リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐ 作:烏賊メンコ
ウララのメイクデビューから日が過ぎ、7月になった。季節は梅雨と夏の合間といった具合で、夏本番と言えるほど暑くはないが蒸し蒸しとした暑さが堪える時期である。
これからの時期はこれまで以上にウララの体調に気を付けなければならない。少し動くだけでも汗ばみ、長時間走れば全身汗だくになるほどの暑さがあるからだ。
そして俺は、そんな暑さとは無縁の冷房が効いた理事長室にいた。ついでに言えば、俺の視線の先には机を挟んで秋川理事長が理事長席に座り、その隣に駿川さんが立っていた。
とても涼しく快適な温度が保たれた理事長室だったが、俺は先ほどから背中に冷や汗が流れるのを感じ取る。用意された椅子に座ったものの、背もたれが汗で濡れないか心配するほどだ。
7月といえば夏。しかし、一部の社会人にとってはテンションが上がる季節でもある。
(ボーナスが支給されるぜやったー、と素直に喜べないこの状況……たまりませんわ)
俺は表面上はポーカーフェイスを装いながら、心中で独白した。気のせいか胃がキリキリと痛むような気さえする。
中央に所属するトレーナーは高給取りの部類で、中でもトレセン学園に所属するトレーナーは夏と冬にボーナスが出る。しかも配属初年度にも拘わらず、夏のボーナスは寸志ではなく満額出るというのだ。
その点、俺は喜んでいた。普段の月給もそれなりに高いが、ボーナスはまた格別だ。ボーナスという響きはとても素敵だ。テンションが上がる。
問題があるとすれば、支給されるボーナスが俺の勤務評価によって算出されるという点だった。
勤務評価で給料やボーナスが算出されるというのは普通のことだろう。だが、俺の職業はウマ娘のトレーナーである。何を以てトレーナーの勤務評価が決まるかといえば、普段の仕事ぶりと担当ウマ娘の実績によって決まるのだ。
俺が担当するウマ娘は、当然ハルウララ。そんなウララの実績は、メイクデビューで9人中9着。それを知ったトレセン学園のトップである秋川理事長と理事長秘書である駿川さんが、どう評価するか。
(胃薬飲んでくれば良かったなぁ……)
中学生時代は運動部で、トレーナーの養成校に行ってからもトレーナーは体力勝負だからと体を鍛えていた。持病もないしトレセン学園に配属された際に受けた健康診断も全項目で優良だったのだが、変な物を食べたわけでもないのに胃が悲鳴を上げている気がする。
自信満々にウララの育成を引き受け、ふたを開いてみればメイクデビューで9着である。
この状況で何も感じないほど俺は図太くないのだ。
9着に終わったウララのメイクデビューだが、俺としては運が悪かっただけでかなり手応えを感じている。あのアクシデントがなければ1着が取れていたと断言できるほどだ。
しかし、実際の結果は9着だ。これは覆しようのない結果で、その事実が俺の胃をチクチクと責め立てる。
頑張ったからと評価されるのは学生までで、社会に出れば結果が求められる。ウマ娘はレースの結果が全てであり、そんなウマ娘を育てるトレーナーも同様だ。さすがにクビになることはないだろうが、俺の評価はかなり悪いだろう。
そして、新人トレーナーに過ぎない俺が何故理事長室にいるかというと、俺の上司が理事長になるからだ。これはトレセン学園に所属するトレーナーの多くがそうであり、どこかのチームでサブトレーナーとして働いている者以外は該当してしまう。
サブトレーナーならば所属しているチームのトレーナーが直接的な上司になるが、俺は理事長が上司のためこうして理事長と駿川さんを相手に人事面談を受けることになったのだ。
一般企業でたとえるならば、新入社員の人事面談を社長が担当するようなものである。それだけ理事長が仕事熱心だといえるかもしれないが、俺としては遠慮したい気分だった。
「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
冷や汗で塗れたカッターシャツが背中に張り付くのを感じ取った俺だったが、まるでそれを見抜いたかのように駿川さんが尋ねてくる。
「ハハハ……夏の暑さが堪えているのかもしれませんね」
「懸念ッ! 体調管理はしっかりとしたまえよ!」
「はい、それはもちろん……」
俺は必死にポーカーフェイスを維持しながら答える。そして、今世で初となる人事面談が始まった。
「それではまず、こちらの書類をご確認ください。あなたの勤務評価になります」
俺は駿川さんから差し出された封筒を受け取り、中に入っていた書類を引っ張り出す。そして一度深呼吸をしてから内容を確認した。
大きくわければ普段の勤務に対する姿勢、担当ウマ娘のトレーニングに関する評価、そして担当ウマ娘の実績の三項目があり、それぞれが更に細かく項目を分けられているようだ。
まるで学校の通知表のように各項目の評価値が記載されていたが、内容を確認した俺は思わず首を傾げていた。
(思ったより悪くない……いや、むしろ良い方じゃないか?)
