リィンカーネーションダービー ‐新人トレーナーがんばる‐ 作:烏賊メンコ
――ライスシャワーとトレーナーの場合。
ライスシャワーはウマ娘である。それもただのウマ娘ではない。GⅠで6勝し、春秋天皇賞制覇、長距離GⅠ制覇、秋のシニア三冠獲得、有馬記念2連覇と、近年のウマ娘の中ではトップクラスの結果を叩き出しているウマ娘だ。
現役最強のステイヤーとも呼ばれ、販売されているグッズの売上もウマ娘の中ではトップクラス。小柄で気弱で儚げな外見だというのにレースでは鬼気迫る走りぶりを見せることから、そのギャップが良いと多くのファンがいる。
トレセン学園に通うウマ娘の中にも、普段のトレーニングに取り組む姿勢やレースで走る姿を見てファンになるウマ娘がいるほどだ。
トレセン学園に在籍しているウマ娘の中では、実績や実力からシンボリルドルフに並ぶ数少ないウマ娘。それがライスシャワーに対する世間や周囲からの評判である。
そんな偉大なウマ娘であるライスシャワーは、今。
「おっと……急いで歩かなくていいからな、ライス。移動時間は多く取ってるし、飛行機の搭乗時間もまだまだ余裕がある。無理せず、ゆっくりでいいんだ」
「う、うんっ、お兄さまっ!」
――つまづいて転びかけたところを自身のトレーナーに抱き留められ、盛大にテンパっていた。
有馬記念で限界を超えたライスシャワーは、左足の中足骨を二本折るという怪我をしてしまった。
そのこと自体にライスシャワーは後悔していない。負けたくない、勝ちたい、自身がお兄さまと呼ぶトレーナーに勝利を捧げたい。そんな思いで走り切り、ライバルのトウカイテイオーとメジロマックイーンに勝ったのだ。
左足からは大きな違和感と、鈍い痛みがあった。走っている最中に折れたことで、レース中は冷や汗が噴き出るほどの痛みがあった。
それでも有馬記念で勝ち、ウイニングライブをセンターで踊ることができた。その代償は最短でも3ヶ月の療養と、向こう半年はレースに出られないということ――そして、トレーナーの涙。
ライスシャワーにとって、自身のトレーナーは大切な相手だ。菊花賞で1着を獲った結果起こったブーイングライブで傷ついた心を癒し、長い間自主トレーニングをしていたことで壊れかけていた体を治し、ウマ娘としてより強くしてくれたのだ。
苦境から助けてくれた、強くしてくれた、笑いかけてくれた、一緒にいてくれた。日々の些細な出来事の一つ一つがライスシャワーにとって大切なもので、そんな大切に想う相手だからこそ、自身の怪我を見て涙を流す姿にライスシャワーは衝撃を受けた。
普段から怪我には注意をしているトレーナー。そんなトレーナーにとって、ライスシャワーの怪我は痛恨の出来事なのだろう。自身を抱き上げて額を合わせ、鼻先が触れ合う距離で涙を流すトレーナーの姿に、ライスシャワーは胸が締め付けられるような感情を抱いた。
温かくて、それでいて心臓が凍るような、重たい感情を抱いたのだ。自身の顔に降り注ぐトレーナーの涙の感触に、どうしようもなく、心が震えたのだ。
――大切に想われている。
それを、どうしようもなく理解できたから。
だからこそ、とライスシャワーは言い訳をする。いや、言い訳をしたい。トレーナーからの『ライスの将来に関して実家で話を』という言葉が、『
病院を退院し、寮の自室でにへらと笑い、ベッドの上でトレーナーからもらった上着にくるまってゴロゴロと転がり、左足から走る痛みに飛び跳ね、同室のゼンノロブロイに『この人、何をしているんだろう……』という目で見られたこともライスシャワーの精神を削っていた。振り返ってみれば、本当に何をしていたんだろう、とライスシャワーは思った。
トレーナーは怪我をしたライスシャワーを案じ、これから先のことを考えて実家で両親とも話をするべきだと考えていたのだ。それだというのに勘違いして暴走しかけたことに、ライスシャワーは恥ずかしさを覚え――同時に
