第52話 雪女、寮入るってよ その1
入寮の日は、あれからすぐにやってきた。
退院して、家に帰って荷物の整理をして、たった四ヶ月過ごしただけの部屋を引き払う手続きをして――そんな慌ただしさが体感時間を短くしたというのは間違いなくあるだろうけれど、それにしてもあっという間だった。
そして、私は今まさに、蟹田さんが運転する車に乗って雄英高校へと向かっている。
「――雪柳さん、冷房、寒くないかい?」
助手席に座って窓の外をぼんやり見ていると、蟹田さんに声をかけられる。
私はちらりと彼の方を見て、口を開いた。
「……大丈夫です。寒いのは、平気ですから」
「あ、ああ……いや、うん、雪柳さんの個性なら、そうだよね」
……蟹田さんの気遣いが空回りしているのは、今日に始まった話ではない。蟹田さんとは退院してからこっち毎日顔を合わせているのだが、その間ずっとこんな調子なのだ。
しかし、その原因は蟹田さんの方にではなく、間違いなく私の態度の方にある。
蟹田さんには入退院の手続きや賃貸を引き払う手続き、入寮に関する手続きなんかで今回もかなりお世話になっているのだが、私の胸中にあるのが以前と同じような純粋な感謝ばかりでなくなってしまっていたのだ。
別に、彼だけに一任されているわけではないだろうが、おそらく公安から私を監視するようにでも言われているのではないか――そういう疑念がどうしても拭いきれない。
蟹田さんが実は悪人だった、なんて思っているわけじゃない。実際に、悪人なんかじゃないのは間違いないと思っている。
彼が私のためにいろいろと骨を折ってくれたのは紛れもない事実だし、今回もまた散々な目に遭った私を本気で心配してくれていたことも疑ってはいない。
でも、蟹田さんが裏で公安と繋がっていた大人たちの一人であることもまた、間違いない。
たったそれだけのことのせいで、私は、蟹田さんの目を見て話すのが嫌になっていたのだ。
「……すいません」
「ん、いや、いいんだよ。……音楽でも流そうか」
蟹田さんが信号待ちの片手間で、カーオーディオをいじると、スピーカーから聞き覚えのある曲が流れてきた。
蟹田さんの趣味なのだろうか。最近の曲ではなくて、むしろ古い。
「ごめんね、最近の曲じゃなくって。ラジオとかの方が良いかな?」
「いえ、大丈夫です。……知ってる曲ですので」
私は助手席側の窓から外を眺めながら答える。
テレビで流れているのを聞いたことがあるだけ、かもしれない。
でも、この曲は……昔、お父さんが車で同じものを流していたような気がする。
この数日間、私は事あるごとに昔のことを思い出そうとしていた。昔のこととはつまり、七年前の事件よりもさらに以前のことだ。
家族四人で暮らしていた頃の記憶が曖昧になっていることについて、かねてから医者にはストレスが原因の部分的な記憶喪失だろうと聞かされていた。ストレスというのは言わずもがな、おそらく目の前でお父さんやお母さんの死を見たことや、
無理に記憶を取り戻そうとすれば、余計なことまで思い出してしまうかもしれない――そんなふうに言われていたから、私は今までこの記憶喪失に対して正面から向き合ってこなかった。それで問題なく日常を送れていたのだから、わざわざ眠っているトラウマを掘り返す必要はないと思っていたのだ。
しかし、事情が変わった。
今の私はむしろ、かつてオール・フォー・ワンに囚われていた時のことを思い出す必要に駆られている。
オール・フォー・ワンの言葉の真偽。それが問題だった。
確か、条件反射的に彼の言葉を否定するような感情が浮かんだ覚えもあるが、結局のところ病院で目が覚めたあとにはオール・フォー・ワンの言葉の全てを真実として受け入れていた。
