リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐ 作:烏賊メンコ
ライスシャワーというウマ娘にとって、『憧れ』と呼ぶべきウマ娘が一人いる。
それは同世代のミホノブルボンで、何事にもクールな印象を覚える強いウマ娘だ。
メイクデビューではレコード勝ちという鮮烈なデビューを果たし、続くオープン戦でも1着。ジュニア級で出られるGⅠレース、朝日杯フューチュリティステークスでも1着。
クラシック級になって初めて出走したGⅡのスプリングステークスでも1着。クラシック三冠の出発点である皐月賞で1着、続く日本ダービーでも1着と無敗でのクラシック三冠に王手をかけた。
菊花賞前の試運転だったのか、GⅡの京都新聞杯に出てはレコード勝ちという圧倒的な強さ。
ライスシャワーがミホノブルボンというウマ娘にいつ頃から憧れたのか、今となっては定かではない。だが、その胸の中で大きな比重を占めていたのはたしかだ。
ライスシャワーはメイクデビューでは1着をとったものの、続くレースで11着。その次に出た芙蓉ステークスでは1着を獲ったが、レース後に右足が折れていることに気付き、三ヶ月もの療養に入ることになった。
そこからも、順位で見ればパッとしない。ミホノブルボンと同じようにクラシック戦線に名乗りを上げたものの、皐月賞では8着に沈む。日本ダービーでは2着につけたものの、そこからの2戦で両方2着と勝利からは遠ざかっていた。
その結果はトレーナーの指導を仰がず、一人でトレーニングを続けていたからだろうか。あるいは、ライスシャワーというウマ娘の限界なのか。
1着を獲って周りから祝福されるミホノブルボンの姿を見て、ライスシャワーが抱いたのは諦め――などという生温い感情ではなかった。
1着になりたい、勝ちたい、憧れたミホノブルボンに勝ちたい。その一心で体が悲鳴を上げるようなトレーニングを積み、ミホノブルボンを研究し、そして、菊花賞の舞台で勝った。
ミホノブルボンにとっては無敗のクラシック三冠がかかった大一番。しかし、ライスシャワーにとっては
勝てる、勝ちたい、勝つんだ。
そんな思いを胸に抱いて先頭で駆け抜けた菊花賞のゴールの先は、予想もしなかった地獄の入口だった。
初めて得たGⅠウマ娘という称号。その地位に相応しい祝福など、ライスシャワーというその名前に反して与えられなかった。
ミホノブルボンのファンからかけられる、様々な声。
――ミホノブルボンの三冠が見たかった。
――なんで邪魔をするんだ。
――余計なことをしやがって。
それは抗議するように、時に罵声を浴びせるように、ライスシャワーに降り注いだ。ライスシャワーという祝福を与える名前のウマ娘に、不幸を与える声がいくつもいくつも、降り注いだのだ。
ウイニングライブに立ったライスシャワーを拒絶するような、二色の光。それは罵声よりも雄弁にライスシャワーを否定しているようで――ひどく、心が軋んだ。
ミホノブルボンは何を考えているのか、何も言わなかった。共にライブに立ったマチカネタンホイザは、とても居心地が悪そうだった。
それから先のことは、ライスシャワーも覚えていない。ウイニングライブを無事に乗り切ったのか、歌うことも踊ることもできなかったのか、逃げたのか。
覚えているのは、寮の自室に閉じこもって泣いていたことだけである。同室のゼンノロブロイが何度も声をかけたが、それに答える余裕もなかった。
そうして泣いて何日が過ぎたのか。ライスシャワーは他の誰にも顔を合わせないよう日が暮れてからトレセン学園に顔を出し、そして、レースに出走するために名前を貸してくれていたトレーナーが休職したことを知る。
――ああ、また自分が不幸にしてしまった。
ライスシャワーは絶望した。こんなことならば、菊花賞で1着を獲らなければ良かった。ミホノブルボンに勝とうと思わなければ良かった。
数日かけて枯れたはずの涙が溢れて、泣いて、それでも涙が溢れて。人気のない場所で泣き続けて。どうしようもない衝動に駆られたライスシャワーは走り出し――そして、出会ったのだ。
