リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐ 作:烏賊メンコ
有馬記念のインタビューも無事に……無事に? 終わり、とうとう有馬記念の当日がやってきた。
インタビューでは多くのウマ娘がライスシャワーやトウカイテイオーに勝つという宣言をしたり、記者から話を振られた桐生院さんがフリーズしたり、一度退場したものの戻ってきた乙名史さんが再度退場したりしたが……うん、無事にインタビューが終わった。無事に終わったのだ。
有馬記念が行われる中山レース場までは移動時間が一時間とちょっとしかかからない。そのため午前中のうちに軽くライスを走らせて体をほぐすと共に調子を確かめ、のんびりと早めの昼食を取らせてから現地へと移動する。
だけどまあ、今日のライスはなんというべきか……これまでのレースと比べて、オーラが違うというべきか。
シニア秋の三冠がかかっているからか、有馬記念2連覇がかかっているからか、あるいは出走するウマ娘が強敵ばかりだからか。
先日のインタビューを終え、有馬記念が近付くにつれて口数が少なくなり、意識を研ぎ澄ませているように見受けられた。静かに、しかし深く、強く、レースに向けてライスシャワーというウマ娘の中に闘争心が蓄積されていくような感じがする。
それほどまでに有馬記念への思いが強いのか、あるいは
気負っているわけでも、過度に緊張しているわけでもない。ただ静かに闘志を燃やすライスの姿に、キングはその姿勢を学ぶように目を細め、ウララも何か思うところがあるのか中山レース場への移動中ずっとライスの手を握っていた。
なお、移動方法は車である。今日は助手席にキングが座り、後部座席にウララとライスが座っていた。
去年と同様に、有馬記念は中山レース場の第11レースである。出走時刻は15時25分。それでも現地が混むことを見越して早めに到着した……のだが。
「おおう……こりゃまた、すごいな……」
俺は思わず呆然とした声を漏らす。電車だとぎゅうぎゅう詰めの満員電車だろうし、トレセン学園の車を借りて移動してきたのだが、中山レース場周辺は凄まじいことになっていた。というか、近くの駅すらも人の波が押し寄せていた。
有馬記念に出るウマ娘の担当トレーナー用にと確保されていた駐車場で車を停めたものの、車から降りるなり詰めかけていたファン達が一斉にこっちを向く。そして視線だけでなくスマホも向けられ、パシャパシャと撮影音が鳴り響き始めた。
というか、ファンだけでなく雑誌の記者やテレビ局のカメラマンが猛ダッシュで駆け寄ってくる。有馬記念が始まる直前の絵を撮りたいのだろうけど、どでかいテレビカメラを抱えて移動しているスタッフは青息吐息だ。
「ライスシャワーさん! 是非ともレース前の意気込みを――」
ただ、駆け寄ってきたインタビュアーはライスにマイクを向けた途端、固まってしまった。ライスの集中している様子、その気迫に飲まれて言葉を失ったのだ。
ライスは普段のあどけない表情ではなく、どこか大人びた、これから大一番に挑む真剣極まりない表情でインタビュアーを見る。そしてカメラマンにも視線を向けるが、テレビカメラを抱えて走ってきたのとは別の理由でカメラマンが身を震わせ、テレビカメラが大きく揺れた。
「あ、う、っと……で、できれば、一言をいただけますと……」
それでも職業意識がそうさせたのか、インタビュアーは辛うじて我に返るとライスにマイクを向ける。普段ならレース前に集中を乱すようなことをするな、と言いたくなるところだが、今日は問題とは思わなかった。
今日のライスは
まだ勝負服に着替えてもいない、トレセン学園の制服姿のライスは薄く微笑むと、テレビカメラに向かって口を開いた。
「がんばって、1着を目指します」
――ライスは、最強のステイヤーだから。
