藕断糸連
「つまんなそうに走るよね」という言葉に、
「好きでやってる訳じゃない」と私は言った。
「…それで?」
トレーニングを終えて。
帰宅を促すチャイムが、夕暮れに沈む街並みに反響しては、薄れて消えていく。
そんな頃合い。
更衣室で着替えた後、荷物を取りに教室へと戻る。
教室のドアを開ければ、いつも窓の外をずっと見ている、例の「ぼんやりしたやつ」を見つけた。
先日の失礼な言葉は忘れていない。
どういうつもりだったのか、と問い詰めようと思ってはいたけれど、それなりに多忙だった私がこの「ぼんやりしたやつ」に接触出来るタイミングなんて、あんまりなく。
気が付けば随分と時間が経っていたけれど、それでもなお、あの時に言われた言葉が鮮明なまま、頭の中を反響しては私を悩ませていた。
腹が立つし、あれは何だったのかハッキリとさせて、いい加減この煩わしい声から開放されたい。
窓枠に肘をついて、今日もつまらなさそうな顔で外を眺めているそいつに、声を掛けた。
「どういうことだったの、この間のあれ」
声を掛けても、そいつは反応さえ寄越さない。
ただ遠くを眺めているだけ。
しばらく経っても、ずっとそのまま。
なんだか無性に腹が立った。
「ねえ」
もう一度声を掛ける。
今度は、声に少し怒気を込めて。
「………君、今日も走っていたよね」
「そうだけど」
そいつは振り返らない。
前を見たまま、思ったよりもはっきりとした声が返ってきた。
妙に落ち着いた、平坦な声。
外には、寂しさに満ちた騒がしさがあった。
17時を告げるチャイムが鳴れば、みんな家へ帰っていく。
名残惜しそうに。この時間がずっと続けばいいのにと。
騒がしさの中に静けさが同居した、夕方の空白。
精々が、カラスがかあかあと「早く帰れ」と促すように鳴くぐらいなもの。
チャイムの残響が引いていく時に、一緒に何もかも連れて行ってしまうかのよう。
静かではあるが、しばらくすれば住宅から賑やかな声が上がり始める、その空白。
それを埋めるように、そいつは口を開く。
一瞬、音が途切れるのを待っていたかのように。
「つまらなそう」
その言葉は一瞬の静けさの中、するりと耳の奥へと入り込んできた。
「……好きでやってる訳じゃない。トレーニングなのよ?」
その言葉が心の底に届く前に飛び出した言葉は、ほとんど反射的な反発。
しかし、なぜだろうか。
こいつとまともに話ができていることに、私はある種の感動さえ覚えていた。
「だとしても」
「やめろ、ってこと?私はトレセン学園に行きたくて練習してるの。半端な覚悟じゃ、受験することさえできないわよ」
日本ウマ娘トレーニングセンター学園。通称をトレセン学園。
国民的スポーツであるトゥインクルシリーズに出走するウマ娘は、ここに入学するのが決まりだ。
入学しなければ、レースに出ることなど叶わない。
地方でも、中央でも、どちらでも全寮制ではあるが、その実力の隔たりは大きい。
目指すなら中央を、と。
もし中央で活躍できれば、あの人たちも少しは私の事を見てくれるのだろうか、と。
そんな淡い期待がなかったとは、言わないけれど。
「だとしても」
つまらなそうだし、苦しそうだ、とそいつは言った。
「…何が言いたいの」
何が言いたいのか。
先ほどから、私の心を刺激するばかりでそれが見えてこない。
回りくどい。まどろっこしい。
しかし、なぜか私は、そいつが口を開くまで待った。
待ってしまった。
その言葉を待ち望んでいたかのように。
「君は、何から逃げてるの?」
そこでようやく、そいつはこちらを見た。
真っ黒な瞳。
底を覗き込むような、余計な色の無い瞳。
一般的な、普通の日本人の特徴でしかないそれが、どうして。
どうして、こんなに怖いのだろう。
頭が真っ白になった。
言葉の意味が理解できなかったわけじゃない。
理解できたからこそ、いや。
理解されてしまったからこそ、どうしていいのか分からなかった。
ただただ見られているだけだというのに、何故だか足元が崩れたような感覚だけがあった。
「な……」
喉がひくつく。
勝手に言葉が漏れる。
何で。どうして。何故。
酷い失敗だった。
見抜かれてしまった事だけではない。
動揺なんてすれば「その通りです」と白状したようなものだった。
家のこと。周りのこと。私のこと。
何もかも嫌になって、ただここからどこかへ行きたくて。
でも、何を。何を見られた。何を見透かした。
ーーーいや、違う。
こいつは。
私の何を、見た?