「ごっふぅっ!?」
出会ったというよりも、出会い頭に衝突した。見知らぬ男性トレーナーに正面衝突し、相手が受け止めてくれたもののそのまま地面に押し倒す形になってしまった。
「いっつつ……こら! 気付くのが遅れた俺も悪かったけど、こんなところで怪我したらどうするつもりだ!?」
そのトレーナーは怒る。それは当然だろう。走るウマ娘が突っ込んでくれば、怪我では済まないのだ。妙に慣れた様子で受け止める体勢を取っていたが、受け止めきれないほどの勢いでぶつかった以上、ライスシャワーとしては涙を流しながら謝ることしかできない。
「あぅ……ご、ごめ……なさっ……やっぱり、ライスはだめな子なんだ……みんなに迷惑をかけるんだ……ひ、ぐ……うっ……」
そうして泣くライスシャワーに困惑したのか、トレーナーはそのまま、保健室までライスシャワーを運ぶ。
「それで君は……あーっと、すまん。君の名前は?」
ライスシャワーに怪我がないことを確認したトレーナーはほっと息を吐くと、名前を尋ねた。それによってライスシャワーも、悲しみに暮れた脳裏で相手のことを全く知らないことに気付く。
保健室の灯りの下で確認したが、相手はやはり見たことがないトレーナーだった。いや、トレセン学園にいる以上どこかで見たことはあるのかもしれないが、少なくともライスシャワーの記憶には残っていなかった。
少なくとも有名なトレーナーではないはずだ、とライスシャワーは思った。ライスシャワーにとって予想外だったのは、相手も自分を知らなかったことだろう。有名ウマ娘だと自慢するつもりはないが、菊花賞以降嫌でも名前が売れているとライスシャワーは思っていたのだ。
本当に、嬉しくないことだが。
そのトレーナーはライスシャワーの名前を確認すると、スマートフォンで検索をかける。その仕草から本当に知らなかったのか、という思いと、スマートフォンで何を検索するのかという不安に思う気持ちがあった。
トレーナーが見たのは、菊花賞の映像だった。それに気付いたライスシャワーは体が強張るのを感じる。脳が痺れるように震え、視界が真っ白に染まり、走ってもいないのに呼吸と脈拍が乱れそうになった。
ライスシャワーという名前を知らずとも、無敗でクラシック三冠に王手をかけていたミホノブルボンは知っているに違いない。そして、そんなミホノブルボンの三冠を阻んだことで、何と言われるか。自分がミホノブルボンの偉業を阻む姿を確認されて、最初に出てくる言葉はなんだろうか。
ライスシャワーはこの場から逃げ出したくなった。しかし、自分からぶつかった手前逃げ出すのも気が咎めた。
そしてライスシャワーにとっては永遠にも近い時間が流れ、トレーナーが口にした言葉は感嘆混じりのものだった。
「――こりゃすげえ」
「えっ?」
聞き間違いか、とライスシャワーは思った。
「大したもんだ……いや、これは本当にすげえ。無敗のクラシック三冠候補相手にこの走りはとんでもねえな……なによりこの気迫が良い。くぅ……良い気迫だなぁ」
だが、聞き間違いではなかった。心の底からすごいと、感心したといわんばかりの言葉。それは、引き裂かれたように痛むライスシャワーの胸に、染み込むようにして響き。
もしも――もしもの話ではあるが。
この日、この夜にトレーナーと出会っていなければ。ライスシャワーというウマ娘は悲嘆に暮れたまま長い月日を過ごすことになっただろう。
これまで通りトレーニングを行いながらも、まるで抜け殻のように毎日を過ごしていたに違いない。自分が悪いと、周りを不幸にするのだと思いながら、その心にできた傷を膿ませたままで過ごしていたのだ。
しかし、そうはならなかった。
「菊花賞1着おめでとう、ライスシャワー。君はすごいウマ娘なんだな」
「っ……う、うぅ……あ、あああああああああああああぁぁっ!」
その言葉で、ライスシャワーは限界を迎える。何度流しても枯れることのなかった涙が再び溢れ出す。しかし、この時ばかりは悲しみで涙が出てきたのではない。
ライスシャワーが求めた観客からの祝福の言葉ではなく、たった一人の心からの祝福の声が、本当に嬉しかったからだ。