ごくごく普通のコメントを残し、最後にぼそりと、マイクで拾えるかどうかわからない程度の声色で呟くライス。しかし僅かな声と唇の動きから何を言ったのかわかったのだろう。インタビュアーは引きつったような笑顔を浮かべる。
「が、頑張ってくださいね! 応援してます!」
「はい……ありがとうございます」
ライスのコメントを聞いたインタビュアーは、職務を忘れたようにライスを応援した。ライスはそんなインタビュアーに静かに微笑むと、俺達に視線を向けてから歩き出す。
それまで遠巻きに俺達を眺めていたファン達も、ライスが歩いていくと最初は大喜びで歓声を上げ、スマホを向けて写真を撮っていたが、ライスが近付くにつれて歓声が収まり、気圧されたように自ら道を開け始めた。
「ライスシャワー! がんば……が、頑張ってー」
「うわぁ……なんかすごい圧が……」
「ちょっ、もうちょっと下がってくれよ」
声を張り上げようとしたある者は声を潜める形で応援し、ある者は驚き、ある者はライスの進路上にいたため慌てて道を開けようとする。
別にライスがどいてほしいと言ったわけではない。目を合わせたわけでもない。それでも、トレーナーでもない普通のレースファンですらもライスの雰囲気を感じ取り、自然と声を潜め、道を譲ってしまっていた。
(入れ込んでるのなら落ち着かせるところだけど……今のライスは集中しているだけだ。これまでのレースの中で一番集中しているといってもいい……)
調子は絶好調で、仕上がりも完璧だ。そしてライス本人の意識も研ぎ澄まされている。
たとえるなら、チャンピオンズカップの時のスマートファルコンのようなものだ。違いがあるとすれば、今のライスはあの時のスマートファルコンすら軽く上回っていることだろう。
そんなライスの様子に、ウララはともかくキングは少しだけ悔しそうに苦笑している。今年の有馬記念に出走していても、ライスには到底勝てないと感じているのだろう。それと同時に、今のライスと競えないことを残念に思っているのか。
「キング、お前が挑むのは来年だ。来年の有馬記念で勝ってくれ」
俺はキングの背中を叩き、囁くようにそう声をかける。するとキングは小さく目を見開いたかと思うと、鼻で笑った。
「ふんっ……わかっているわ。今日のレースの主役は間違いなくライス先輩よ。だから、私は精一杯応援するだけだわ」
「ああ、それでいい……そうしてやってくれ」
俺が背中を叩いた手でキングの頭を撫でると、キングは尻尾を振って俺のふとももをぺしりと叩く。キングなりの意思表明というか、照れ隠しというか……ウマ耳がぴくぴくと上機嫌に動いているため、怒ってはいない。
そうやって中山レース場に向かって歩くことしばし。有馬記念ということで中山レース場周辺は普段以上のお祭り騒ぎ……というか、本当に人が多いな。ジャパンカップの時も大概だったけど、今日は明らかにそれ以上の人出だ。
右を向いても人、左を向いても人、近くを見ても人、遠くを見ても人。一体何十万の人々が集まっているのか、見当もつかないほどだ。電車を避けて車で移動してきて正解だったな、こりゃ。
中山レース場の収容人数は約18万人。その収容人数を容易く超える人々が集まり、レース場に入れないとわかっていても少しでもレースの熱気を生で感じ取ろうとしている。
俺達は人の波を搔き分けるように……うん、勝手に人の波が左右に割れてるけど、人の波の間を通って中山レース場へと足を踏み入れる。
近くを通るファンからはライスを応援している声が飛び、ライスは微笑みを返しながら歩いていく。そうして中山レース場の控室近くまで移動する頃には、レースが始まるまで程良い時間へとなっていた。
「それじゃあお兄さま、ウララちゃん、キングちゃん。ライス、行ってくるね」
勝負服が入ったバッグを渡すと、ライスはそれまでとは違う心からの笑みを浮かべる。その笑顔を前にしたウララは同じように笑顔で頷き、キングは真剣な表情で頷いた。
