リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐   作:烏賊メンコ

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第23話:新人トレーナー、漆黒のステイヤーを見届ける

 パドックでのお披露目が終わり、あと少しで始まる有記念。ウララと一緒に観客席の最前列に陣取った俺は、中山レース場のコースを見渡して目を細める。

 

 今から行われる有記念は2500メートルだが、そのコースはやや変則的な形になる。

 

 中山レース場は右回りのコースになっているが、内回り、外回りと呼ばれる二つの異なる距離のコースが存在し、有記念では外回りのコースの途中からスタートし、レース中は内回りのコースを走るという形になっていた。

 

 内回りのコースは俯瞰するとよくあるレース場の形――角丸長方形というべき形で、外回りのコースは内回りのコースの()()()に連結するように円弧状のコースが引っ付いている感じだ。

 

 その外回りのコースの出口付近――第3コーナーから内回りの第3コーナーにかけてのほぼ直線になっている部分がスタート地点で、スタートした直後に内回りの第3、第4コーナーを駆けてホームストレッチを目指す。

 

 余談ではあるが、スタート直後に突入するのに第3コーナー、第4コーナーと呼ばれる理由は簡単だ。右回りのコースの場合、ホームストレッチに存在するゴールから最初に到達するコーナーから順番に第1コーナー、第2コーナー、第3コーナー、第4コーナーと呼ばれるからである。

 

 今回の場合を漢字の『田』をコースとしてたとえると、左下の角が第1コーナー、左上の角が第2コーナー、右上の角が第3コーナー、右下の角が第4コーナーだ。

 

 有記念では内回りを第3コーナー付近から1周してホームストレッチのゴールまで走ることになるが、第3コーナーを2回通っても呼び名は変わらない。2周目の第3コーナーと呼ばれるだけである。

 なお、ホームストレッチは観客席(スタンド)の正面、目の前にある直線のことで、向こう正面の直線はバックストレッチと呼ぶ。有記念のスタート地点はバックストレッチの更に遠くにあるため、ここからではライスの顔もよく見えない。

 

「うー……ライスちゃん、だいじょーぶかなー……」

 

 俺がコースを眺めていると、隣にいたウララが相変わらずそわそわとした様子で呟く。

 

 ウララがこれまで体験したレースと比べ、観客数は倍以上の数が入っており、GⅠレースの直前ということもあって熱気が徐々に高まってきている。

 

「なあに、ライスなら大丈夫さ。だから精一杯応援しような」

「うん! ライスちゃんにも聞こえるよう、がんばって応援するよー!」

 

 ウララの頭に手を置きながら言うと、ウララは元気を取り戻して大きく頷く。そんなウララの様子に微笑んだ俺だったが、すぐに表情を引き締めて遠くに見えるライスへ視線を向けた。

 

(そう、ライスなら大丈夫だ……問題があるとすれば、俺の見立てが合っているかどうかだが……)

 

 距離があるため、ゲートインを待つウマ娘達の様子を細かく観察することができない。それでも、俺は既に指示を出したのだ。賽は振られたのだ。あとはどのような目が出るかを待つしか、俺にできることはない。

 

 そうやって俺がレースの開始を待っていると、背後の観客からざわめくような声が響く。それに何事かと振り向いてみると、トレセン学園の制服を着込んだミホノブルボンがゆっくりと歩いてきているのが見えた。その隣にはミホノブルボンのトレーナーの姿もある。

 

「我々もここで応援してよろしいでしょうか?」

「もちろん」

 

 ミホノブルボンの言葉に俺は頷きを返す。それと同時にミホノブルボンのトレーナーに会釈をした。

 

 俺にとってトレセン学園の先輩トレーナーになる男性だが、黒い中折れ帽子をかぶってサングラスをかけ、上下白色のジャージを着ているがシャツは着てないため鍛え抜かれた腹筋が剥き出しだ。

 傍目にはヤがつく自営業な方に見えないこともないからか、ミホノブルボンという有名なウマ娘が現れたにも拘わらず話しかけようとする観客はいない。

 

「ライスシャワーの調子はどうだ?」

 

 そんな先輩トレーナーから話しかけられたため、俺は意識して笑みを浮かべる。

 