そこから先のことは、その時のライスシャワーにとって夢のような時間だった。
そのトレーナーは、ライスシャワーを褒めて、慰めた。
だから、寮まで送り届けてもらったあと、ライスシャワーも勇気を振り絞ったのだ。
「あ、あの、夜遅くにごめんなさい、駿川さん……ライスシャワーですが……」
あのトレーナーと一緒なら、前に進めるのではないか――そう、思ったのだ。
昨日出会ったトレーナーに対し、即座に逆スカウトしたライスシャワー。彼女にとってトレーナーはレースに出走するために必要な存在ではあるが、トレーニング等に関しては特に必要とは思えなかった存在である。
これはトレーナーのことを下に見ているというわけではない。ライスシャワーとしては自分のことでトレーナーの手を煩わせるのが申し訳なかったのだ。
それでも新たなトレーナーを自ら求めたのは、大きな期待があったのだろう。ライスシャワーはまずは自分のウマ娘に会わせてからだと告げるトレーナーに納得の意を示し――そして、出会った。
「ライスシャワー……それじゃあライスちゃんだね! わたし、ハルウララ! ウララって呼んでね!」
春の陽だまりのような温かい笑顔と声。それはライスシャワーの心を溶かし、気が付いた時にはライスちゃん、ウララちゃんと呼び合う関係になっていた。
年齢が上だとか、ウマ娘としての実績が上だとかは、まったく関係ない。立場や年齢関係なく友人になったハルウララだったが、その性根は真っすぐなものだった。
「えー!? そんなのひどいよー! どうにかしてよトレーナー! ライスちゃんがかわいそうだよ!」
ハルウララというウマ娘は、他人のために本気で憤ることができるウマ娘だった。
「だってトレーナーはすっごいもん! だから大丈夫!」
それと同時に、ちょっとした言葉や仕草から、トレーナーとハルウララの間に強い信頼が結ばれているのがわかった。同時に、羨ましいなぁ、ともライスシャワーは思う。トレーナーとハルウララの関係は、自分にはないものだからだ。
だが、それを眩しく思うことはあっても羨むことはない。これまで付き合ってきた月日と密度が違うのだから。
結局はライスシャワーの育成を引き受けたトレーナーだったが、彼から提示されたのはライスシャワーとしても予想外のトレーニングメニューだった。
芙蓉ステークスで右足を折って以来、ライスシャワー本人も気付かなかった歪み。それが蓄積されていることに気付いたトレーナーは、体力をよりつけることよりも、より速く駆けられることよりも、ライスシャワーというウマ娘の回復を願った。
ライスシャワー自身長いトレーニングで気付けなくなっていた、歪んだ筋肉のバランス。言われてみればちょっと走りにくいな、というのがライスシャワーの認識だったが、トレーナーはそれに怒りを抱いているようだった。
そのためトレーナーに課されたのは、これまでの自主トレーニングで溜まった疲労を抜きつつ、体力や筋力を維持する方向でのトレーニングだった。同時に、怪我が少しでも減るようにとトレーニング前後で準備運動と整理運動を徹底させられた。
それらのトレーニングは、正直なところをいえばライスシャワーにとっては物足りないものだった。しかし、この時点でライスシャワーはトレーナーを信用していた。疲労を抜いて歪んだバランスを整えなければ遠からず限界が来ると説かれ、それに納得していたのも大きいだろう。
もっとも、トレーニングに対して懐疑的な気持ちがなかったかと聞かれればノーとは言えない。ライスシャワーとしては精神は肉体を凌駕するという考えがあったからだ。
それでもトレーナーの言うことを信じたのは、トレーナーが一心にライスシャワーの体を心配していたからだろう。同時に、少しでもライスシャワーの助けになるようにと毎日のようにトレーニング後も残業し、夜遅くまで、下手すると日付が変わっても情報を集めていたからだ。
ほんの少しの懐疑心と、トレーナーを信じたいという気持ち。ライスシャワーの心からトレーナーを疑う気持ちが完全に消えたのは、少しずつ、本当に少しずつだが、自分の体が軽く感じるようになったからだ。それはまだ気のせいかもしれない。しかし、良くなっているのではないかと思える。