「うんっ! いってらっしゃい、ライスちゃん! いっしょーけんめー応援するからね!」
「ライス先輩に今更言うべきことはないわ。この私の、キングの越えるべき壁として、しっかり見ておくから」
「うん。ありがとうね、二人とも」
ライスはウララとキングの言葉に小さく笑うと、俺へと視線を移す。そしてじっと見てくるライスに俺はどんな言葉をかけようかと思考を巡らせたが……飾ったことを言う必要はないだろう。
「ライス」
「お兄さま」
俺が名前を呼ぶと、何を思ったのかライスは正面から抱き着いてきた。出走するウマ娘やトレーナーのための専用通路ということもあり、特に注目されることもない。俺はライスを抱き留めると、背中を二度、三度と優しく叩く。
「勝ってこい。お前が走るところを、しっかりと見てるからな」
「うん……ここまでこれたのはお兄さまのおかげだよ。だからお兄さまのウマ娘として、お兄さまが言ってくれた最強のステイヤーとして、走ってくるね」
言葉を交わすと、ライスは俺から離れて控室へと歩き出す。そんなライスの背中を見送った俺達は、パドックへと移動するのだった。
そして、パドックに来た。ここも相変わらずの大盛況だなぁ、なんて思っていると、人波をすり抜けて何やら小柄な影が――。
「おじさまっ!」
「ぐぶっ……とぉ……やあ、久しぶりだねダイヤちゃん。あと、いきなり突っ込んでくるのはやめてね?」
腹筋に衝撃が、と思ったらダイヤちゃんだった。あとダイヤちゃん、周囲から視線が飛んできてるからね? 気にしてない? あ、そう……。
「ふふっ……お久しぶりです、おじさま……」
そう言いつつ、俺の腹部にぐりぐりと顔を押し付けてくるダイヤちゃん。見ればダイヤちゃんの尻尾がブンブンと左右に元気良く振られている。こうして懐かれると無下にできないし、可愛いものがある。ウララとかライスみたいな感じだ。
「ジャパンカップは見に来なかったのかい?」
「実は見に行ってたんです。おじさまも見つけたんですけど、他のトレーナーの人と話しているのを見て、邪魔したらダメだなって思ったから我慢したんです」
偉いでしょ? 褒めて褒めて、と言わんばかりにキラキラした目で見上げてくるダイヤちゃん。ジャパンカップで話していたトレーナーというと……ミホノブルボンのトレーナーか。遠慮はいらなかったけど、褒めてほしいのなら褒めるのが俺のスタイルである。
「おー……うん、そりゃ偉いな。ダイヤちゃんは気遣いができる子なんだねぇ」
よしよし、と頭を撫で、ついでにウマ耳を指先で優しく摘まんでみる。するとダイヤちゃんはピクリと体を震わせたものの、特に嫌がる素振りも見せずニコニコと笑顔を浮かべていた。
「おーい! ダイヤちゃんどこー!? ダイヤちゃーん!」
「あっ、キタちゃん! こっちだよー!」
そうやってダイヤちゃんを撫でていると、聞き覚えのある声が聞こえてくる。そして姿を見せたのはキタちゃんだった。しかしキタちゃんは俺の顔を見ると、なんとも言い難い顔をした。
「やっぱりおじちゃんがいたんだね……」
「え? 何だいその反応。俺がいたらまずかった?」
知らない内にキタちゃんに嫌われていたんだろうか? この子かなり明るくて快活な性格だし、拒否されるとなると何かとんでもないことをやってしまった気になってしまう。
「ううん、わたしもおじちゃんに会いたかったから大丈夫! でもね、ジャパンカップの時もだけど、ダイヤちゃんがおじちゃんのに」
「キタちゃん」
にっこり笑顔でキタちゃんの口を塞ぐダイヤちゃん。俺の……なに? おじちゃん、気になるんだけど。
「二人は親御さんと一緒かい?」
とりあえず話を振ると、キタちゃんの口を塞いだままでダイヤちゃんが振り返る。
「はいっ! 今日も始発から並んだから、キタちゃんのお父様と一緒ですっ!」
ダイヤちゃんがそう言うと、肯定するようにキタちゃんがコクコクと頷く。ダイヤちゃん? そろそろ離してあげたら?