いろいろと、本当にいろいろと余裕がなかったのは、もちろんある。
ただ、一晩寝て起きても、オール・フォー・ワンが自分に嘘を吹き込んだのだと楽観的に考えることはできなかったのだ。
オール・フォー・ワンに告げられた
それを確かめるもっとも確実な方法は、オール・フォー・ワンに個性を奪ってもらうことだった。
嘘であることがわかったならば、代償として個性を奪われたままになっても構わなかった。
また真実であっても、個性を奪われることでこの身体をお姉ちゃんに――氷渡吹雪に返すことができるのであれば、それで構わなかった。
その方が良かったとさえ、思う。
でも、そのオール・フォー・ワンには、もはや接触のしようがない。彼は〝タルタロス〟と呼ばれる監獄に収容されてしまった。
タルタロスに幽閉された
……だから私は、今までずっと目を逸らしてきた自分の記憶を見つめ直すことにした。封じ込められた記憶の中に、事の真偽を確かめる手がかりがきっとあるはずだと考えたのだ。
もっとも、口で言うほど簡単なことじゃない。思い出そうとして思い出せるのであれば、そもそも記憶喪失だなんて診断はされないだろう。
結局どうすればいいのかわからなかった私は、とにかく手当たり次第に昔のことを思い出すようにしていたのである。
――そして、今日までの短い間で、私は既にオール・フォー・ワンの言葉を裏付けるような〝あること〟に気が付いた。
記憶に向き合うことを避けてきていたから、今まで気が付かなかった。
〝記憶が曖昧だ〟という私の認識は、単に記憶喪失だけが理由ではなかったのだ。
明らかに、とまでは言えない。
しかし。
自分が氷渡氷雨であれば。
自分が氷渡吹雪であれば。
そんな仮定を持って記憶を探った時に、一方では自然に感じるような、もう一方では違和感を覚えるような記憶が混在していた。
つまり、私の頭の中には、氷渡氷雨の記憶と氷渡吹雪の記憶があったのだ。
気持ち悪い――本当に、気持ちの悪い感覚だった。
自分のもののように感じられて当然の記憶が、どこか自分のもののように感じられない。そんな感覚がすべての記憶に付き纏っている。
それに気が付いたあの瞬間、もしも蟹田さんが近くにいなかったら……私は今度こそ発狂していたかもしれない。蟹田さんに何かをしてもらったわけじゃないけれど、ただ、周囲に人の目があったというその一点によって私は正気の淵で踏み止まることができたように思う。
「――……」
私は出かかったため息を呑み込んで、一度、目蓋を降ろした。
それからすぐに目を開けて、ゆっくりと流れていく景色を見るともなく見る。
記憶のことが、すなわちオール・フォー・ワンの話が真実であることの証明だと断定するのは早計すぎるだろう。たとえば誰かにこの話を信じてもらおうとしたとして、納得してもらえるだけの証拠とは言えないと思う。
ただ、少なくとも私にとっては、確信を深める一端となった。
……その上で、今なお記憶を探ることをやめない理由は、自分でもよくわからない。思い出せば思い出しただけ
「――あちゃあ、これ、渋滞かな? 平日の昼間だっていうのに」
蟹田さんの声で、ふと前を見る。
そう言えば車の走る速度が随分と遅かったが、どうも渋滞が起こっているらしい。
「……本当、ですね。でも、まぁ……遅刻さえしなければ、私は大丈夫ですから」
「もう少し余裕持って出ればよかったね」
蟹田さんの言葉に「ええ」と短く返し、背もたれに体重を預ける。
それから私は、今一度車内に流れる音楽に耳を傾けた。
※ ※ ※
校門の前で蟹田さんと別れて、私は雄英高校の敷地へと足を踏み入れた。家具やらの荷物は業者さんに運び込んでもらう手筈になっているため、今の私は身軽だ。
……各クラス寮の前に集合ということになっているが、もう、みんなはいるだろうか。