そんなある日のこと、休日にも拘わらずトレーニング用のジャージではなく私服で顔を出せと言われたライスシャワーは、日頃の言動を注意された上で、トレーナーにこう言われた。
「そんな悪い子にはおしおきが必要だと俺は思うんだが……どう思う?」
「えっ……お、おしおき?」
やっぱり自分は悪い子だったんだ、でもおしおきって何をされるんだろう? という疑問と若干の期待。まだ短い付き合いだが、目の前のトレーナーがおしおきと言って虐待などをするとは微塵も考えていなかった。
その後も多少の問答を交えたあと、トレーナーは宣言する。
「罰として、今日は練習は一切禁止! ライスはウララと一緒に遊んでくること! なお、途中で商店街に寄って、この紙に書いてある食材を買って帰ること! 帰ってきたら俺が晩飯として人参ハンバーグを作るから、それを完食すればおしおきは終わりとするっ!」
それは本当に罰なんだろうか、と思うライスシャワーだった。
そうしてハルウララと一緒に過ごした休日は、とても心安らぐものだった。一緒にはしゃいで、一緒に人参クレープを食べて、一緒に商店街に行って。
ライスシャワーにとって驚きだったのは、ハルウララが商店街でとてつもない人気者だということだろう。
ハルウララのウマ柄は知っているし、普段からハルウララと接して心が安らぐライスシャワーだったが、ハルウララが商店街に到着するとあちらこちらの店から店主が顔を出して声をかけ、行き交う人々も笑顔で話しかけてくるのだ。
「お、ウララちゃん! 今日も元気そうだねぇ」
「やおやのおじちゃんだー! こんにちわ!」
「ウララちゃん、あとでうちの店にも寄っていってよ。サービスするからね?」
「おにくやのおばちゃんもこんにちわー! トレーナーがね、にんじんハンバーグ作ってくれるから、あとでお肉買いに行くね!」
誰も彼もがハルウララに笑顔で話しかける。それはライスシャワーにとって眩しく、羨ましく見える光景だった。
すると、ハルウララの隣に普段は見かけないウマ娘がいることに気付いたのだろう。商店街の人々は不思議そうな顔をする。
「おや、そっちの子は? 見かけない子だねぇ……」
「ライスちゃんだよ! わたしのお友達なのっ!」
「ラ、ライスシャワー……です」
ハルウララに紹介され、ライスシャワーは無意識の内に名乗っていた。最近は自分の名前を他人に教えるのが怖くなっていたが、名乗らないのは失礼だと思ったのである。
「ライスシャワー……どこかで聞いた名前ねぇ」
「んー……ああ! ほら、この前の菊花賞で1着になった子だよ!」
ビクッ、とライスシャワーの体が震える。
「そうだよー! ライスちゃんはねー、きっかしょう? で1着になったすっごい子なんだよー! トレーナーも言ってたもん! じーわんで勝つのは、ほんとにすごいことなんだって!」
だが、それよりも先にハルウララがそう言っていた。心から賞賛するように、自らのことを誇るように、ふふん、と胸を張る。
「おー……そりゃすごいなー」
「ええ、本当。すごいわぁ」
ハルウララと話していた商店街の面々は、ライスシャワーの戦績よりもむしろハルウララの態度に目がいったようだ。ほのぼのとした様子で代わる代わるハルウララの頭を撫でていく。
「しかし、ウララちゃんのお友達なら君のことも応援しないとな。次はどのレースに出るんだい?」
ハルウララが八百屋のおじちゃん、といった男性が笑いながら尋ねる。その問いかけを受けたライスシャワーは戸惑いながらも、次に出るレースを告げた。
「出られたら、ですけど……有馬記念、です」
「有馬記念! あの有馬記念!?」
「そんなにすごいのー?」
「すごいんだよウララちゃん! いやぁ、ビックリだ。こりゃ応援のし甲斐があるってもんだな!」
そう言ってハルウララと笑い合う商店街の面々に、ライスシャワーも自然と笑顔を浮かべた。
菊花賞以来暗く染まったはずの世界に、トレーナーとハルウララ以外の光が灯ったような――そんな気がしたのだ。
