らしながら俺は首をぐるりと回す。パソコンとにらめっこしていたため固まってしまったのか、首を一周させるだけでゴキゴキと派手な音が鳴った。

 

 戦歴でいえば、うちのライスよりも上の者も多い。そもそもライスは菊花賞こそ獲ったものの、これまでのレース結果はずば抜けて良いとも言えないのだ。

 

 ――ライスシャワー。

 

 メイクデビューで1着を取ったものの、続く新潟ジュニアステークスで11着。その後に芙蓉ステークスで1着を取るが骨折が判明し、3ヶ月に渡る療養生活に入る。

 復帰戦ではGⅡのスプリングステークスに出走して4着。クラシック三冠の出発点、GⅠの皐月賞で8着、NHKマイルカップで8着と芳しくない。

 

 しかしここからライスは変わる。日本ダービーこと東京優駿で2着、セントライト記念で2着、京都新聞杯で2着と好成績を残す。このうち日本ダービーと京都新聞杯で1着を取ったのがミホノブルボンで、ライスは菊花賞でとうとう彼女を上回った。

 

 ふたを開ければG1で1着1回、2着1回。GⅡで2着2回、4着1回。メイクデビューとオープン戦で1着が1回ずつという戦績だ。

 

 10戦3勝という成績はトレセン学園全体で見れば上位とは言えない。そのうちの2勝がメイクデビューとオープン戦のため、その部分だけで探せば割と見つかるだろう。だが、菊花賞で1着を獲ったというその一点だけで評価が変わる。

 

 そんな彼女を現在進行形で育てているわけだが、ライスがぶつかる可能性があるウマ娘を確認してみると、これがまあひどい。色んな意味でひどい。

 

 有力だと思われるウマ娘はそれこそ大量にいるが、その中でも突出しているのは6人だ。

 

 ――トウカイテイオー。

 

 チームスピカに所属し、メイクデビューの勝利を含め、怒涛の7連勝を挙げたウマ娘である。4戦目まではオープン戦だが、5戦目で去年の皐月賞、6戦目で日本ダービーを勝つというとんでもない実力である。ただし日本ダービーで故障が発覚し、長期間の休養を余儀なくされている。

 

 それでも復帰戦として出走した7戦目、GⅠの大阪杯で1着を取っているあたりマジでとんでもない。その後は春の天皇賞で5着になり再び故障が発生。復帰戦の秋の天皇賞で7着だったが、走り自体はかなり元に戻っていたように見える。

 

 あと一週間もしない内に開催されるGⅠのジャパンカップにも出走するようだが、練習風景を覗いたところかなりの仕上がりだった。あれならば1着もありえそうだ。

 

 長距離も走れるものの、本質的には中距離向きのウマ娘だろう。先行で走り、最後の直線で一気に加速して抜き去っていく姿は驚異の一言である。

 

 ――メジロマックイーン。

 

 こちらもチームスピカに所属する名門メジロ家出身のウマ娘で、ライスと最もぶつかる可能性が高い生粋のステイヤーだ。ただし、戦績やレース映像を見る限り中距離も得意そうである。

 

 既に17回ものレースに出走しており、17戦9勝。出走したレースではほぼ全てで入着している。一度だけ秋の天皇賞で18着という記録になったことがあるが、斜行による降着でレース自体は1着でゴールを切っていた。

 GⅠだけでも菊花賞で1勝、春の天皇賞を2連覇しており、大舞台でのレースに強い。ライスと同じく先行が得意なウマ娘で、出走してくれば強敵になること間違いなしだ。

 

 ただしこのメジロマックイーン、現在故障で療養中である。

 

 ――ナイスネイチャ。

 

 チームカノープスに所属し、中距離から長距離を走る差しウマ娘だ。

 

 GⅠでの1着こそないもののGⅡで2回、GⅢで1回勝利を挙げている。戦績は15戦6勝で、メジロマックイーンと同様にほぼ確実にレースで入着する強者だ。

 度々故障するものの1ヶ月の間に2回出走して両方で1着を取るなど、頑丈なのか故障しやすいのかいまいちわからない。出走したレースはオープン戦とGⅢだったが、その前後含めて4連勝していたりと決して侮れない。戦績を思えばライスよりも格上の相手と言えるだろう。