「ぷはっ……テイオーさんが出るからお父さんにお願いしたんですよ! 始発から女の子二人じゃ危ないって言ってついてきてくれました!」
「本当に危ないからね? 必ず保護者と一緒に行動するんだよ?」
前世でも今世でも、小学生の頃に電車が始発で動く時間帯から行動するってことは滅多になかった。精々修学旅行で徹夜して遊んでたとか、それぐらいか? それがこの世界ではウマ娘のレースのために始発でレース場に並びに来るのも珍しくないのである。
俺がキタちゃんのお父さんを目線で探すと、キングが俺の服を引っ張った。そしてあごをしゃくるようにして方向を示したためそちらを見ると、キタちゃんのお父さんと目が合う。
あ、これはどうもこんにちは……お久しぶりです。そんなアイコンタクトを交わした俺は、膝を折ってダイヤちゃんやキタちゃんと目線の高さを合わせた。
「それじゃあ、おじちゃんは今からお仕事だからね。二人はキタちゃんのお父さんから離れないよう注意してレース観戦すること。いいね?」
「うんっ!」
「はいっ、おじさまっ!」
キタちゃんは元気良く笑顔で返事をして、ダイヤちゃんもにっこりと微笑みながら返事をする。そしてキタちゃんのお父さんのところへ駆けていくのを見送った俺は、大きく息を吐いた。
(ふぅ……思わぬ形で緊張が抜けたな。よし、今日のライバルたちはどんな調子かな、と……)
知らず知らずのうちに強張っていた肩から力が抜け、俺は内心でダイヤちゃんとキタちゃんに感謝する。
そうして俺達はいつものようにパドックの最前列へと移動し、有馬記念に出走するウマ娘の調子を確認しようとした。だけどまあ、レース場の外も中も人でいっぱいということは、パドックもいっぱいということである。
普段のレースと比べて何倍ものウマ娘ファンが詰めかけ、レースだけでなくパドックでの様子を確認しようと目をギラギラと輝かせていた。
『1枠1番、メジロマックイーン』
そして、パドックでのお披露目が始まる。最初に姿を見せたのはメジロマックイーンで、その姿を見たファン達からは盛大な歓声が上がった。
調子は……うん、良さそうである。ただし体の仕上がりというか、覇気というか、以前までのメジロマックイーンと比べるとやや衰えを感じてしまうのは仕方のないことか。
人間のアスリートの場合、競技にもよるが十代の半ばから後半にかけてはまだまだ成長期だ。野球などを見てもそれは一目瞭然だろう。中学生や高校生はプロ野球選手と比べればまだまだ未熟である。中には高校野球でプロ顔負けの活躍をする子もいるが、よっぽどのことがない限りそこから成長していくものである。
しかし、ウマ娘の場合現役として実力を発揮できる期間が短い。怪我での療養を挟んでいるとはいえ、シニア級三年目に至るまで第一線で走り続けているだけでもすごいと言えるほどに。
メジロマックイーン自身、期するものがあるのかこれまでのレースとは雰囲気が違う。
『2枠2番、グラスワンダー』
続いて出てきたのはグラスワンダーだ。セーラー服に似た勝負服を身に纏っており、たおやかに微笑んでいるものの鋭い雰囲気が漂っている。勝負服は上着が青、スカートは白を基調とした色合いで、物静かな雰囲気があるグラスワンダーに似合っている。
「…………」
と、不意にグラスワンダーと目が合った。グラスワンダーは挑むように笑みを深め、その視線を受け止めた俺は思わず苦笑を浮かべる。
(今日走るのがライスじゃなきゃ、怖いと思うところだな)
同じ距離を走った場合、キングとどちらが上か。そう悩んでしまうということは、
『3枠3番、ミホノブルボン』
ジャパンカップ以来の対戦である。正直、ジャパンカップで引退するかもしれないと思っていたが、ミホノブルボンは普段通りのポーカーフェイスで姿を現した。
(ジャパンカップの時よりも仕上がってるな……)
出るからには勝つ。そんな思いが伝わってくるほどに、ミホノブルボンは前回のジャパンカップより体を仕上げてきたようだった。調子は……この子、ポーカーフェイスだから読みにくいんだよな。何があったのかは知らないが、以前よりは読みやすくなったけどそれでも読みにくい……。
『3枠4番、トウカイテイオー』
(おっと……こいつはまた……)
続いて出てきたトウカイテイオーの姿に、俺は内心で感嘆の声を漏らす。
ライスと同様に仕上がった体。その顔付きは引き締まっており、これからのレースに対する思いが透けて見える。