「最高ですよ。今ならシンボリルドルフが相手でも勝ってくれるでしょう」

「ふん……新米が生意気言いやがる」

 

 先輩トレーナーはそう言って口元を歪ませたが、それは俺の言葉に苛立ったのではない。僅かだが笑ってみせたのだ。

 

 俺はミホノブルボンに関して、先輩トレーナーに対して何か言おうとした。しかし、右足の調子が悪いミホノブルボンに寄り添うようにして立つその姿を見て口を閉ざす。

 トレーナーとウマ娘の関係は千差万別で、他人がとやかく言うことではない。これで先輩トレーナーがミホノブルボンに対して酷い扱いをしているのなら俺も文句の一つでも言っただろうが、ミホノブルボンを支えるようにして肩に添えられた手を見て、何も言う必要はないのだと悟った。

 

 それならば、俺は俺のウマ娘の雄姿を見守るだけである。ミホノブルボンと先輩トレーナーから視線を外すと、ウララと共にライスの方へ視線を向ける。

 

 そして、とうとう中山レース場にファンファーレの音色が響き渡った。

 

『雲一つない晴れ渡った冬空のもとで始まります、本日の第9レース有記念。芝2500メートル、バ場状態は良の発表です』

『いよいよこの時がきましたねぇ……ファン投票で選出されたウマ娘16人による、年末の祭典の時間です。ウマ娘ファンにとっては、このレースが楽しみで仕方ないという方も多かったのではないでしょうか?』

『そうでしょうね。それを裏付けるように、本日の来場者数は18万人を超えたとのことです。有記念への期待の表れでしょう』

 

 実況の男性と解説の男性の声が聞こえ、その会話を肯定するように観客から歓声が上がる。全ての観客が声を上げたわけではないが、18万を超える人々の声はそれだけでレース場全体を揺らしかねないほどの大きさだった。

 

『では各ウマ娘の紹介をしていきましょう。まずは1枠1番、4番人気のナイスネイチャです』

『実に良い仕上がりだと思いますよ。気合いも乗っていますし、上位争いは必至でしょう』

 

 数が16人になるため、実況と解説の言葉はやや短めだ。それでも一人ひとり名前を呼び、コメントを添える度に各々のファンから声援が上がっていく。

 

『続きまして2枠3番、メジロパーマーです。15番人気ながら彼女の逃げ足に期待するファンも多いことでしょう』

『大逃げして逃げ切るか、途中で沈むかの二択というわかりやすいウマ娘ですからね。そのわかりやすさが受けているのでしょう』

 

 ナイスネイチャと比べるとやや小さい声援だったが、観客の中にもしっかりとファンがいるのだろう。その声援が聞こえたメジロパーマーは観客席に向かって腕を突き上げてからゲートに入る。

 

『続きまして本日の大本命。ファン投票でも1位を獲得したトウカイテイオー、3枠5番での出走になります』

『先日のジャパンカップで1着を獲りましたからね。今日のレースでもファンの期待は高いでしょう。ただ、パドックで元気がないように見えたのが気になります』

 

 トウカイテイオーの紹介になると、観客達から一際大きな歓声が上がる。その歓声の大きさは俺が下した決断を揺るがしそうなほどだったが、俺は黙って聞き流した。

 

 観客の声援を受けたトウカイテイオーに動きは――ない。

 

 そうやって俺は実況と解説の声を聞きながら、遠目にも構わずウマ娘を観察する。

 

 そしてとうとう、ライスの番が来た。

 

『最後に8枠16番、ライスシャワー。2番人気です』

『トウカイテイオーには劣るものの、高い人気を得ましたねぇ。それにパドックでの様子を確認した限り、とても調子が良いように見えました。期待できますよ』

 

 解説の人、わかってるじゃん。なんて思いながら俺は頷く。しかし、声援に混じっていくつかのブーイングが聞こえた。振り返って顔を覚えてやろうか。

 

 だが、ライスに動揺は見られない。集中した様子で観客席に視線を向けることすらなく、ゲートに入っていく。

 

 俺は腕組みをして、大きく深呼吸をする。ドクン、ドクンと心臓が脈打つのが聞こえ、その音と強さは少しずつ増していく。

 

