リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐ 作:烏賊メンコ
菊花賞のパドックでのお披露目が始まり、最初に姿を見せたのはミークだった。
『1枠1番、ハッピーミーク』
専用の勝負服で身を包んだミークの立ち姿をじっと見詰め、俺は一つ頷く。
(調子は良さそうだな……体の仕上がりも良い)
さすが桐生院さん、と俺は内心で呟く。ミークは芝とダートの両方を走れて、なおかつ距離も問わないというとんでもない才能を持つウマ娘だ。しかし皐月賞と日本ダービーに出たことから、クラシック三冠最後の菊花賞にも当然のように出てきたらしい。
『2枠4番、セイウンスカイ』
続いてチェックしたのはセイウンスカイだ。日本ダービーではどことなく調子が悪そうだったが……。
(……ん? これは……)
調子は悪くなさそうだ。いや、むしろ良さそうな感じだが、いまいち読めない。
セイウンスカイはとぼけたような表情で観客に向かって手を振っているが、その表情とは裏腹に確固たる自信を感じるというか、なんというか……。
「ウララ、あの子はいつもあんな感じなのか?」
「スカイちゃん? うん、そうだよー!」
どうやら普段通りらしい。でもウララが友人のことを悪く言うことはないだろうしなぁ……表情がとぼけているというのもあるが、どうにも未知数な怖さを感じる子だ。
『4枠7番、ビワハヤヒデ』
続いてチェックしたのはビワハヤヒデだ。相変わらずの恵体で、以前見た時よりも大きくなっているような気がする。
「前に見た時よりもデカくなった、か……?」
俺がそう呟くと、何故かビワハヤヒデの視線がこっちを向いた。そして目が合ったため首を傾げると、ビワハヤヒデも首を傾げる。
調子は良さそうで、体の仕上がりもばっちりだ。
『5枠9番、キングヘイロー』
そして続いてチェックした……というより、注目したのはキングだ。キングは堂々と胸を張り、自信満々といった様子で観客達を見る。しかし……。
「本当に出てるよ……」
「長距離走れるのか?」
「絶対にスプリンターだと思うんだけどなぁ」
歓声よりも、戸惑いの声が大きい。そんな周囲の声を聞いた俺は、キングと目が合ったため腕組みをしながら頷く。するとキングは柔らかく微笑み、スカートの裾を摘まんで一礼した。
うん、気負ってる感じもないし、緊張も適度な感じで問題はなさそうだ。
『5枠10番、ウイニングチケット』
この子も……調子が良さそうだな。明るい笑顔を浮かべて観客達に向かってピースをしている。ウララとは違う系統の、明るいスポーツ少女って感じだ。
ただ、調子もそうだが体の仕上がりも良い。というか、菊花賞に向けて他のウマ娘共々きっちりと仕上げてきたのだろう。
『8枠16番、オグリキャップ』
オグリキャップは相変わらずぼーっとして……いない? なんというか、気負った様子で表情を引き締めている。
(調子は……良くはないけど、悪くもないって感じか。仕上がりは良さそうだけど……)
以前のぼーっとした顔付きならいまいち読めなかったが、今回は別だ。明らかに気負った様子でパドックへ姿を見せたオグリキャップに、俺はふむ、と声を漏らす。
スペシャルウィークと並んで菊花賞の優勝候補だと思ったが、若干怪しいかもしれない。
『8枠17番、スペシャルウィーク』
そして次に出てきたのがスペシャルウィークだ。明るい笑顔を浮かべ、気合十分といった様子である。体の仕上がりも良いし、強敵として立ちふさがるだろう。日本ダービーに続いて菊花賞を獲れるレベルにあるウマ娘だ。
スピードにスタミナ、そして根性。そのどれもが、キングに勝るとも劣らないウマ娘である。
『8枠18番、ナリタタイシン』
最後にチェックしたのがナリタタイシン……なのだが。
(調子は……悪そうだな……体の仕上がり自体は悪くない。でも他の子と比べると若干見劣りする……か?)