 

 ただ、去年の有記念以降故障によって長期休養をしており、つい先月復帰したばかりだ。本当にこの子、故障しやすいのか頑丈なのかいまいちわからない。あと、なんか3着が多い気がする。

 

 ――イクノディクタス。

 

 ナイスネイチャと同じくチームカノープスに所属するウマ娘で、マイルからギリギリ長距離まで走れる先行タイプ。

 能力的にはおそらくナイスネイチャより劣るだろうが、俺が注目しているのはこの子の戦績だ。勝利数こそ少ないが、なんと39戦もこなしているのである。そのうち勝利は8勝で、メイクデビューを除けばオープン戦で3勝、GⅢで4勝挙げている。

 

 GⅠに出てくるウマ娘と比べると能力的にはやや劣るだろうが、レースの経験数がすさまじい。それだけの経験値があるというだけで警戒に値する相手だと俺は思っている。

 

 ――マチカネタンホイザ。

 

 この子もチームカノープスに所属するウマ娘だ。デビュー時期はライスと大差なく、菊花賞でもライスやミホノブルボンと1着争いをしている。

 

 戦績は11戦2勝で、勝ち星はメイクデビューとオープン戦だけだ。しかし、皐月賞で7着、日本ダービーで4着、菊花賞で3着と着々と実力をつけている。着外になったのも皐月賞だけで、他のレースでは全て入着しているあたり高水準の実力があるのだろう。

 

 ――メジロパーマー。

 

 メジロマックイーンと同じく、メジロ家出身である。29戦7勝で、GⅠでは6月の宝塚記念において1着を取っている逃げ一本のウマ娘。

 

 以前は短距離やマイル路線に進んでいたようだが、中距離や長距離を走る機会が増えており、ライスとぶつかる可能性が高い。直近では秋の天皇賞で17着になっているが、この子はなんというか、型にはまればそのまま1着で逃げ切りそうな気配がある。

 

 この6人が俺が目を付けたウマ娘達である。

 

 あとは、有記念に出そうなウマ娘で有力なのはダイタクヘリオスだろうか。

 

 33戦10勝でGⅠで2勝――それも先日行われたマイルカップで去年含めて2連覇を達成したウマ娘だが、この子は典型的なマイラーである。それだというのに、何故か時折中距離路線に顔を出したり、去年は有記念を走っていたりする。

 

 逃げを得意としているが、長距離のレースでライスなら余裕を持って差し切れると思う。それでも注意が必要だと思うのは、既に30戦以上こなしているからだ。

 

「ふぅ……」

 

 俺はライスと当たりそうな有力ウマ娘の情報をまとめ、ため息を吐く。

 

 実力もそうだが、割と怪我が多くてどのレースに出てくるかわからないのが辛い。もちろん事前に出走申請が必要なため誰が出てくるかはわかるのだが、怪我の程度によっては直前で棄権する可能性もあるのだ。

 

 そして、情報をまとめていると予想外な部分もあった。

 

 ライスとぶつかるウマ娘の中で最も手強いと思っていたミホノブルボンが、現在長期療養に入っているのだ。足に不調があると思っていたら、骨膜炎を発症してしまったらしい。

 

 ライバルが減るのは嬉しいことだが、怪我は良くない。だからやっぱり嬉しくない。でもミホノブルボンとライスが戦わずに済んでちょっと安心するジレンマよ。

 

 他にも芝のレースでライスの得意な距離とかぶるウマ娘は大量にいる。しかし、ある程度の洗い出しはするが、全員のレースを何度も細かくチェックして情報をまとめるのは時間的にも不可能だ。

 

 あとは有記念直前で出走するメンバーが決まってから、手早くまとめるしかない。

 

 さて、そんなライスと違い、ウララの方は選手層が薄いため情報をまとめるのは楽だった。うん、割と楽だったのだが――。

 

(くっそぉ……ライスの方も楽観はできんけど、ウララの方はよりにもよってなんでこんな子が同年代にいて、中央に移籍してくるんだ……)