 これから始まるGⅠレースに、有記念に、俺のウマ娘が出るのだ。ウララのように一から育てたわけではないが、さすがに緊張するし興奮もする。

 

 18万人を超える観客が固唾を飲んで見守り、さざ波のようにざわめきが消えていく。ライスにブーイングを飛ばしていた者でさえ、これから始まる大レースへの期待で自然と口を閉ざしていた。

 

 そして、中山レース場に静寂が満ちる。

 

『各ウマ娘、ゲートイン完了……スタートしました』

 

 バタン、という音と共に有記念がスタートする。そしてスタート直後に俺は目を見開いた。

 

『おっと、一人スタートでもたついた。大きく出遅れたのは1番人気のトウカイテイオー。他のウマ娘は揃って綺麗なスタートを切りました』

『アクシデントが発生した……というわけではなさそうです。どうやらトウカイテイオーは集中を欠いていたようですね』

 

 1番人気のトウカイテイオーが、スタートで大きく出遅れたのだ。解説の男性が言う通り、ゲートが開くというのに集中力が欠けていたのだろう。

 

(トウカイテイオーをマークさせてたら、初っ端から詰んでたな……)

 

 マークするべき相手が大きく出遅れたからといって、その場で待つわけにもいかない。俺はトウカイテイオーをマークさせていた場合に訪れたであろう未来を想像し、冷や汗を流す。

 

『さあ、スタートした各ウマ娘。スタート直後から右回りに緩いカーブが延びていますが、真っ先に抜け出してくるのはどのウマ娘か』

『スタート直後のコーナリングということもあって、速度はそれほど出ていませんからね。真っ先に出てくるのは……メジロパーマーですね』

『ハナを切ったのは3番メジロパーマーだ。続いて8番ダイタクヘリオス、7番ドルジェが追走する。1バ身離れて11番イクノディクタス、4番カルテットアコード、1番ナイスネイチャ、14番ゴーイングノーブル、16番ライスシャワーが先行する』

 

 やはり、大外枠からのスタートというのが響いたのだろう。綺麗なスタートを切ったライスだったが、最初にマークするナイスネイチャとの間には距離と他のウマ娘の姿がある。

 

『2バ身ほど離れて2番アレイキャット、10番フラメンコステップ、13番ショートスリーパー、9番グランシャマール、15番スイートキャビンが集団を形成。そこから1バ身離れて6番サーキットブレーカ、12番ブリーズカイト。更に3バ身離れてシンガリをトウカイテイオーが走っている』

『レースはまだ始まったばかりですからね。ここからのレース展開がどうなるか見物です』

 

 ライスシャワーは8番手、縦に伸びるウマ娘達の中でほぼ真ん中に位置している。それでも俺は焦らず、第4コーナーを抜けてホームストレッチへ突入するライスを見守る。

 

『さあ、最初に第4コーナーを抜けてきたのは3番メジロパーマー。そのすぐ後ろに8番ダイタクヘリオスが続いている。7番ドルジェはやや下がったか。先頭を駆ける二人は早くも後続に5バ身の差をつけているぞ。ハナを切るメジロパーマーに率いられるようにしてウマ娘達が直線へと飛び込んでくる』

『ここから中山の上り坂がありますからね。坂を利用して前に出るのか、足を溜めるのか、それぞれのウマ娘の判断に注目しましょう』

 

 ウララも走った中山レース場だが、ホームストレッチの直線には高低差2メートルを超える坂がある。

 

 第1コーナーを抜ける付近まで続いた坂はそこから400メートル近い下り坂になるため、足に負担がかかって体力の消耗も激しくなってしまう。

 

『すごい歓声です。これぞ中山年末の風物詩。ホームストレッチを駆けるウマ娘達への声援がレース場を揺らしています』

『毎年のことですがすごい声援ですよね。この声がきちんと届いているか不安なぐらいですよ』

『おっと、そうしている間に坂を登りながら上がってきたのが1番ナイスネイチャと16番ライスシャワー。先頭は変わらずメジロパーマー、ダイタクヘリオスが争っている』

『二人ともすごい足ですよ。ナイスネイチャはまるで()()()()()()()()()()加速です』

「……よしっ」

 