それからというもの、ライスシャワーの心と体は少しずつ、本当に少しずつだが回復していった。
献身的に支えるトレーナーと、常に明るく、励ましてくれる
そんなある日のことだ。トレーナーが模擬レースをしようと持ち掛けてきたのは。
相手はジュニア級ながら、ライスシャワーも名前は知っているハッピーミーク。ハルウララと同世代の中では頭角を現しつつあるウマ娘で、ライスシャワーは少しだけ心が沸き立つのを感じた。
しかし――。
「いいか、ライス。君の体はまだまだ本調子とは言えない。それなのにこんな企画を持ってくるなって怒られそうだけど、俺は君が模擬レースとはいえ他のウマ娘と競うところを生で見てないんだ。だから、今日は体に無理が出ないレベルで……そうだな、最大で7割から8割ぐらいの力で走ってほしい。頼めるか?」
「……でも、それだとライス、負けちゃうかもしれないよ?」
「負けてもいいさ。これはあくまで練習だ。それに、君が負けても怒る奴はいない。何か言われるとしても、それはGⅠウマ娘である君の指導が間に合ってない俺の怠慢を責める声だろうさ」
負けてもいいという言葉に、不思議と怒りは覚えなかった。トレーナーが言う通り、体を大切にするのは重要なことだと理解したからだ。
だが、自分のせいで
「ライスね、今から一緒に走る子達のこと、知らないの。だから……
故に、そう尋ねていたのも当然のことで。
「――見ててね? ライスが……ううん、トレーナーさんのウマ娘が走るところを」
模擬レースはマイル走1600メートル。ライスシャワーにとって得意とは言えない距離。そしてハッピーミークの詳しい実力も知らない。
それでも、8割までの力と
そして、ライスシャワーは勝った。トレーナーの言いつけ通り8割程度までしか力を出さず、ハッピーミークを差し切った。
「よくやったライス! やっぱりすごいな君は! 1着おめでとう!」
それだけで、トレーナーは大喜びする。それが、ライスシャワーにとって心を震わせるほど嬉しかった。
12月の下旬。あと幾日寝れば正月か、という冬の時期。
ライスシャワーは特別登録によって有馬記念への出走が決まった。
そして有馬記念に出るウマ娘達がそれぞれインタビューを受けることになったのだが、やはりというべきか、菊花賞やミホノブルボンに絡めてライスシャワーを糾弾する記者がいた。
しかし、それをトレーナーが庇ってくれた。それもまた、ライスシャワーにとってはとても嬉しいことで。
「私は、ライスさんとの会話を希望します」
突如姿を見せたミホノブルボンからの提案は、さすがに予想外のことだった。
それでも、ライスシャワーとしてもミホノブルボンと言葉を交わしたかった。元々あまり交流があったわけではないが、憧れのウマ娘からの誘いである。
ミホノブルボンから糾弾されることがあれば、どうしようという思いもあった。しかし、今のライスシャワーにはトレーナーとハルウララがついている。だからこそ、話を聞くという決断ができたのだ。
初めてトレーナーと会った際に利用した保健室でミホノブルボンと向き合うライスシャワーだったが、ミホノブルボンのぎこちない動きに真っ先に心配の念が湧き上がる。
「ブ、ブルボンさん……えっと、その、足は……」
「コンディション、不調であると返答いたします。マスターの指示により静養に努めていますが、完治までにかかる時間は現状、計測不能です」
その言葉に、まさか、という思いがライスシャワーの胸中に溢れ出す。ミホノブルボンと言葉を交わすうちに、また自分が不幸を運んでしまったのかと、俯きそうになる。
「俯くな、ライス」
「そうだよライスちゃん。ライスちゃんはいっしょうけんめーがんばっただけだよ」
だがそれでも、トレーナーとハルウララの言葉が俯かせることを止めた。そして、そうだ、と思うことができた。
ライスシャワーというウマ娘は、目の前のミホノブルボンに勝ちたかったのだ。
「あなたはすごいウマ娘なんです、ライスさん」
「……え?」
だからこそ、というべきか。ミホノブルボンが放った言葉を、ライスシャワーは一瞬理解できなかった。
