リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐ 作:烏賊メンコ
トレーナー関係の独自設定マシマシ、文章量マシマシでお送りいたします。
トレセン学園の生徒は将来走るであろうレースに向けてトレーニングに励むことになるが、それは毎日、一日中行われるものではない。
トレセン学園ではウマ娘に対し、授業としてウマ娘に関する歴史やレースの知識、トレーニング方法などを教えている。ウマ娘達は普通の学生のように授業に出席し、時にはテストを受け、昼は食堂で食事を取り、授業が終わってからようやくトレーニングに取りかかるのだ。
それは前世の知識で考えるならば、学校の部活動が近いのかもしれない。違いがあるとすればウマ娘のレースが庶民の娯楽として定着していて、なおかつウマ娘のほとんどが走ることに関して文字通り命を賭けていることだろうか。
そんなウマ娘と違い、俺が授業を受けることはない。学生ではないのだから当然だが、ウマ娘のトレーニングがない時間帯だろうと仕事があるのだ。
チームを率いるようなトレーナーならば専用の個室が割り当てられることもあるが、新人トレーナーの俺にそんなものはない。俺と同じように担当のウマ娘が少なく、チームが結成できる人数や実績を持たないトレーナーが利用する共用のスペースで仕事に励む。
担当するウマ娘に関してどのようなトレーニングを行ったか、今後どのようなトレーニングを施していくか、そこから先の展望としてどんなレースに出していくか。それらをパソコンを使って資料としてまとめていく。
メイクデビューと呼ばれる初めてのレースすらウララに経験させていない現状では絵に描いた餅でしかないが、短期的な目標だけでなく長期的な目標も立てておく必要がある。そうしなければウララの育成に関して一貫性がなくなる可能性があるからだ。
そして、俺がトレセン学園に所属するトレーナーである以上、学園から割り振られる業務などもこなす必要がある。練習コースの手入れなどは専門の業者が行うが、担当するウマ娘に関する報告等は担当トレーナーにしかできない。
トレーナーによっては地方に赴いてローカルシリーズに出走しているウマ娘から有望な者をスカウトしたり、学園に入園できる年齢ではないが将来性がありそうなウマ娘を探したりと、日本中を飛び回っている者もいたりする。
他にも自分が担当しているウマ娘のグッズ販売に関してメーカーと協議したり、テレビ局や雑誌記者からの取材に応じたりと、ウマ娘の育成以外の事柄に手を取られるトレーナーも存在した。
(ま、俺みたいな新人で担当のウマ娘がデビューすらしてないトレーナーにゃ関係ない話だけどな)
俺はウララの育成計画を練りながら、そんなことを思考する。
前世では公営ギャンブルだった競馬だが、今世ではギャンブルではなく賭けなしでの観戦目的の娯楽である。しかしレースによっては十万人以上の観客がレース場を訪れるため、入場料やグッズ販売だけでも相当な売り上げになるようだ。
競馬に関してほとんど知らないため詳細な額はわからないが、前世ではレースに勝てば賞金が出ていたはずである。その賞金の原資は馬券の賭け金だろうが、ウマ娘の場合馬券以外の部分で稼いだ金が賞金へと回される。
レースで入着――5着以上の成績を取れば賞金が出るのはもちろんのこと、6着以下でも出走奨励金や特別出走手当が出るようになっていた。
まだ担当のウマ娘が一勝すら挙げていない俺だが、ウマ娘が入着以上の場合に得られる賞金は中々に大きいらしい。
だが、担当のウマ娘の実績イコール俺の実績でもある。雇われているトレセン学園から支払われる給与に関しても、担当のウマ娘が活躍すれば基本給が上がったり、ボーナスが増額されたりとその活躍ぶりに連動する形になっていた。
ただし、増額といってもウマ娘の育成に関しては多額の金銭が必要になるため、俺達トレーナーに払われる給与が劇的に上がるわけではないようだ。
寮に住んでいるウマ娘の家賃や光熱費、食費や学費はトレセン学園が負担している部分が大きく、おそらくはレースでの賞金はそれらに使用されているのだと思われた。もちろんウマ娘の生活費だけでなく、トレセン学園を維持し、運営するための金もそれらの金銭から出ているのだろう。
一体どれほどの巨額が動いているのか興味を引かれるが、余計なことに首を突っ込んでも良いことはない。今はそんなことよりもウララの育成に関して注力する方が重要なのだ。