追い込みウマ娘としてレース終盤に前方のウマ娘をまとめて抜き去る子だが、どうにも覇気がない。集中できてないというか、やる気を感じられないというか……演技かもしれないが、脅威には感じない。
しかし、そう見せかけているだけでレース本番ではとんでもない走りを見せることもある。油断はできないだろう。
「ライスなら誰をマークする?」
キングが近付いてくるのを眺めながら、俺はライスに軽く話を振る。すると、ライスは僅かに悩んだ様子で答えた。
「今日ライスが走るなら……ビワハヤヒデさん、かな? あと、なんとなくセイウンスカイさんが怖い気がする」
「ふむ……」
俺も今日の面子でライスにマークさせるならビワハヤヒデだろう。スペシャルウィークでも良さそうだが、ほんの僅かにビワハヤヒデの方が怖い感じがする。
キングを挙げないのは、俺もライスもキングを可愛がっているからだ……というのは建前で、キングよりもビワハヤヒデの方が体の仕上がりが良いように見えるというのもある。
(うーん……やっぱり体が大きいってのは才能だよなぁ……いくらウマ娘は体格じゃないっていっても、ビワハヤヒデの方が体付きがしっかりしてるように見えるし……)
だが、それでも勝つのはキングだ。俺はそう信じ、歩み寄ってくるキングをパドックの柵越しに迎える。
「それじゃあ行ってくるわね」
「ああ、行ってこい。怪我せず、楽しんで走って勝ってこい」
俺は普段ウララにかけるような言葉をキングにかけた。ここまでくれば、俺にできることはない。キングの緊張をほぐすように、笑って声をかける。
「キングちゃん、がんばってね!」
「レースの途中できつくなったら、ライスとの特訓を思い出してね?」
「ありがとう、ウララさん。ライスさんの方は……ふふっ、それはさぞ、力が出そうね」
ウララは純粋に応援を、ライスは発破をかけるように声をかけ、キングは楽しそうに微笑む。
そうして、菊花賞の幕が上がった。
『澄んだ秋晴れの空の下で始まります。京都レース場第11レース。芝3000メートル、クラシック三冠の終着点。GⅠの菊花賞。バ場状態は良の発表となっております』
『とうとうクラシック三冠最後のGⅠレースが始まりますね。今日は……いえ、今日も超満員の京都レース場です。天気は快晴ですが秋らしい陽気で気温もそこまで高くありません。走るウマ娘にとっては絶好の気候と言えるのではないでしょうか』
京都レース場にファンファーレの音が鳴り響き、実況と解説の男性が言葉を放つ。
パドックからコースの観客席へと移動した俺達は、最前列でレースが始まるのを今か今かと待っていた。
菊花賞は3000メートルの右回りかつ外回りで、スタート位置は向こう正面、それも淀の坂の手前からのスタートという変則的なものだ。いきなりスタミナの消耗が激しいコース編成である。
『1枠1番、ハッピーミーク。5番人気です』
『皐月賞では14着でしたが、日本ダービーでは5着と順調に力をつけてきているウマ娘です。好走に期待したいですね』
各ウマ娘のゲートインに合わせて、軽い紹介が入る。それを聞いた観客達は名前を呼ばれたウマ娘を応援するように声を上げるが、人気によって声援の大きさが変わってしまうのは……まあ、仕方ないことか。
その点、ミークは5番人気に推されているため、ファンの評価も高いのだろう。ふんす、といわんばかりに胸の前で拳を構えてゲートに入っていく……んだが。
(あのフランスパンみたいな靴は一体なんなんだろうな……)
前々から気になっていたんだが、ミークが履く靴はフランスパンみたいな形をしている。それがちょっと気になったが、走るのに難儀しそうなのに全くしない、むしろ調子が良さそうに走るという、謎の靴だ。まあ、専用の勝負服を着たら力が引き出されるのがウマ娘である。今更か。
『4枠7番、ビワハヤヒデ。3番人気です』
『うーん、良い仕上がりですねぇ。4着になった日本ダービーの時よりも更に大きくなったでしょうか。その分、体付きも仕上がって……あれ? こっちを見てます?』
