読み飛ばし注意。
眠っていたというよりも、ほとんど溺れているような感じだった。
悪夢さえ見ることもできず、私は暗闇に沈んでいた。
だから、ベッドの上で飛び起きた時、まるで何時間も息をしていなかったみたいな苦しさがあって、全身は水で打たれたかのように汗でびしょ濡れだった。
雄英の寮の、自分の部屋。
どうやって帰ってきて、いつベッドに入ったのか……そもそも、あの会議が今日のことだったのかもわからない。今は、何時だ?
スマートフォンは……と考えて、床の上に落ちているブレザーが目に留まった。きっと、ポケットに入れたままだ。
ベッドから立ちあがろうとしたが足に力が入らず、また義手もいつの間にか外していたせいもあって、私は間抜けにもベッドから転げ落ちるような格好になった。
鈍い痛み。左腕が、痛い。……打った痛みじゃなくて、左手が、ないはずの左手がずっと痛んでいた。
私は、月明かりが差し込む部屋を這いずり、ブレザーのポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。
0時を回っていた。日付は変わっている。しかし、会議のあった日の夜で、間違いなかった。
「……汗」
汗を、流したかった。
たぶん、帰ってからそのままこの部屋に戻って、それっきりだと思う。
ブレザーを脱ぎ捨てて、ワイシャツも脱いで、義手を外して……あとはもう、全部そのままだ。インナーとスカート、靴下すら脱がずにベッドに倒れ込んだんだろう。
……頭が、働かない。
私は、ふらりと立ち上がって、何も持たずに浴場へと向かう。
※ ※ ※
葉隠は、雪柳がいつも日付が変わった頃に風呂に向かうのを知っていた。
雪柳が自分たちと入浴時間をずらそうとすることに、特段違和感は感じていなかった。
林間合宿で無理やり女湯に連れ込んだ時はかなり恥ずかしそうというか気まずそうにしていたし、その後のぼせてしまっていたから、葉隠たちも少し反省して寮に入ってからは一度も無理強いはしていなかった。
……それでも、雪柳が、初めて知り合ってからのままの雪柳であれば、また冗談めかして風呂場に連れ込むくらいはしたかもしれない。
改めて言うまでもないが、神野事件の後の雪柳の様子は誰の目から見てもおかしかった。
全然笑わなくなったし、いつも張り詰めているようで、少し気が緩んだかと思えばそれを自戒するようにまた暗い目をするのだ。
あんな事件で、あんな目にあったから……いや、葉隠は結局事の次第を全部知っているわけではないが、物腰が丁寧でありつつも結構間が抜けていて愛嬌のあった雪柳があんな雰囲気を纏うようになってしまったのだから、きっとひどいことがあったのだという確信を得ていた。
雪柳の心は、冷たい氷に覆われてしまった。
それは、日に日に分厚くなっていって、誰も溶かすことができないでいる。
A組の全員が気が付いていた。
神野事件の直後から、仮免試験を経て……先週の、最初のインターン。
そして今日、二回目のインターンから帰ってきた雪柳は、もう見ていられないほどだった。
何があったら、あんな抜け殻のようになってしまうのか。
もう、冷たい態度で葉隠たちを遠ざけようとしているわけですらない。
ただひたすらに打ちのめされて、自分たちの言葉が本当に耳に入っていないような様子だったのだ。
葉隠は、雪柳を、友だちを救けたかった。
けれど、わからなかった。
差し伸べた手を振り払われてしまったら、そのあとはいったいどうすればいいのか。
差し伸べた手を見つめてあんなに苦しそうな顔をする相手に、ただ手を伸ばし続けることがはたして正しいことなのか。
……正しいやり方はわからなくても、でも、それでも、雪柳への心配が尽きることはない。
だから、これもまた彼女が望まないことかもしれないけれど、帰るなり部屋に篭って出てこなくなった彼女が、もしかしたらいつもの時間にお風呂に入りにくるかも、と、葉隠は考えたのだ。
それで、元気がなくてもいつも通りに過ごしているなら、少しは安心していいのかもしれない、と。
あるいは、万が一……と。
「――氷雨、ちゃん?」
葉隠が遭遇したのは、しかし、その万が一だった。
明かりのついた浴場、扉は無造作に開け放たれていて。
雪柳は、インナーと制服のスカートを着たまま頭からシャワーを浴びていたのだ。
「……氷雨ちゃん、氷雨ちゃん! 何してるの!? 大丈夫!?」
葉隠は思わず駆け寄って、雪柳の肩を掴んで揺さぶる。自分もシャワーに濡れるが、そんなことに構っている余裕はなかった。
対する雪柳は、緩慢に反応する。
ゆっくりと頭を動かして――ゾッとするほどに虚な目で、葉隠を捉えた。
「……透、ちゃん」
そして、呟いたかと思えばこちらに振り向こうとして、そのままゆらりとバランスを崩す。
葉隠が慌てて受け止めなければ、タイルの上に転んでいただろう。
「氷雨ちゃん、なんで、こんな――うっ、あ、氷雨ちゃん、冷たっ……!」
冷たい。
抱き止めた雪柳は、血が通っていないかのように冷たかった。
シャワーから出ているお湯は温かいのに、雪柳はそれを全身で浴びているのに。
――個性が、制御できていない……?
