リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐ 作:烏賊メンコ
世間の学生が夏休みに突入し、真夏というべき季節がやってきた。
ただし、トレセン学園のトレーナーには夏休みなんて言葉はない。普通の学校の先生もそんな言葉はないしね、仕方ないね。でも子どもの頃は先生も夏休みなんだ、なんて思っていた気がする。
そんな意味のないことを考えつつ、俺は朝からトレセン学園から借りた大型のワゴン車を運転し、合宿先へと移動していた。
助手席にはライスが座り、後部座席にウララとキングが座り、更にその後ろの座席にはそれぞれが持ち込んだ荷物がぎゅうぎゅう詰めになっている。
俺はボストンバッグ一つと仕事用のパソコン等が入ったビジネスバッグ一つで済んだが、ウララ達は女の子だ。長期の宿泊ともなればどう頑張っても荷物が増える。それを見越して大型のワゴン車を選んだものの、割とギリギリだった。
なんでそんなに荷物が多いの? なんて聞いてはいけない。ウマ娘の場合トレーニングウェアだけでも複数着いるし、靴や蹄鉄も予備が複数いる。そこに私服にパジャマに水着に下着にタオルにその他小物が色々と、どうしても荷物が多くなるのだ。
夏場で汗を掻くから、着回せなんて言えるはずもない。というか、不衛生だしな。洗濯してもすぐに着られるはずもなく、どうしても替えの衣服が必要になるのだ。
ちなみに、ウララ、ライス、キングの順番で荷物が多かったりする。ウララ達も年頃のウマ娘だし、さすがに中身の確認はしていないが、余分なものを持ってきてたりしないだろうな……いや、トレーニングに関して真剣な子達だ。そんなわけないか。
そんなこんなで、車を走らせて合宿先に来た俺達である。
「おー……すっごいねー! しゅーがくりょこーみたい!」
宿泊する旅館を見て、ウララがそんな声を上げる。修学旅行みたいと言われても、ん? となるが言いたいことはわかる。
宿泊先に選んだのは、この時期に合宿目的でトレセン学園のチームがよく利用する宿泊施設の一つである。
外観は純和風な建物で二階建て。縦ではなく横に広いタイプの旅館で、一階は受付や土産屋、売店や食堂、宴会場や大浴場、大人数で泊まれる大きめの客室などがあり、二階は少人数での宿泊に向いた大きさの客室が設けられている。
今回俺達が泊まるのは二階の客室だ。トレセン学園が提携しているためある程度融通も利き、洗濯や掃除は自分達で行うというのも旅行ではなく合宿だからこそである。
ただし食事に関しては旅館側で作ってもらう……というか、ウマ娘であるウララ達の食事を三食プラス間食込みで自分達で作るのはさすがに無理だ。そこまでやったらトレーニングどころではなくなってしまう。そのため食堂で食べることになる。
そんなわけで長期間宿泊し、なおかつ掃除と洗濯は自分達で行う。ただし料理込み、というプランのため、微妙に安上がりな合宿と相成ったわけである。
まあ、ウマ娘三人に成人男性一人が泊まるわけだから、どう頑張っても滅茶苦茶安い、とは言えないが。こういう時のためのチームの部費である。あと、トレセン学園と提携しているから割り引いてもらえるし、トレセン学園から補助も出る。
「うわぁ……ウララちゃんの言う通り、すごいね」
「ふぅん……まあ、旅行ではなく合宿だし、無難といえば無難かしら」
ライスは素直に感動し、キングはお嬢様的な発言をしている。ただし、ウマ耳がぴくぴく動いているし、尻尾が左右に大きく振られている。
「まずは車から荷物を下ろすぞー。で、部屋で休憩して昼食だ。その後は近隣の設備の確認がてら、トレーニングをするからな」
初日ということもあり、トレーニングは軽めにする予定だ。まずは設備の確認を優先して、本格的にトレーニングするのは明日からになる。事前に設備の情報は得ているが、実際にこの目で見てからじゃないと安心して鍛えられないしな。
俺は一足先に受付でチェックインを済ませると、ウララ達と共にしばらくお世話になります、と挨拶をする。そして部屋の鍵を受け取り、早速宿泊する部屋に向かった。
これから当面の間生活する部屋は、俺が利用する部屋は8畳間だが、ウララ達が利用する部屋は生活用の8畳間に寝室用の8畳間、内風呂付きとかなり広い。3人で生活するため大きい部屋を選んだ結果である。