奇数番号が先にゲートインするということで、ビワハヤヒデがゲートに入る。しかし解説の男性の言葉を聞くと足を止め、離れた場所にある実況席を威嚇するようにじっと見つめた。
結局は誘導係がビワハヤヒデをゲートに押し込むが、ビワハヤヒデはゲートインした後もじっと実況席を見詰めている。
『5枠9番、キングヘイロー。8番人気です』
『先日のスプリンターズステークスで1着を獲ったウマ娘です。しかし、スプリンターズステークスで勝ったことから長距離適性への疑問視があったのでしょう。これまで出たレースと比べると人気が下がっていますね』
キングの名前が呼ばれて観客席から声援が飛ぶ。しかし同時に、ブーイングも飛んでいる。スプリンターズステークスで勝ったキングを、1ヶ月後に菊花賞へ出したことへの抗議だろうか。ということはキングではなく俺へのブーイングだ。ならば問題はないな。
『8枠17番、スペシャルウィーク。1番人気です』
『さすがはダービーウマ娘ですね。堂々の1番人気です。パドックで見た感じでは調子も良さそうでしたし、今回のレースでも好走が期待できそうです』
向こう正面がスタート地点だが、明るく元気よく、観客席に向かって手を振ってからゲートに入るスペシャルウィーク。その姿に観客達も大興奮で、津波のような大歓声がスペシャルウィークへと放たれる。
やっぱり、ダービーを獲ったウマ娘というのは格別なのだろう。それこそ、去年無敗でクラシック三冠に手をかけていたミホノブルボンの偉業を阻止したライスがブーイングライブをくらったように、高い人気というのは毒にも薬にもなりそうだ。
『2枠4番、セイウンスカイ。6番人気です』
『日本ダービーでは着外でしたが、皐月賞で5着。人気が高い逃げウマ娘です。今日はどのような逃げ足を見せるのか、期待しましょう』
セイウンスカイは観客席に向かってゆらゆらと右手を振りながらゲートに入る。その足取りは軽く、遠目に見ていた俺はふむ、と頷いた。
(ライスはセイウンスカイがなんとなく怖いって言ったな……たしかにとぼけた雰囲気がある子だが、どんな走りを見せるのか……)
セイウンスカイに関しても研究しているが、逃げウマ娘として高い実力があるのはたしかだ。あとは長距離レースの菊花賞でどんな走りを見せるか、気になるところである。
『5枠10番、ウイニングチケット。4番人気です』
『日本ダービーではスペシャルウィークとオグリキャップに敗れたものの、3着に入ったウマ娘です。今回はどんな走りを見せてくれるのか、楽しみですね』
観客席に向かって元気よくブンブンと手を振り、ゲートに入るウイニングチケット。そんなウイニングチケットの仕草に観客は喜んで声援を上げている。
俺が調べたところによると、少々感情の振れ幅が大きいが明るく前向きで、レースやトレーニングにも一生懸命な子だ。育てたら面白そうな子でもある。
『8枠16番、オグリキャップ。2番人気です』
『皐月賞ウマ娘にして日本ダービーでは2着と、今回も上位の入着が期待できるウマ娘です。そのため高い人気がありますね』
オグリキャップは観客に対して特にパフォーマンスをすることはない。遠くから見ていても十分に伝わってくるほどの気迫を放ちつつ、ゲートに入る。
オグリキャップはマイルや中距離に強く、長距離に関しては未知数な部分がある。菊花賞の3000メートルを走り切れるスタミナはあるだろうが、はたしてどれほどのものを見せるのか。
『8枠18番、ナリタタイシン。7番人気です』
『この子も高い実力があるウマ娘です。ただ、皐月賞や日本ダービーでは着外が続いていますね。日本ダービーではハッピーミークと競り合って6着でしたから、今日のレースではより上位を狙いに行くでしょう』
ナリタタイシンは……やっぱりというべきか、どことなく覇気がない。体付きの仕上がりはそれなりだが、やる気がないというか、熱を感じないというか……。
(クラシック級になって本格化して、どんどん伸びる子もいれば思ったように伸びない子もいるが……そのパターンなのか?)