 

 俺が視線を落としたのは、一枚の資料だ。そこに記されている情報は、ぶっちゃけかなり絶望的である。

 

 ――オグリキャップ。

 

 現状では中央ではなく地方のウマ娘だが、芝もダートもこなせる上に、適性距離はマイルから長距離と幅広い。戦法も先行や差しを得意としており、驚くべきはレース終盤に見せる加速力だ。

 

 地方のレースながら、既に9戦7勝を挙げている。負けたのも2着ばかりで、相手も地方とは思えないほどレベルが高かった。

 

 地方のレースのため入手できる映像が限られていたが、一目見てわかった。この子は地方にいていいレベルではなく、中央でもトップクラスの才能があるだろう、と。

 

 なんで地方のウマ娘をリストアップしてるかって?

 

 この子が中央のトレーナーにスカウトされて、編入って形でトレセン学園に来るからだ。俺がそれを知ったのはつい先日のことで、今のウララなら上のクラスでも割と善戦できるんじゃね? などと考えていた俺の慢心を粉々に打ち砕いた。

 

 新人トレーナーでしかない俺の観察眼だが、この子は間違いなく強くなる。というか現状でもかなり強い。

 

 そして、年齢と距離の適性的にウララとぶつかる可能性が高い。おそらくは早々に重賞にも出るようになるだろう。そうなったらウララが出るレースとはかぶらないかもしれないが、仮にぶつかればどうなるか予想もできない。

 

 願わくば芝のレースへ舵を切ってほしいところだが、地方のダートコースで走り続けてきた以上、中央でもダートのレースに出てくることを警戒しなければならない。

 

 ダートのレースは芝と比べると少ないため、回避しようにも回避できそうにないというのも酷い話だった。

 

 今のところオグリキャップがぶっちぎりでやばい。だが、ウララとぶつかる可能性が高いウマ娘としては、オグリキャップの他にも注意すべきウマ娘が三人ほどいた。

 

 ――エルコンドルパサー。

 

 ウララの友達で、オグリキャップと同じく芝もダートもこなせる上に、これまたオグリキャップと同じく適性距離がマイルから長距離と幅広い。戦法も先行と差しが得意だ。

 

 ウララと同じ時期にデビューした割に出走したのはメイクデビューの一度のみ。それ以降はトレーニングに集中しているのかもしれないが、この子のトレーナー、なんと東条トレーナーである。

 

 チームリギルに所属し、東条トレーナーに鍛えられているというだけで要警戒だ。俺もスライムからちょっとは進化できたと思うが、大魔王様には勝てないのである。

 

 ――タイキシャトル。

 

 アメリカ生まれのウマ娘で、トレセン学園には中途編入という形で入った変わり種だ。この子も芝とダートの両方を走れるようだが、現在ダートと芝の両方のレースに出ながら7戦6勝という戦績を叩き出している。一度負けているが、その時でさえ2着だ。

 

 この子は短距離からマイルを主戦場としているため、ウララとぶつかる可能性が非常に高い。ウララと違うのはウララは差しを得意としているが、この子は先行を得意としている点ぐらいか。実力という点ではだいぶ違うが、実力で考えればオグリキャップ並に警戒する必要があるだろう。

 

 ――スマートファルコン。

 

 この子はウララと同様にダートに特化したウマ娘らしい。どうにも芝のレースは苦手そうな雰囲気があった。

 

 短距離から中距離まで走れる逃げウマ娘で、メイクデビューで1着、続くオープン戦で2着に入っている。今後の伸び次第だが、この子とぶつかると苦戦しそうだと俺は思っている。

 

 他にもダートを主戦場とするウマ娘は何人もいるが、芝と比べれば数が少ないため情報を洗い出すのもライスと比べれば楽だった。レース映像を見て、ぶつかるとやばそうだと思ったのが上記の四人である。

 

 ただし、いくら数が少ないといっても未勝利戦で勝利しただけのウララからすれば相手は全員、同格もしくは格上だ。気は抜けないし、油断もできない。

 