(今日のトウカイテイオーは怖いな……)
その瞳には燃えるような気迫が宿っており、これまでのレースならばこの時点でトウカイテイオーをマークさせようと判断したほどだ。
『4枠5番、ツインターボ』
そして次に、俺の中でぶっちぎりで判断に困る子が出てきた。いつも絶好調に見えて、レース中に突如としてエンジンが故障するツインターボである。
今日も今日とて笑顔で大口を開けて笑っており、ライスやトウカイテイオーに勝つ、と宣言している。これで一度も勝てていないのならそこまで警戒しないんだけど、この子、オールカマーでトウカイテイオー相手に逃げ切ったんだよな……。
ただ、いつものペースで2500メートルを逃げ切るのはさすがに無理だろう。そのため警戒から外しても良いのだが……それでも何か仕出かしそうな怖さがある。
『4枠6番、ライスシャワー』
その名前が呼ばれた瞬間、パドックにいたファン達から歓声が上がった。コツ、コツ、と足音を立てながらライスが姿を見せ――歓声が瞬時に止まる。
息を吞む、とはこのことだろう。パドックの最前列から後列に向けて、波が引くように歓声が消えたのだ。
勝負服に着替えたことで、更に気合いが入ったのだろう。ライスは普段通りに微笑んでいるが、今しがたライスに場所を譲ったツインターボは口だけでなく目を大きく見開いて動きを止めている。
「た、ターボ、ライスシャワーに勝つからっ! 逃げ切って勝つからっ!」
そして我に返ったかと思うと、ライスに向かって勝利宣言を行った。パドックでのお披露目を邪魔するような行為になってしまうのだが、司会進行の人もライスの雰囲気に呑まれているのか注意の声すら出ない。
ライスはツインターボの宣言を聞くと、緩やかに口の端を吊り上げ、笑みを深めた。
「ライスも、負けないから」
「う、うん……」
それまで胸を張って宣言していたツインターボが、借りてきた猫のように大人しくなった。そしてその場を離れたかと思うと、トウカイテイオーの近くへ駆け寄ってその背中に隠れてしまう。何をやってるんだろう、あの子……。
『5枠7番、ハッピーミーク』
次に出てきたミークは……仕上がりが良い。調子も悪くなさそうだ。ただ、有馬記念の大舞台で走ることを意識してしまっているのか、緊張で固くなっている。
大丈夫かな、と思っていたら、離れた位置にいた桐生院さんがミークに向かって声をかけ始めた。
「み、ミーク、だ、大丈夫ですからねっ! き、緊張しなくても、大丈夫ですからねっ! わたしがついてますから! ねっ!」
顔を真っ赤にしながら必死に声をかける桐生院さん。そんな桐生院さんの姿を見たミークは目を数回瞬かせると、ふふっ、と微笑んで肩から力を抜いた。そしてリラックスした様子で次のウマ娘に場所を譲る。
『5枠8番、マチカネタンホイザ』
今日のマチカネタンホイザは……仕上がりも調子も良さそうだ。気合いを入れるためか、胸の前で両こぶしを構えて何やら『むんっ』と呟いている。
(緊張をほぐすためかな?)
昔ウララにも教えたことだが、一度全身に力を込めてから脱力することで体の震えを押さえるルーティンだろうか。えい、えい、むんっ、と力を込めるマチカネタンホイザの姿に、俺はそんなことを考えた。
『6枠9番、ウイニングチケット』
相変わらず、というべきか。明るく笑顔で朗らかに観客へ手を振るウイニングチケットは、仕上がりも調子も良さそうである。この子、性格的な意味で割とウララに近いかもしれんな。
スポーツマンシップに溢れているというか、喜怒哀楽が激しいウララというか。そんなウイニングチケットに対し、ファン達も手を振り、声援を挙げて応えている。
『6枠10番、オグリキャップ』
さて、クラシック級のウマ娘の中では要警戒対象のオグリキャップである。ジャパンカップでは3着になったが、今回はどうだろうか。
体の仕上がりは……良さそうだ。調子も……うん? 最近のレースでいつもそうだったけど、気合いが入った顔付きだな。以前のぼーっとした顔付きと比べると調子が読みやすいものの、これは若干気負っている……か?
『7枠11番、セイウンスカイ』
相変わらずのとぼけた雰囲気で姿を見せたセイウンスカイ。菊花賞では世界レコードを叩き出したものの、今回は……どうだ? 仕上がりは悪くなさそうだけど、調子は……微妙か?