 俺はライスの動きを見て声を漏らす。第1コーナーに突入する直前でナイスネイチャをマークできたのは上出来と言える。全体から見ても既に先頭から5番手の位置につけているため、ここから先はどのタイミングで仕掛けるかだ。

 

 予想が的中して喜ぶべきか、嘆くべきか。メジロパーマーはダイタクヘリオスと共にかなりのペースで先頭を駆けている。後々メジロパーマーを差すには可能な限り距離を詰めておきたいところだ。

 

(ライスのあの動き……ナイスネイチャを追い立てて焦らせてるな……)

 

 そして、ライスの動きを見た俺は確信する。ライスは足を溜めようとするナイスネイチャの背後にぴったりと付き、自身の存在を誇示することでペースを速めさせているようだ。

 

 先日の模擬レースでハッピーミーク相手に見せた、マークした相手を焦らせて調子を乱す動きである。今回のレースは2500メートルのためナイスネイチャもなるべく速度を出し過ぎないようにしているようだが、ライスの動きに動揺しているのだろう。

 

 今しがた観客席前を駆け抜けたナイスネイチャの顔には、微かに困惑の表情が浮かんでいた。その気持ちはある意味当然のものだろう。普段は気弱なライスが、まるで肉食獣のように今にも食い殺さんばかりの気迫を放ちながら追走してくるのだ。

 

『1000メートルを通過し、タイムは58秒6とかなり早いペース。先頭は変わらずメジロパーマーだ。2番手のダイタクヘリオスとの差は約2バ身。そこから3バ身離れてドルジェ、更に3バ身離れてナイスネイチャが内を走り、それを追うようにしてライスシャワーが外から迫る』

『縦に長い展開になってきましたね。シンガリは代わって12番ブリーズカイトです。スタートで大きく出遅れたトウカイテイオーは後方から5番手の位置。徐々に上がってきていますが先頭との距離は15バ身近く離れています』

『第2コーナーを抜けて向こう正面へ。メジロパーマーの足は衰えません。どんどん後続との距離を離していく。ダイタクヘリオスはどこまでくらいつくことができるのか。距離を詰めては引き離されている』

『中団からはイクノディクタスとフラメンコステップが上がってきていますね……しかしすごい足ですメジロパーマー。まさかこのまま逃げ切ろうというのでしょうか』

 

 実況と解説の声を聞きながら、俺はまばたきする暇さえ惜しんでライスを見つめる。向こう正面の直線を抜ければ2周目の第3コーナーだ。

 

 俺が指示を出した、2周目の第3コーナーだ。

 

 ナイスネイチャをマークして追い立てながら、遠く離れたメジロパーマーを確認することができるのか。

 

「ライスッ! いけええええええええぇぇっ!」

 

 距離があり、すさまじい歓声の中では俺がいくら叫んでもライスには聞こえないだろう。

 

 今更ながら無茶な作戦を伝えてしまったと後悔の念が過ぎる。ライスならば可能だと判断したが、言うのは簡単でも実行するのは非常に困難だ。

 

『メジロパーマーが2周目の第3コーナーへと差し掛かった。ダイタクヘリオスも追うが徐々に距離が広がっている。残り600の標識を今通過して――おっと動いた! 動いたのは16番ライスシャワーだ!』

 

 ――だが、ライスは応えてくれた。  

 

『ナイスネイチャをかわして加速するライスシャワー! ドルジェを今かわし、3番手に躍り出た! ダイタクヘリオスとの距離は4バ身! メジロパーマーとの距離はいくつだ!? まだ8バ身はあるか!?』

『仕掛けるにはまだ距離があると思いますが、あの位置からもつのでしょうか? おや、ライスシャワーにつられたのかナイスネイチャも加速していますよ』

 

 加速したライスは第3コーナーへ突入し、ほとんど速度を落とすことなく第4コーナーへと突っ込んでいく。そのすさまじい速度を見た俺は、神に祈るようにして拳を握り締めた。

 

(あの位置からのロングスパート……タイミングはばっちりだったが、ライスの体はもつか? 体力も、もってくれる……?)