部屋が隣同士ではあるが、当然のように俺とウララ達の部屋は別々だ。同性なら同じ部屋で寝起きしてもいいのだろうが、俺は男である。ウマ娘ではなくヒト息子だ。いくら担当トレーナーと育成ウマ娘という関係だろうが、同じ場所で長期間生活できるものではない。俺は気にしないが、ウララ達は気にするだろう。
「おー! すっごーい! おっきなお部屋だー!」
「うわぁ……ライス、こういうところに泊まるの初めて……」
「内装も悪くないわね。不自由はしなさそうで良いことだわ」
ウララ達はこれから自分達が使う部屋を覗き込み、楽しそうな声を上げる。ただ、キングはやっぱり良いところのお嬢様なのか、先ほどから少々辛めの採点だ。
ウララ達が利用する部屋では生活用の8畳間に木製の座卓や掛け軸が飾られた床の間、座布団などが用意されている。さらにその隣に寝室用の8畳間があり、そちらには布団が用意されていた。寝室用の部屋から内風呂につながっており、いつでも風呂に入ることができるようになっている。
「あっ! こっちにお風呂がある! すっごーい!」
「ウララさん、それは内風呂っていうのよ? 温泉にいつでも入れるのはいいわね」
「3人で一緒に入れるぐらい大きいね……ライス、楽しみ」
ウララ達は内風呂を確認して更に楽しそうな声を上げた。うんうん、年相応の反応で俺としては嬉しい限りだ。
「まずは持ってきた荷物を出して生活しやすいように整理しておけよー。俺も自分の部屋にいるから、ひと段落したら声をかけてくれ」
俺はそう言って、自分の部屋に入る。8畳間のため生活に困ることはないだろう。座卓に座布団、布団に板の間と、いかにもな和風の部屋である。
俺はビジネスバッグからパソコンを引っ張り出して座卓に置き、更に外付けのハードディスクドライブを取り出す。研究用に集めた様々なレース映像を保存したもので、ファイル数は軽く三桁を超える。
パソコンを起動して旅館のWifiにつなげば、あら不思議。仕事環境の完成である。
(時代は進歩したもんだねぇ……ん? 待てよ……)
その時ふと、俺の脳裏に天啓が過ぎった。
隣の部屋のウララ達の声は聞こえない。防音がしっかりしているため、壁に耳を当てでもしない限り隣の部屋の音は聞こえないだろう。つまり、こちらからの物音も聞こえないということだ。
そしてこの合宿中、たづなさんから回される仕事は少ない……つまり、これはレースやライバルウマ娘の研究時間を大量に確保できたということでは……?
自宅にいれば家事などで時間を割かれるが、ここならそれほど時間も割かれない。なおかつ、他にやることもない。
つまり、ウララ達のトレーニングや仕事を片付ける時間を除けば、自由に研究の時間が取れるということで。
(やったぜ! 好きなだけ研究ができる!)
――と、羽目を外したくなるが、まあ、さすがに駄目だろう。
たづなさんにもしっかりと休むよう言われたし、やるとしてもほどほどで切り上げなければならない。というか、真夏の炎天下での合宿だし、休まないとぶっ倒れるだろう。
(でもちょっとくらいなら……バレへんか……)
最低でも、秋のレースでウララ達がぶつかるライバルウマ娘達に関しては再度研究しておきたい。しかし休養も必要なわけで……まあ、日中のトレーニングや仕事を片づけるだけで体力が限界になるかもしれないし、そこは追々考えるとしよう。
ひとまず荷解きを行い、旅館の食堂で昼飯を食べた俺達は、予定通り軽いトレーニングがてら近隣の設備を見て回ることにした。
今回の合宿において、利用できる設備は色々と存在する。
まずは海である。トレセン学園が所有するプライベートビーチになっており、砂浜は目の細かい砂が敷き詰められており、遠浅の海は水に浸かった状態で走る、なんてトレーニングも可能だ。海には鮫除けのネットも張られているため、水泳ももちろん可能である。
なお、遠泳して無人島でトライアスロンすら可能なように整備されていたりもする。無人島に関しては端から端まできちんと整備されているわけではないらしいが、ウマ娘が走れる道がきちんと設けられているらしい。
続いて山である。泊まっている旅館からほど近いところに存在するその山は、ウマ娘のトレーニング用に山道がきちんと整備されている。普段トレセン学園で使用している坂路と違い、天然の急勾配の坂道は足腰を鍛えるのにうってつけだろう。