だが、しかし。トレーナーと実家に赴くというのは、
ライスシャワー自身やチームメイトのハルウララ、キングヘイローがレースに出るために遠出して宿泊する。あるいは夏の合宿のように長期間一緒にひとつ屋根の下で生活するのとはわけが違う。
レースもトレーニングも関係なく、私用で実家に帰るライスシャワーにトレーナーが付き添うのだ。それが怪我をした自分を案じてのことだとライスシャワーはわかっていたが、それはそれ、これはこれである。
トレーナーと二人きりで旅行する。怪我をした担当ウマ娘にトレーナーが付き添っているだけだが、今の自分が置かれたのはそんな境遇だとライスシャワーは思っていた。
しかし――ライスシャワーは思う。
あ、これ、心臓に悪い、と。
ライスシャワーの実家が北海道の登別市ということで、北海道までの移動は飛行機である。そのため朝からトレーナーと合流したライスシャワーはトレーナーが電話で呼んだタクシーに乗り、空港へと移動したのだが……。
「ほらライス、手を」
「う、うん……」
タクシーで乗り降りする際、トレーナーが手を差し出して補助をする。歩いて移動する際はライスシャワーの荷物もまとめてトレーナーが持ち、ライスシャワーが怪我した左足を危惧してか常に左側を歩き、何かあればすぐさま対応できるようにと注意をしているのだ。
可能な限りエレベーターやエスカレーターを利用するが、どうしても階段を利用しなければならない時、トレーナーは手を差し出してライスシャワーの支えになる。もしもバランスを崩してもすぐに支えられるようにするためだ。
その甲斐甲斐しさに、ライスシャワーは怪我とは別の理由で倒れそうになる。左足が痛んでバランスを崩した際もすぐさま抱き留め、心配そうに覗き込んでくるトレーナーに、ライスシャワーの心臓は早鐘を打ち続けていた。
ライスシャワーは思う。自分は悪くない。悪いのはトレーナーだ、と。そこまで献身的に、甲斐甲斐しく世話を焼かれたら
トレーナーはライスシャワーの実家を訪れるということで、普段着ないような服を着ていた。フォーマル過ぎてもカジュアル過ぎても駄目だからと皴一つない紺色のジャケットを羽織り、下には黒いセーター。下は灰色のパンツで靴は黒い革靴と落ち着いた色合いである。
更にコートも用意しているが、北海道に着くまでは着るつもりがないらしい。普段はスーツかジャージ姿のトレーナーが、着飾った格好をしているのだ。
ライスシャワーは普段着の私服を――ワンピースタイプのコートに似た私服を見下ろし、眉を寄せる。
(ど、どうしよう……ライス、もっと大人っぽい格好してくれば良かったかな……)
ライスシャワーから見ればトレーナーは大人だ。それも
――と、考え込んでいたライスシャワーはうっかり左足に体重をかけてしまい、痛みが走った拍子にバランスを崩した。
「おっと……大丈夫か?」
すると、すかさずトレーナーがライスシャワーを抱き留める。心配そうな顔、服越しでもわかる鍛えられて太い腕、抱き着く形になったことでわかる体の大きさ。その他もろもろから、ライスシャワーは思った。
とんでもない勘違いをしてしまったが、これはこれで良いのでは、と。
(うぅ……ライス、悪い子だ……悪い子になっちゃった……)
心配そうな視線が、嬉しくて心地良い。それを自覚したライスシャワーは恥じ入るように頬を赤らめる。
「うん……全然……全然、大丈夫だよ……お兄さま……」
それでも抱き留められた際につい――いや、うっかりトレーナーの背中に両腕を回しながら、ライスシャワーはとろけるような笑顔を浮かべるのだった。
そんなライスシャワーとは対照的に、トレーナーは困っていた。それはライスシャワーが頻繁に抱き着いてくるから――ではない。
(思ったより頻繁にバランスを崩すな……痛みはそんなに強くないらしいけど、やっぱりふとした拍子に痛むんだろうな。帰省させるとしても、もう少し症状が落ち着いてからにするべきだったか?)
