一瞬――いや、本当に一瞬かどうかも定かでないが、意識が飛んでいた。
殴られる、と寸前で認識できたことすら奇跡だと思う。そして、多少なりとも対応することができたのは、奇跡以上だった。
私の身体に向かってきた大男の拳に対して、【氷衣】で操った左腕を挟むことができた。さらには、吹き飛ばされた後に【氷衣】でなんとか体勢をコントロールし、岩壁に打ち付けられる勢いを殺すことができたのだ。
ただ、それでもなお前後不覚に陥ったし、何とか意識を取り戻したものの身体のそこら中が痛かった。
特に、左の胸の辺りが問題だった。左腕、つまりは義手を間に挟むことができたとは言え、大男の拳をもろに食らった部分だ。胸骨か肋骨か、たぶんその辺の骨が折れたようで、息一つを吸うだけで激痛が走った。内臓に刺さっていないといいのだが、正直、かなり怪しいところだろう。
そして当然、義手もお釈迦になってしまったようだった。左腕の、肘から先の感覚がない。ただただ肩に重みを感じるだけになっている。日常生活用の義手ではまったく耐久力が足りなかったというわけだ。
……と、そんな具合で自分自身の状況を把握して、それから周りの状況にまで気が行ったのは、あの大男が突然爆豪くんの名前を出した頃だった。
緑谷くんは完全にパワー負けしていた。どれほどの攻撃を受けたのか、既に全身がボロボロだ。
私は、動き出すタイミングを見計らっていた。私も大概ズタボロだし、この期に及んであんな瞬発力と火力を持っている相手と正面切って戦える自信はない。
洸汰くんが大男の意識を引いた時は、チャンスだと思った。洸汰くんを利用するようで気が咎めたが、そんなことを言ってられる状況じゃない。幸いなことにすぐさま襲い掛かられるようなことはなさそうだったから、緑谷くんと力を合わせて――と、私はそんな考えを巡らせていた。
「……ウォーターホース……パパも……ママも……そんな風にいたぶって殺したのか……!」
けれど、洸汰くんの言葉を聞いて、私の頭は真っ白になった。
そして、視界が真っ赤に染まるような錯覚に陥った。
私は【氷衣】で補助をしながら立ち上がり、個性を使い始める。視界の端で、緑谷くんも立ち上がろうとしているのが見えた。
そして。
「いいか、ガキ。悪いのはなぁ、できもしねぇことをやりたがった――てめぇの、パパとママさ!!!」
大男のふざけた言葉を耳にした瞬間、私は身体の痛みも、呼吸の苦しさも全部忘れて、膨れ上がった激情のままに叫んだ。
「――おまえはもうッ、喋るなァッ!!!」
叫ぶのと同時に、私は生成していた氷塊に回転運動を加えつつ、大男に向けて射出した。
「――ハッハァッ! 根性あるじゃねぇか女ァ!」
奴は驚異的な反射神経、あるいは獣的な直感でもって裏拳を放ち、迫った氷塊を粉々に砕いてみせた。
だが、動き出したのは私だけじゃない。
「雪柳さん!! 奴の動きを!!」
「おまえも来るよなぁボロ雑巾!!」
緑谷くんが、必死の形相で大男へと飛び掛かっていた。
私は、砕かれて宙を舞う氷の破片たちを即座に操作し、奴の足首、膝、肘、肩、あらゆる関節部位に纏わりつかせつつ、さらに新しい氷を生成していく。
「な、んだクソがッ!?」
ほんの一瞬だが、確実に奴の動きが鈍った。気が散った。
緑谷くんには、それだけの間があれば十分だった。
「できるできないじゃないんだ……――ヒーローは!!」
緑谷くんは奴の左側、向かって右側へと一歩踏み込んだ。
「命を賭して!!」
続けて右手を大きく、大きく振りかぶる。緑色の稲妻が、彼の腕にほとばしった。
「キレイ事を実践するお仕事だ!!!」
――直後、まるで爆発でも起こったかのような衝撃波が、辺り一帯を襲った。
※ ※ ※
「うわぁ!? あ、あああ……あ?」
「だい、じょうぶです、よ」
緑谷くんの動きを見て、私は洸汰くんの方へと移動していた。
距離が近すぎて、たぶん洸汰くんが危ない……直感的にそう思ったから、痛む身体に鞭を打って【氷衣】を使ったのだ。