更に、普通のトレーニング用のコースも近場に存在する。芝とダート両方のコースがあり、トレセン学園に雇われた職員がしっかりと整備をしてくれていた。夏以外の合宿がない時期は近隣に住む一般のウマ娘に有料で開放し、思い思いに走る姿が見られるらしい。
更に更に、室内プールやトレーニングジム、屋根付きのコースなども近場に整備されているため、悪天候の日のトレーニングも可能だ。
種類で見れば少ないかもしれないが、トレーニング用の器具なども借りられるため、いくらでもトレーニングの幅を増やせる。トレセン学園で使用していた巨大タイヤなんかも当然のように完備されていた。巨大タイヤを引きながら砂浜を走れば、さぞ足腰が鍛えられるだろう。
それだけならトレセン学園でのトレーニングと大差ないように思えるが、たとえば砂浜でトレーニングする際、波の音や潮の香りといった、
頑張ってトレーニングをしたあとはゆっくりと温泉に浸かったり、近くの温泉街を巡ってみたり、海辺を散策してみたりと、息抜きの方法も様々だ。
そうやって設備の確認をしつつ、散策しつつ、時折ウララ達を走らせつつと、合宿初日ということで軽い運動に留めていた俺だったが、ふと、遠目に見知った顔を見つけた。
(っと……あれは……)
近隣の宿泊施設の中でも最も大きく、最も
トレセン学園の最強チームである、チームリギルの面々だ。どうやらうちのように旅館ではなくホテルを利用しての合宿を行うつもりらしい。しかしさすがはチームリギル。泊まる場所も一流って感じである。
(ってか、集まってる面子がやべえ……一流どころか超一流だな)
シンボリルドルフを筆頭にエアグルーヴさん、ヒシアマゾンちゃんにフジキセキちゃん、タイキシャトルにグラスワンダーにエルコンドルパサー。あとは……ふわふわな長い栗毛に随分とプロポーションが良いウマ娘がいるな。あれは……マルゼンスキーだったか。
シンボリルドルフと同様に一線は退いているものの、あまりに強すぎてレースに出ようとしたら他のウマ娘が出走を回避し、レースが成立する最低人数の5人でレースをする羽目になった、なんてやばい子だ。しかもそれが4回あったあたり、本当にやばい。
それと見慣れない黒鹿毛のウマ娘がいる。長い髪をポニーテールにし、鼻の頭にシャドーロールをつけているが、ずいぶんとまあ刺々しい空気を放っている子だ。ただ、顔立ちは美人である。というか、ウマ娘はみんな美人だったわ。
(あれは今年の新入生の……ナリタブライアンだっけ?)
チームリギルに入ったウマ娘ということで、話題になっていたりする子だ。なお、話題になっているのは後輩トレーナー達の間での話である。ちょっとした雑談や相談を受けた際に、話に何度か出ていたのだ。
俺や同期達は新人ウマ娘を取ってないし、今のところはうちの子のライバルとしても考えていないためそこまで詳しく調べていないが、たしかビワハヤヒデの妹だったか。チームリギルに入れたということは、将来有望なウマ娘なのだろう。
「……すごい面子ね」
俺が感心するように眺めていると、隣に立つキングが苦々しく呟く。
「たしかになぁ……あの子たちの練習風景を撮影して売れば、それだけで大金が稼げそうだ」
もちろんそんな真似はしないが、日本のウマ娘の中でもトップクラスの実力と名声を持つウマ娘が多くいるのだ。トレーナーとしては練習風景を覗きたいところである。
なお、トップクラスであって、長距離に限れば俺のライスがトップだ。そこは譲らない。だからキング、羨ましがる必要はないんだぞ? お前は現役最強のステイヤーが直々に可愛がって……うん、鍛えてくれてるんだからな。
「あっ! エルちゃんとグラスちゃんもいる! ねえトレーナー! 行ってきていい?」
「真剣な話をしているみたいだし、声をかけるのはまた今度、だな」
さすがにウララを突撃させたら邪魔になるなんて騒ぎじゃない。大魔王様に睨まれたら俺は即死するぞ。
「あら……あなたたちも合宿かしら?」
なんて思っていたら大魔王さ……東条さんにエンカウントした。違った、向こうから声をかけてきた。
「お疲れ様です、東条さん。お邪魔したようですみません」
俺が東条さんに向かって一礼すると、東条さんは意外にも柔らかい笑みを浮かべた。
「ちょうど話も終わったところだったし、気にする必要はないわ。合宿は初めてだったわよね? 何かわからないことはないかしら?」
おっと……雰囲気だけでなく、今日の東条さんはずいぶんと優しいぞ。なんだ? 何かあったっけ?