ライスシャワーが抱き着いてくるのは最早日常茶飯事だ。ハルウララといいライスシャワーといい、抱き着いてきたりおんぶをせがんできたり、椅子に座っていたら膝の上に座ってきたりと、よくあることである。
そんなトレーナーからすると、ライスシャワーが抱き着いてくることよりも、
ライスシャワーを診た医者曰くトレーニングを控えて日常生活を送っていれば自然と治るらしく、トレーナーとしてもその所感に同意見だったが、ここまで頻繁に転びそうになるのなら車椅子を借りてくれば良かったか、と思う。
しかし同時に、ライスシャワーの転び方が二種類に分かれていることにトレーナーはすぐさま気付いた。
本当に痛みでバランスを崩した時と、痛みはあるもののトレーナーが傍にいるからと抱き着いてきている時の二種類である。
(うーん……危ないからやめなさい、って怒るべきなんだろうけど……)
トレーナーはライスシャワーの表情を見て、苦笑を浮かべてしまう。安心しきったように、甘えるように笑顔で抱き着いてくるライスシャワーにどう言ったものか、と軽く悩んでしまった。
「ライスは悪い子だな」
「ふぇっ!? なな、何の話!? ライスわかんないっ!」
耳元で囁くようにトレーナーが言うと、ライスシャワーの体がビクンと跳ねた。そしてあわあわと視線を彷徨わせる姿に、トレーナーは苦笑を浮かべる。そしてライスシャワーの頭に手を乗せると、ゆっくり、言い含めるように撫でてていく。
「甘えるのは構わないけど、歩いている時は危ないから駄目だ。周りの迷惑にもなるし、俺が支え損ねてライスが余計に怪我でもしたらまずい……いいね?」
「うん……ごめんなさい、お兄さま……ライス、悪い子になっちゃった」
しょぼん、とウマ耳を倒し、尻尾を垂れさせるライスシャワー。そんなライスシャワーの姿に、トレーナーは笑う。
「なあに、たまには悪い子になるのもいいさ。でも移動中は良い子でいてくれよ?」
「――うんっ!」
そんな二人のやり取りを聞いていた周囲の旅行客は思った。
なんだ、あの年齢差のあるバカップルは――と。
そうして北海道へと旅立ち、トレーナーとライスシャワーは新千歳空港に到着する。トレーナーはここからバスで移動するつもりだったのだが、ライスシャワーはそんなトレーナーに向かって笑いかけた。
「大丈夫だよ、お兄さま。お迎えお願いしてるから」
「そうなのか? そりゃありがたいけど……そういうのは先に言うんだぞ?」
「えへへ……ごめんなさい」
トレーナーとの二人きりで旅行するという形になって思わず伝え忘れていたことを、ライスシャワーは笑顔で誤魔化す。
ライスシャワーの分の荷物も持ち、北海道の地に降り立ったトレーナーは空港前の景色を確認して白い息を吐いた。
(さすが北海道、すごい雪だな……)
道路などは除雪されているものの、遠くに目を向ければ白銀の雪景色が広がっている。
都心では5センチも積もれば大騒ぎになるが、北海道の積雪はそんなレベルではない。年間降雪量で見ると、5センチどころか5メートル以上積もるところも珍しくないのだ。文字通り桁違いである。
トレーナーは用意していたコートを羽織ろうとする。しかし、ライスシャワーが何も取り出さないところを見て眉を寄せた。
「ライス、上着はどうしたんだ?」
「寒いの慣れてるし、空港にお迎えが来てるから大丈夫だよ」
「マジかよ……この寒さって慣れるもんなのか……」
トレーナーはライスシャワーの言葉に驚くが、ライスシャワーは言葉にした通り寒さに慣れているのか、寒がる様子はない。だが、寒がらないのと温かい格好をしないのは話が別だ。
トレーナーは自分のコートをライスシャワーにかける。背丈の違いからロングコートを着せたような形になるが、寒さ対策には丁度良いだろう。