道路が渋滞していたせいで集合時間はギリギリ。他の科、他の学年らしき生徒の姿もまばらだった。
とは言え、走らないといけないほどではなく……彼らと顔を合わせることを少し億劫に思っていた私は、むしろ、わざとゆっくり歩いた。
しかし、いくら雄英の敷地が広大でも、寮がある場所は校舎から僅か徒歩五分。大した時間稼ぎにはならず、すぐにやたらと立派な建物が見えてきた。
――そして。
「あ」
「え? あっ」
「んー? ――おおっ!」
「――あ、あああっ!!!」
USJ事件後の初登校の時……とは、ちょっと違うけど。
最初に声を上げたのは、おそらく偶然こちらに身体を向けていた三奈ちゃん。
次にその三奈ちゃんと話をしていたらしい響香ちゃんが振り返ると、近くにいた切島くんも同じようにこちらを見て。
最後はこちらを指差したっぽい透ちゃんの大声で、勢揃いしていた1年A組のみんなが一斉に私のことを見た。
「ひ、ひ、ひさめちゃああああああああ!!!」
「――な、ちょまっ、うぎゃあ!!?」
さらに直後、透ちゃんが飼い主が軍役から帰ってきた時の犬みたいな勢いで猛然と突撃してきたものだから、私は受け止めきれずに思いっきり押し倒される羽目になった。
「ひさ、ひさ、ひさめちゃうぐあぐうぐぅっー!」
「い、いや、透ちゃ、ちょ、何言ってるのか全然わかんないんですけど……」
……と、まぁそうは言ってみたものの、透ちゃんが何を言いたいのかはだいたいわかる。
また心配をかけてしまった。
つまりは、そういうことに決まっている。
「――ちょっと葉隠、あんな勢いで飛び付いたら危ないでしょ……雪柳も、平気?」
ぱたぱたと駆け寄ってきたのは響香ちゃんだった。他の女子のみんな、それから男子たちも続々と近寄ってくる。
私は、胸元にぐりぐりと顔を押し付けながらぐずぐずの鼻をすすっている透ちゃんごと身体を起こして、クラスメイトたちの顔を順に見た。
「……すいません、皆さん。また、ご心配おかけしました」
そして、私はみんなから目を逸らして、顔を伏せて、そう零す。
みんなが一瞬、息を呑んだのがわかった。
彼らが鋭いのか、それとも私がそこまであからさま過ぎたのか……私の
……でもそれも、何もかも、私は構わない。以前と同じように振る舞うことができないのはわかりきっていたことだ。
俯いていた私の肩に、ふと、誰かが手を置いた。
顔を上げると、百ちゃんが私の隣にしゃがんでいた。
「……雪柳さんが謝ることなんて、何もありませんわ。今、こうして、私たちのところに戻って来てくださっただけで十分ですわ」
「そう、そうだよ、氷雨ちゃん。心配するのだって、友だちで、仲間なんだから、当たり前のことだって」
「うん、麗日の言う通り……ま、ウチと葉隠もしばらく意識不明で心配かけたから気持ちはわかるけどさ、今だけはほら、爆豪のこと見習った方がいいって。アイツ、全然申し訳ないとか思ってないからね」
「るっせぇ聞こえてんぞ耳コラァ! 俺の心配しやがる奴なんざ片っ端からぶっ殺すに決まってんだろうがァ!!」
「ほらね」
響香ちゃんが肩をすくめると、笑いが起こった。……私は声をあげて笑う気にまではなれなかったけれど、でも、ほんの少しだけ緊張が和らいだ。
……それから、三奈ちゃんが透ちゃんを私から引き剥がしてくれて、私は私で梅雨ちゃんに手を貸してもらって立ち上がる。
そうして改めてみんなからの注目を浴びることになる──かと思いきや、みんなの視線は私の背後に向けられていた。
なんだろうと思って振り向いて、私はすぐに納得する。
そこには、うっすら生えた髭も含めてまさしくいつも通りにヒーロースーツ姿の相澤先生がいた。
「――飯田、全員いるか?」
「はい! 1年A組21名、全員揃っております!」