「なにぶん、初めて尽くしですからね。それでも可能な限りうちの子達を鍛えてみますよ」
「頼もしいことだわ。ああ、そうそう、ライスシャワーの宝塚記念とハルウララのジャパンダートダービー、映像だけど見たわよ。惜しかったわね」
しかしわざわざ東条さんが声をかけてきてくれた以上、無碍な反応もできない。そのためウララ達に柔軟運動をしておくよう指示をすると、俺は東条さんと言葉を交わしていく。
「惜しかったって言ってもらえるのは嬉しいですけど、負けは負けですからね……あの時の悔しさをバネに、今回の合宿は熱が入りそうですよ」
「ふふっ……あの時のメジロマックイーンやスマートファルコンを見てそう言えるのなら、何も心配はいらないわね。それに、新しく入ったキングヘイロー……今後はうちのグラスともぶつかることになりそうね」
そう言って、すっと目を細める東条さん。さすがは大魔王様だ、視線の圧がすごい……っ!
「グラスワンダーは……怪我が治ったようですけど、本格的なトレーニングをしても大丈夫なんですか?」
俺は視線を逸らすようにして、遠くのグラスワンダーを見る。準備運動を行っているが、その動きを見る限り故障は完治したようだ。ただ、昨年末から今まで治療に時間がかかっているため、すぐさまレースに出るのは難しいだろう。
グラスワンダーは目算で測った感じ、身長が150センチと少々。綺麗な栗毛が眩しいウマ娘だ。傍目には大人しそうな大和撫子といった風貌である……が、なんかあの子、怖いというかなんというか、ヒヤッとするものがある。
ライスと同じ、レースガチ勢の気配がする……いやうん、ウマ娘はみんなレースには
「あなたの目にはどう見えるのかしら? 大丈夫そうに見える?」
「え?」
俺がグラスワンダーを観察していると、なんか妙な質問をされた。俺が驚いて視線を向けると、東条さんは試すような目を俺に向けてくる。
「さ、さすがにこの距離からじゃなんともいえないかな、なんて……」
「そう……グラス! こっちに来てちょうだい!」
ええ? 東条さんがグラスワンダーをこっちに呼び寄せたぞ……何? 俺に何をさせたいの?
「トレーナーさん、何かご用ですか?」
俺が困惑している間に、グラスワンダーが近くへと寄ってきた。そして東条さんと一緒にいる俺へと不思議そうな視線を向けてくる。
「紹介するわ。チームキタルファのトレーナーよ」
「チームキタルファ……ああ、ウララちゃんのトレーナーさんですね。初めまして。グラスワンダーと申します。ウララちゃんから色々とお話を聞いていますよ」
「初めまして、チームキタルファのトレーナーです」
ウララ、一体何を言ってるんだろうか。グラスワンダーが俺に向けてくる視線が妙に温かいというか、ウララのトレーナーだとわかったら一気に警戒心が消えたんだが。
「あっ! グラスちゃんだー!」
ウララもグラスワンダーに気付いたのか、笑顔でぶんぶんと手を振る。それに気付いたグラスワンダーは淑やかに微笑んで右手を振って返した。
「で、あなたの見立てはどうかしら? あなたならこの子をいつ頃レースに出そうと思う?」
そしていきなりぶっ飛んだ話題を振ってくる東条さん。えーと、これは一体どんなリアクションを求められているんだろうか。優しげなのは表面だけで、内心ではやっぱり邪魔しに来たとでも思っているんだろうか。
だが、東条さんが育成しているウマ娘を間近で見られるチャンスだ。俺は一言グラスワンダーに断ってから、グラスワンダーの周囲をぐるぐる回りながら観察する。
(うーん……たしか故障したのは右足だったよな)
俺はグラスワンダーに軽くその場で動いてもらう。そして両足をじっくりと眺めると、思わず感嘆の息を吐いてしまった。
(さすがは東条さんだ……故障した足を庇って筋力が偏りそうなもんなのに、綺麗にバランスが取ってある……)
蹴られそうなのでさすがに触ったりはしないが、軽く観察した限りでは左右均等に……いや、利き足との筋力差を考慮した形で筋肉を付けているのが伺える。
うーん、蹴られそうだけど触ってみたい……。
「触って確認しても?」
断られるだろうけど、聞くだけはタダだ。いや、タダじゃないな。俺が社会的に致命傷を負う危険性があったわ。
「構いませんよ」
「え? いいの?」
だが、グラスワンダーはあっさりと承諾した。俺がそれに驚きつつグラスワンダーの顔を見る――と、あ、この子アレだ。目がやばい。目付きがやばいんじゃなくて、下手するとライス以上にレースガチ勢かもしれん。