「え? お、お兄さま、ライス本当に大丈夫だよ?」
「女の子が体を冷やすもんじゃない。いいから着ておくんだ。怪我にも障るしな」
「あっ……うん……ありがと、お兄さま」
トレーナーにそう言われ、ライスシャワーは頬を桜色に染めながら視線を地面に落とす。そして右手でコートをきゅっと摘まみ、トレーナーが差し出した右手を左手で握った。
そういった仕草の一つ一つ、かける言葉の一つ一つに、ライスシャワーはずるい、と思った。何をどう指してずるいと言えば良いのかライスシャワー自身明確にはわからない。ただただ、ずるいと思う。
そうしてトレーナーとライスシャワーはゆっくり、ライスシャワーの足が痛まない速度で歩いていく。飛行機に乗る前に痛み止めを飲んだため痛みはないが、あくまで痛みがないだけで骨折が治ったわけではない。
トレーナーとしては雪道で転べば危ないという思いもあり、ライスシャワーに負担をかけないようゆっくりと歩いていた。
「おおう……」
そして空港の玄関前、バスの停留所やタクシーの待合スペースなどが並ぶ駐車場まで辿り着いたトレーナーは、何やら目の前に滑り込んできた黒塗りの高級車にそんな声を漏らす。
え? なにこの車。などと考えていると、運転席から執事服に身を包んだ初老の男性が下りてきてライスシャワーとトレーナーに向かって一礼する。
「あっ、じいやさん」
(えっ? この執事みたいな人、ライスの知り合いなの? というかじいやって……え? ライスの実家ってどんなところなの?)
ライスシャワーの明るい声に、トレーナーは混乱する。じいやさん、と呼ばれた初老の男性はライスシャワーの姿に相好を崩すと、トレーナーに向かって折り目正しく再度一礼した。
「お嬢様の担当をされているトレーナー様ですね? お迎えに上がりました。どうぞお乗りください」
そう言って、トレーナーが担いでいた荷物をさっと受け取り、トランクに詰めていく男性。トレーナーは呆然としつつも、ライスシャワーに促されて車に乗り込むのだった。
(なぁにあれぇ……)
とんでもなく乗り心地が良い車の中。ふかふかの座席に沈み込んでいたトレーナーは、一時間ほど走った先に見えてきた巨大な家屋――最早豪邸としか呼べない建物を見て目を丸くした。
「ライスさんライスさん、もしかしてですけど、あれが御実家ですか?」
「え、うん……そうだよお兄さま。ところでなんで敬語……」
「ふぁー……ライスってお嬢様だったんだなぁ」
トレーナーは感心したような、驚いたような声を漏らす。
「おや……御存知なかったのですか?」
そんなトレーナーの様子に、ライスシャワーにじいやと呼ばれた男性が尋ねた。その問いかけに対し、トレーナーは苦笑を浮かべる。
「この子とは一年以上の付き合いになりましたけど、実家がどうとかってのはまったく考えていなかったもので……もっとフォーマルな格好で来れば良かったですね。すみません」
これは事前に実家の規模を聞いていなかった自分の落ち度だろう、とトレーナーは頭を抱える。まさか本当にお嬢様だとは知らなかったのだ。一応、俗に言うジャケパンスタイルで最低限の礼節は守れているはずだが、とトレーナーは遠い目をする。
「……ほほっ、それはそれは」
トレーナーの返答と反応をどう思ったのか、じいやと呼ばれた男性は妙に温かみのある声を零した。
ライスシャワーの実家は西洋風の豪邸だった。家の周りには背の高い金属製の柵が建てられており、まるで映画の世界の建物だ、などとトレーナーは思う。
周囲にちらほら家が建っているが、距離がある上にそれぞれの家がデカい。金持ちが住む区画なのだろうか、とトレーナーは真顔で思った。