評価というものは低いよりも高い方が嬉しいものだが、俺が怪訝に思うほど人事評価の内容が良かった。さすがにメイクデビューで9着を取った影響で一部の評価が低かったが、それも思ったほど悪いものではない。
総合的に見ると、100点満点でいえば70点ほどの評価値が記されていたのだ。俺としては50点を切って40点すら下回ることすらあり得ると思っていたため、不安になるほどの高評価である。
「何か不明な点がありましたか?」
「い、いえ、不明な点といいますか、思ったよりも評価が高くて驚いたといいますか……」
実は別人の人事評価ではないだろうか、などと思いながら尋ねる。すると、駿川さんは苦笑しながら首を横に振った。
「それでは各項目でどのように評価したかを説明させていただきますね」
「それは……ありがたいですが、お時間は大丈夫ですか?」
トレセン学園に所属するトレーナーは俺だけではない。他にも百人単位でトレーナーが在籍しているのだ。そのためあまり時間を取るのも申し訳なく思っていると、再び駿川さんが苦笑を浮かべる。
「大丈夫です。こうしてしっかりと時間を取るのは新人のトレーナーさんだけで、二年目以降の方は慣れているのもあって一人あたり十分程度で終わりますから」
そんなものなのか、と俺は納得した。そして駿川さんが語る評価内容に耳を傾けていると、ウララの育成に関して言及される。
「ハルウララさんに関しては、この学園に入る前と比べて格段に成長されていますね。トレーナーさんが彼女一人だけを担当すると仰った時は驚きましたが、現状では素晴らしい結果だと我々は評価しています」
「は……それは、嬉しいですね、はい。しかしメイクデビューでは9着だったんですが……その辺りは?」
思ったよりもべた褒めしてくる駿川さんに、俺は恐る恐る尋ねる。ウララの実績に関しては5段階評価で1がついてもおかしくないはずだが、評価の上では3がつけられていた。
「たしかにメイクデビューにおけるハルウララさんの成績は芳しいものではありませんでした。しかし、あのレースはアクシデントがなければ1着を取れていたでしょう。その点を考慮しての評価になります」
「ありがとうございます……って、あのレースを見ていたんですか?」
思ったよりもウララの走りぶりが評価されたことに、俺は頬が緩みそうになった。しかしそれを堪えて尋ねると、理事長が音を立てて扇子を開く。
「無論ッ! このトレセン学園に所属する生徒達の晴れ舞台だ! 現地には行けずとも全てのレースをテレビで見るようにしている!」
「ハルウララさんのレースは次回に期待ができるものでした。トレーナーさんが日頃教えていることがしっかりと活かされていましたし、今後が楽しみです」
そう言って微笑む理事長と駿川さん。そんな二人を見ていると、意外と結果だけではなく過程も評価してくれるのかもしれないと俺は思い直す。
「ありがとうございます。今後もウララと一緒に頑張っていきます」
「はい。我々も期待しています」
「同意ッ! 君とハルウララには大いに期待している――が」
不意に、理事長の表情が真剣なものに変わった。そして、可愛らしい外見に見合わないほどの迫力を滲ませながら言う。
「ハルウララの走りを評価したのが我々だけとは限らない。それを留意して今後励んでほしい!」
「は、はい!」
最後に普段の調子に戻る理事長に対し、俺は背筋を伸ばして返事をするのだった。
「ふぅ……緊張したぁ」
普段使用しているトレーナー用の共用スペースに戻った俺は、椅子に腰かけるなり大きく息を吐いた。
人事評価は思ったよりも上々で、理事長と駿川さんの評価も素直に嬉しい。その分、今後のウララの成績次第では厳しい評価を受けるだろうが、現状では高評価だったと言えるだろう。
ボーナスに関してはウララがメイクデビューで9着だったため賞金などの分はなく、かなり寂しいことになるが。
「お疲れ様です。面談はどうでしたか?」
俺が一息ついていると、隣の席にいた桐生院さんが尋ねてくる。椅子から立ち上がって笑顔で俺のすぐ傍まで来るが、その距離が妙に近いように感じるのは俺の気のせいだろうか。
桐生院さんとはウララのトレーニングに協力してもらったこともあり、以前と比べればだいぶ打ち解けてきたように思う。ただ、桐生院さんは相変わらず他の同期との距離感が掴めていないのか、俺以外の新人トレーナーと親しく話す姿を見た覚えがなかった。
「ぼちぼちってところですね。そちらはどうでしたか?」
俺がそう尋ねると、桐生院さんは困ったような顔になった。
「良い評価をいただけた……とは思うのですが、他の方がどういった評価を受けているのかわからないので……」
「既に面談を終えている同期から……いえ、なんでもないです。よければ俺のやつ見ます?」
思わず言いかけたことを切り上げ、俺は先ほど駿川さんから受け取った封筒を取り出す。すると桐生院さんは目を輝かせ、ベストの内側に手を入れて俺が差し出したものと同じタイプの封筒を取り出した。
「是非お願いします! 学生の頃からこういうのってしてみたかったんですよね!」
「そ、そうですか……」
『なあ、お前テストどうだった?』、『見せあおうぜ!』みたいなやり取り、小学生とか中学生の頃に友達としそうなもんだが。女の子の場合はやらないんだろうか?