(……で、問題はその育成なんだよなぁ。一体どうしたもんか……)
いくらウマ娘といっても、トレーニングをしたからといってすぐさま成長が見られるというわけではなかった。おそらく人間よりは顕著に成長しているのだろうが、ラップタイムが劇的に変化するはずもない。毎日のトレーニングでゆっくりと成長していくのだろう。
少しだけ――そう、ほんの少しだけ、ハルウララという有名な馬の名前を持つウララなら、劇的な成長をしてくれるのではないかと期待していたが。
俺はここ一ヶ月ほど行ってきたウララの育成に関してまとめた資料を引っ張り出し、目を落とす。育成を始めた当初のデータに、一ヶ月が経った現状のデータ、ついでに今後行う予定のトレーニングによって三ヶ月後、半年後、一年後はどこまで能力が伸びるかの予測。
将来の予測に関しては、おそらくアテにならないだろう。人間もそうだが、ウマ娘であるウララは中等部という伸び盛りの時期にある。それでも将来の予測を立てたのは、色々と気になることがあったからだ。
(仮にこのまま資料の通り成長するとして……駄目だ、到底足りんな)
現在に至るまでトレセン学園に在籍していた様々なウマ娘のデータ――レース結果や身体能力、どのようなトレーニングを行ってきたか。それらの情報から推測した数値と比べ、ウララは一回りどころかふた回りは劣っている。
ウララは直近の目標として6月後半に行われるジュニア級メイクデビューに出走する予定だが、それまでにどこまで鍛えることができるか。
(出走するのはダートだし、ライバルはそれほど多くないだろう。芝のレースと比べればダートは人気が低い……ここを落とすとその後が辛いが致命的ってわけでもない。勝てなくても良い経験に……いや、勝たないと先行きが不安だが……)
ううむ、と俺は頭を悩ませる。
ウマ娘が出走するレースというものは、ウマ娘自身の実績によって出走できるものが限られてくる。
ウララの場合は最初にメイクデビューに出走し、ここで1着を取ることができればそれ以降出走できるレースが一気に増える。ただし、1着が取れなければ未勝利戦に出走することになり、1着を取るまで上位のレースには出走できない。
日本のウマ娘――とりわけトレセン学園に集まる優秀なウマ娘達は芝のレースを主戦場とすることが多く、ダートのレースに出走するウマ娘は少ない傾向にある。
そもそも、出走するウマ娘の数もそうだがレースの開催数自体も芝のレースと比べて少ないのだ。地方では逆にダートレースの方が多かったりもするが、ウララが在籍しているトレセン学園ではトゥインクルシリーズ、つまりは中央のレースに出走することになる。
芝のレースならば重賞――GⅠ、GⅡ、GⅢと呼ばれる高名なレースも様々な距離で大量にあるが、ダートかつウララの適性にあった短距離やマイルのレースは数が非常に少ない。
(かといって芝のレースに出すのは自殺行為、か……ダートでさえ同期のウマ娘に太刀打ちできるかも怪しいんだ。芝じゃあまともな勝負にはならん……)
メイクデビューでも、未勝利戦でも良い。とにかく1勝できれば重賞とはいわずともオープン戦に出せるのだが。
(いや、まだだ……まだこれからだ。ウララはデビュー戦すらしてないんだ。それまでに鍛えられるだけ鍛えて、1着を……取れるかなぁ……)
思わず最後にヘタレてしまう。そしてウララに関してまとめた資料を机の上に放り、乱雑に頭を掻いた。
ハルウララというウマ娘は、その能力を見る限り非常に弱い。下手するとメイクデビューどころか未勝利戦を繰り返しても1着を取れず、トレセン学園から除籍処分を食らう可能性すらある。
だが、性格は素直で人懐こく、トレーニングに対しても一生懸命だ。新人トレーナーである俺が立てた育成プランに文句の一つも言わず、笑顔で楽しそうに取り組む。
新人としては非常に育てやすいウマ娘といえるだろう。育てやすいだけで、強く育つとは言えないところがトレーナーとしての俺の手腕のなさを露呈しているようで歯痒いが。
怪我をしないよう注意しつつ、可能な限りトレーニングを積ませる。今の俺にはそれだけしかできないが、他に何かできることはないのか。
(素直に言うことを聞いてくれるってのは、俺からすれば長所に思える……でも、あの子を見ていると他のウマ娘に勝つより、ただ走るだけで満足って感じがするんだよな)
