リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐ 作:烏賊メンコ
『夢のようなレースが始まります。各ウマ娘ゲートイン完了――スタートしました』
バタン、という音と共にゲートが開き、ウマ娘達が一斉に飛び出していく。
『スタートと同時に真っ先に飛び出したのはやっぱりこの子、5番ツインターボ。今日も最初からターボエンジン全開か。続いて3番ミホノブルボン、11番セイウンスカイ、14番メジロパーマー。更に続いて6番ライスシャワー、1番メジロマックイーン、4番トウカイテイオー、2番グラスワンダー、10番オグリキャップ、13番ビワハヤヒデ、12番ナイスネイチャ、7番ハッピーミーク。僅かに離れてシンガリ付近に8番マチカネタンホイザ、9番ウイニングチケットが駆けています』
『今日は追い込みを得意とするウマ娘がいませんからね。逃げウマ娘達に続いて後続がほぼ一塊で駆けていってますね』
今日のレースでは先行を得意とするウマ娘が多い。追い込み狙いのウマ娘はおらず、差し狙いですらマチカネタンホイザとウイニングチケットの2人だ。そのため逃げウマ娘を除き、一団となってライス達が駆けていく。
スタートの第3コーナーから第4コーナーへ。徐々に近付いてくるウマ娘達の姿に、まだスタート直後、一周目だというのに観客達は大興奮だ。
『先頭は変わらず5番ツインターボ。2番手には14番メジロパーマーが上がってきました。続いて11番セイウンスカイ、3番ミホノブルボン。5番手は変わらず6番ライスシャワー』
『先頭の二人が並んで逃げるのって、ジャパンカップでも見た光景ですね。あのまま逃げ切れるのか、それともまたエンジンが故障するのか……どっちでしょうか』
『各ウマ娘、第4コーナーを回ってホームストレッチへと駆け込んできます。お聞きくださいこの大歓声。この声が聞こえているか不安になるほどです』
中山レース場のレースは右回りのため、観客席から見ると右から左へとウマ娘達が駆けてくる。先頭はツインターボとメジロパーマーが争うように駆けており、解説の男性の言う通りジャパンカップを彷彿とさせる展開だった。
ただし、ジャパンカップとは距離が違えば出走しているウマ娘の顔ぶれも違う。虎視眈々と前を窺うライスの気合いも、ジャパンカップの時とは比べ物にならない。
第4コーナーからホームストレッチの直線にかけては、高低差2メートルほどの坂がある。そして直線の終盤から第1コーナーにかけて再度高低差2メートルほどの坂があり、そこからは向こう正面に至るまで高低差4メートルを越える下り坂になっていた。
『ツインターボとメジロパーマーが軽快に駆けていきます。ホームストレッチの直線を抜けて第1コーナーへ。あと少しで1000メートルを通過します』
『1000メートルの通過タイムは……1分0秒1ですか。早いペースですね』
今日のツインターボとメジロパーマーは、やや抑え気味のペースで走っていた。それでも長距離のレースとしてはかなり速い方である。しかし、各ウマ娘の間に開いた距離は大して大きくない。
『先頭のツインターボからシンガリのウイニングチケットまでは、およそ5バ身ほどでしょうか。これは逃げウマ娘のペースが抑え気味というより、全体的に速いのではないでしょうか』
『そうですね。なるべく早めの内に前につけようとしているのでしょう。こういったレースの場合、後半になると一気に動くことが多いですよ』
これまでのツインターボと違い、ペースがやや抑え気味である。ここ最近のレースでは途中までは良いものの、終盤で失速して大負けすることが多いためカノープスの先輩がペースを抑えるよう指示したのだろうか。
『大きな動きはなくウマ娘達が第2コーナーを抜けて向こう正面へと差し掛かります。先頭は変わらずツインターボとメジロパーマーが争っています。続いて11番セイウンスカイ、3番ミホノブルボンが3バ身ほど後方。そこから1バ身離れて6番ライスシャワー。続いて団子状態で多くのウマ娘が位置を変えながら追走。シンガリの9番ウイニングチケットは先頭から6バ身から7バ身ほど』
『これは……終盤のために足を溜めているようですね。誰がどのタイミングで仕掛けるかがターニングポイントになりそうです』
有馬記念は2500メートル。スタートからゴールまでかかる時間は2分30秒と少し。つまり150秒少々で勝者が決まる。
俺はライスをじっと見つめる。スタート直後から5番手につけ、虎視眈々と前を窺うライスの姿を、じっと見つめる。
今のライスには、有馬記念で勝つことしか頭にないのだろう。前を向いて集中しているが、誰かをマークしている時のように