そんな疑問を覚えながらも、俺は桐生院さんの封筒を受け取る。人事評価の結果など率先して他人に見せるものではなく、俺としては笑いながら『嫌ですよそんなー』みたいな反応が返ってくると思っていたのだ。
それでもキラキラとした目で見てくる桐生院さんに、今更冗談ですとも言えない。そのため封筒の中身に目を通すと、俺は思わず遠い目をしてしまった。
(なんだこりゃ……さすが名門出身って言われてるだけあるってことか?)
俺の人事評価を70点だとするならば、桐生院さんの人事評価は95点近くあった。ほぼ満点である。
桐生院さんが担当しているハッピーミークはメイクデビューで芝の1600メートル、すなわちマイル走に出走し、先行した結果他のウマ娘がついてこれずに大逃げする形になり、そのまま後続を振り切って2着に5バ身近い差をつけて1着になっていた。そのため高評価だと思ったが、予想以上に高い評価を受けているようだ。
勤務評価、トレーニングの成果、担当ウマ娘の実績、その全てが高いレベルでまとまっているといえる。
もちろんハッピーミークはメイクデビューで勝っただけで、これからも良い結果を出し続けるとは限らない。しかし、メイクデビューで勝利した時点で他のウマ娘の担当トレーナー8人よりも上に立ったといっても過言ではないのだ。
「これは……すごいですね。さすが桐生院さん」
俺は素直に褒める。すると、俺の人事評価を見ていた桐生院さんはウマ娘ならば耳を激しく動かしそうなほどに反応した。
「す、すごい……ですか?」
「ええ、すごいです」
「ほ、本当ですか?」
「本当です。すごいです」
手持ちのスマートフォンに話しかけた方がもっと褒め方にバリエーションがあるんじゃないかな、なんて思いながら俺は桐生院さんを賞賛する。すごいと思うのは本心だが、褒め方に関しては手抜きだ。
(なんか、褒め過ぎたり踏み込み過ぎたりすると、そのまま向こうの方から一気に飛び込んできそうな気がするんだよな……)
異性が相手でも友達だから、とか、ハッピーミークのためだから、とか言って無警戒にどこにでもついていきそうな雰囲気があるのは俺の気のせいだろうか。
(いや、そんな馬鹿な話があるか……失礼なことを考えたな)
口に出していたら殴られても文句は言えないだろう。世話になった桐生院さんに対してそんな馬鹿なことを考えた俺は、人事評価の紙を受け取りながら軽く話を振る。
「そうだ、ボーナスが出たら飲みにでも行きませんか? 桐生院さんには色々お世話になってますし、奢らせてくださいよ」
世間話半分、本気半分といった感じで俺は桐生院さんを誘う。ウララはメイクデビューで負けたが、ハッピーミークとの併せがあったからこそあれほどのレースができたと俺は思っている。
そのお礼も兼ね、仕事帰りに食事なり酒なり奢らせてもらえればと思った。桐生院さんの雰囲気には合わないかもしれないが、居酒屋で仕事帰りの一杯を、といった具合である。
「えっ……そ、そういうのはもっとお互いをよく知ってからにするべきだと思いますっ」
「……? そう……ですか?」
同僚と仕事帰りに飲みに行くぐらい、誰でもすると思うのだが。しかし桐生院さんからすると、俺は仕事帰りに一杯奢られるのも拒否してしまうぐらいの関係らしい。
いや待て、と俺は思い直す。同僚ではあるが異性に誘われて飲みに行くのはさすがに警戒するし、拒否もされるだろう。俺としては中身の年齢もあって桐生院さんもウララも異性として見ておらず、大して変わらないのだが、桐生院さんから見れば話は別だ。
「んー……ああ、別に俺と一対一でってわけじゃないですよ? 担当しているウマ娘のスケジュール次第でしょうけど、他の同期も誘って行くって感じで」
「そっちの方が難易度が高いですよっ!?」
(えっ? そうなの?)