家の周囲には雪が積もっているが、建物に続く道には一切雪が積もっていない。トレーナーが話を聞いてみると、ロードヒーティングという装置が使われているようだった。
(……やばい。お土産、空港で買ったお菓子なんだけど……一応、一番高いやつだけど……)
ひよこの形をした饅頭やサブレの詰め合わせを買ってきたものの、これで良かったのだろうか、とトレーナーは遠くを見つめるように目を細めた。ライスシャワーが一目見て、『これ可愛いねお兄さまっ!』と大喜びだったため購入した代物である。
そのままあれよあれよとライスシャワーの実家に通されたトレーナーは、ここまできたらどうしようもない、と腹を括る。今のご時世、インターネットで住所を調べればその辺りの風景を見ることもできるというのに、それを怠った以上自業自得だと思ったのだ。
トレーナーとしては、まさかここまでの豪邸だとは思っていなかったのだが。
(ライスが稼いだ賞金をどうこうする親御さんだったらどうしよう、なんて考えてた俺がアホみたいだなぁ……いやいや、でもまだ油断できないぞ、俺……)
トレーナーはそう自分に言い聞かせ、ライスシャワーの両親と対面する。そして、自分とは違う人種――国籍という意味ではなく、明らかに上流階級の気配を漂わせるその洗練された所作に、不安の類は消し飛んだ。
「娘がお世話になっております。この子の父です」
「娘からよく電話で話を聞いております。遠路はるばるようこそお出で下さいました」
中身はともかく、外見だけで見れば明らかに年下のトレーナーに対して深々と頭を下げるライスシャワーの両親。その姿と、久しぶりに会った両親に抱き着くライスシャワーの姿を見たトレーナーは、考えていたことが全て杞憂だった、と悟る。
トレーナーも挨拶をすると、応接間に通される。そして造詣が深くないトレーナーでもわかるほど高級そうなティーカップに、これまた高級そうな紅茶が注がれた。
(うーん……美味しいことはわかるんだけど、細かい風味とかはわからんぞ……)
コーヒーならまだ銘柄などもわかるのだが、とトレーナーは目線を泳がせる。日本酒の利き酒の方がよっぽど簡単だと思うほどだった。
それでもここに来た目的を思い出したトレーナーは、自己紹介や世間話もそこそこに話を切り出していく。
「それでですね、今後のライス……いえ、娘さんの進路に関してなんですが……」
トレーナーは紅茶で喉を潤すと、話を始める。
怪我が治ったとして、このまま現役を続けるのか。続けるとしてもシニア級のままか、ドリームシリーズに進むのか。進んだとしていつまで続けるのか。
そのあとは進学や就職をするのか。トレセン学園に存在する学科なら現役を続行しつつ新たに知識を学べるが、どうするのか。
今後ライスシャワーが進める道に関して話し、トレーナーはライスシャワーやその両親の反応を待つ。
トレーナーとしては、ライスシャワーがどんな道を選んだとしても応援するつもりだ。
まずは怪我を治すのが先決だが、ライスシャワーが現役を続行するならこれまで通り、いや、これまで以上に強く育て上げる。現役を引退して進学や就職をするというのなら、その背中を押す。
チームキタルファのトレーナーとしては、チームリーダーであるライスシャワーが引退するのは痛手である。だが、
話を聞いていたライスシャワーの母親は、不思議そうに首を傾げた。
「最近のトレセン学園では、担当しているウマ娘のためにわざわざそのようなことを聞いて回るのですか?」
「いえ、そういうわけではないですね。トレーナーによるとしか言えませんが……娘さんが怪我をして帰省するのも困難だと思い、せっかくだから付き添いをして話をできればと思った次第でして」
「……年末年始のこの時期に、ですか?」
ライスシャワーの父親が怪訝そうに尋ねる。それを聞いたトレーナーは、困ったように頭を掻いた。