初めてこの子のレース映像を見た時は、良い走りをすると思った。現時点でもっと伸びていても良さそうなのだが……もしかすると、やる気や熱意がなくなってしまったんだろうか? その場合、ウマ娘としては……。
そんなことを考えていると、レースが始まることを感じ取ったのか観客達が自然と静かになっていく。これから始まるレースへの興奮を抑えるように少しずつ、しかし確実に声も音も消え失せていく。
『各ウマ娘、ゲートインが完了――スタートしました』
静寂が京都レース場を包んだ数秒後、バタン、という音と共にゲートが開いた。それと同時に各ウマ娘が一斉に飛び出し、目前にある淀の坂を駆け上がっていく。
『各ウマ娘、綺麗なスタートを切りました。そして最初に勢いよく飛び出してきたのは4番セイウンスカイ。3番アーリースプラウト、8番サックスリズムが続くようにして前へつけます。続いて1番ハッピーミーク、7番ビワハヤヒデ、17番スペシャルウィーク、5番エンコーダー、16番オグリキャップ、11番イースタンダイナーの順』
『3000メートルは長丁場ですからね。それぞれ自分のペースで走っていくでしょう』
『更に続きまして9番キングヘイロー、2番ロイヤルタータン、10番ウイニングチケット、15番ショーファーリズム、13番スーペリアブルーム、14番スピーチレスハック。そしてシンガリ付近を走るのは6番リズミカルリープ、12番アットワンマイル、18番ナリタタイシンの三人です』
特に出遅れたウマ娘はいない。今日の菊花賞では逃げが3人、先行が6人、差しが6人、追い込みが3人と、割と綺麗にばらけている。
キングは中団の先頭、10番手の位置にいるが、まだスタートしたばかりだ。焦る必要はない。
『先頭に立った4番セイウンスカイ、軽快に飛ばしていきます。そのリードは早くも3バ身から4バ身。それに続いて3番アーリースプラウトと8番サックスリズムが2番手争い。その後ろでは1番ハッピーミークと7番ビワハヤヒデ、17番スペシャルウィークが4番手争い』
『2番人気のオグリキャップが普段と比べれば大人しめでしょうか。菊花賞の長丁場に備えて足を溜めているのかもしれませんね』
解説の男性が言う通り、3000メートルというのは本当に長い。それを3分少々で駆け抜けるのだから、ウマ娘の身体能力の凄まじさは本当にとんでもないなと改めて思う。
『セイウンスカイが第4コーナーを抜けてホームストレッチへ入ってきます。現在2番手に5バ身から6バ身ほどのリードを取っており、独走状態。しかしこのペースが最後まで持つのでしょうか?』
『大逃げといえば先日、オールカマーでツインターボがトウカイテイオーから逃げ切ってみせました。しかし、菊花賞は3000メートルです。さすがにどこかでペースを落とさなければ最後までもたないでしょうね』
京都レース場は内回りも外回りも淀の坂前後の急勾配以外、ほとんど勾配がない平坦なコースである。その分、淀の坂の4.3メートルもの高低差がきついが、それ以外の場所なら足を溜めながら走ることもできるだろう。
しかし、セイウンスカイは足を溜めるということを忘れたように駆け続けている。
『続々とホームストレッチを駆け抜けていくウマ娘達に大きな歓声が飛んでいます。1番人気のスペシャルウィークは5番手、2番人気のオグリキャップは8番手の位置、3番人気のビワハヤヒデは6番手の位置と、前に上がる機会を窺っています』
『ただいまセイウンスカイが1000メートルを通過しました。通過タイムは59秒4とハイペースです。残り2000メートル、どこまでもつのでしょうかね』