そうなんだろうか……そうなのかも、と俺は納得する。
親しく付き合っているわけではないが、わざわざ桐生院さんが嘘を吐く理由もない。桐生院さんからすれば同僚達と飲みに行くのは難易度が高いようだ。
「ちなみに、お互いをよく知るというと……たとえば?」
俺は少しばかり興味を引かれて尋ねる。すると桐生院さんは僅かに考え込んだあと、恐る恐る告げた。
「それは、その、一緒にカラオケに行く……とかでしょうか」
一緒に飲みに行くのと、カラオケという閉鎖的な空間で一緒になるのはどちらが難易度が高いのだろうか。俺としては料理や酒で話題を稼げる分、飲みに行く方が気楽だと思うのだが。
カラオケでも料理や酒を注文できるが、男女二人で利用するとなると居酒屋より難易度が高いと俺は思う。
「なるほど……いえ、急な話でしたし、これからハッピーミークの育成も本格化していくから大変ですよね。失礼しました」
お礼はまた別の形で用意しよう。俺はそう思った。きっとそっちの方が良いと、そう思ったのだった。
6月後半に行われたメイクデビューだが、ウララが負けた以上、今後は未勝利戦での勝利を目指すことになる。
未勝利戦の機会は多いものの、俺は困った事態に直面していた。
(なんでダートの短距離は一ヶ月も開催されない時期があるんだ……)
それは、ウララの適性距離である短距離ダートの未勝利戦の開催時期に関してである。
メイクデビュー以降、早いものでは7月の前半に未勝利戦が行われる。短距離ダートもそれは同様だったが、それを逃せば次のレースが8月後半になるのだ。
他のレースとの兼ね合いもあるのだろうが、8月後半以降になると短距離ダートの未勝利戦は半月に一度は開催される。
少しでも早く上のクラスに上がれることを期待して、すぐさまレースを申し込むか。それとも8月後半までウララを更に鍛えるか。
「ウララはどう思う?」
放課後になったため合流したウララに話を振ってみると、ウララは普段通りの笑顔で首を傾げた。
「走れるならいつでもいーよ!」
「怪我もしてないし、調子も良いしな……どうしたもんか」
7月に入ったばかりだが、出走登録をする必要があるため考える時間はほとんどない。仮に出走登録をしても人数が多ければ抽選になる可能性もあった。
(メイクデビューを見た限り、今のウララならハッピーミークみたいな強いウマ娘に当たらない限り勝てると思うんだが……抽選で落ちる可能性もあるし、申請するだけしておくか?)
申請が通れば未勝利戦に出走、仮に抽選になって選ばれなければ8月後半の未勝利戦に出す。そんな判断ができるぐらいにはウララも仕上がっている。
メイクデビューで敗北したが、精神的な悪影響はない。体も健康そのもので、砂が直撃して腫れた目も二日と経たない内に元に戻った。
「よし……それじゃあ来週にある未勝利戦に出るか」
ウララは大丈夫だが、他のウマ娘はメイクデビューに敗北したことで精神的なダメージを受けている可能性もある。もしかすると出走するウマ娘の数が少なく、ウララにとって有利な条件で戦えるかもしれない。
「来週? またレースに出られるの!?」
「もしかしたら出走の申請が多くて抽選になるかもしれないが、その予定で進めようと思う。構わないか?」
「うんっ! よーし、ワクワクしてきた! がんばるぞー!」
見る間にテンションを上げるウララの姿に、俺は苦笑を浮かべると同時に頼もしくも思う。
ウララは他のウマ娘と比べて勝利への欲求が乏しいが、その分、精神的に打たれ強いとも言えた。正確にいえば走ること、レースを楽しむことを最優先にしている節があるが、負けてもへこたれないのは一種の才能である。
(そうだ……仮に勝利への意欲が薄くても、ウマ娘である以上1着を目指す本能がある。あとは俺が、
そうすれば自ずと結果はついてくる。メイクデビューの時のように運の良し悪しで敗れることはあるかもしれないが、ウララならばきっと、どんなウマ娘にも勝てるようになる。
(うん……ダートの短距離限定ならなんとかってところだけど……マイルはまだ無理かなぁ)
ウララにもっと体力がつけば、短距離だけでなくマイルのレースにも出すことができる。しかし現状では短距離で未勝利から抜け出すしかなく、俺はウララに準備運動を指示し、その間にウララの未勝利戦の出走申請を行うのだった。
そしてその翌週。
抽選で漏れることもなく迎えた未勝利戦のレース展開を見て、俺は思わず呟く。
「……そう、きたか」
そこには、他のウマ娘にマークされながら走るウララの姿があったのだった。