トレーナーやハルウララは、ことあるごとにライスシャワーを褒める。その褒め方は場合によって変わるが、そのまま胴上げしてワッショイワッショイとでも言い出しそうなほどの褒めっぷりを見せることもあった。
「菊花賞の最終直線……あなたに抜かれたあの瞬間。差し返そうとして縮まらない距離に私は絶望しました。ですが、同時に思ったのです。私の目の前を駆けるウマ娘は、なんてすごいんだ……と」
ミホノブルボンの言葉は、トレーナーやハルウララの褒め言葉とは違う。
「あの背中に追いつきたいと、そう思いました……ですが、そう思えたあなたは称えられるどころか、非難された……それで余計にエラーが……私は、わからなくなりました。私が幼い頃から抱いていたクラシック三冠という夢を超えて、あなたに勝ちたいと思ったのに……私は……」
苦しんだライスシャワーと同様に、ミホノブルボンも負けた悔しさで苦しんでいて。
「いえ、話したかったのは私のことではありません。ライスさん、私はあなたにお願いがあって来たのです」
「え、と……ライスに、お願い?」
「はい……許していただけるならば、有馬記念で走るライスさんを応援させていただきたい、と。私が望むのは、ただそれだけ」
驚くライスシャワーに願ったのは、あのミホノブルボンが応援をしたい、勝利を願いたいという言葉で。
「私にとっての
「――――」
驚きがあった。疑問があった。喜びがあった。様々な感情が混ざり合い、ライスシャワーの心を煮立てるようにして熱くしていく。
「ライス、ブルボンさんに応援してもらえるなら心強いよ」
「……では?」
「うん……ブルボンさんが望むのなら、ライスのこと、応援してほしい」
ミホノブルボンの前で勝つ。ミホノブルボンのクラシック三冠を阻止したのは強いウマ娘だと証明する。
――トレーナーに、ハルウララに、そしてミホノブルボンに応援されるに足るウマ娘だと、証明するのだ。
有馬記念当日は良く晴れたレース日和だった。
ライスシャワーは起きた時から自分の調子がこれまでにないほど良いことを確認する。トレーナーが一生懸命体をケアしてくれて、心はかつてないほど燃え上がっていて。
こんな調子と心持ちで有馬記念に挑めるとは、思っていなかったほどだ。
有馬記念に出走するウマ娘達は強敵揃いである。しかし、ライスシャワーには焦る気持ちも、怯える気持ちもなかった。
作戦はトレーナーに任せている。トレーナーの言うことなら何でも信じるし、何でもやってみせる。そう思えるだけのものを、ライスシャワーはトレーナーからもらっていた。
パドックでお披露目をして、自分を見た観客が何かを言っているが、ライスシャワーの耳には届かない。当初の予定ではトウカイテイオーをマークするつもりだったが、お披露目が終わった後のトウカイテイオーを一瞥してライスシャワーは判断する。
今日のトウカイテイオーは怖くない、と。
「……事前の予定じゃ、トウカイテイオーをマークさせるつもりだった。でも、今日の様子を見る限りあの子は伸びないと思う」
「うん、ライスもそう思う。今日のテイオーさんは
トレーナーと意見が一致する。つまり、トレーナーの目から見てもトウカイテイオーは調子が悪いということだ。
「その上で、誰をマークするか……なんだが……」
トレーナーが迷っている。しかし、ライスシャワーは焦らない。必死に悩み、自分が勝てるように思考を巡らせていることを、ライスシャワーはよく知っていたからだ。
「ライス、俺は今からバ鹿な作戦を言う」
「うん、聞かせて。ライス、トレーナーさんの言うことならなんでもするし、なんでも信じるよ」
その言葉に嘘はない。勝てというのなら、あのシンボリルドルフでさえ差し切ってみせるとライスシャワーは意気込んでいた。今日の自分のコンディションなら、それも可能だろうと思っていた。
「元々警戒していた面子で調子が良さそうなのは、ナイスネイチャとメジロパーマーの二人だ。ただ、メジロパーマーはここ最近のレースを見る限り大逃げするだろうが、体力がもつとは思えない。かといって、ナイスネイチャが素直に1着になれるかは怪しいところだと思う」
「うん」