「申し訳ございません。このような時期に訪問するのは非常識だと思ったのですが……お恥ずかしい話ですが、こういう時期でもないと数日休む機会もないもので……」
そう話したトレーナーは、あれ? と思う。最後にまとまった休暇を取ったのはいつだったか、と。
(……いや、夏の合宿でしっかり休んだし、セーフだな)
トレーナーはそう思った。もちろん、セーフではない。
「いえ、こちらとしては年末年始にも関わらず、娘のためにそこまで時間を割いていただいたことに驚いたと申しますか……これもトレーナーの業務の一環なのですか?」
そう言って申し訳なさそうな顔をするライスシャワーの父親に、トレーナーは笑顔を返した。
「業務ではありませんが、お気になさらないでください。ライスの……ライスシャワーのトレーナーとして、やるべきことだと思った次第で。それに私、最近温泉に入るのが趣味でして。登別温泉に入るための旅行も兼ねているんですよ」
だから気にする必要はない、とトレーナーは言う。ライスシャワーのためだけではなく、旅行も兼ねているのだ、と。
「娘から電話で聞きましたけれど、熱心に指導していただけているようで……この子が走るところはテレビでいつも見ていますが、親として何とお礼を申し上げたらいいものか……」
ライスシャワーの母親は困ったように言う。
トレセン学園に送り出した愛娘が今のトレーナーの元でトレーニングに励むようになってから、僅か一年間の内にGⅠで5勝したのだ。それも数々の偉業を引っ提げての勝利である。
だが、トレーナーとしてはその賛辞のような言葉に困ってしまう。
「私がこの子にしてやれたことなんて、そこまで大したものじゃないです。この子自身の才能、トレーニングへの取り組み、レースへの熱意……それらがこの子をここまで強くしました」
ライスシャワーは
それに何より、ライスシャワーのウマ娘としての才覚が優れていたからだ、とトレーナーは語る。
「まだトレーナーになって2年目の若輩者ですが、今後、この子を超えるステイヤーを育てることはできないんじゃないか……そう思えるほどに素晴らしいウマ娘ですよ。いえ……きっとこの子を超えるステイヤーは育て切れないでしょうね」
「うちの娘はそれほどですか……ははは、お世辞とわかっていても嬉しいものですね」
トレーナーの言葉にライスシャワーの父親は上機嫌に笑う。それがたとえ世辞でも、娘を褒められれば嬉しくて仕方がないのだ。
だが、トレーナーはいたって真剣である。
「本心ですよ。他のどんなトレーナーでも向こう十年はこの子を超えるステイヤーは育てられないんじゃないかと思えるほどです。それぐらい才能があって、努力も苦労も厭わなくて、レースに賭ける思いも強い……本当に素晴らしいウマ娘なんです」
トレーナーはライスシャワーをべた褒めした。その結果、ライスシャワーは顔を真っ赤にしながら俯いてしまう。
普段からトレーナーはライスシャワーのことを褒める。しかし、両親の前で褒め倒されるとさすがに恥ずかしかったのだ。
「……では、娘はこのまま現役を続けるべきだ、と?」
トレーナーの話を聞いたライスシャワーの父親が、その瞳に僅かに剣呑な光を宿しながら尋ねる。ライスシャワーがそこまで優れたウマ娘だというのなら更なる偉業を積み上げることも可能で、それを狙っての来訪ではないかと思ったのだ。
「いえ、そういうわけではありません。私としては現役を続けても良いし、進学や就職をしても良いと思っています。ただ、それはライスが自ら決めることですから……そのためにはご両親とよく話をするべきだと思い、本日はお邪魔しました」
トレーナーとしては、それ以外の意図はない。あとは精々、帰省するライスシャワーが心配だったからついてきただけだった。