 ライスと一緒にトレーニングをするようになって、ウララの成長曲線は俺の予想よりも上振れして推移しつつある。やはり一人でトレーニングをするよりも、一緒に走る仲間がいる方がウララのようなタイプには高い効果があるのだろう。

 それも、一緒に走る仲間がGⅠウマ娘である。ウララとライスの仲の良さもあり、ウララのトレーニングに対する集中具合はこれまでにないほどだ。あと、これまでも楽しそうにトレーニングしていたが、ライスが一緒だと更に楽しそうである。

 

 だがその半面、ライスのトレーニングになっているのかと不安に思う気持ちがある。

 

 ライスはウララと同様に素直な子で、俺がトレーニングの意図を説明すればきちんと納得してくれる。今はバランスが崩れた筋肉を整えるためにウッドコースを利用した軽めの調整メニューだが、ウララと一緒に時折ダートも走らせている。

 

 良バ場に限ればダートは芝よりも足にかかる負担が少ないため、左足に寄った重心を戻しつつ走りにくい足場で筋力もつけようとしているのだ。

 幸いなのは、ライスもウララと一緒に行うトレーニングを楽しんでいるという点だろう。ただしウララとライスでは実力に差があるため、どうしてもライスの体にかかる負荷が軽くなってしまう。そのため筋力トレーニングもさせて少しずつ体のバランスを整えているが、どうなるかはまだ見えてこない。

 

 疲労を抜くのには丁度良いが、筋力や体力まで一緒に抜けてしまったのでは意味がないだろう。そのため筋力と体力を維持しつつも体のバランスを少しずつ整えていくという、難易度の高いトレーニングを考える必要があった。

 

 これまでライスが積み重ねてきたトレーニングは伊達ではない。疲労を抜き、全身のバランスを整えるだけでもう一段階上の実力を発揮するのではないか、と俺は見ている。しかしライスがどうなっていくかは時間をかけて少しずつ確認するしかないのだ。

 

「ふぅ……あれ? もうこんな時間か……」

 

 俺は最低限まとめた資料を読み返し、問題がないことを確認してから現在時刻を確認する。いつの間にやら日付が変わっており、共用スペースに俺以外のトレーナーの姿はない。

 

 というか、日付が変わったというか、既に午前三時を回っていた。集中し過ぎて時間の経過などすっかり忘れていた俺である。

 

 時間を確認し、一度集中が途切れると疲労がどっと襲ってくる。俺は無意識のうちに栄養ドリンクを探してしまったが、既に全部飲み終えてしまったため一本たりとも残っていなかった。

 

 さすがにそろそろ休んだ方が良いだろう。ただ、今から自宅に帰って遅い、いや、ある意味早い? 夜食を取るのも微妙な時間だ。

 

 俺はパソコンの電源を落とすと、その足を仮眠室へと向けた。風呂はいい。起きてからシャワーを借りれば良いだろう。

 そう考えた俺はフラフラとした足取りで仮眠室へ入り、ベッドに倒れ込んで目をつむる。

 

(明日……いや今日はウララをライスの練習に付き合わせて芝を走らせて……ライスも調整だけじゃなくてたまにはある程度本気を出させないと体が……ウララ……ライス……ウララ……ライス……ウラライス……)

 

 俺は今日のウララとライスの練習メニューを考えていたが、一分と経たずにその意識が途切れるのだった。

 

 

 

 

 

「……さん……さん! …………ですか?」

 

 誰かの声と揺さぶられる感覚で、俺の意識が浮上する。戸惑いがちにゆさゆさと体を揺らされ、俺は薄っすら目を開けた。

 

 トレーナーさん、だろうか。俺のことをそう呼ぶのはライスぐらいだ。寝ぼけまなこを開いてみれば、ぼやけた視界に黒髪が映る。

 

 ああ、やっぱりライスだ。多分、俺のことを心配してトレーナー用の共用スペースまできたのだろう。昨晩資料をまとめている最中に寝落ちしてしまったのか。あれ? 俺が今いるのってどこだっけ? 机と椅子ってこんなに寝心地良かったっけ?

