〝ワン・フォー・オール〟――〝ひとりはみんなのために〟。
その言葉を、たとえば今から二週間か三週間前に聞かされていたとして、私は何の引っ掛かりも覚えなかったと思う。補習漬けで心がささくれだっていたので「いやそのくらいの意味はわかりますけど」と反発するのがせいぜいだっただろう。
しかし、神野の悪夢を経た今、私は、あるいは世間の誰だって、その言葉を何気なく聞き流すのは難しい。
〝ひとりはみんなのために〟と来たら、〝みんなはひとりのために〟だ。
〝ワン・フォー・オール〟。そして、〝オール・フォー・ワン〟。
そこに特別な意味を見出さない人が、はたしてどれほどいるだろうか。
「――一応はっきりと言っておくと、〝ワン・フォー・オール〟という言葉は、オール・フォー・ワンの口から聞きました」
オールマイト先生に案内されたのは、校舎内にある仮眠室だった。
夏休み中なのでそもそも校舎内に人気はないが、そうでなくとも普通教室からはかなり離れた場所に位置しているので、誰かに会話を聞かれてしまう可能性は限りなく低いと思う。
そして、私とオールマイト先生は、ローテーブルを挟む形で向かい合っていた。
私がソファに座っていてオールマイト先生が丸椅子に腰掛けているのは成り行き……というかオールマイト先生にそうなるように誘導されてしまったからで、私とて遠慮して場所を交代しようとしたのだがオールマイト先生に「気にしなくていいよ」と言われてしまった。
ただ、それでもいまいち落ち着かなかったのだが……いざ本題に入ってしまえば、別だった。
「あの人は、〝ワン・フォー・オール〟の後継者を、オールマイトの後継者を探していたと言っていた……はず、です。記憶にある限り、〝ワン・フォー・オール〟と〝オールマイト〟がイコールであるような言い方をしていた気がします」
「……だから、〝ワン・フォー・オール〟について、と言ったんだね」
「はい、そうです」
あの悪の帝王を〝オール・フォー・ワン〟と呼んでいるのだから、対極の存在である平和の象徴オールマイトを〝ワン・フォー・オール〟と呼ぶのは自然な成り行き……いや、自然とまでは言えないかもしれないが、なんとなく理に適っている感じはする。
と、そんなようなことを私が付け加えると、オールマイト先生は細く息を吐いた。
「なるほど、ね。他に、何か聞かされたことは……」
「なかったと思います」
オールマイトと〝ワン・フォー・オール〟という言葉に関しては、だが。
「そうか……しかし、雪柳少女。決して責めるわけではないけれど、なぜ、今になって話してくれる気になったんだい?」
「……病院で言わなかったのは、思い出す余裕がなかっただけです。別に他意はありません」
あの時の私は、私自身についての秘密のことで頭がいっぱいだったのだ。
そして。
「オールマイト先生の……いえ、平和の象徴オールマイトの後継者。さっき、オールマイト先生が、体育館に入ってきてから真っ先に緑谷くんのところへ向かった。それをきっかけに思い出したんですよ」
「……それは」
「オールマイト先生は、緑谷くんのことを気にかけていますよね。今に始まった話じゃありません。入学してから、ずっとそうだ」
緑谷くんがオールマイト先生を特別慕っているのはわかる。彼は生粋のヒーローオタクでヒーロー全般をこよなく愛しているが、その中でもオールマイトは彼がヒーローを志すきっかけになった存在なのだと本人の口から何度か……いや、何度も聞かされている。
だが、オールマイト先生が緑谷くんを特別気に掛けるのは、どうにも不思議だった。
緑谷くんの『超パワー』とでも言うべき個性は、確かにオールマイトのそれと似ている。似通った個性の持ち主に親近感を覚えるのはわかるが、それだけでは理由として弱いように思う。