『1000メートルを通過したセイウンスカイ、2番手とのリードは7バ身まで広がっています。シンガリとの差は大体16から18バ身程度。縦に広がるレース展開になってきました』
実況と解説がそう話している間にも、セイウンスカイはどんどん前へと進んで行く。直線を抜けて第1コーナーへ入り、綺麗なフォームで最短距離を駆けていく。
(良い走りだ……日本ダービーの時とは比べ物にならんな)
セイウンスカイはまだまだ余裕がある様子で先頭を駆けていく。しかしまだレースの半分も過ぎていない。
俺は走るキングの様子を観察するが、キングも余裕を持って走っている。セイウンスカイのハイペースに惑わされることなく、自身のペースを保っていた。
(よし、いいぞ。セイウンスカイのハイペースは最後まではもたん……そこで差を詰めれば良い)
うんうん、と俺は頷く。最初から最後まであのペースで走れるなら、ライスですら勝てないだろう。そんなペースで走り続けるのは不可能だ。そのためどうしてもスピードが鈍る……そのタイミングを後続のウマ娘達は虎視眈々と狙っているだろう。
あれほどのペースで飛ばし続けた場合、足が鈍るのはやはり淀の坂あたりになるだろう。それまでにどこまで距離を詰めているかで勝負が分かれそうだ。
『先頭のセイウンスカイ、相変わらずの軽快なペースで先頭を駆けていきます。第2コーナーから向こう正面へ。あと少しで1周目が終わり、2周目へと突入します』
『いやぁ、本当に良いペースですよ。ただ、日本ダービーの時は後半でバテて捕まりましたからね。ここからが本番です』
『おっと、そろそろ2周目に入ろうかというところで後続が距離を詰め始めています。じわじわと先頭のセイウンスカイとの距離を縮めていきます。しかしまだ2番手とは5バ身以上の差があります』
さすがにハイペースで飛ばしていたため、セイウンスカイも疲労が溜まりつつあるのだろう。後続のウマ娘がペースを上げたのもあるが、少しずつ、本当に少しずつだが距離が縮まり始めている。
『さあ、とうとう来ました二度目の淀の坂。真っ先に到達したセイウンスカイが駆け上がっていきます。ここでペースが落ちると苦しいところですが……おや? するするっと登っていきますセイウンスカイ』
『おお……? 思ったよりもペースが落ちていませんね。むしろ直前で加速したウマ娘の方が登り難そうにしています』
『ですがきました! やっぱりきたぞスペシャルウィーク! セイウンスカイを追うように、淀の坂をグングン駆け上がって行きます! それに負けじとビワハヤヒデも続く! ハッピーミークとオグリキャップもそれに続いた!』
レース前のとぼけた雰囲気をかなぐり捨て、額から大きな汗を流しながら歯を食いしばり、先頭のまま淀の坂を駆け上がっていくセイウンスカイ。その気迫を感じ取った俺は思わず前のめりになってセイウンスカイを注視する。
(飄々としたウマ娘だと思っていたけど……良い根性じゃあないか。いいなぁ、あの子……ああいう子も育てたら楽しいんだろうなぁ)
そんなことを思いつつも、俺の視線はすぐにセイウンスカイから外れた。セイウンスカイを捉えようと加速した面々――さらにその後ろから、淀の坂なぞ何するものぞと言わんばかりに駆け上がっていくキングの姿があったからだ。
その表情は必死だ。その姿は一生懸命だ。そして、負けてたまるものかと言わんばかりの闘志で溢れている。
キングにとって最も不利な長距離のレース。それでもこれまで積み上げてきた努力を武器に、キングが少しずつ順位を上げていく。
『さあ、淀の坂を乗り超えて残り800の標識を通過しました! 先頭は変わらずセイウンスカイ! セイウンスカイです! しかし後続が続々と追い上げてきています!』