結果的に、近寄っておいて正解だった。緑谷くんが起こした爆風とも言うべきそれは、洸汰くんの身体くらい簡単に吹き飛ばしてしまうようなものだった。私ですら体勢を崩しかねなかったと思う。
風除けのために作り出した氷を塵に変えると、その先には緑谷くんの姿があった。
「み、どりや、くん」
「! 雪柳さん、怪我は!? だ、大丈夫!?」
緑谷くんはそう言いながら洸汰くんの傍で跪いていた私に駆け寄って来たけれど、ぱっと見の印象ではあきらかに彼の方がひどい状態だ。
先ほどちらりと確認した通り全身が傷だらけなことに加えて……右腕。ぶらぶらと力なく揺れているそれは一目見てわかるほどに形が歪んでいて、赤紫色に変色している。
緑谷くんの個性。自分自身の身体を破壊してしまうほどの超パワー。
私は今まで、彼が指という末端でそれを使うところしか見てこなかったし、最近は扱いきれるだけの範囲で使用するところしか見なかった。
それを彼は、腕全体で。
……わかっていた。緑谷くんがやろうとしていることは、なんとなく察していたのだ。なのに、私はそれを後押しして、彼がこんなことになるのを許容したのだ。
「……ごめん、なさい。みどりや、くん……」
「え、何、なんで? ……って、いや、無理に喋らなくていいから!」
謝るだけ謝ったけれど、結局私は緑谷くんの言葉に甘えるしかない。今の私は、息をするのもやっとの状態だ。喋るなんてもってのほかで、口の中が血の味でいっぱいだった。
「……なんで……」
「あっ、こ、洸汰くんごめん! 大丈夫、怪我はない? ……今からすぐに、施設の方に向かおう。他のみんながどういう状況かわからないけど、とにかく君を安全なところに――」
――ズンッ、と。
不意に、軽い地響きのような音が聞こえた。
「……ウソだ」
顔を上げると、緑谷くんが後ろを振り返っていた。彼の視線の先には――あの大男の姿が、あった。
「ウソだろ……100%だぞ?」
「――あぁ、なかなか効いたぜ? うっかり崖下まで落とされちまって、ダセェ感じになっちまった……が、殴られた俺より、殴ったおまえの方がよっぽどボロボロになってやがる。いやしかし、いいぜ緑谷。やるなぁおまえ……!」
奴は確実にダメージを負っている。でも、奴の言う通り、緑谷くんや私の方がそれ以上に深刻だった。
「く、来るな!」
「やだよ、行くね俄然」
奴はポケットに手を突っ込む。ボロボロと何かを――替えの義眼と思しきものを落としながら、こちらへと近付いてきた。
「な、何がしたいんだよおまえたちは!
「知るかよ。俺ァただ暴れてぇだけだ。羽伸ばして個性ぶっ放して、そんで血が見れりゃなんでもいいんだよ……ただ、遊びは終いだ。おまえ強ぇし、そっちの女も厄介だ。だから、こっからは本気で行くぜ。本気の――
「っ、こうたくんはわたしがっ!」
大男が義眼を付けた直後、私は痛みをこらえて一息に叫んだ。
私は【氷衣】を発動して洸汰くんを抱きかかえ、すぐさまその場から離れる。目の前にいた緑谷くんも、大きく飛び退く。
「…………!」
私たちがほんの一瞬前までいたところに、奴はもう、いた。
速すぎた。眼で追うことはほとんど叶わなかった。
そして、その一撃の威力も今までとは段違いで、奴が振り下ろした拳は足場をまるごと崩落させかねないほどに地面をえぐっていた。
本気。その言葉は、決してブラフじゃなかった。
奴は顔を上げて壁寄りに飛び退いた緑谷くんの方を見たかと思うと、ほぼノーモーションで再び攻撃を仕掛けてくる。
緑谷くんは壁を蹴って回避したものの、奴が粉砕した壁の破片たちが緑谷くんを、それに私と洸汰くんまでをも襲う。
洸汰くんを抱えて、しかも私自身が【氷衣】による加減速に耐えられないような状態であるため、せめて洸汰くんを庇おうと咄嗟に飛んでくる岩石の欠片に背を向けようとした。が、運の悪いことに、そこそこの大きさの岩石が私の側頭部に直撃してしまう。
「いっ――!」
「うわぁっ!?」
それほど高く飛んでいたわけじゃなかったが、私はバランスを崩してしまい、洸汰くんを放り出して地面に落ちてしまった
身体が、胸が、頭が痛い。
洸汰くんは? 緑谷くんは?