と、そんな推測が葉隠の脳裏によぎるが、それを確かめる間もなく雪柳が言った。
「……いた、い」
「……え? 何、痛い? どこが?」
「……左手。痛い……痛くて、もう、ずっと……」
葉隠の腕の中で、雪柳の身体が縮こまっていく……義手をつけていない左腕を、掻き抱くように。
「左、手? 肘? 肘が痛いの?」
「ちが、う……指、親指の、根本……腕の内側……痛い……ない、のに……痛くて……痛いぃ……っ!」
うぅ、うぅ、と雪柳が苦しそうに、本当に苦しそうにうめく。うめき続ける。
葉隠は一瞬、ただ呆然としてしまって――それからすぐに雪柳を一度強く抱きしめた後、肩を貸すようにして助け起こした。
「氷雨ちゃん、とにかくお風呂から出よう。このまま濡れてたらたぶん、身体に良くないから……」
個性の制御を失っているのであれば、お湯に当たり続けていた方がマシなのかもしれないが……逆にお湯なんかにあたっているせいで無意識に身体を冷やそうとしてしまっているのかもしれない。
とにかく葉隠は一旦雪柳を風呂場から連れ出すことにした。この場で二人でシャワーを浴び続けていても仕方がないからだ。
脱衣所まで雪柳を引きずってきた葉隠。
彼女を壁にもたれかけさせて、濡れた身体をなんとかしようとする。
「バスタオル……は、ないのか。もう、とりあえず私のシャツで……氷雨ちゃん、上脱げる? ……氷雨ちゃん!」
葉隠の問いかけに答えず、雪柳はうめくばかり。
ただ、長い首元の裾を右手でまさぐっており、息苦しそうにしていた。
神野事件から、ずっと隠していた首元。
これも、さすがにみんな気が付いていたことだ。何かを隠している、と。
そして今、葉隠の目にちらりと映ったのは、赤い火傷の痕。
言葉を失う。
……けれど、それを気にしている場合ではなかった。
「氷雨ちゃん、ごめんね」
インナーを、無理やりに破る。今の状態で長袖を脱がすのは難しいと判断したのだ。
葉隠は、涙が溢れてきそうになった。
でも、それを堪えて……なおも落ち着かない雪柳を見て、一人でなんとかするのを断念した。
「……ちょっと待っててね! 誰か、先生呼んでくるから!」
……それから葉隠は、寮に設置された緊急用の電話で職員寮に連絡をした。
飛んでやってきたのは、相澤とミッドナイトの二人だった。
「――あ、相澤先生ストップ! 氷雨ちゃん苦しそうだったから、上脱がしてて……」
「そうか。個性の暴走はないんだな?」
「はい、とりあえず、暴走ってほどでは!」
「わかった。ミッドナイト、頼めるか」
「ええ、もちろん」
相澤は入り口で踵を返し、ミッドナイトだけが脱衣所に入ってくる。ヒーローコスチュームどころか外行きでもない部屋着姿は新鮮だった。
「雪柳、雪柳聞こえる?」
「氷雨ちゃん、先生来てくれたよ! 氷雨ちゃん!」
雪柳は微かに目を開けてミッドナイトと葉隠を見たが、あ、う、とやはり唸り声を上げるだけだった。
「……葉隠、雪柳の部屋に行って、着替えを持ってきてくれる? 鍵はイレイザーに開けてもらって」
「あ、はい! ……あの、氷雨ちゃんは」
「腕の痛み……幻肢痛ってやつね。たまにあるとは聞いていたけれど、すぐにはどうしようもないの。だからひとまず私の個性で眠らせるわ」
ミッドナイトはそう言うと、雪柳の口元に手をやった。
すると、途端に雪柳の呼吸が安定していって、表情も安らかなものになっていった。
「……さ、葉隠。雪柳は私が見ておくから」
「は、はい……」
ミッドナイトに促されて、葉隠はなんとなく後ろ髪をひかれながらも脱衣所を出た。
入り口には相澤が立っており、こちらもまたいつものコスチュームではなくラフなTシャツ姿だった。
「相澤先生」
「葉隠。どうだ?」
「ミッドナイト先生が眠らせてくれました。氷雨ちゃんの部屋から着替えを取ってきてって。鍵、開けられますか?」
「あぁ、緊急用の合鍵がある」