『第3コーナーの下り坂を抜ければ、あとは平坦なコースのみです。ここからが本番ですよ』
『先頭のセイウンスカイが淀の坂を下っていきます! 4バ身の距離を空けて2番手に上がってきたのはビワハヤヒデ! そのすぐ後ろにはスペシャルウィーク、ハッピーミークが続きます! そして下り坂に合わせて加速してきたのは中団に控えていたキングヘイロー! 一気に三人のウマ娘を抜き、先行集団に喰らい付きました! そんなキングヘイローに続き、ウイニングチケットも前へと上がってきています!』
残り800を過ぎ、下り坂になった瞬間キングが加速した。というか、コーナーにも関わらず全体的にスピードを上げ始めている。
ただ、加速したキングだが先頭までの距離はまだまだ遠い。セイウンスカイがどこまで余力を残しているかが問題だが……。
『セイウンスカイが第3コーナーを抜けて第4コーナーへと突入! 残り600の標識を通過して変わらずの先頭だ! 後続が捉えようとしているがその差は変わらず4バ身! いや、むしろ広がっている! ……え? 広がっている!? ご、5バ身ほどのリードへと広がっていますセイウンスカイ!』
『いや……すごい逃げ足ですね……途中で足を溜めた様子もそこまでなかったのですが……』
加速したのに縮まらない距離。むしろ大きくリードを取られたことに気付いたのか、セイウンスカイを追うビワハヤヒデの表情が険しいものに変わる。
(……すごいな、あの子)
俺は思わず感嘆するように内心で呟く。セイウンスカイがやったことは単純で、後続が加速するタイミングで自身も加速し、後続がスピードを緩めても加速を維持したまま距離を離すというものだ。
そして後続が差が縮まっていないどころか広がっていることに気付いたタイミングでスピードを緩め、相手が驚いている間に一息入れている。自分の走りを見た後続がどんなことを考えるかを見抜いた上で、それを実行する度胸があればこそできることだ。
ただ……。
『そうしている間に上がってきたのはキングヘイロー! そしてオグリキャップも加速している! 続いてウイニングチケットも上がってきた!』
先頭のセイウンスカイではなく、自分のペースで走っているウマ娘、あるいはビワハヤヒデやスペシャルウィークなどの2番手争いをしていた面々よりも更に後方のウマ娘は、気にせず加速している。いや、気にせずというか、セイウンスカイがやったことに気付いていないのだ。
セイウンスカイがやったことは、
目先のセイウンスカイではなく、今から抜く前のウマ娘達を見ていたキング達には通じていなかった。
『しかし更に加速したぞビワハヤヒデ! 第4コーナーを抜けて最終直線に入ったタイミングで仕掛けてきた! スペシャルウィークもぐんとスピードを増す!』
だが、それでへこたれるのならそもそも菊花賞に出てこれるレベルではない。ビワハヤヒデもスペシャルウィークも、ほんの数秒走りが乱れただけですぐさま持ち直した。
『さあ! 各ウマ娘がホームストレッチに駆け込んでくる! 先頭は変わらずセイウンスカイ! このまま逃げ切るのか!? それとも後続が届くのか!?』
残り400を切り、それぞれがトップスピードに乗って先頭を目指していく。その姿に観客席の観客も徐々に立ち上がり始め、コースのウマ娘達へと声援を飛ばしていく。
「いっけええええええええええええぇぇぇっ! キングウウゥッ! かわせえええええええええええぇぇぇっ!」
もちろん、俺も叫ぶ。5番手の位置へと上がってきたキングへ、あらん限りの声で叫ぶ。
「がんばれえええええええぇぇっ! キングちゃんがんばれえええええええぇぇっ!」