 

 コーナーを駆け抜けるライスの動きを見た俺は、不意に違和感を覚えた。

 

 それは怪我の予兆――などではない。

 

 俺が立てた作戦とも呼べない作戦を実行し、ナイスネイチャを追い立てるようにして走り、そして今、ロングスパートをかけて速度を上げていくライスの姿。

 

 GⅠの大舞台で精神的にも肉体的にも疲労しているであろうライスの顔には、すさまじいほどの気迫が宿っている。だが、俺が想定していたよりも、疲労が薄いような――?

 

(ライスがこれまで走ったレースは最長で菊花賞の3000メートル……この2ヶ月間で可能な限り体の疲労を抜くようにしたけど、まさか……ライスは()()()()()()()()()()()()ウマ娘なのか?)

 

 たとえばの話になるが、ライスの適性距離が菊花賞の3000メートルを超えて4000メートルあたりだとしよう。4000メートル走れるから有記念の2500メートルは余裕で走れる、ということはないはずだ。

 

 それぞれの距離でレース展開が変わるし、距離が短ければ速く駆ける能力も必要になる。

 

 だが、ライスは自分一人で体の筋力バランスが危ういレベルになるまでトレーニングできるウマ娘だ。一人で鍛えに鍛え、トレーナーの指導もなく菊花賞を制することができるほどに()()()()のだ。

 

 そこにはもちろん、ライスの意志の強さも要因を占めているだろう。いくらウマ娘が少しでも速く走りたい、レースで勝ちたいと思う本能を持っていたとしても、誰に強制されるでもなく一人で黙々とトレーニングに励み、体を鍛え上げるのは容易なことではない。

 その容易ではないことを成し遂げていたライスの体力が落ちないよう注意しつつ、体の歪みを少しずつでも治そうとしていたのが俺だ。

 

 まだ、ライスの体は治ったわけではない。筋肉のバランスが整いつつあるが、完治したとは言えない。

 

 だがそれでも、ナイスネイチャを翻弄し、今もなお先頭を駆けるメジロパーマーを()()()()()体力は十分に残っていた。

 

『さあ最後の直線だ! 先頭は変わらずメジロパーマー! しかし後方にライスシャワーが! 漆黒の刺客(ステイヤー)が迫っている! 残り400を切ったがこのまま逃げ切れるのか!? 今、ライスシャワーがダイタクヘリオスをかわした! 後続もどんどん加速している!』

『1番人気のトウカイテイオーも順位を上げ始めていますが、これは……』

 

 舞台は観客席の目の前、ホームストレッチへ。最終コーナーを抜けて直線へ入ったライスが、その表情を鬼気迫るものへ変化させる。

 

 ライスがより強く地面を蹴りつけ、芝が後方へと千切れ飛ぶ。靴裏に打ち込まれた蹄鉄が土を抉り、ライスの体をどんどん加速させていく。

 

 既にライスはダイタクヘリオスを抜いて2番手だ。その先を駆けるのは、スタートから今まで逃げ続けているメジロパーマーである。

 

『ゴールまで残り200! ここからは上り坂だ! メジロパーマーが逃げ切るのか!? 最後まで足がもつのかライスシャワー!? あと3バ身! それとも後続がくるのか!? ナイスネイチャも上がってきているぞ現在4番手の位置ぃっ! ダイタクヘリオスが下がっているぞナイスネイチャ!』

『すごいレース展開になりました! 私と実況の声が聞こえているかもわからないほど大きな歓声がっ! 中山レース場が! 地面が! 揺れています! 観客も総立ちで声援を送っています!』

 

 実況と解説の声が掻き消されかねないほどの、観客の声援。18万人を超える人間が目の前のレースに熱狂し、怒号のような声を上げている。

 

「いけええええええええええええええぇぇぇっ! いけえええええライスウウウウウウゥゥッ!! あと少し! あと少しだああああああああぁぁっ! 抜けええええええぇっ!」

「がんばってライスちゃん! がんばってええええええぇぇっ!」

 

 周りの観客に負けじと俺が叫び、ウララも叫ぶ。周りへの迷惑など忘れたように目の前の柵を何度も叩くが歓声にかき消されてまったく聞こえない。

 

 それほどまでに、ライスの追い上げはすさまじいものだった。

 