たしかに、ライスシャワーが現役を続行すれば更にGⅠで勝つことも可能だろう。シンボリルドルフに並び、あるいは超えることも可能かもしれない。
しかしそれはライスシャワー本人の意思が重要なのだ。走りたくないと思っているウマ娘をレースに出しても良いことはない。周りにも良い影響はなく、やる気も集中力も欠いた状態で走っては怪我をする可能性が高いだろう。
だからこそ、トレーナーはライスシャワーの意思を最優先にする。このまま現役を続行すれば更に記録が積み上がるだとか、賞金が入ってくるだとか、そういったことはどうでも良かった。
ライスシャワーの父親が、トレーナーの瞳をじっと見る。嘘偽りがないかを見透かすようなその視線に、トレーナーは堂々と視線を返した。
「つまり、うちの娘を大切に思ってくれているというわけですな。年末にも関わらず、うちの娘のために休暇を使うことも惜しくない、と」
「はい――ライスは俺にとって大切なウマ娘ですから」
そのトレーナーの返答に、ライスシャワーは限界を迎えた。恥ずかしさや嬉しさでオーバーヒートを起こし、思わず応接間の机に突っ伏してしまう。
「なるほど……中央のトレーナーはそこまで担当ウマ娘を思って職務に取り組んでいるのですな。感服いたしました」
「いえ、トレーナーとして当然ですよ。それに今のライスは怪我もしていますから、一人で帰省させるのが心配で……」
だからこそ、ライスシャワーは続いた会話を聞きそびれたのだった。
それから一時間後。
トレーナーと自身の父親の会話が盛り上がっているのを眺めていたライスシャワーは、トレーナーがそろそろ良い時間なので、と言いながら立ち上がったことに首を傾げる。
「お兄さま、どこに行くの?」
「どこにって……ホテルだよ。そろそろ向かってチェックインしないとな」
「え?」
「え?」
トレーナーとライスシャワーは顔を見合わせる。しかしトレーナーの方が先に我に返ると、笑顔でスマートフォンを取り出した。
「いやぁ、予約したホテルの温泉と料理が楽しみでなぁ。ライスも家族水入らずでしっかり楽しむんだぞ?」
「えっ、あ、うん……」
ワクワクと子どものような笑顔で語るトレーナーに、ライスシャワーは思わず頷いてしまった。
「帰りだけじゃなく、出かける時とか補助がいる時は遠慮せずに呼んでくれよ? できれば一時間前ぐらいまでに連絡をくれると助かるかな」
「う、うん……」
トレーナーはそう言って、ライスシャワーの両親とじいやと呼ばれた男性に向かって頭を下げる。
「このような時期に押しかけ、大変失礼いたしました。そろそろお暇させていただきます」
「是非また来てくださいね」
「今度は酒でも飲みましょう。事前に言ってくれれば部屋も用意しておきますから」
ライスシャワーの母親と父親は揃って笑顔で見送りに立つ。既にホテルを取っているのなら無理に引き留めるわけにもいかず、トレーナーも年末に教え子の家に宿泊するような非常識は持ち合わせていなかった。
「それじゃあライス。俺が帰った後も、ご両親と一緒によく話し合っておくんだ。いいね?」
「……うん」
そう言って話をまとめるトレーナーを止める言葉を、ライスシャワーは持たなかった。せっかくだからとじいやと呼ばれた男性が運転する車で送り出されるトレーナーを両親と一緒に見送ったライスシャワーは、思わずその場に膝を突いて嘆きそうになる。
「ところでライス……あなたとトレーナーさんのこと、色々聞きたいのだけれど」
だが、自身の母親が目を輝かせながらそんなことを言い出したため、それどころではないのだとライスシャワーは悟るのだった。
なお、ライスシャワーは毎日のようにトレーナーに会いに行き、年末年始の登別を一緒に観光して回ったのだった。