「だから……ナイスネイチャをマークするけど、2周目の第3コーナーに入ってもメジロパーマーの足が鈍らないようならそこから差しにいってくれ」
以前のライスシャワーならば、無理だと思っただろう。実際に言葉に出して、それは無理だと断ったに違いない。
「任せて」
だが、トレーナーがそう言うのならそれが正しいのだと思った。トレーナーも無茶な作戦だと思っているのだろうが、ライスシャワーならそんな無茶な作戦でもやりきってくれると信頼されているのだと、そう思った。
「がんばってねライスちゃん! わたし、トレーナーといっしょに
「うん……行ってくるね、ウララちゃん」
そして、親友からの応援で、ライスシャワーからは余計な緊張さえも消え失せたのだ。
トレーナーやハルウララと別れたライスシャワーは、スタート地点である中山レース場の外周りの第3コーナーへと足を向ける。出走するウマ娘達が次から次へと紹介され、ライスシャワーの番になると声援と一緒にブーイングが混ざって飛んできた。
それでも、ライスシャワーは揺るがない。粛々とスタートを待ち――ゲートが開く。
飛び出したタイミングは完璧だった。しかし他のウマ娘も有馬記念に出てくる強者ばかりだ。大外枠の16番からのスタートは、その分距離が伸びて不利でもある。
ただ一人、トウカイテイオーだけが出遅れていた。それを横目で確認したライスシャワーは、やっぱりトレーナーさんが正しかったのだ、と思った。
続く思考でライスシャワーが捉えたのは、ナイスネイチャである。良い位置につけてはいるが、視線を移してみるとメジロパーマーが大逃げし始めているのが見えた。
その速度と現在開いているバ身を確認したライスシャワーは、心の中で思う。今の位置では届かない、と。
だからこそ、マークしたナイスネイチャを追い立てるようにして走る。もっと前に、先に進もうと言わんばかりに。
「嘘っ!? なんでっ!?」
ナイスネイチャは思わずそんな声を漏らしていた。トウカイテイオーがスタートで出遅れたのは理解していたが、自分がライスシャワーにマークされるとは微塵も思っていなかったからだ。
それも、ただマークするだけではない。背後にぴったりと付き、今にも食い殺さんばかりの気迫で追い立ててくるのだ。
ナイスネイチャとて、有馬記念の4番人気に推されるほどのウマ娘である。これまでのレースで何度も1着を獲った経験もある。
GⅠで1着を獲ったことはないが、その実力はライスシャワーに引けを取るものではない。ないのだが――。
「っ……」
実力では引けを取っていなくとも、今日この時のライスシャワーは
焦らないよう、ペースを乱さないように意識していたはずだというのに、体が自然と加速していたのである。
ライスシャワーはそんなナイスネイチャを追い続ける。ナイスネイチャはそんなライスシャワーから逃げ続ける。
その均衡が破れたのは、先頭を走るメジロパーマーが2周目の第3コーナーに差し掛かった時だった。
「う、そっ……」
背後にぴったりついていたライスシャワーが加速し、ナイスネイチャを抜き去る。それを見たナイスネイチャは自然とそんな声が出ていた。
まだ600メートル以上残っているというのに、今からロングスパートをかけて足と体力がもつものか。不可能だ。だが、今日のライスシャワーからはそんな不可能を可能にしそうな気迫があった。
だからこそ、ナイスネイチャも加速した。どんどんライスシャワーの背中が遠くなっていくが、それに負けじと中山の芝を駆け抜けていく。
そんなナイスネイチャの追走を背後に感じながらも、ライスシャワーは次の目標を定めていた。それこそがトレーナーが警戒したメジロパーマーで、トレーナーが危惧したように大逃げを続けている。
残りの距離とメジロパーマーの逃げ足。それを瞬時に把握したライスシャワーは届くかどうか少しだけ不安に思う。しかし、トレーナーが施してきたここ二ヶ月のトレーニングのおかげなのだろう。足はまだまだ動くし、体力も残っている。
そして何よりも、最終コーナーを抜けた先で、観客席で応援するトレーナーやハルウララ、ミホノブルボンの姿が見えた。中山レース場に集まった観客達の声援で掻き消されているが、その様子から必死に自分を応援していることがライスシャワーにはわかる。