メイクデビューで1着を取れれば良いと思ったが、メイクデビューはダートだろうと基本的に1レースあたり9人のウマ娘で争われる。つまり、他の8人を蹴落とさなければ先に進めないのだ。
俺としては良くないが、仮に負けたとしても未勝利戦という挽回の機会がある。しかし過去のデータを見る限り、未勝利戦も1レースあたり9人のウマ娘が出走するのだ。
一人の勝者だけが生き残れるデスゲームのようだが、あながち間違ってはいない。国民的な娯楽とされるウマ娘のレースだが、レースに勝てないウマ娘は学園から除籍されたり、地方に移籍になったりと、熾烈な生存競争になる。
中には自分の実力不足に絶望し、全てを諦めて自ら学園から去る者も多くいる。ある程度実力があっても運悪く、天才と呼ばれるようなウマ娘が大量に出てくる世代に生まれてしまえばどうにもならない。
しかも、諦めずに走り続けたとしても未勝利戦の機会は限られている。毎月前半と後半に一回ずつしか出走できず、その上で芝やダートで全距離のレースが行われるということもない。運が悪ければ適性に合ったレースが二、三ヶ月先ということもあり得た。
(ウララの場合、メイクデビューで負けても未勝利戦のチャンスは割と多い……1着で強いウマ娘が抜けていけばその分チャンスが……いや、駄目だ駄目だ。他のウマ娘も強くなるんだ。ウララよりも他のウマ娘の方が成長する可能性が……)
メイクデビューで勝てる可能性が低く、かといって未勝利戦で勝てるかと言われると頷けない。それでもウララが頑張っている以上、トレーナーである俺が諦めるわけにはいかないのだ。
(そうだ、まだメイクデビューすら出ていないんだ。もしかしたらウララは本番に強いタイプで、練習よりも実力を発揮してぶっちぎりで1着を取ってくれる可能性も……ん?)
自分に都合が良い妄想をしかけたところで、俺は不意に視線を感じ取った。
現在使用している机の周囲はパーティションで区切られているが、大して高さがあるものではない。立ち上がれば簡単に向こう側が覗けるほどで。
「――――」
黒髪の女性が、何やら無言でこっちを見ていた。
「……ヒュッ」
考え事に熱中していたこともあり、その視線に気付いた俺は引きつるような呼気を漏らしていた。それと同時に反射的に後方にのけ反り、椅子の背もたれが軋むような音を上げる。
「な、にか?」
辛うじて――本当に辛うじて、俺は悲鳴ではなく意味のある言葉を出すことに成功した。いきなりの出来事に、覗き込まれていたことを咎める余裕すらない。
「い、いえっ、ごめんなさい! すごく悩んでいるようだったので、つい……」
「あ……あー、すいません。うるさかったですかね?」
「いえそんなっ! 担当するウマ娘のことで悩んでいたんでしょう!? それならそこまで悩むのも当然ですから!」
あ、うるさかったのは否定しないんだ、などと内心で呟いた俺はようやく冷静さを取り戻す。そしてのけ反った体を元に戻すと、一度咳払いしてから口を開いた。
「ごほん……それで、うるさくても構わないのはありがたいですが、何か用ですか?」
俺は覗き込んでいた女性――同期の桐生院さんに声をかける。
黒髪をボブカットに近い形に整え、編み込んだ左前髪を留めるヘアピン。後頭部には小さなポニーテールも見え、年頃の女性らしくおしゃれに気を遣っているのが窺える。
服装は白ワイシャツにフォーマルな黒い袖なしのベスト、黒いスラックスに黒いブーツと少しばかり固い印象があるが、布地の一部にフリルがあしらわれている。
何故かいつも本を一冊持ち歩いているが、桐生院さんは代々優れたトレーナーを輩出している名門、桐生院家の一人娘だ。そういった名家に伝わる秘伝書か何かだろうと俺は見ている。
そんな桐生院さんだったが、俺の問いかけに対する反応は微妙だった。特に親しいわけでもなく、会えば世間話ぐらいはするが俺にとっては他の同僚よりもやや遠い距離感の女性である。
桐生院さんは言葉を探すように視線を彷徨わせると、やがて気合いを入れるように胸の前で両拳を握り締めた。
「ど、どうでしょうか? 悩んでいらっしゃるようですし、ここはトレーナー同士、意見の交換でもしませんか?」
そう言って、キラキラと期待に満ちた視線を向けてくる桐生院さん。
え、なんで? と口から出かけた言葉を俺は飲み込むと、そわそわしながら返答を待つ桐生院さんを見る。
(こっちの偵察……なんて雰囲気じゃないな。そもそも同じ新人でも相手は名門出身のトレーナーだ。そうなるとただの善意……か? 本当に?)