相澤が歩き出したので、葉隠はそれを追いかける。
気持ち早足に感じたのは、たぶん気のせいじゃない。
「……相澤先生。氷雨ちゃんは……大丈夫、なんですか?」
「……ああ。今日は少し、いろいろあった。疲れが出たんだろう」
「そ、そうじゃなくてっ!」
思わず、大きな声が出る。
相澤が立ち止まって、葉隠に振り返った。
「氷雨ちゃん、ずっと……神野事件の後からずっと、変です。本人に聞いても、全部はぐらかされちゃって……先生は何か知ってるんじゃないですか? 知ってるなら、少しでいいから私にも……!」
「葉隠。悪いがそれはできない。……俺や、雪柳の意思の問題じゃないんだ。わかってくれ」
「じゃあ! 氷雨ちゃんを救けてあげることは、できないんですか!? あんなにつらそうで、苦しんでて! でも、救けることを拒まれたら……私、何もできないなんて」
悔しかった。
葉隠は、どうしようもなく悔しかったのだ。
「ねぇ、先生……私、どうしたらいいの?」
その素朴な問いかけに、相澤は少し間をおいて、言った。
「……ヒーローが悩み続けなければいけないことだよ、それは。いつでもどこでも、誰に対しても適うような唯一絶対の正解なんてものは、ない」
その答えは、非情に思えた。
先生でもわからないなら、と、葉隠は俯きそうになる。
しかし、相澤は続けた。
「――だから結局、俺たちは善意を押し付けるしかない。煙たがられるかもしれないが、それがいつか、救いになることもある」
「……氷雨ちゃんにも、ですか」
「ああ。少なくとも……そうだな。俺からも、頼みたい。雪柳に、手を差し伸べ続けてほしい。あいつが救いの手を求めたときに、すぐに取ってやれるように」
「……じゃあ、先生は? 先生は、どうするんですか?」
葉隠が問うと、相澤はほんのわずかに目を眇める。
「……あいつのためになるように。それだけを考えるよ」
※ ※ ※
雪柳が目覚めたという連絡がリカバリーガールからあったので、相澤は、すぐに事務仕事を切り上げて保健室へと向かった。
時計の針は既に正午を回っていた。
ミッドナイトの個性で眠らされた雪柳は、半日も眠り続けていたことになる。
神野事件以降、そして特にここ数日は相当に寝不足だったせいだろう、とリカバリーガールや眠らせた張本人であるミッドナイトは推測していた。雪柳の体調が良くないことに気が付いていない教師はいない。
今日までの雪柳への対応は、ヒーロー以前に子どもを教え導く教師として、一人の大人として、人間として、落第点以外の何物でもなかった。相澤はそれを自覚している。
今、ヒーロー公安委員会から雄英高校に向けられている目はかなり厳しい。
それは、生徒の中で面と向かって疑惑を突き付けられた雪柳だけではなく、他の全校生徒、教師も含めた雄英の関係者全員が対象だ。
相澤自身も当然、どころか
その連合との交戦で後遺症まで負っている自分を疑うのは、相澤からすれば不合理なことだ。疑惑を向けるにもリソースの限界があるのだから、一定のラインを引いて信用するのが合理的だろう。
しかし、オール・フォー・ワンが生きていたこと、その意思を継いだ
雪柳を取り巻く状況は、そういう事情が相澤たち雄英高校の教師陣を縛り付けているがために起こってしまっているのがひとつ。
ただ、何より雄英側がヒーロー公安委員会の意向に沿わざるを得ないのは、雪柳を守るためでもあった。
雪柳の扱いについては、そもそもヒーロー公安委員会内でも意見が割れているようだった。
雄英の教師、すなわちプロヒーローたちにさえも嫌疑をかけているような状況では、それこそ雪柳自身が知るはずもないが、彼女を今すぐに投獄すべきだと考える人間が少なくなく、公安の総意として通る可能性すらあったという。
ゆえに、雪柳氷雨を雄英高校の監視の下でヒーローにさせるという案は、ヒーロー公安の不穏な意向を雄英側が最大限に抑え込んだ、もっとも穏便な落とし所だったのだ。