――ライスシャワーの体に、力がみなぎる。
体力が切れたのかズルズルと下がってきたダイタクヘリオスを抜き去り、残すはメジロパーマーただ一人。
体が、足が軽かった。自分の走りを見て地面が揺れそうなほど歓声を上げる観客の声に、ライスシャワーは更なる加速を見せる。
しかし、メジロパーマーも足が残っている。2500メートルという長距離にも拘わらず、最初から最後まで逃げ切るだけの足がある。
中山の坂を駆け上がり、少しずつメジロパーマーとの距離を詰めていく。最初にナイスネイチャを、続いてメジロパーマーをマークして走ってきたからか、さすがに最後の坂道はライスシャワーにもきついものがあった。
「いけええええええええええええええぇぇぇっ! いけえええええライスウウウウウウゥゥッ!! あと少し! あと少しだああああああああぁぁっ! 抜けええええええぇっ!」
「がんばってライスちゃん! がんばってええええええぇぇっ!」
歓声に紛れて、トレーナーとハルウララの声が聞こえた。それは18万を超える人々が放つ声援に掻き消されかけていたが、たしかに届いていた。
「勝って……勝ってくださいライスさん!」
そして不思議と、憧れたミホノブルボンの声がすぐ近くで聞こえた気がした。
「――――ッ!」
駆ける、駆ける、駆け抜ける。
メジロパーマーを捉え、かわし、抜き去って背後へと。
そしてライスシャワーは、菊花賞から二つ目となるGⅠの冠をかぶることになったのだ。
「あーあ、負けたよライス。最後、すごい足だったじゃん」
「足もだけど、なんで途中であそこまで追い立てられたのか、ネイチャさんはわかんないや……アタシ何かしたっけ?」
レース後、ライスシャワーはウイニングライブの準備をしている最中、2着になったメジロパーマーと3着になったナイスネイチャからそんな言葉をかけられた。
メジロパーマーは笑って、ナイスネイチャは苦笑しながらの言葉である。そこにライスシャワーへの悪意はなく、1着を獲ったライスシャワーを称える雰囲気があった。
「ありがと、パーマーさん。ネイチャさんは、わたしのトレーナーさんがすごく警戒してたから……パーマーさんもだけど」
「うへぇ……アタシを警戒するぐらいならテイオーを警戒するでしょ普通……」
「ま、今日のテイオーはなんか調子悪そうだったもんね」
げんなりとした様子で呟くナイスネイチャと、肩を竦めるメジロパーマー。あまり話したことはなかったが、ライスシャワーは不思議と物怖じする気持ちが出てこなかった。
あるいは、これから始まるウイニングライブへの恐怖心があるから、だろうか。
「…………」
ライスシャワーは無言で体を震わせる。しかし、それを見たメジロパーマーがライスシャワーの肩を叩いた。
「なに暗い顔してんのさ。ほら、行くよライス」
「そうそう。あーあ……ウイニングライブだけど3着かぁ……」
促され、ウイニングライブの場に立つライスシャワー。
菊花賞では2色のライトと自分以外のウマ娘への歓声が出迎えたが――。
「おーっし! いいぞライスー!」
「きゃー! ライスせんぱーい!」
「すごかったですよ先輩!」
ゴールドシップの声と、模擬レースで知り合ったウマ娘の声。
「よくやったぞライスちゃん!」
「また店に来いよー!」
ハルウララと共に訪れた、商店街の面々の声。
そして、トレーナーとハルウララが掲げた、青い、祝福の光。
それはさざ波のように観客席に広がり、最後には視界が青色一色に染まる。
メジロパーマーが笑い、ナイスネイチャが苦笑しながら肩を叩いてくる。しかし、ライスシャワーにはそれに答える余裕はなかった。
初めて見た青い一面の光の群れ。それはライスシャワーがいつも身に着けている青い薔薇のように綺麗なもので。
しっかりと記憶に残したい、目に焼き付けたいというのに、ライスシャワーの瞳からは視界がぼやけるほどに涙が溢れる。
青い薔薇の花言葉は――夢かなう。
花畑のように広がる青い光に祝福されながら、ライスシャワーは喜びの涙を零すのだった。