トレセン学園に所属するウマ娘は互いに切磋琢磨し合う関係だが、同時に互いを蹴り落とすライバルでもある。そしてそれは、トレーナー同士の関係も緊迫したものになりやすいということでもあった。
トレセン学園に数多く存在するチームの中でも最強の集団、チームリギルを率いる東条トレーナーが同じ事を言ってきたのならば、俺は喜んで相談しただろう。
東条トレーナーからすれば俺は弱小どころか競う相手にすらならないレベルなのだ。トレーナーとしての経験も実績も、育てているウマ娘の強さも違い過ぎるため、こちらが警戒するだけ無駄というものである。
しかし、目の前の桐生院さんはいくら名門出身といっても同期だ。盤外戦術で少しでも自分のウマ娘のライバルを減らそうとしている可能性もある――のだが。
(そんなタイプじゃないっぽいんだよな……これが演技なら大したもんだが)
俺は一応、前世も含めれば桐生院さんより倍近い年月を生きてきた身である。その経験からすると、桐生院さんは完全な善意で声をかけてきたように思えた。
声には出していないが、『自分が育てているウマ娘について語りません? 語りましょうよ!』と視線で訴えているように見える。たとえるなら、自分の趣味の話題に関して話し相手に飢えているかのような状態だ。完全な善意と言ったばかりだが、やっぱり善意じゃなくて私情やもしれぬ。
(そういえばこの人、名門出身だからって理由で同期も遠巻きにしてたっけか……)
嫌っているわけでも、仲間外れにしているわけでもない。ただ、どんな話題を振って、何を話せば良いかわからないため敬遠気味になってしまうのだ。
同じ新人トレーナー同士ではあるが、名門出身ということでトレーナーの家系出身の同僚でさえ取っ付きにくいと距離を取るほどである。
ちなみに俺は桐生院さん以外の同期連中とはよく話す方だ。育てているウララのレース適性的に、今のところは同期の連中とほとんど被らないためお互いを敵視する必要がないからである。
同期達は芝のレースに向いていそうなウマ娘をスカウトして育てている者ばかりで、ダートを主戦場とするウマ娘をスカウトした者はいない。俺のように名前を聞いてその場でスカウトした、なんて馬鹿な真似をした奴はいないのである。
それも、俺と同じ新人トレーナーだというのにチームを組めるほどスカウトに成功した者もいるぐらいだ。大体の同期が二人もしくは三人のウマ娘を育てているが、中には五人以上のウマ娘のスカウトに成功している者もいる。
育てているウマ娘の数が多ければトレーナーとして必ず成功するというわけではないが、数が多いということはそれだけトレーナーとしての経験を積めるということでもある。複数のウマ娘を担当していれば、一人ぐらいは芽が出る者がいてもおかしくはない。
その点、桐生院さんは俺と同じで担当のウマ娘が一人だけという希少種だ。彼女の御眼鏡に適うウマ娘が一人しかいなかったのか、複数育てるよりも一人のウマ娘の育成に注力したいのかはわからないが。
(いや待て、これはチャンス……か? 同じ新人といっても桐生院さんはトレーナーの名門出身だ。育てているウマ娘もかなり強いだろうし、育成に関して俺より詳しいはず……)
こちらの手の内がバレても問題はない。今のウララの実力を知り、本番のレースでぶつかることがあれば油断してくれるかもしれない。
そんな打算と、とある懸念から俺は桐生院さんに一つ提案を持ち掛けることにしたのだった。
「え? トレーナー、今日はトレーニングじゃなくてレースをするの?」
授業を受け終わり、普段通りジャージ姿を見せたウララに対して俺がかけた言葉。それを聞いたウララは小さく首を傾げた。
「ああ、そうだ。レースといっても本格的なものじゃないけどな」