「…何、言ってるの?ばかじゃない?」
取り繕おうとして出てきた言葉は、とても幼稚な罵倒だった。
「そう。思い過ごしならいいけど」
窓枠に預けていた身体を離し、そいつはランドセルを掴むと私の隣をすり抜けていく。
何か、何か言わなきゃ。
誤魔化しか、それとも。
私自身、どうすればいいのかよく分かっていなかった。
咄嗟に言葉が出て来ず、自分の弱いところを突かれるだけのばかな自分が恨めしい。
咄嗟に考えたのは、仕返し。
何故だか無性に腹が立ったというのもある。
このわけの分からないやつを困らせてやりたいという気持ちもあった。
そうして、有耶無耶にして。
きっとこいつは忘れるだろうと思った。
誤魔化されると、信じようとした。
ばかだ、と今でも思う。
しかし「何か言わなくちゃ」と焦るばかりで、言葉は出てこない。
口を開いては閉じ、とても間抜けな姿だったことだろう。
ただ。
隣を通り過ぎたやつは、私以上にばかだった。
ふわり、と浮遊するような感覚。
足元に、風が通る感覚。妙に涼しい。
風が出てきたと思い、しかしここが夕方の教室の中であったことを思い出す。
あいつが開けていた窓から風が吹き込んできたかと、反射的にスカートを抑えようとして。
いや、おかしい。
通り過ぎたそいつを追うように慌てて振り返ると、ふわふわと舞っていた。
というか、掴みあげられていた。
私のスカートが。
「ぎゃーーーーーー!!」
心の底からびっくりして絶叫を上げたのなんて、後にも先にもこの時だけだったと思う。
何が起きたのか。
スカートが捲り上げられている。
真顔で、つまらなそうな顔をして、私の目を見たまま、何故かそいつはむんずと掴んだスカートを、思い切り上に引っ張っていた。
「何して……本当に何すんじゃーーーーーーー!」
蹴った。
思わず、脚が出てしまった。
散々、ウマ娘は人よりも力が強いから、ケンカをしてはいけません、とか。
人は怪我しやすい、とか。
そんなことを教わってきたのに、思わずお腹のあたりを蹴り飛ばしてしまった。
我ながら、見事な後ろ蹴りだったと思う。
鈍い音がして、そして直後にがらがらと騒音が鳴り響く。
教室の机や椅子を巻き込んで吹っ飛び、そして床に転がってバウンドし、壁に激突した。
そして、ふわりとスカートの裾が本来あるべき位置へと降りてくる。
あれだけむんずと掴まれていたのに、引っ張られもしなければ破れもしていない。
蹴られた際にスカートから手を離していたのだろうか。
「痛っ。…あっ」
蹴った脚が少し痛み、その痛みで我に返った。
だがそれ以上に、自分が想像していたよりもとんでもない勢いで、それこそ漫画のようにヒトが吹っ飛んで行った事に、思った以上に衝撃を受けていた。
大の字になって伸びているそいつを慌てて引っ張り起こすと、顔をしかめている。
2年ほど同じ教室にいたのに、そんな顔は初めて見た。
もしかすると、どこか折れてしまっているかもしれない。
どうしよう。どうしたら。
「だ、大丈夫!?」
「げほっ…痛…いんじゃない」
顔を顰めたまま、そいつはゆるゆると首を振った。
痛い、じゃなくて?
「やっぱりその足、痛むんじゃないか。痛いなら痛いって、ちゃんと言えば良いのに」
そいつは。
いくら子供の脚とは言えウマ娘にまともに蹴られて、壁に叩きつけられたというのに、何故か。
何故か、私の足を指して、妙に真面目くさった顔をして。
そんなことを言った。
「は!?そんなこと…」
一体こいつは何なんだ。
いきなり暴言を吐いたと思えば、私の内面にずかずかと踏み込んできて、挙句の果てに隠していた足の痛みまで無遠慮に暴き出して。
本当に、何なの。
何がしたいのかさっぱり分からない。
弱みでも握りたいの?
「誰かに言えないなら、聞くだけは聞くよ」
「……何なの、あんた」
「さあ。自分でもよく分からない。その顔が気に食わなかっただけかも」
真顔のまま、冗談なのかどうかすら分からない平坦なままで、そいつは言い放った。
「……意外とずけずけ言うわね」
「喋るのが下手なんだ。でも―――」
ぱんぱん、と。転がったことであちこちに着いた埃を叩き落としながら、そいつはゆっくりと立ち上がった。
黒曜石のようなガラス質の瞳が、私の眼を再び捉えた。
真正面から。
逸らすことなく。どこまでも真剣に。
「苦しそうだけど、走ってるところが綺麗だったから、気になった」
「……は?」
え?何?告白?告白してるの?