遠くから見ていても、ライスが何を考えているのか伝わってくる。己のスタミナ、最高速度、バ場状態。それらからどのタイミングで仕掛け、ゴールを1着で駆け抜けるかを計算しているのだろう。
下手すると他のウマ娘を意識していないどころか、観客席から放たれている怒号のような大声援すら聞こえていないのかもしれない。
観客の声援はシャットアウトして、自分の前を走っているウマ娘のコース取り、傍を走るウマ娘の位置を音だけで把握し、どこで、いつ抜くかを決めているのではないか。
『残り800の標識を通過し、向こう正面から第3コーナーへと突入していきます。先頭は変わらずツインターボとメジロパーマーがっとここで動いたのは11番セイウンスカイ。速度を上げてツインターボとメジロパーマーをかわしってかわせない! ツインターボとメジロパーマーも加速していく!』
そして、第3コーナーへ突入するなりレースが動いた。それまでは3番手の位置にいたセイウンスカイが先頭を奪おうとし、それに気付いたツインターボとメジロパーマーが一気に加速したのだ。
ミホノブルボンは……動いていないな。でも前の動きが引き金になったのか、後続のウマ娘達も徐々にペースアップしている。
『残り600を通過し、第4コーナーが見えてきました。先頭はエンジン全開ツインターボ! そしてこちらもエンジン全開かメジロパーマー! そのすぐ後ろにはセイウンスカイが控えています! 残り600で各ウマ娘が徐々に加速して――さあきた! 動いたぞ1番人気ライスシャワー! 加速して4番手へと上がってきた!』
『彼女のロングスパートは最後まで加速し続けますからね。ここまで足を溜め続けた結果がどうなるのか、現役最強ステイヤーの名前は伊達ではなっ、えっ?』
解説の男性が困惑したような声を漏らす。それは当然だろう。残り600メートルを切ってロングスパートをかけたと思ったライスが、
『ライスシャワー残り600で急加速! すごい足だがこれは最後までもつのか!? それに続いたのは4番トウカイテイオー! そして更に上がってきたのは1番メジロマックイーン! 有馬記念の大舞台で! TMRの三人が一気に前へと駆けていく!』
『ライスシャワーは有り余るほどのスタミナがありますからね。一見博打っぽいですが最後までもつのではないでしょうか? メジロマックイーンももつでしょう。トウカイテイオーは少し厳しいかもしれませんが、ここで退いては負けますよ』
『第4コーナーに入って残り400を通過! エンジン全開のツインターボが前に立ったがきたぞきたぞライスシャワー! ターボエンジンが逆噴射する前に捕まった! これは珍しい光景! ライスシャワーに続いてトウカイテイオーとメジロマックイーンもツインターボをかわしていくぅっ!』
ライスの急加速。それに続くトウカイテイオーとメジロマックイーンという姿に、観客達が一斉に立ち上がる。そしてそれぞれが応援するウマ娘に対し、これまで以上の大声で声援を送っていく。
「いけえええぇっ! ライスシャワー! GⅠ6勝目! いけえええぇっ!」
「有馬記念2連覇を見せて! お願いっ!」
「お前の足はそんなもんじゃないだろトウカイテイオー! 帝王はお前だっ! 絶対はお前だっ! 勝てえええぇぇっ!」
「シンボリルドルフみたいなウマ娘になるって言ってただろっ! いけええええええぇっ!」
「メジロマックイーン! 俺はお前が勝つところが見たいんだああああぁぁっ! 勝てっ! 勝てええええぇぇっ!」
「その二人に勝ってくれええええええぇぇぇっ!」
先頭に立った三人に、思い思いの声が飛ぶ。もちろん後続のウマ娘達にも応援の声が飛ぶが、聞き取れた限りではライスとトウカイテイオー、メジロマックイーンを応援する声が大きく、数が増えている。
今回の有馬記念に出ているクラシック級のウマ娘達は、たしかに綺羅星のような才能の持ち星ばかりだ。
だが、今年のシニア級を引っ張ってきたのは間違いなく、ライスにトウカイテイオー、メジロマックイーンの三人だ。その矜持が三人の背中を押しているように見える。
後続のウマ娘達も必死だ。オグリキャップやビワハヤヒデ、グラスワンダーが加速し、少しでも追い付こうとしているのが見て取れる。その足はシニア級でもたしかに通じるもので、生半可なウマ娘が相手ならば余裕をもって届いていただろう。
ライス達に勝るとも劣らない才能を、弛まぬ努力で磨き上げてきた優駿達だ。その足は伸びる、たしかに届く――でも、今じゃない。
一年後、来年の有馬記念ならばいざ知らず、今この時のライスに勝てるウマ娘はいないと俺は確信していた。
『さあ! 第4コーナーを回って最終直線! 中山の直線は短いぞっ! そして残り200には坂があるっ!』