「がんばってキングちゃん! あとちょっとだよ!」
柵を叩きながら叫ぶ俺と、拳を握り締めながら叫ぶウララ。ライスは口の前に両手をかざし、メガホンのようにしながら叫んでいる。
『残り300もありません! セイウンスカイは逃げ続けているっ! しかし徐々に徐々に! その差が縮まりつつある! ビワハヤヒデスペシャルウィークキングヘイローオグリキャップハッピーミーク! 更にウイニングチケットが上がってきている! シンガリはナリタタイシン! かなり遠いが届くのか!?』
先頭のセイウンスカイは中盤までにあった余裕はどこにもない。額どころか体中から汗を流し、死に物狂いという言葉が合う表情で必死に駆けている。
まるで命を、魂を燃焼させるような走りだ。クラシック級ウマ娘の壁を越え、限界を超え、それでもなお、ゴールだけを目指して疾走する。
「っ――!」
キングのトレーナーである俺も、思わず目を奪われそうになる力走だ。だが、そんな彼女が相手だからこそ、キングに勝ってほしい。
「がんばれえええええええええぇぇっ! キングウウウウウウウウウゥゥ! いけえええぇっ! いけええええええええええええええぇぇぇぇっ!」
ゴール目指して遠ざかるキングの背中に向かって、俺は叫ぶ。少しでもその背中を押せるようにと、必死になって叫ぶ。
だが、叫んでいるのは俺だけじゃない。観客達が思い思いに、自身が応援するウマ娘へと必死に声援を投げかけている。あまりの大声援に、耳がイカれそうなぐらいだ。
『残り200を通過! ゴールが迫っている! 上がってきたのはビワハヤヒデ! そしてキングヘイロー! スペシャルウィークとオグリキャップも加速しているがどうだ!? ハッピーミークとウイニングチケットも上がってきているが届くのか!?』
トップスピードに乗ったウマ娘達が、少しでも前に、一人でも抜いて先にと、駆けていく。
他のウマ娘に負けたくない。
自分こそが一番だ。
あの子に勝ちたい。
あの子に負けたくない。
そんな思いが伝わってくる。走り、競い合い、ゴールを目指してただひたすらに駆け抜けていく。
そしてゴール直前で先頭を駆けるのは――変わらず、セイウンスカイだった。
『今! 3バ身のリードを保ったままセイウンスカイが逃げ切った! 今年の菊花賞ウマ娘はセイウンスカイ! セイウンスカイだ! 青雲の空を稲妻が駆け抜けました!』
『まさかあのペースで最後までもつとは……いや、本当にまさかまさかですよ……』
興奮する実況と、呆然としたような解説の声。俺は割れんばかりに歯を噛み締めて、悔しさを押し殺す。
ゴールを駆け抜けたセイウンスカイは倒れこそしなかったものの、コースに膝を突いて息を荒げている。喉がカラカラになってしまったのか何度も咳き込み、乾燥したのか口の端が切れて血が滲んでいた。
その姿を見れば、全身全霊で勝ちに行ったのだと理解できる。それでも俺は悔しくて、悔しくて――点灯した着順掲示板を見て、悔しさが吹き飛んだ。
「は、ははは……なんだありゃ……」
セイウンスカイが出したタイムを見た俺は、思わず笑っていた。というか、笑うしかなかった。
『着順が確定いたしました。1着は4番セイウンスカイ。勝ち時計は……ぁ?』
実況の声が途切れる。それは不思議なものを見たような驚きと、呆然とするような響きが混ざっていた。
『し、失礼いたしました! 1着は4番セイウンスカイ! 勝ち時計は3分2秒3! 3分2秒3です! レコード勝ち! いえ、世界レコードが出ましたぁっ!』
一瞬の静寂。そして、爆発するような歓声が上がる。