「でも、緑谷くんがオールマイトの後継者であるなら……そう考えると、いろいろと納得が行くんです」
「…………」
オールマイト先生は沈黙したまま顔を伏せ、膝の上に乗せた左の拳を見るからに硬く握り締めていた。
「……そう、だね。私と、緑谷少年の関係については……もう、君には誤魔化せないな」
「……じゃあ」
「ああ。確かに私は、緑谷くんが次の平和の象徴になると、なれるようにと、考えている」
……単なる答え合わせでしかなかったので、あらためてオールマイト先生の口から明言されても特別驚きはしなかった。
しかし、あの緑谷くんが、という気持ちがあったのは間違いない。
私は、緑谷くんが
とは言え、オールマイトの後継として相応しいほどかと言えば、肯定はしづらい。特に、個性のコントロールすらままならない状態だった入学当初の様子を思い返すと、ますます不可解に思えてしまう……まぁ、今に至るまでの成長速度は非凡なものと言えるかもしれないが。
「雪柳少女」
オールマイト先生は顔を上げて私の名前を呼ぶと、今一度頭を下げた。
「このことは、決して誰にも言わないでほしい。緑谷少年のためにも、社会のためにも」
「……ええ、もちろんですよ」
言われるまでもない。誰かに言いふらすなんて、考えもしなかった。
オールマイト先生は少し表情を和らげて、小さくため息を吐いた。
「……すまないね、雪柳少女。余計な秘密を抱えさせてしまって」
「いえ、別に……元はと言えば私が詮索したことですから」
余計な秘密を抱え込んでしまった、という点は否定できないが、それは完全に自業自得なのでオールマイト先生に謝られても困る。
それに、抱える秘密が一つや二つ増えたところで、今更思うこともない。
※ ※ ※
――と、その時は、そう考えたのだが。
「おい、雪女」
「……爆豪くん。何かご用で?」
「昼間、オールマイトとどっかに行ってたな。なに話してやがった」
その日の夜、さっそく爆豪くんに探りを入れられるのは想定外で、普通に「うわめんどくさ」と思ってしまった。
「……はぁ。爆豪くん――」
無駄な抵抗にしかならないだろうけど、なんとなく私は話を逸らしにかかることにした。
今日、私は女子のみんなに対して「今後も時間をずらして入浴したい」と告げた。昨日百ちゃんに話した本当の理由は隠して、みんなと一緒に入ると落ち着かないしリラックスできないから、と説明したのである。まぁそれはそれで本当のことなのだが。
で、その結果女子のみんな、というか三奈ちゃんと透ちゃんは意外とすんなり納得してくれた。もともと中立な梅雨ちゃんとお茶子ちゃん、響香ちゃんが「そういうことなら」と素直に私の意見を聞き入れてくれて、ついでに百ちゃんが約束通り私の援護をしてくれたのが決定打になった感じだった。
かくして私の入浴時間はみんなとずれることになったのだが、一緒に入らなければいつでも良いというわけではなく、うっかり誰かと遭遇してしまう可能性も極力排除する必要があった。
だから私は念には念を入れて、日付が変わってから汗を流すことにしたのだ。
……まぁ要するに、私が何を言いたいかというと。
「――仮にも女性のお風呂上がりを待ち伏せするのって、どうなんですかね。しかも深夜の12時半」
「知るかボケ。いいから質問に答えろや」
「はい」
一瞬たりとも話題を逸らせなかった。完全に無駄なやり取りだった。
……少し、気が緩んでいるのを自覚する。
別に爆豪くんが相手だからとかではなく、ただ単に眠いからだと思う。昼間、それこそオールマイト先生との話で一時的に中断したとは言えずっと訓練をしていてかなり疲れているし、時間が時間なのだから当たり前だ。
となると、うっかり余計な事を言ってしまわないためにも、話を逸らすのではなくさっさと切り上げる方向に持って行くのが正解。最初からそうするべきだったのだ。