不思議そうにするウララにそう答えた俺は、申し出を受けてくれた桐生院さんへと視線を向ける。
「こちら、俺と同期のトレーナーの桐生院さんだ。それと桐生院さんが担当しているウマ娘の……」
「……ハッピーミーク、です」
俺がウララに対して紹介をすると、桐生院さんとウマ娘――ハッピーミークが小さく頭を下げる。
小柄な桐生院さんよりも僅かに高い身長で、目を引くのは白一色のその姿だ。
葦毛とも異なる白色の髪と尻尾。その気性を表すかのようにおっとりと、あるいはぼんやりとした印象を与える垂れ目。少しばかり細長く見えるウマ耳には花をかたどった耳飾りをつけている。
ウララと同様にトレセン学園指定のジャージを着たハッピーミークは、早速というべきか楽しそうなウララにまとわりつかれていた。
「ハッピーミーク……じゃあミークちゃんだね! わたしのことはウララって呼んでね!」
「……はい。ウララさん」
ウララは目をキラキラと輝かせ、ハッピーミークの周りをパタパタと走り回る。そんなウララの姿にハッピーミークの表情が僅かに柔らかくなるのが見えた。
「えー、こちらのハッピーミークがウララの相手だ。レースは一対一で2回、コースは芝とダートの1200メートルで行う……んだが、桐生院さん。本当にこの条件で大丈夫ですか?」
芝のレースはともかく、ダートでのレースも1200メートルという距離もウララに合わせて設定したものだ。ダートの短距離ならばウララに分がある――といいなぁ、と思いながら問いかけると、桐生院さんはウララとハッピーミークのやり取りを笑顔で眺めながら頷いた。
「問題ありません。ミークは芝とダートの両方を走れますから。距離に関しても、短距離から長距離まで全て走れます」
(え? 両方いけんの? というか距離を問わないって嘘でしょ?)
事も無げに告げた桐生院さんだが、芝とダートの両方が走れるというのはまだしも、走る距離を問わないというのはさすがにフカシが過ぎると思う。
仮に本当だとすれば、スカウトから僅か一ヶ月でそこまでハッピーミークを鍛えたというのか、あるいはハッピーミークが元々それほどの才覚を持つのか。どちらにしても尋常ではない。
しかしトレセン学園で生徒会長を務める才媛、GⅠで七冠を獲得したシンボリルドルフでさえそこまでの才覚はなかったはずだ。つまりはブラフであり、今の言葉はきっと、俺への盤外戦術なのだろう。
(さすが名門桐生院……可愛い顔していきなりこんな嘘をぶち込んでくるとはな。でも嘘をつくならもっとマシな嘘をつけば良いものを)
人付き合いが苦手――正確に言えば他者との距離の測り方が苦手そうな桐生院さんの発言に、俺は苦笑を浮かべる。
「まさか戦法も何でもこなせる、なんて言いませんよね?」
「さすがにそれは無理ですよ。ミークが得意なのは先行や差しです」
「ははっ、ですよね……ん?」
そこまでフカシを飛ばすことはなかったか、などと思った俺だったが、桐生院さんの発言に疑問を覚える。
桐生院さんの言葉を信じるならば、先ほどの発言が嘘ではないように聞こえたのだが。
(ま、まあいい。実際にハッピーミークの走りを見ればわかることだ)
芝でもダートでも、どんな距離でも走れるウマ娘。さすがにそんなウマ娘はいないだろうと思いながら、俺はウララに準備運動をさせていく。
桐生院さんもハッピーミークに準備運動を指示すると、ストレッチや軽く走って調子を確かめるなどして三十分ほどが経過した。
本番のレースならばゲートからの出走になるが、今回はそこまで本格的なものではない。スタートラインに二人が並び、合図と共に走り出すことになる。