『お、う、わ……あー、し、失礼……計り間違い……では、ないですね……3分2秒3、ですか……えー、これは、あー……これまでのレースレコード、いえ、コースレコード……すいません、頭が回りません……セイウンスカイ、レースレコードを2秒以上更新、した? え? 本当にですか?』
『2着は3バ身差で7番ビワハヤヒデ! 3着はクビ差で9番キングヘイロー! 4着はハナ差で17番スペシャルウィーク! 5着は1バ身差で16番オグリキャップとなりました!』
『世界レコード、出ましたか……あれ? このバ身差なら、入着したウマ娘……いえ、6着のハッピーミーク、7着のウイニングチケットまではレースレコードを更新するタイムですね……セイウンスカイに引っ張られてすごいレースになりましたよ』
一気にテンションが上がった実況と混乱した様子の解説の話を聞きながら、俺は握っていた拳を解く。そして空を数秒ほど見上げると、苦笑しながら視線をコースに戻した。
俺が見たのは、相変わらず荒い息を吐いて立ち上がれない様子のセイウンスカイと、そんな彼女の左側にスペシャルウィークが、右側にキングが立ち、肩を貸して助け起こすところだった。
呼吸が荒いだけでなく、力が入らないのかセイウンスカイは足を大きく震わせている。それでも苦笑しながらビワハヤヒデが近付き、何事かを言うと、セイウンスカイは慌てた様子で着順掲示板へと振り返った。
そして、ここにきてセイウンスカイは己が出したタイムを理解したのだろう。瞳に大粒の涙を浮かべると、表情を崩して泣き始める。
(キングを可能な限り鍛えてきたが……世界レコードでかっ飛んでいかれたらさすがに勝てんわなぁ……)
そんなセイウンスカイの姿を見ながら、俺は苦笑を浮かべる。それと同時にそんなことを思いながら、世界レコードという偉大な記録を出した勝者を称えるように、拍手を送るのだった。
コースを引き上げ、ウイニングライブの準備として控室へ向かうキング。そんなキングのところへ駆け付けた俺は、振り返ったキングに頭を下げた。
「すまん、キング……お前を勝たせてやれなかった」
セイウンスカイの走りは見事だった……が、結果は結果だ。事前の予測通り3着には入れたが、キングに勝たせることはできなかった。
しかし、キングは何を言われたのかわからない、と言わんばかりに目を瞬かせる。そして苦笑したかと思うと、優しく俺の額を指で突いた。
「おばか……今日のスカイさんの走りを見たでしょう? 世界レコードが相手じゃ、さすがに分が悪すぎるわ。それに……」
キングは自分の体を見下ろすように視線を下げたかと思うと、胸の前で右手をぎゅっと握り締める。
「スカイさんに引っ張られた形になるけど、長距離のレースなのに今までにないぐらい、気持ちよく走れたわ……あなたは私が全距離で重賞を制覇できる、なんて言ってたけど、本当はちょっとだけ信じてなかったの」
そう言って、キングは気が抜けたように笑う。セイウンスカイに負けた悔しさは当然のようにある。だが、納得と確信を抱いたように、キングは笑った。
「でも確信したわ……私、本当に強くなれるのね。そしてもっともっと、強くなる」
「ああ……君はもっと強くなる。俺が強くするよ……いや、違うな」
キングの言葉に答えたものの、俺は言葉を間違えた、と言い直す。
「これからも
「――ええっ!」
頷くキングの目に、涙はなかった。友人にしてライバルであるセイウンスカイが出した記録が、あまりにも素晴らしいものだったからだろう。
それでも、俺とキングは誓い合う。
もっと強くなろう、と。
――この日のウイニングライブは、セイウンスカイの世界レコードを祝うように大盛況で幕を下ろしたのだった。