『中山の坂を先に上り切ったのはメジロパーマー! メジロパーマーだ! まだ足が残っているのか!? しかしそのすぐ後ろ! ライスシャワーが迫って! あと2! いや1バ身! 残り100もないぞかわせるのか逃げ切るのか!?』

 

 見立てが間違っていなかったことを喜べば良いのか、嘆けば良いのか。スタートから常に先頭を切って走り続けたメジロパーマーは、今、この時になってもまだ足が残っていた。

 

 迫るライスから逃げ切ろうと懸命に駆け、自分の方が先にゴールするんだと言わんばかりに死力を振り絞っている。

 

 ライスもそんなメジロパーマーをかわそうと、すさまじい気迫をもって地面を蹴りつける。届くか、届かないのか。俺は普段出せないような大声を上げたことで喉の奥に痛みを感じたが、構うものかと叫び続ける。

 

 そして、ライスの走りを目の当たりにして、ミホノブルボンも声を上げていた。

 

「勝って……勝ってくださいライスさん!」

 

 ――はたして、その声が聞こえたのか。

 

『残り50もなっかっ、かわした! かわしたぞライスシャワー! メジロパーマーをかわし――』

 

 ライスの足が、更に、前へと伸びていた。

 

『今! ゴール、ゴールインだ! かわしてゴールだライスシャワアアアァッ! 1着は1バ身差でライスシャワー! 2着にメジロパーマー!』

 

 スタート直前のような、一瞬にも満たない静寂。しかしその静寂は、1着を駆け抜けたライスシャワーの姿によって怒涛のような歓声で瞬時に消え失せる。

 

「よおおおっしゃあああああああぁぁぁっ! ライスゥ! よくやったああああああああああぁぁっ!」

「すごいすごーい! ライスちゃんすごーい!」

 

 握った拳を何度も突き上げる俺と、その場でぴょんぴょん跳ねるウララ。しかし俺は声を出し過ぎてむせると、笑いながら言う。

 

「あ゛あ゛……やべ、のどがざげだがもじれん……」

「ええっ!? トレーナーのど裂けちゃったの!? 死んじゃうの!? 死んじゃやだよー!」

 

 俺の言葉に慌ててウララが飛び跳ねるが、痛いだけで本当に裂けてはいないだろう。それだけ声を出してしまった、出すだけの熱気があるレースだったのだ。

 

 ゴールを通過したライスに視線を向けると、何やらメジロパーマーに苦笑しながら背中を叩かれているのが見えた。距離があるため何を話しているかはわからないが、雰囲気と口の動き的に『負けたよ』とでも言っているのだろう。

 

 そうこうしている間に後続のウマ娘達もゴールへ到達し、最後の一人がゴールを通過すると大した時間もかからずに着順掲示板が点灯する。

 

『着順が確定しました。1着は16番ライスシャワー、勝ち時計は2分32秒4。2着は1バ身差で3番メジロパーマー、3着4バ身差で1番ナイスネイチャ、4着2バ身差で12番ブリーズカイト、5着に1バ身差で11番イクノディクタス』

 

 それはライスの勝利を確定するもので、俺が反射的にライスを見るとライスもまた、俺の方を見ていた。いや、あるいは俺の近くにいるミホノブルボンを見ているのか。

 

 俺はライスが見ているかわからなかったが、右手を持ち上げる。そしてライスに見えるよう人差し指を一本立てると、ゆっくり中指を立ててピースサインをした。

 

 初めて会ったあの日に語った通り、GⅠレースにおける2つ目の冠だ。クラシック三冠とはいかないが、一度勝利するだけでもウマ娘史に残るであろう偉業をライスは二度達成した。

 

 ライスはそんな俺の仕草に驚いたのか、目を見開く。そして未だに興奮冷めやらぬ観客席に向き直ったかと思うと、一度だけ俯き――晴れ晴れとした顔になって観客達を見回した。

 

 そして胸を張り、左手を腰に当て、右手を空へと突き上げる。掲げた右手は人差し指だけ立てられていたが、まるで見せつけるようにして中指も立て、ピースサインを形作った。

 

 次の瞬間、それを見た観客達から爆発するような歓声が湧き上がる。

 