スタートラインについたウララは普段通りの楽しそうな笑顔を浮かべ、ハッピーミークはいまいち感情が読めない顔で僅かに前傾姿勢を取る。
俺はウララとハッピーミークの準備が整ったことを確認すると、右手を頭上へと掲げた。
「二人とも準備はいいな? それじゃあ、よーい……スタート!」
叫ぶようにしてスタートの合図を出すと、弾かれたようにウララとハッピーミークが駆け出す。シューズの底につけられた蹄鉄が芝の地面を抉り、芝生と土を後方へと吹き飛ばす。
(……あ、駄目だ。勝てんわ)
そして、スタート直後の動きを見ただけで、俺はウララの敗北を予感した。
ウララは芝のコースが苦手だが、それを差し引いてもハッピーミークが速すぎる。スタートダッシュに遅れはなく、一歩地面を蹴るごとにどんどん加速していく。
ハッピーミークはおそらく先行を選択したのだろうが、逃げを打っているのではないかと思うほどウララとの距離が開き始めた。
今回選んだ1200メートルのコースはスタート地点から直線を進み、コーナーを曲がればゴールまで一直線というシンプルなコースだ。上り坂も下り坂もないが、ハッピーミークは慣れた足取りでコースの内側を走り、コーナーを駆け抜けていく。
育成を始めてからの一ヶ月で、ウララの走るフォームはおおよそ改善できた。一ヶ月前と比べればスタミナもつき、スピードも増しているだろう。
だが、ハッピーミークには追い付けない。最初の直線からカーブにかけ、時間が経つにつれてどんどん距離が開き、最終直線に差し掛かる頃には既に10バ身以上の差が開いてしまっている。
最終直線に入ったことでウララがスパートをかけるが、ハッピーミークとの間に開いた距離が縮まることはなかった。そしてハッピーミークが先頭を取ったままでゴール地点を駆け抜け、五秒ほど遅れてウララがゴール地点を通過する。
これが本番のレースならば、着順掲示板には大差の文字が光っていただろう。ウララとハッピーミークの間には、バ身でいえば二十バ身近い差が開いていた。
敗北――否、惨敗というべき結果だ。
大差があったにも拘わらずハッピーミークが手を抜くことはなく、全力でゴールまで駆け抜けた。その結果がコレだ。
「はぁ……はぁ……すごいねミークちゃん! びゅーんって、とってもはやかった!」
「……ウララさんは、その……いえ、なんでもないです」
圧倒的大差で負けたにも拘わらず、ウララは笑顔だった。それどころかハッピーミークの周りで飛び跳ね、その走りぶりを称える有様である。
「…………」
そんなウララの様子を、俺は無言で見る。負け惜しみでもなく、諦めでもなく、純粋な笑顔を浮かべてハッピーミークを褒め称えるウララの姿を、じっと。
「次はダートで……ですよね?」
俺の様子に何か思うところがあったのか、桐生院さんがおずおずといった様子で声をかけてくる。それに反応した俺は頭を振ると、小さく笑って頷いた。
「お願いします。いやぁ、それにしてもハッピーミークは速いですね」
「そ、そうですか? 今のは……いえ、ありがとうございます」
俺がハッピーミークを褒めたからか、桐生院さんは一瞬だけ嬉しそうな顔をする。しかし何事か言おうとして、結局は礼の言葉を述べるに留めていた。
「ウララ、ハッピーミーク、休憩を取ったら次はダートで走ってもらうけど、体は大丈夫か?」
「うんっ! あのねあのね、トレーナー! ミークちゃんったらすっごいんだよー! すっごくすっごく速いの! びゅーんって!」
「そうか……走ってみてどうだった?」
「楽しかった!」
俺の問いかけに対し、ウララは満面の笑顔で答える。そんなウララの笑顔を見た俺は、なんと言えば良いかわからずに思わず天を仰ぐのだった。