 

 そんな疑問が浮かんだものの、俺の頭に浮かんだのは呼びかけるライスのことだ。

 

「すまんなぁ、ライス……でも、俺は……大丈夫……お前を……絶対、強くしてみせる……から……」

 

 そう言いつつ、俺はライスの頭に手を伸ばした。そしてゆっくり撫でていく。

 

 ウララもそうだが、ライスも頭を撫でると喜ぶ節があった。高等部のライスは嫌がるかな、と思って控えていたものの、ウララを撫でていると羨ましそうな顔をするのである。

 

 そのため何度か撫でたことがあるが、ほにゃりと表情が和らぐのは可愛らしいものがあった。

 

 俺が今撫でている髪も艶があり、サラサラとした黒髪である。頭部に耳がないため非常に撫でやすく、手を滑らせてみれば肩口ぐらいで髪の毛が消えて――?

 

「…………あれ?」

 

 ライスシャワーはこんなに髪が短くない。というかこの人、ウマ耳がない……なくない? 普通に人間と同じ位置に耳があるような?

 

 そう思考した俺の意識が晴れ、寝ぼけた視界も徐々に明瞭になっていく。

 

「あの……あのっ! だ、大丈夫ですか? さっきから何度も声をかけてるんですけど……」

 

 俺を起こそうとしていたのは、桐生院さんだった。顔を赤くしつつ、困惑しつつ、それでも俺を起こそうと声をかけてくる。

 

「ね、寝ているところをすみません……ただ、荷物はあるのに姿が見えなくて心配になりまして……」

 

 そう言われて枕元に置いていたスマートフォンを確認してみると、あと三十分で始業時間だった。さすが桐生院さん、始業の三十分前には出勤したらしい。俺はずっといたから俺の方が勝ったね? いや、なんだ、寝起きだからか思考がおかしいな。

 

 俺は桐生院さんの頭を撫でていた右手を見る。そして顔を赤くしている桐生院さんの顔を見る。俺は寝ぼけてライスと間違えて桐生院さんの頭を撫でていた? 担当ウマ娘ではなく、同僚の女性の頭を?

 

 ス、と俺はベッドから起き上がり、流れるような動きで床に膝をついた。そして両手を床につけると、深々と頭を下げる。

 

「寝ぼけていました。申し訳ございません。ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 

 セクハラ、懲戒解雇、裁判といった単語が脳内で乱舞する。寝ぼけていたからセーフ? 寝ぼけていたからで済んだら警察はいらないのである。

 

 頭を下げながら冷や汗がダラダラと吹き出てくる俺。桐生院さんに訴えられたら確実に敗訴で有罪で収監である。初犯なら執行猶予がつくかもしれないが、セクハラの加害者と被害者が同じ職場で仕事を続けるなど不可能だろう。

 

「虫の良い話で恐縮ではありますが、訴えるのはウララとライスの育成があと少し、もうひと段落してからにしていただけますようお願いできないでしょうか?」

 

 ただ、ウララもライスも今が大切な時期なのだ。誰かに後事を託すとしても、区切りがつくまではなんとか続けたい。もちろん、それも桐生院さんが許してくれればの話だが。

 

 土下座した状態のため桐生院さんの顔は見えない。しかし僅かな、俺にとってはとてつもなく長く感じる数秒の間を置いて、思わぬ声が降ってくる。

 

「か、顔を上げてください! 怒っていませんし、むしろライスシャワーさんのことを大切に想っている気持ちが伝わってきて、わたしもトレーナーとして見習わなければと思ったぐらいですから!」

「しかし……」

「む、むしろ、その、父にも撫でられた記憶がないので、あの、とても新鮮でしたし……」

 

 それって新鮮で済ませて良いとは思えないし、桐生院さんの実家って大丈夫なの? と心配してしまう。というかこの子大丈夫? 箱入りすぎて悪い男に騙されない?