『1着を獲ったライスシャワー! 観客席に向かってピースサインをしています! 有記念を制して誇らしげに! 胸を張ってピースサインをしています!』

『菊花賞の時には見せなかったパフォーマンスですねぇ……まるで在りし日のシンボリルドルフのようなパフォーマンスです。いや、懐かしいですねぇ』

『ということは、まさか、これからシンボリルドルフのようにGⅠを獲っていくという意思表示なのか!? これは来年のシニア戦線が盛り上がりそうですね』

 

 ライスの姿にうんうん、と頷いていた俺だったが実況と解説の声にぎょっとする。いや、待って、そんな意図ないしシンボリルドルフと似たようなパフォーマンスとか知らない。でもライスにGⅠを勝ってほしいのは本当だから否定できない!

 

 俺は内心で焦りの声を上げたが、誇らしげに観客を見返すライスの姿を見て、まあ、それでもいいか、と思うのだった。

 

 

 

 

 

 有記念でライスが1着を獲った。それはつまり、ウイニングライブが行われるということである。

 

 トレーナーとしてライブの最前列を確保した俺だったが、内心では割とハラハラしていた。先ほどのレースは観客を熱狂させるものだったが、ライスにとってウイニングライブはトラウマである。

 

 GⅠで1着を獲ったというのにファンからブーイングライブをくらうなど、ウマ娘としてはこれ以上ないほどの苦痛だろう。そういう意味では、菊花賞で初めてGⅠレース3着以内に入ったというのに、ブーイングライブに巻き込まれたマチカネタンホイザもかなり動揺したことだろう。

 

 今回は大丈夫――だと、思う。しかし、また似たようなことがあればライスはどう思うか。

 

「あー、あー……よし、喉の調子はオッケー。ウララ、サイリウムスティックは持ったな?」

「ばっちりだよー! えいっ!」

「ばっ!? 折るの早いよ!?」

 

 たとえライスに声援を送る者がいなくても、俺とウララは全力で声援を送る。そう思ってライスを表す色――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のサイリウムスティックを用意した俺だったが、ウララはすぐに使ってみたかったのか、いきなり折って発光させてしまった。ええい、俺も折るか!

 

 ちょっとフライング気味だが、青色に発光するサイリウムスティックを握ってライスたちの登場を待つ。そしてしばらくするとライブの準備が整ったのか、勝負服姿のライスとメジロパーマー、ナイスネイチャが飛び出してくる。

 

 ライスの表情は、明るい。先ほどあれだけのパフォーマンスをして吹っ切れたのか、あるいは――。

 

「おーっし! いいぞライスー!」

「きゃー! ライスせんぱーい!」

「すごかったですよ先輩!」

 

 レース場で観戦していたのか、ゴールドシップの声が聞こえた気がした。そしてそれに続くように聞こえたのは、以前、模擬レースでライスと戦った子達だろうか?

 

「よくやったぞライスちゃん!」

「また店に来いよー!」

 

 他にも、商店街の店主たちと思しき声もする。ウララではなくライスのレースだが、見に来てくれたのだろう。

 

 観客席のあちらこちらに、青色の光が灯る。それはライスを称えるための光で、その数は徐々に、少しずつ増えていく。

 

 俺も大きく息を吸い込み、ライスの名前を呼ぼうとした。しかし、ライブ会場に広がっていく青い光を見たライスの瞳に大粒の涙が浮かんでいることに気付き、吸っていた息を大きく吐き出す。

 

 俺とウララが最前列にいることを、ライスは気付いている。ならば、ここは叫ぶよりも、()()()()()()()()()()()()()をしよう。

 

 俺もウララも、青色に光るサイリウムスティックを頭上に掲げる。そして軽く振ると、それに釣られたのかサイリウムスティックを頭上に掲げる人が増えていく。

 

 俺はメジロパーマーとナイスネイチャの分のサイリウムスティックも圧し折ろうとする――が、すまんが、今だけは、どうか許してほしい。

 

 ライスの1着を祝うように広がる一面の青い光を、あと少しだけで良いからライスに見せてやりたいのだ。

 

 

 

 

 

 そうして、青色に染まったライスのウイニングライブは終わりを告げた。

 

 そして、年末の有記念が終わり、新たな年が来る。

 

 ――ウララにとって、俺にとっての、試練の年が。


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