早く、起き上がらなくちゃ。
右手だけを突いてなんとか身体を起こし、四つん這い――いや、左腕はぶら下がっているだけだから、厳密には三つん這いか――になる。
液体が頭を、頬を伝う感覚がしたかと思えば、土の上に赤い斑点。出血くらい、今更だ。口の中を切っただけか、あるいは喀血か、先ほどから血の味と匂いを嫌というほど感じている。
顔を上げて周囲を確認すると、洸汰くんは私の隣にいた。幸い、大きな怪我はしていないようだった。
緑谷くんは、私のすぐ傍で片膝を突いていた。肩で息をしていた。
「ああクソ、勢いあまった……」
大男の、場違いにも思えるほど余裕のある声が聞こえてきた。見れば奴は岩壁に深く深く腕をめり込ませていて、身動きが取れなくなっているようだった。
ほんの僅かな隙。
しかし、私たちはその時間を、体勢を立て直すことに費やすしかなかった。それに、もしも十分な時間があったとして、次に打つ手がない。
「……雪柳さん。洸汰くんを、お願い。僕がアイツを足止めするから、施設まで行って、誰か、応援を呼んできて」
緑谷くんが立ち上がりながら、唐突にそう言った。少なくとも私には、唐突に思えた。
けれど、彼がどうしてそんな結論に至ったのかわからない、とは言えなかった。わかりたくは、なかったけど。
「……お、おい、ムリだよ、逃げよう! おまえの攻撃きかなかったじゃん! おまえボロボロじゃん! そんな身体で、どうやって――」
「――大丈夫」
洸汰くんの必死な言葉に対して、緑谷くんは振り返らずにそれだけ言った。
緑谷くんは、覚悟を決めていた。
決死の覚悟。必ず救けるという覚悟。
だったら、私は。
「……わかり、ました」
私も、覚悟を決めた。
――次の瞬間、緑谷くんが行った。飛び掛かってきた大男を、比較的マシな状態の左腕一本で迎え撃った。
「――……」
轟音が響く。緑谷くんは振り向かない。そんな余裕はないだろうし、返事をした私を信用してくれたんだろう。
でも、悪いけど。
私は緑谷くんの
緑谷くんを見殺しにする気はない。洸汰くんも殺させない。私も死ぬ気はない。
だから――私は、奴を殺す。
燃え上がるような激情に呑まれても、決して越えようと思わなかった一線。私はそれを理性で踏み越える。
たとえ相手が
私は、ヒーローになることを諦める。
諦めてでも、緑谷くんを、洸汰くんを殺させない。
「――ッ、な、なん、あ、だぁ……!?」
立ち上がった私は、今にも緑谷くんを押し潰そうとしていた奴に向かって右手を差し向けていた。
個性を使う。この合宿で散々やった冷気の発生。
それをただ、
この個性でどこまで低い温度の冷気を生み出せるのか、私は把握できていない。
しかし、そもそも全力を出す必要なんてないのだ。外側からならいざ知らず、内側から体温を奪うのだから、ほんの片手間程度の個性行使で事は足りる。
「う、おおおおおおおおおおお!!!」
「な、てめ、待――お、んなァ! おれ、に、何をッ!」
緑谷くんが雄たけびを上げながら、奴を押し返す。
奴は現在進行形で、著しく衰弱していっている。
このまま緑谷くんに任せてもいいんじゃないか――ふと脳裏にそんな考えがよぎったけれど、私はすぐに切り捨てた。
緑谷くんにこれ以上無理をしてほしくないけれど、今の彼に届くだけの声を張り上げるのは私には難しい。緑谷くんは緑谷くんで、やってくれればいい。
私は
「――あっ」
けれど、結局。
止まらなかった緑谷くんは、私が奴を殺す前に――殺してしまう前に、奴を思い切り吹き飛ばした。
巨体が強烈な勢いで岩壁に叩きつけられ、土煙が舞う。
私は自身の周囲に大量の雪玉を生成して、そこに向けて放った後、まんべんなく広がった雪を氷に変化させた。
起き上がってくるな。立ち上がってくるな。
……その願いは、届いてくれた。土煙が晴れた向こうで、奴は完全に意識を失っていた。私は氷を塵へと変えて辺りに四散させた。
「……なんで、おまえらは、そこまで……なんで……!」
背後で、洸汰くんの震えた声が聞こえた。
私は振り返ろうとしたが、ふらりと、突然足元がおぼつかなくなってしまった。
「――あ、お、おい!」
私は右手で胸を押さえながら、片膝を突く。隣に駆け寄ってきたらしい洸汰くんが、大丈夫かとしきりに聞いてくる。
息を吸うのが苦痛だった。息を吐くのも苦痛だった。浅く、短い呼吸を繰り返すのが精一杯。心配をかけて申し訳ないけど、返事は少し待って欲しかった。
「――雪柳さん! どうして、逃げないで……いや、アイツの力が弱まったの、雪柳さんが何かしたんだよね? そんな状態で、無茶を……!」
さらには緑谷くんも近づいてきて、そんな声をかけてくる。
僅かに視線を上げると、だらりと垂れ下がった緑谷くんの両腕が見えた。先ほどの右腕に続けて、左腕まで悲惨なことになっている。いったいどの口が人の無茶を責められるんだろうと思う一方、ひとまず命にかかわるような怪我はしていないことに心底安心した。
私は続けて、洸汰くんの顔を見た。
泣き腫らした跡があって、今も目元いっぱいに涙を溜めている。手足やほっぺたにたくさん擦り傷がある。
無事だ。痛い思いをさせたし、怖い思いもさせてしまったけど、彼も無事だった。
思わず、安堵のため息が零れた。
胸は当然ひどく痛んだけれど、その一息だけは少しだけマシな気がした。