「……オールマイト先生とは、少し、個人的な話をしただけですよ。爆豪くんが何を知りたがってるのかはわかりませんけど、話せることはありません」
私は爆豪くんの表情を窺いつつ、それでもキッパリと言い切った。
もっとも、どんな形相で怒鳴りつけられても口を割るつもりはなかったので、顔色を窺う必要も特になかったのだが。
「話せることはねぇ、か」
「ええ、はい」
爆豪くんの呟きに私が改めてはっきり頷くと、彼はすっかり黙りこくってしまう。
ただ、眉間に皺を寄せてこそいるものの、意外にも穏やかで落ち着いている様子だった。てっきりしつこく詰めてくるものだと想像していて、だからこそ面倒臭いことなったと思ったのに、だいぶ拍子抜けである。
とにもかくにも、流石にこのまま立ち去るのは違うとして、私の方からなんと声をかければいいかもわからず、かと言って彼の沈黙に延々と付き合うには眠すぎた。
「……あの、話は終わりで良いんですかね? 私、もう寝たいんですが」
私はこれ見よがしにあくびまでして、部屋に帰らせてくれアピールをしてみた。
すると、爆豪くんはここでも思いの外あっさりとしていた。
私のことを一瞥したかと思えば、「あァ、もういい」とぶっきらぼうに言い放って、彼自身も男子棟の方のエレベーターへとつま先を向けた。
何も答えなかったのだからお礼はともかく、おやすみの一言もなしか……いややっぱり爆豪くんが普通におやすみとか言ってきたら怖いかも、なんて考えながら私は爆豪くんの背中をぼんやり見送ろうとして――。
「……あ」
ふと、思い付いたというか思い出したことがあって、私は無意識に声を漏らしてしまった。
これが耳に入ったらしい爆豪くんは、その場で立ち止まって振り返る。
「……んだよ。話す気になったんか」
「いえ、残念ながらそうではないんですが……お礼を言っていなかったな、と」
「礼だァ?」
そう、お礼だ。
「神野で、
入院中、お見舞いに訪れてくれたグラントリノさんから神野事件の顛末について事細かに教えてもらったのだが、その時に私の身柄を率先して確保してくれたのが爆豪くんだったと聞かされていたのだ。グラントリノさんも爆豪くんが私を救けたちょうどその瞬間にはギリギリ居合わせていなかったそうで、この部分については又聞きということになるのだが。
何はさておき、聞くところによると
爆豪くんは、怪我もなければ拘束もされておらず、多勢に無勢ではあれど、ひとまず連中に対して抵抗できる状態ではあった。しかし、完全に意識を失っていた私は、当然そうでなかった。
オール・フォー・ワンが
「……でも、爆豪くんが
「あ? 俺様があんな雑魚どもに二度も捕まるわけねぇだろがボケ。向こうの個性も把握してたんだからな」
「……えぇ、まぁ、爆豪くんにとってはたいしたことじゃなかったのかもしれませんけど、でも、リスクを冒してくれたことには変わらないじゃないですか。私にとってはそれが事実なので、ちゃんと言っておきます。ありがとうございました」
私は、あくまで自分勝手に、押し付けがましく頭を下げた。
爆豪くんはどうせこちらの礼を素直に受け取ってくれないと思った。うるせぇと一蹴されるか、ツンデレじみたお言葉をいただけるのがせいぜいだろうから、返事も特に期待していなかった。
が。
「……チッ」
「は?」
それにしたって、舌打ちはないでしょうが。
私は思わずイラッとして、顔を上げるなり爆豪くんにガンをつけてしまった。
しかし、こちらを見ていた爆豪くんは、たぶん、私よりもずっと不愉快そうな表情を浮かべていた。
「雪柳てめェ、本気で感謝してやがんのか」
「……なんですか。誠意が足りないとでも?」
「違ェよボケ。んな辛気くせェツラ延々晒しといて、