菊花賞の時のような、何か仕出かしそうな気配はない。それでも油断できないウマ娘であることはたしかだ。
『7枠12番、ナイスネイチャ』
ナイスネイチャは苦笑するようにして微笑みながらパドックへと出てくる。
調子は可もなく不可もなくって感じか。ただ、体付きを見る限り仕上がり自体は良さそうだ。
『8枠13番、ビワハヤヒデ』
続いて出てきたビワハヤヒデ。その姿に、俺はふむ、と呟く。
(また体が大きくなったような……仕上がりも良いな。いや、体が大きいからより良く見えるだけか? 気合いも乗ってるし、油断はできないな)
ゴルシちゃんといいビワハヤヒデといい、恵体のウマ娘というのはそれだけで脅威に思える。キングはともかく、ウララもライスも小柄で華奢な方だから余計にそう感じてしまう。
『8枠14番、メジロパーマー』
最後に出てきたのはメジロパーマーだ。去年の有馬記念ではこの子とライスが競うことになったが……今日は去年ほどの調子の良さはない、か。それでも油断できない実力があるのはたしかだ。
そうやってパドックに出てきたウマ娘全員を確認した俺は、ライスに視線を向ける。すると、ライスも俺を見ていた。
「お兄さま」
「ああ。今回もジャパンカップと同じだ」
仮にマークをさせるなら、トウカイテイオーかビワハヤヒデか。そう思いながらも、ライスの瞳が全員に勝つと語っている。
有馬記念は長距離2500メートルのレースだ。もっと長い方が良いが、ライスにとって長距離は絶好の距離だ。
現役最強ステイヤーの、俺のライスにとっての、絶好の距離なのだ。
だからこそ、多くの言葉をかける必要はなかった。ウララもキングも、普段と比べて少ない言葉で応援する。
「がんばってね、ライスちゃん」
「勝つところを見ているわ、ライス先輩」
「うん」
言葉少なく応じるライス。そんなライスに俺もシンプルな、しかし万感の想いがこもった声をかける。
「いってこい、ライス」
「いってくるね、お兄さま」
もう、それだけで良かった。あとはこれまでライスが積み重ねてきたものを発揮するだけだ。
ライスが背を向けて去っていく。これから始まる有馬記念のことだけで頭が占められているライスの姿を見送り、俺達もコースの応援席へと向かった。
『今年もこの時がやってきました、ウマ娘レースの年末の祭典有馬記念。中山レース場第11レース、芝2500メートル、GⅠ。バ場状態は良の発表です』
『とうとうきましたね……前半の宝塚記念、そして後半の有馬記念。クラシック級、シニア級の中でもトップスターばかりが集まるレースということもあり、私、昨晩から興奮して眠れておりません』
ファンファーレの音が鳴り響き、実況と解説の男性がそれぞれ声を発する。
ウララやキングと一緒に観客席の最前列に陣取った俺は、外回りの第3コーナーの途中に設置されたゲートへと視線を向けた。
距離があるため表情もろくに確認できないが、これから出走するライス達が集まっている。ライスはトウカイテイオーやメジロマックイーン、ミホノブルボンやナイスネイチャと言葉を交わしており、それぞれの健闘を祈るようにお互いに小さく拳をぶつけ合ったのが見えた。
『本日は生でレースを見ようと大勢の人が詰めかけ、中山レース場周辺は大変な混雑となっております。URAの発表によるとジャパンカップの60万人を超え、数えきれないほどの人々が集まっているとのことです』
『始発が動き出す時間にはレース場前に長蛇の列ができていたそうですね。第1レースが始まる前には満員で……今回の有馬記念の注目ぶりがうかがえます』
『それでは各ウマ娘の紹介に移りましょう。1枠1番、メジロマックイーン――』
各ウマ娘が紹介され、ゲートへと入っていく。俺はその光景を見ながら、ふと、ライスと出会った頃のことを思い出していた。
出会った当初は菊花賞で受けた精神的な傷もあり、自罰的な子だった。体も放っておけば確実に故障するほど歪んでおり、ライスの体を正常に戻すためにトレーナー養成校でも学ばなかったようなことを手探りで勉強して、少しずつ、少しずつ治していった。
ウララが俺のトレーナーとしての基礎を作ったウマ娘なら、ライスは基礎からの発展を見せてくれたウマ娘だ。
ライスの年齢的に、シニア級で走るのは今回が最後かもしれない。それをライスも感じているのか、今日のレースへの意気込みは去年の有馬記念以上のものだ。
ライスとの出会いがなければ、俺はまだ、一人のただのトレーナーだっただろう。チームを率いることもなく、ウララのトレーナーとして生活していたに違いない。その場合、ウララは今ほどに成長していただろうか?
GⅠという大舞台に俺を初めて連れて行ってくれたのもライスだ。GⅠ5勝、長距離GⅠ制覇、春秋天皇賞制覇と、新人トレーナーの俺には過ぎた孝行ウマ娘だ。
そして今、秋のシニア三冠と有馬記念2連覇をかけて、レースに挑もうとしている。
ドクン、ドクンと心臓が高鳴る。これから始まるレースに、年甲斐もなく興奮する。柵を力いっぱい握り締めておかなければ、今の時点で叫び出してしまいそうだ。
『夢のようなレースが始まります。各ウマ娘ゲートイン完了――スタートしました』
――有馬記念の幕が上がった。