そして、休憩を挟んでのダートでのレース。芝のコースと同様に直線からコーナー、コーナーから最終直線というシンプルなコースだが、俺としてはここからが本番である。
「二人とも準備はいいな? それじゃあ、よーい……スタート!」
二人の準備が整ったのを確認すると、先ほどと同じようにスタートの合図を出す。それと同時にウララとハッピーミークが砂地を蹴りつけ、砂埃を巻き上げながら一気に駆け出した。
先ほどと同様に、ハッピーミークが前を走り、ウララがそれを追うというレース展開。ハッピーミークは再び先行を選択したのだろう。あるいは、選択してくれたというべきか。
(速い……桐生院さんの言葉は嘘じゃなかったか)
ダートコースを駆けるハッピーミークだが、先ほどのレースと大差ない速度で駆けて行く。さすがに芝よりも足場が悪いため速度が落ちるが、ウララとの差はどんどん開いていく。
そんなハッピーミークを追って、ウララも全力で駆ける。その速度は芝のコースよりも速く、何故足場が悪い方が速いのかと俺は首を傾げた。
最初の直線を過ぎ、コーナーに差し掛かった時点で二人の間にある距離は5バ身程度。しかしコーナーを綺麗に曲がるハッピーミークとは対照的に、ウララのコーナーの曲がり方はやや外側へと膨らんでしまっている。
それによってコーナーを抜け出る際には10バ身ほどの距離が開いてしまった。しかし、ウララの本領はここからである。最終直線に差し掛かったウララが地面を蹴りつけ、前方を進むハッピーミーク目掛けて一気に加速していく。
その姿を見れば、芝のレースよりはまだ勝負になっている。だが、それでも。
(ダートでも届かない、か……)
先ほどのレースと異なり、スパートをかけたウララはハッピーミークとの距離を詰めていった。だが、詰めるだけで限界だった。
ハッピーミークはウララに8バ身近い差をつけ、そのままゴールを駆け抜けていく。タイムだけで見れば約一秒半程度の差だが、ウマ娘達の速度で一秒半という時間はあまりにも長すぎる。ウララにとって得意なダートコースかつ短距離で、20メートル以上離されてのゴールになったのだから。
「すごいすごいっ! ミークちゃん、砂の上でもとってもはやいんだね!」
そして、大差とまではいかずとも後塵を拝すことになったウララは、先ほどのレースと同じようにハッピーミークへ賞賛の言葉を投げかけていた。相変わらずその顔は楽しげで、負けたにも拘わらず満足そうである。
負けても決して挫けない、と言えば聞こえは良い。だが、ウララの場合はそんな次元じゃない。
(走る速さや走り方、スタミナも問題だけどそれはトレーニングでどうにかなるし、俺がどうにかする……でもアレはどうしたら……)
同期のウマ娘とレースを行えば、何か変わることがあるかもしれない。そう思って桐生院さんにハッピーミークとのレースを頼んだ俺だったが、負けても心から楽しかったとはしゃぐウララに何を言えば良いのか。
「ねーねートレーナー! ミークちゃんすっごいんだよー! すっごくすごいの!」
パタパタと駆け寄ってきて満面の笑顔を浮かべるウララ。これが負け惜しみからくる言葉ならば、まだ改善の余地があるだろう。しかし一ヶ月程度とはいえ毎日ウララと接してきた俺は、その言葉が本心からのものだとわかってしまった。
負けたことを咎めれば改めるのか、負けても悔しがる素振りすら見せないことに関して大袈裟でもいいから怒ればいいのか。
「そっか……ウララ、今のレース、どうだった?」
俺は膝を折り、ウララと目線の高さを合わせながら尋ねる。すると、ウララは額に光る汗にも負けないぐらい、輝かしい笑顔を浮かべた。
「すっごく楽しかった!」
「…………」
俺はハルウララというウマ娘のこれからの育成について、盛大に頭を抱えるのだった。