 

 俺がそっと顔を上げると、顔を赤らめたまま髪の先を指先でいじる桐生院さんの姿があった。もじもじと恥ずかしそうにしているが、たしかに怒っている雰囲気ではない。

 

 だが、それはそれ、これはこれだ。俺は伏したままで口を開く。

 

「本当に申し訳ないです……謝罪になるかもわかりませんが、俺にできることならなんでも言ってください。実現できる限り、なんでもやりますから」

「……なんでも、ですか?」

 

 あれ? やっぱり怒っていらっしゃる? すぐに食いつかれたんだが。できればお手柔らかにお願いしたい……でもやったことがやったことなだけに、拒否できない。

 

 そう思っていると、桐生院さんはなにやら真剣な表情で俺を見下ろした。

 

「では、ライスシャワーさんにミークの相手をお願いできないでしょうか? 来月にある阪神ジュベナイルフィリーズ……ジュニア級ではありますが、GⅠのレースに出す以上、事前にGⅠを制したウマ娘と走れるのはミークにとって大きな経験になると思うんです」

「それは……たしかに良い経験になりそうですね」

 

 桐生院さんの申し出は、なるほどと思うものだった。ジュニア級とはいえGⅠに出す以上、GⅠウマ娘がどれほどの実力を持つかハッピーミークに体験させてみたいらしい。

 

 トレーナーとしてそう考えるのは当然で、なおかつそれを実現できる伝手があるのならば利用するべきだろう。俺としてもウララ以外のウマ娘と競わせた場合、ライスがどんな走りを見せるのか興味を引かれる気持ちがある。

 ただし、今のライスは調整中の身だ。八割ぐらいの力なら走っても影響はないだろうが、ライスの気が乗らなければどうしようもない。

 

「あとでライスに確認してみますけど、確約はできませんよ? それで良いのなら……」

「ではそれでお願いしますっ!」

「いいんですか……んー……」

 

 勢い込んで頷く桐生院さんの姿に、俺は声を漏らしながら思案に暮れる。

 

 ――その時、ふと閃いた!

 これはライスのトレーニングに活かせるかもしれない!

 

「ライス次第ですけど、もし大丈夫だったら他の同期連中にも声をかけて模擬レースみたいな形にします? せっかくなんで、より実戦的な感じにした方が良いと思うんですが」

「え? いえ、それはちょっと……わたしには難易度が高いかなって……」

 

 何の難易度? という疑問の声をギリギリのところで飲み込む俺。

 

 同期のトレーナー達は土下座ったら情報回してくれたし、桐生院さんみたいに育成中のウマ娘の腕試しという名目なら喜んで参加してくれそうだ。

 

 これがウララだったら見向きもしないけどな! ダートのコースでレースもやって度肝抜いてやるっ!

 

 俺はそんなことを考えながらゆっくりと立ち上がる。とりあえずライスとウララにスマートフォンで連絡を入れておけば、授業中にでも考えてくれるだろう。ぽちっとな。

 

『今日の放課後、模擬レースをやるって言ったら参加する?』

『わー! 楽しそー! やるやる!』

『ライス、やるよ』

 

 するとすぐに返事がきた。ウララは普段通りだが、ライスからは文面からも滲み出る妙なやる気を感じるような……?

 

「大丈夫みたいです」

「やったっ! ……ごほん、それでは放課後を楽しみにしていますね?」

 

 心底嬉しそうな顔でガッツポーズを取り、一瞬間を置いてから我に返る桐生院さんだった。

 

 

 

 

 

 そして放課後。普段通りウララとライスに準備運動をしっかりと行わせた俺だったが、周りを見回して小さくため息を吐く。

 

「声をかけたのはこっちだけど、集まり過ぎじゃね?」

「だってお前、菊花賞ウマ娘との模擬レースだろ? 上のレベルを体験させとくのに絶好の機会じゃねえか」

「いやぁ、持ってた情報回すだけでこんな機会に恵まれるとは思わなかったよ。こっちからは頼みにくくてさぁ」

 

 俺の言葉に返事をしたのは、同期のトレーナー達だ。俺としては軽い気持ちで話を持っていったのだが、全員が全員、二つ返事で参加を了承したのである。

 

 同期は十人を少々超える程度だが、桐生院さんを除けば複数のウマ娘を育成している者ばかりだ。ふとした切っ掛けで企画した模擬レースだったが、なんと、参加するウマ娘は18人とフルゲートでのレースになる。

 