さらに、雪柳自身もこれを承諾し、雄英でヒーローになることを望んだ。少なくとも、言葉の上では。
それが結局、大人たちにとって都合の良い言い訳になってしまった。
あの場で誰もが覚えたはずの小さな違和感は、都合よく無視されてしまった。
……相澤でさえも。
自覚をしているだけに、その罪は誰よりも深いだろうと思っている。
「――雪柳」
保健室にたどり着くと、ベッドで上体を起こしたままぼんやりとしている雪柳の姿があった。
傍らに立っているリカバリーガールが、相澤のことをじっと見つめてくる。
「……ちゃんとやりますよ、リカバリーガール」
「ああ……私だって共犯さね。でも、まずは任せるよ」
そう言って彼女は保健室を出ていく。
相澤はそれを見届けた後、ベッドのそばの椅子に腰を下ろした。
「雪柳。体調は」
「…………」
雪柳は、ゆっくりと相澤の方に顔を向けたが、視線は合わない。
唇は青く、やつれているように見えた。
やはり、言うべきことを言わなければならない。
雪柳の表情を見て、相澤は今一度腹を決めた。
「……なぁ、雪柳。俺の意見を伝える。あくまで、俺個人の意見だ」
ビクリと、雪柳が肩を震わせた。
何を言われるのか、わかっているのだろう……彼女自身がほとんど確信していて、拒絶したことだから。
「今回のインターンの参加は、取りやめるべきだ。そもそも、仮免を取ったとは言え学生の身には危険すぎる案件だし、よりにもよってまた
緑谷たちにも伝えたことだ。
死穢八斎會と
「それに……いいか雪柳、インターン活動は、ただでさえ危険を伴う。……命にかかわることだってある。冷静さを欠けば、なおさらにその危険性は高まるんだ」
相澤は、親友の顔を自然と思い浮かべていた。
高校時代、まさしくインターン活動の中で、不慮の事故で失った親友の顔を。
あの時、予感なんてなかった。
それでも、起こってしまった。
だとすれば、これほどの良くない予感を無視することは、合理的でないと相澤は考える。
そして何より――雪柳のためを思えば。
「雪柳、今ここでインターンをやめても、おまえはヒーローになれる。おまえが保護することのできなかった子のことは、悔しいだろう。心配だろう。だが、その子のことは俺たちが必ず救ける。だから、おまえは――」
――と、相澤は、不意に言葉を切ってしまう。
気がつけば、雪柳が口をわなわなと震わせて、ぽろぽろと涙を溢していたからだった
「……いや、だ……」
そして、消えてしまいそうなほど小さな声で、言う。
「いやだ、先生……いやだよ……わたしは、あの子を……エリちゃんを、たすけなきゃ……」
「……雪柳」
「ねぇ、先生、わたし……一度は握ったあの子の手を、あんな小さな子の傷だらけの手を、離しちゃったんだよ? 絶対、絶対に離しちゃいけなかったのに、わたしは……」
雪柳は次々にこぼれ落ちる涙を拭うこともせず、ただ、震える自分の右手を見つめていた。
「もう一回、手を伸ばさなきゃ……今度こそ絶対、掴んで、掴んだら、離さないようにしなくちゃ……そうでなくちゃ、わたしは……」
雪柳がおもむろに動き出す。よろよろとベッドを降りようとして、相澤はそれを押し留めようと腰を浮かせたが、逆にそのまま縋り付いてきた。
あまりにも弱々しい力で、胸元を掴まれる。
「……先生、おねがいします……おねがいだから、わたしに、あの子を救けさせてください……他のことぜんぶわけわかんなくなっても、これだけは、これだけは忘れられない……」
「…………」
「あの子を救けられなかったら、わたし、もう……ヒーローに、なれない……今までのことぜんぶ、意味なくなっちゃう……」
だから、お願い。
お願いします。
雪柳は、涙を流しながら懇願し続けた。
やがてまた泣き疲れて眠りに落ちるまで、ずっと、ずっと。
次18時です。