「…………」
私は、思わず押し黙ってしまった。
咄嗟に否定できないことが、何よりの答えだった。
「……オール・フォー・ワンが、原因かよ」
「っ! 爆豪くん、まさか、あの人から何か聞いて――」
「奴からは、何も聞かされちゃいねぇよ。ただ、思い当たる節がそれしか……いや、もう一つ、あるにはあるが」
「……もったぶらないでくださいよ、なんですか、もう一つって」
爆豪くんは眉間の皺を深めて、私から視線を外しながら、小さな声で言った。
「……俺たちが、オールマイトを終わらせた。俺とてめェがクソ
「……そ、れは……」
それは、そんなことは、私の発想になかった。
「その様子だと、やっぱてめェは気にしてなかったみてぇだな」
「……ええ。そんなこと、考えてもみませんでした。でも、確かに、その通りだ」
「……あくまで俺の考えだ。てめェが同調する必要はねェ」
「いえ、無理に共感しているわけじゃないですよ。本当に、その通りだと思うんです。私が弱くて、奴らに捕まったから、この国は平和の象徴を失った。この国で、これから起こり得る混乱は……」
その代償を、私はどうやって払えばいいのだろうか。
私が平和の象徴の代わりになるなんて、絵空事にも程がある。第一、まさに今日、平和の象徴の正式な後継者が存在していることを私は知った。成り代わることには、なんの意味もない。
――だったらなおさら、爆豪くんの言ったことは図星だったというわけだ。
「……死んでおけば、よかったのに」
「……あ? おい、てめェ、今なんて――」
私は爆豪くんに向き合うのをやめて、女子棟側のエレベーターのボタンを押した。すると、すぐさま扉が開いてくれたので、彼が詰め寄ってくる前にさっさとエレベーターの中へ乗り込んでしまう。
扉が閉まった後は自分の部屋がある5階のボタンを押して、私はゆっくりと壁に体重を預けた。
「…………」
ため息は、なんとなく飲み込んだ。余計なものまで溢れ出てしまいそうな気がしたからだった。
死んでおけばよかった。
頭の中でもう一度繰り返してみたが、やっぱり、しっくりきた。
神野の時に、合宿の時に。
いや、違う。
ヒーロー殺しと対峙した時や、USJの時でもない。
個性因子に宿る亡霊と化した時ですらない。
一番、最初だ。
家族と一緒に、あの時に、死んでおけば良かったのだ。
「……死んどけよ、氷渡氷雨。死んでおけば良かったんだ。なんで、お姉ちゃんの身体奪ってまで生きてるんだよ」
文字通りの意味での、死に損ない。
それに、その死に損ないは、これまで何を成してきただろう。どれだけ周囲の人間の役に立っただろう。
雪柳氷雨が存在していたことで、たとえば、1年A組のこれまでにどれほどの影響があったのだろうか。
「――いっ……た……」
ふと、左腕に鈍い痛みを覚えた。
火傷痕や、肘の断端が痛んだのではない。
なくしてしまった前腕。今は義手を外していて、そこには何もないというのに、腕が存在しているような錯覚と併せて強い痛みを感じたのだ。
これは、いわゆる幻肢痛。腕を失ってすぐの頃に、こういった症状が起こり得ることをお医者さんから聞き及んでいた。
この幻の痛みに襲われたのは、今が初めてというわけではない。しかし同時に、つい最近までそれらしき症状に苛まれることはほとんどなく、この幻肢痛が起こるようになったのは神野事件の後、退院した直後くらいからだった。
なんとなく、原因はわかっていた。
私は今、精神的に……良くない。幻肢痛だからこそなのかは不明だが、まず間違いなくメンタル的な問題に起因していると見ていいだろう。
「……クソっ」
当たり前だが、悪態をついてもどうにもならない。
私は文字通りどうしようもない痛みをこらえながら、ふらふらと覚束ない足取りでなんとか自分の部屋へと戻った。