 ゲートの使用許可も取り、本番さながらのレースになりそうだ。これ以上ない練習になりそうだが、同期連中は目がマジだ。己が担当しているウマ娘と真剣に話し合っている者もいる。

 

「トレーナーさん、ライス、準備できたよ」

「わたしもばっちりだよー! 楽しみだねー!」

 

 ウララは本当にいつでも元気が良い。しかし、ライスは普段の気弱さがどこにいってしまったのか、真剣な表情かつ全身からプレッシャーにも似た何かを放っているようにすら感じられた。

 

「ウララは……うん、いつも通り楽しんでこい。ライスは……」

 

 芝のレースというのもあるが、ウララに言うべきことはない。相変わらずののほほんウララに見えるが、この子は俺の愛バだ。だからこそ、楽しみと言いながらも不利な芝のレースだろうと全力を尽くすのがわかる。

 だが、ライスが放つ雰囲気を感じ取った俺は膝を折り、ライスと目線の高さを合わせながら意識して微笑む。

 

「いいか、ライス。君の体はまだまだ本調子とは言えない。それなのにこんな企画を持ってくるなって怒られそうだけど、俺は君が模擬レースとはいえ他のウマ娘と競うところを生で見てないんだ。だから、今日は体に無理が出ないレベルで……そうだな、最大で7割から8割ぐらいの力で走ってほしい。頼めるか?」

「……でも、それだとライス、負けちゃうかもしれないよ?」

「負けてもいいさ。これはあくまで練習だ。それに、君が負けても怒る奴はいない。何か言われるとしても、それはGⅠウマ娘である君の指導が間に合ってない俺の怠慢を責める声だろうさ」

 

 菊花賞を制したウマ娘の育成を担当しておきながら、ジュニア級のウマ娘に負ける? それがあり得るとしたら、トレーナーの腕が悪いの一言に尽きるだろう。

 仮にそう言われたとしたら、俺は胸を張ってその通りだと答える。そして、ライスシャワーというウマ娘の本気はまだまだこんなものじゃない、これから更に強くなるんだと言い返すだろう。

 

「だからライス、君は自分の調子を確かめるぐらいの気軽さでレースに臨んで良いんだ。もちろん負けろなんてことは言わない。でも、ジュニア級のウマ娘達に胸を貸してやって、花を持たせてやる……それぐらいの気持ちでも良いんだよ」

「…………」

 

 ライスは俺の言葉に何も答えないが、どことなく不満そうにも見える。そのため俺は苦笑を浮かべると、ライスの頭を優しく撫でた。

 

「まあ、できるなら俺のウマ娘はこんなにすごいんだぞって自慢したい気持ちもあるけどな」

 

 GⅠウマ娘の実力を体験させるという意味ならば、ライスに全力で走ってもらった方が良いのかもしれない。さすがに一度全力を出しただけで故障するような酷い状態ではなく、俺としてもどうだ、ライスはすごいだろうと自慢したい気持ちがある。

 

「でも、それでライスが無理をするのは駄目で」

「トレーナーさん」

 

 俺の言葉を遮るようにライスが声を発する。それに何事かと思って目を見開くと、ライスは小さな手を拳の形に変えて胸の前に構えた。

 

「ライスね、今から一緒に走る子達のこと、知らないの。だから……()()()()()()()()()()()()()()()()()()が誰かだけ、教えてほしいな」

「それは……ハッピーミークだろうな。今度阪神ジュベナイルフィリーズに出る子で、同期が育成しているウマ娘どころか、先輩方が育成しているジュニア級のウマ娘と比べても強いと思う」

 

 ライスの質問に首を傾げながら答えると、ライスの視線がハッピーミークへと向けられた。そしてその目付きが僅かに鋭いものへと変わる。

 

「うん……わかった。トレーナーさん」

「お、おう……なんだ?」

 

 普段のおどおどとした雰囲気が鳴りを潜め、ライスは毅然とした声色で言う。

 

「――見ててね? ライスが……ううん、トレーナーさんのウマ娘が走るところを」

 

 ハッピーミークを見据えながら放たれた言葉に、俺はちょっと早まったかもしれん、と空を仰ぐのだった。


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