飯田くんの返事を聞いた相澤先生は一つ頷くと、念押しのように集合の号令をかけて今一度口を開いた。
「……さて。とりあえず、1年A組全員がこうして無事に集まれて何よりだ。合宿で起こったこと然り、全員の保護者から入寮の許可をいただけたこと然り、な」
全員が入寮する。
相澤先生が告げたその事実を、私は反射的に当然だと思った一方で、ほんの少しだけ意外にも思った。
私はこの寮制の裏の意図を知っている。なので、雄英や公安が雄英生たちやその保護者に入寮を受け入れてもらえるよう手を尽くすであろうことは想像に容易いし、結果的に彼らの思惑通りになっただけなのだと理解できる。
他方で、雄英は二度も
雄英や公安は、私に対してはほとんど脅迫のような形で入寮を迫ってきたわけだが、誰も彼もにあんな手を使えるわけではないだろう。A組の面々とて……もしくは直接的な被害を受けたA組だからこそ、一人や二人くらいは入寮しない人がいてもおかしくないと心のどこかで思っていた。
クラスメイトとの共同生活が始まることもそうだが、何も知らなければ、きっと肯定的に受け止められただろう。
けれど、今の私は、ただただ複雑な気持ちを抱くことしかできなかった。
……ともあれその後、相澤先生は寮の案内を始める前に二つのことを話した。
一つは、随分いろいろあって忘れかけていたが合宿の時に説明された通り、九月の頭にあるヒーロー仮免の取得に向けて動いていくという今後の予定について。
そしてもう一つは、あの夜――つまり神野事件の日の夜に、切島くん、轟くん、緑谷くん、飯田くん、百ちゃんの5人が、爆豪くんと私を救出するために神野に赴いていたことについてだ。
特に後者に関して、相澤先生から厳しい発言があった。
どうやら5人が神野に行こうとしていたことをほとんど全員が知っていたらしく、相澤先生はそれを踏まえた上で、オールマイト先生の引退や
相澤先生は続けて「今後は正規の手続きを踏んだ正規の活躍で信頼を取り戻してほしい」とだけ言って、特に罰を与えるつもりはないようだが……みんなは、そんな言葉を投げかけられたこと自体がある種の罰だったかのようにどんよりと沈み切っていた。
「――ま、説教は以上だ。さぁ、中に入るぞ。元気に行こう」
元気に行こう、なんて相澤先生にしては珍しい言い草だと私は思ったが、みんなはそれどころではないようで背中を丸めているばかり。そうこうしているうちに相澤先生は寮の方に歩き出してしまって、しかしやはりみんなは動き出そうとしなかった。
「――おい、来い」
「えっやだ何?」
突然、後ろの方にいた爆豪くんが上鳴くんの襟首を掴み、近くにあった茂みの陰に姿を消した。
全員の頭の上にはてなが浮かんだのとほぼ同時に、茂みの向こうから空気を割くような音とまばゆい閃光が。
そして直後、茂みから
いったいなんのつもりだろうか、と私は眉をひそめてしまったが、近くにいた響香ちゃんは即座に噴き出し、他のみんなも毒気を抜かれたような反応をしていた。
「切島」
さらに爆豪くんは切島くんに近付いていったかと思うと、ポケットに突っ込んでいたらしい何かを差し出していた。
よく見ればそれは、数枚の一万円札だった。
「え、怖っ、何カツアゲ!?」
「違ぇ俺が下ろした金だ! いつまでもシミったれてられっと、こっちも気分悪ィんだ」
爆豪くんは万札を切島くんに無理やり押し付けると、「いつもみてーにバカ晒せや」と吐き捨てて寮の方へと歩いて行ってしまった。
……爆豪くんなりの気遣い、だったのだろう。いや、本人はそうと認めないと思うが、結果として空気が良い方向に変わった。それは間違いない。
少し和やかになったみんなの様子を横目に見つつ、私は他人事のようにそう思った。