『先頭争いはTMR! いや、最早RTMかっ!? TRMかっ!? シニア級の意地の見せ所ですよ! 最終直線310メートル! ここが天王山だ!』
『後続のウマ娘達も必死に伸びてくる! 逃げウマ娘が先行の三人を追っている! 伸びてきているのはミホノブルボンにナイスネイチャのシニア組! そして届くかクラシック級! オグリキャップビワハヤヒデハッピーミークグラスワンダー!』
最終直線、310メートル。
先頭を駆ける三人の姿に、俺は今年一年間のレースが脳裏を過ぎる。
大阪杯、春の天皇賞、宝塚記念、秋の天皇賞、ジャパンカップ。時に負け、時に勝ち、ライスが競い合うようにして駆け抜けてきたレースでの姿が、脳裏に蘇る。
秋のシニア三冠と2連覇がかかった、この有馬記念という大一番。それはライスにとって、いや、どんなウマ娘だって、負けたくないと発奮するに違いない。
「ぶち抜けええええええええええぇぇっ! ライスウウウウウウウウウゥゥッ!」
だからこそ勝て。2500メートルという長距離のレースでは短い有馬記念だろうと、長距離のレースでお前のスタミナに、スピードに、そして根性に勝てるウマ娘なんていやしない。
『先頭は……ライスシャワー! ライスシャワーが抜け出した! 残り200と少しで! ライスシャワーが1バ身、2バ身とライバルを引き離し始めた!』
中山の直線、残り200メートル。
ライスはこれまでにない、トップスピードを越えて更に加速する。高低差2メートルほどの坂を目前にして、地面を蹴りつける足に力を込めて。芝を蹴り飛ばすどころかターフを陥没させそうな勢いでぐん、ぐん、と加速していく。
今この時、ライスは、ライスシャワーというウマ娘は間違いなく己の限界を超えた。これから先、これ以上の走りを見せることはないだろう。そう確信できるほどに、最高の状態に在った。
――だからこそ、
「……ライス?」
先頭を走っていたライスの体が、ぐらりと揺れた。
たたらを踏むようにしてライスの走りが乱れ、左足を庇うような動きへと変わる。ライスの顔を見れば、悲鳴を噛み殺すように歯を食いしばり、走ったことで流れた汗とは別種の冷や汗が大量に吹き出ていた。
坂を駆け上がっていた足が鈍る。距離を引き離していたトウカイテイオーとメジロマックイーンが、目を見開きながらも距離を詰めていく。
ライスに、明らかに何かしらの故障が発生していた。
どんなにトレーニングでの怪我を防いでも、レースでの突発的な故障は防げない。それは俺が前々から危惧していたことだ。
だがそれでも、このレースで起きなくて良いじゃないか。
俺は目の前が真っ暗になるような感覚を覚え、体から力が抜けて倒れそうになる――が、柵を握り締め、それを堪える。ギリ、と奥歯を噛み締め、大きく息を吸い込む。
痛みに歪んだライスの顔。しかし、その瞳は決して死んでいなかったからだ。
『おおっとこれはどうしたことか!? ライスシャワー突然の失速! それまでの走りが嘘のように急ブレーキだ!』
『あれは……何かアクシデントが発生したようですね。動きがおかしくんんっ!?』
ライスが駆けた。
鈍った速度を取り戻すように右足で地面を蹴り飛ばし、冷や汗を飛び散らせながらも疾走していく。
左足の蹴り足が弱い。しかし走れていることから、
筋を傷めたか、あるいは足の甲付近、中足骨あたりが折れてしまったのか。
「ライスッ! それ以上は――」
走るな、と俺は叫ぼうとした。それはトレーナーとして当然の判断だろう。だが、ライスの顔を見た瞬間、俺の喉は金縛りにでもあったように震えて動かなくなった。
ライスは笑っていた。痛みが酷く、一歩駆けるごとに激痛が走っているのだろう。それでもなお、ライスは笑っていた。
その笑みは俺を安心させるためのものか、あるいは自身を鼓舞するためのものか、その両方か。
ライスの走るフォームが、元に戻る。痛みなど感じない、無視すると言わんばかりに、左足に力がこもる。
ぐん、とライスが再加速した。坂道を駆け上がり、自身をかわしたトウカイテイオーとメジロマックイーンの背中を追っていく。
有馬記念――残り、100メートル。
「がんばれえええええええぇぇっ! ライスちゃん! がんばれえええええええぇぇっ!」
ウララが涙を浮かべながら叫ぶ。親友のライスの身に何が起きたかを理解しながらも、頑張れと必死になって叫ぶ。
「ライス先輩っ! 負けないでええええええええええぇぇっ!」
普段の凛とした表情を捨て去り、キングも叫ぶ。今のライスに負けるなというのは、酷だろう。故障した足で走れているだけ奇跡的なのだ。それでもキングは叫ぶ。チームに加わってから今まで、ずっと一緒にトレーニングで走ってきたライスのために。
「ライスッ!