でもこの素晴らしい足が、俺を誘惑するんだ……。
「では失礼して……ん?」
一言断ってからグラスワンダーの足に触れる。そして俺はすぐに眉を寄せた。
「バランスは良いけど、ちょっと筋肉が足りないような……この子の元々の筋力がわからないからなんとも言えないですけど、俺だったらまだ当面は鍛えますね」
「それなら、いつぐらいにレースに出すのが無難かしら?」
「無難というか、出すだけなら今すぐにでも出せると思いますよ? ただ、模擬レースならまだしも、本番のレースで本気出したら高い確率で故障すると思うんで、俺なら絶対に出しません。この夏の合宿でしっかり鍛えて……秋に入ったあたりじゃないですかね?」
俺が東条さんの質問に答えていると、グラスワンダーから驚いたような目で見られていることに気付く。それに首を傾げていると、東条さんが少しばかり険しい口調になった。
「そういうわけよ、グラス。あなたの体は他のトレーナーが少し確認しただけでも
「……はい!」
グラスワンダーは一瞬沈黙したが、すぐさま元気よく返事をする。そして俺に向かって一礼したかと思うと、先ほどまでいた場所へ戻って準備運動を再開した。
「いきなりで悪かったわね。あの子、仲が良い子が輝かしい結果を出しているから焦っているのよ」
これで少しは落ち着いてくれるといいのだけど、と言いながら頬に手を当てる東条さん。どうやら俺は、東条さんにとって都合の良いタイミングで顔を出してしまったらしい。
「なんだよおハナさん、後輩をいびるのは感心しないな」
そして、俺がどうリアクションすれば良いか迷っていると、何故かチームスピカのトレーナーが姿を見せた。
チームリギルが泊まるホテル……ではなく、そのすぐ傍に建てられたボロボロな旅館から顔を出し、ひょっこり歩いてきたのだ。
「いびってないわ。少し協力してもらっただけよ」
「よく言うぜ。よう、災難だったな」
そう言いながら棒付き飴を咥えるスピカの先輩。東条さんはそんな先輩の姿にため息を吐き――って、どっちかというと嬉しそうな気配が……? まあ、多分気のせいだろう。
「災難というか、幸運でしたよ。東条さんが鍛えているウマ娘の足回りをチェックできましたからね。むしろこっちがお礼を言いたい気分です」
「お、マジか。うんうん、後輩よ。お前は素質があるよ」
俺の肩を親しげに叩く先輩。しかし、東条さんは呆れたように頭を振る。
「その人みたいに、いきなり見知らぬウマ娘のトモを触って確認して蹴り飛ばされたりしないようにしなさい。下手したら捕まるわよ」
「いや、さすがにそんなことはしませんよ……触って筋肉の付き具合を確認したいな、なんて思うことはよくありますけど」
「だよなー。話がわかるぜ」
何故か先輩は嬉しそうだ。優秀そうなウマ娘がいたら、筋肉の付き具合が気になるのはトレーナーとして職業病なのかもしれない。
「……ほどほどにしなさいよ」
あ、東条さんの目がやばい生き物を見るような目になってる!? すすっ、と少し距離を空けられたわ。
「でもよおハナさん、さすがに後輩を好きに使ってはいサヨナラはないんじゃないか?」
先輩がそう言うと、東条さんは俺へと視線を向けてくる。
「……それもそうね。あなたさえよければ、合宿中にうちの子と模擬レースでもしましょうか」
「っ!? いいんですか?」
思わぬ提案に、俺は前のめりになる。チームリギルのメンバーと模擬レースなんて、望んでもできることじゃない。
「おっ、いいねぇ。おハナさん、俺も参加させてよ。うちからはテイオーとマックイーン、それとスペを出すからさ」
「好きになさいな。連絡先は……」
「俺が知ってるからあとで電話するよ。というか、今晩空いてる?」
おっと、先輩が東条さんにキリッとした顔を向けた。東条さんは面食らった様子だったが、すぐに視線を逸らしながら頷く。
「別に、構わないわ……トレーニングの後なら空いているから」
「よっし! それじゃあ決まりだ! あ、お前さんはどうする?」
先輩が飲みに誘ってくれる……が、いや、これで同行するのはちょっと……。
「すみませんが、ウララ達の面倒をみないといけないんで……」
そう言って、話が詳しく決まれば先輩の方から連絡をもらうということになったのだった。
こうして、チームキタルファの夏合宿がスタートしたのである。
「……あっ。先輩が以前言ってたおハナさんって、東条さんのことだったのか」
そしてその日の帰り道、俺はちょっとした疑問が解消したのだった。