俺は柵を叩きながら、全力で叫ぶ。そうだ、そうだとも。ライス
だから長距離のレースでは負けない、負けられない。痛みによるものかライスの走るフォームが崩れ始めているが、それでも足は前へと進む。負けるものかと駆けていく。
そんなライスの姿に、観客達からも声援が飛ぶ。ざわめいて、動揺して、しかし懸命に駆けるライスの姿に、その名前を呼ぶ声が連鎖していく。
ゴールを目指して走るライス達の姿が、スローモーションに見えた。最終直線、最後の坂を駆け上がってゴールを目指すその姿を、俺は一生忘れないだろう。
――ライスが勝つ、その姿を。
『ら、ライスシャワーがトウカイテイオーとメジロマックイーンをかわしっ、かわした! かわせたっ!? そして今ゴール! ゴールだ! ゴールした!? ゴールを駆け抜けたっ!』
『これは……驚きましたね……あそこから届きますか……』
ライスが僅かに抜け出し、ゴールを通過していく。それを確認した俺は柵を飛び越えてライスの元に駆け寄りたくなるが、まだレースは終わっていない。今そんな真似をすれば、レースの妨害行為になる。
ライスはゴールを駆け抜けると、徐々に減速する。そして観客席に向き直ろうとするが、左足が痛むのだろう。バランスを崩して倒れそうになる――と、それをトウカイテイオーとメジロマックイーンが、左右から抱えるようにして支えた。
その時のトウカイテイオーとメジロマックイーンの表情を、なんと表現すればいいのか。悔しさがあり、呆然としているようであり、それでいて驚いているようでもあり。よくあそこからかわせたね、足は大丈夫ですか? なんて声が聞こえてきそうで。
『着順が確定いたしました。1着6番、ライスシャワー。勝ち時計は2分30秒9。2着4番、クビ差でトウカイテイオー。3着1番、ハナ差でメジロマックイーン。4着13番、2バ身でビワハヤヒデ。5着12番、クビ差でナイスネイチャ』
着順が確定し、大歓声が降り注ぐ。ライスは着順掲示板を見ると、トウカイテイオーとメジロマックイーンに支えられたままで両手を掲げた。
左手は人差し指だけを伸ばし、右手は五本指全てを伸ばす。
――GⅠ6勝目。
それを示すパフォーマンスに、この日一番の大歓声が中山レース場を揺らした。
ライスが有馬記念で勝った。それはめでたい、喜ぶべきことだ。だがしかし、一つ問題があった。
「あっ……おにい、さま……」
コースから引き揚げ、控室に向かう通路で待ち受けた俺は、トウカイテイオーとメジロマックイーンに肩を貸されて歩くライスと対面する。
ライスは左足が地面につかないよう、右足だけで跳ねるようにして移動しており、トウカイテイオーとメジロマックイーンはいっそのこと抱えてしまおうかと迷っているようだった。
そしてライスは、俺の顔を見るなり視線を逸らした。有馬記念で勝ったが、故障したことを負い目に思っているのだろう。
「トウカイテイオー、メジロマックイーン、ここまでライスを運んでくれてありがとう」
俺はトウカイテイオーとメジロマックイーンに礼を告げると、ライスを引き受ける。一度だけ正面から抱き締めると、左足が地面につかないよう横抱き……俗に言うお姫様抱っこをした。
「ライス」
俺が呼びかけると、ライスは不安そうに俺を見上げてくる。そんなライスの額に、俺は自分の額をごつんとぶつけた。
「よく……勝ったな……でもこんな、こんなっ、無茶しやがって……」
有馬記念で勝ってほしかった。だけど、故障と引き換えだというのなら負けても良かった。
それはきっと、故障してでも勝ちたいと願うウマ娘に対する侮辱だろう。有馬記念という大舞台で勝つためなら、選手生命と引き換えにしてでも勝ちたいと願うウマ娘はきっといくらでもいる。
痛みが強いのか冷や汗を流すライスの頬に、俺の涙が落下していく。勝って嬉しい。しかしライスが故障したことに涙が浮かび、止まらない。
ライスを止めるべきだったのか。いや、今回の怪我はあくまで突発的なものだった。レースが始まるまで、ライスが
「おじさん、ライスを責めないであげてよ」
「そうですわ。わたしがライスさんの立場でも、同じことをしました」
そうやって涙を流す俺だったが、トウカイテイオーとメジロマックイーンが咎めるように言う。ただしその表情も声色も、苦笑に染まっていたが。
「あーあ……最後の最後で抜かれるなんてねー。アレにはビックリしたよ」
「本当です。アクシデントで勝敗を決することになるなんて、と思った瞬間にはライスさんが隣にいましたからね。驚きましたわ」
故障したライスを追い抜いたと思えば、再度追い抜かされたのだ。それはさぞ、驚いたことだろう。
俺は抱きかかえたライスを見る。さすがに額は既に離しているが、ライスは凍り付いたように硬直している。ぶつけた額が痛かったのだろうか。それともやっぱり左足が痛いのだろうか?
「あ、あの……すみません……」
そうやって俺達が話していると、スーツ姿の中年男性が声をかけてきた。俺達がいまいるのはトレーナーやウマ娘だけが利用できる専用通路だが……。
「当施設の職員なのですが、その、ウイニングライブは可能でしょうか?」
そして飛んできた質問に対し、俺は頬を引きつらせる。どこをどう見れば、ライスがウイニングライブをできると思えるのか。しかし有馬記念を見るために集まったファン達のことを思えば、『できるわけないだろ!』と突っぱねるのも難しい。
……いや、ライスの体を思えば、突っぱねるべきだろう。これから病院に連れて行き、検査を受けさせなければなるまい。
ファンからは盛大なブーイングが飛んでくるだろうが、俺が無理矢理病院に連れて行けば良い。ライスはウイニングライブをしたがったが、トレーナーである俺が突っぱねた、と公表すれば矛先は俺に向くだろう。
「お兄さま、ライス、ウイニングライブに出たい」
だが、俺が何かを言うよりも早くライスがそう言っていた。それを聞いた俺は不安で眉を寄せる。
「でもな、ライス。その足じゃさすがに……」
「テイオーさん、マックイーンさんと一緒にウイニングライブに出られる最後の機会かもしれないの……お兄さま、お願い」
そう言って、瞳を潤ませながら見上げてくるライス。ライスの意思を何よりも最優先したい……したい、のだが。ウイニングライブというのは、歌もそうだが激しいダンスがある。今のライスの足で踊れば、怪我が余計に酷くなるだろう。
「…………ライス、痛いのは左足のどの部分だ?」
俺は数十秒悩み。ライスへと尋ねる。
「え、っと……足の甲付近、かな?」
となるとやっぱり、中足骨あたりが折れている可能性が高い。人間でも最近妙に足が痛いな、なんて思って病院に行ったら折れていた、なんてことがあるが……。
「歩けるか? というか、ダンスは無理だろ?」
「が、がんばるっ」
「頑張っちゃ駄目なんだよ……どうしたもんか……」
今も顔を真っ赤にして、冷や汗を流すぐらいには痛んでいるはずだ。レースを終えて気が抜けて、痛みをより強く感じているだろう。
テーピングして……いや、靴を脱がすと腫れて履けなくなるな。骨接ぎして固定……はさすがにできないし……。
やっぱり無理だ。そう結論付けるまで、そう時間はかからなかった。だが――。
「つまり、踊らなければいいんじゃないの?」
不意に、トウカイテイオーがそんなことを言うのだった。
そして今、俺はウイニングライブの観客席の最前列で、ハラハラとしながらその時を待っていた。俺の隣にはウララとキングがいるが、二人は俺と比べて落ち着いている。
「落ち着きなさい。このキングのトレーナーがみっともない」
「だって骨折だぞ? 骨折なんだぞ?」
靴を脱がさずに確認してみたが、ライスの左足の甲は明らかに折れている腫れ方をしていた。一応大腿骨や脛骨、それに足首や膝関節も触診で確認してみたが、レース直後ということもあって少々熱を持っているだけだった。
両足とも確認してみたが、左足の甲……中足骨が二本ほど折れているぐらいで、他は問題なしである。それでもかなり痛みがあるはずで、俺はハラハラとしてしまうのだ。
そうやって焦る俺の目の前で、ウイニングライブが始まる。観客達はライスに故障が発生したのを見ているため、本当にウイニングライブが行われるのか、行うとしてもライスは大丈夫なのかと囁き合っていたが、トウカイテイオーに肩を貸されてゆっくりとステージに進んでくるライスの姿に、歓声とも悲鳴ともつかない声を上げた。
1着になったライスがセンターに立つが、歌だけでダンスはなし。踊るのはトウカイテイオーとメジロマックイーンだけで、パートに合わせてどちらかがライスを支えるという前代未聞のウイニングライブである。
たづなさんに連絡して理事長経由でURAへ確認を取り、それで問題ないと許可を取ってのライブだ。URAとしてもここまで盛り上がった有馬記念がウイニングライブ無しで終わるのは片手落ちと思ったらしく、割とあっさり許可が下りた。
問題は、ダンスこそないが歌を歌うライスだけだが――。
「……悪い子だな」
俺は思わず呟く。
曲がかかり始めると、ライスは自分の足で立って歌い始めたのだ。左足に体重をかけないようにしているものの、観客席からはライスが自分の足で立って歌っているように見える。
さすがに踊ることはない。トウカイテイオーもメジロマックイーンも、ライスがバランスを崩したらすぐに支えられるよう意識して踊ってくれているのがわかる。
そんなライス達の姿に、最初は困惑していた観客達も徐々に声援を送り始めた。故障しても、自分達のためにウイニングライブを開いてくれた――それを理解したからだ。
俺はウイニングライブを眺めつつ、苦笑すれば良いのか、喜べば良いのか、泣けば良いのか迷う。色々な感情がごちゃ混ぜになって、自分が今、どんな表情をしているのかもわからない。
――と、不意に、俺の隣に誰かが立った。
「本当は、最後にライスさんと一緒にあの場所に立ちたかったのですが……残念です」
そんなことを口にしたのは、ミホノブルボンだ。眩しいものを見るように目を細め、ライスが歌う姿を眺めている。
ミホノブルボンに俺は何か言おうとした。だが、ライスを見詰める瞳が優しく、それでいてどこか寂しげで、言葉が出てこない。
何も声をかけるべきではないのだろう。そう判断した俺は、ミホノブルボンに倣うようにしてライスを見詰める。
やはり痛みがあるのだろう。ライスは額に汗を浮かべている。だが、観客に悟らせないためか、表情はしっかりと笑顔だった。
その笑顔を見た俺の脳裏に、初めて出会った頃のライスの顔が思い浮かぶ。気弱で、菊花賞でのブーイングライブが原因で落ち込んでいた、彼女の顔が。
その顔と、今のライスの顔を見比べて思う。
ライスは強くなった。ウマ娘として、人として、大きく成長してくれた。贅沢を言うなら、ライスを最初から育ててみたかったが……ライスがジュニア級の頃、俺はまだトレーナー養成校の学生だった。こればかりは仕方がない。
そこでふと、俺はライスの視線がこちらを向いていることに気付く。だが、ライスが見ているのは俺ではない。ウララと、そしてキングをじっと見つめている。
その視線の意味。それを理解した俺は、いつの間にか涙を浮かべてライスが歌う姿を見ていたキングの背中を叩く。
「来年はキングの番、だな」
「……バトンを渡すにしても、もう少し
ウララは友人として、キングは己の後を継ぐ者として、ライスはじっと見つめていた。
そうして、ウイニングライブも大盛況に終わる。
これからライスを連れて病院に直行しなければいけないが、今ばかりは、ステージ上でトウカイテイオーやメジロマックイーンと涙ながらに抱き合うライスを俺は眺めていたのだった。