スカートめくりした直後に?
こいつ私のことが好きなの?
ばかなの?
そして。
私の心の柔らかいところを突然抉っていったそのばかは。
「…あ、駄目そう」
かくん、と。
言うだけ言って、顔から床に倒れ、そのままぐったりと動かなくなった。
「……え?」
……はぁ?
「おい何やってるんだ、もう帰……何やってんだお前ら⁉」
「えっ、あっ、先生⁉待ってください!待って起きて⁉こ、この状況どう説明したらいいの⁉」
それから。
先生にたっぷり怒られたり、その怒りを理不尽にぶつけてみたりもして。
揶揄ってみたりもして。
その度、あの真っ黒な瞳が私を覗き込む。
どこまでも、どこまでも底を見透かすような、ガラス玉のような色のない瞳が、なぜかとても気になって。
結局、私たちは出逢った。
随分と酷い出逢いもあったものだと思うけれど、それでも。
そこに後悔なんて、なかった。
別に、好きになったわけでは、なかった。
ただ、そんなどうしようもない出会いがあったと、それだけの話だった。
「……ふぅ」
思わず、笑ってしまうような出会いでした。
お互いに同じクラスに居ながら、少しずつでも話すようになったのはそれが切っ掛けでした。
お互いに散々な目に遭っていますし、当時は子供ながらに重たい子で、面倒臭い性格をしていたように思います。
ですが、出会いを一言でまとめれば、スカートめくり。
「ふふっ。まったく、いたずらっ子なんですから」
休み時間にスーパーマーケットで食材を少しばかり買い、スタッフ寮の冷蔵庫に詰め込みながら、どうにも懐かしいな、と。
記憶の中、セピア色に丁寧に包まれた思い出に浸ってしまいます。
或いは、思い出に縋ろうとしているのでしょうか。
買ってきた食材をビニール袋から取り出しては、仕分けして冷蔵庫に入れていく作業は、心を落ち着かせるのに丁度良いですね。
この部屋の冷蔵庫の中に、出来合い以外の生鮮食品が入っている所を見るのは随分と久しぶりの事でした。
確かに、トレーナーさんの言う通り、いつの間にか冷蔵庫の中はお酒の缶や瓶ばかり。
いえ、もちろんマンションの方ではちゃんと自炊してますよ?
………私は誰に言い訳しているのでしょうか。
ともあれ、外聞が悪い事この上ありません。
ウマ娘の皆さんにはあまり知られたい光景ではありませんが、幸いにして今夜はこの処分を手伝ってくれると約束を取り付けています。
シンボリルドルフさんと、トウカイテイオーさんには悪い事をしたかな、と思わなくもありませんが、それはそれ、これはこれ。
大人の理屈というのは、時に子供を傷つけることもありますが、そうして『規則』の理不尽を知っていくのでしょう。
ひっそりと回ってきた、トレーナーさんの外泊許可の稟議書。
外泊許可自体は、そもそも寮から叩き出された状態なので申請してくること自体に違和感はありませんでしたが、外泊先の欄で私の部屋を指定し、宿泊日も昨晩からとなっていました。このため、事情を把握していた人事部門が手早く承認し、稟議が回ってきていました。
ふと気になって目を止めたその稟議書。
わざわざ備考欄にびっしりと理由と規則を列挙し、外泊の正当性を主張していたので、何かおかしいと違和感を感じ、精査してみれば。
前半部分は、いかにもトレーナーさんが書きそうな、「トラブルが生じ、事後決裁となりました。ご容赦ください」との文章がびっしりと。
比較的に空白の多い書類を作るトレーナーさんにしては、違和感がありました。
そして後半の数行に、『本日以降、トレーナー寮の復旧までの期間、生徒会長シンボリルドルフならびに美浦寮寮長ヒシアマゾンの承認の下、学生寮に宿泊する』との記載が。
これは私文書偽造では?とも考えましたが、対象こそトレーナーさんではあるものの、起案者もサインもシンボリルドルフさんのそれ。
書式も代理としては問題の無い体裁が整えられており、本人からの白紙委任状も添付されていたお陰で、余計に気付くのが遅れました。
……なんで白紙委任状なんて渡しちゃうんですか、トレーナーさん……。
役所などで悪用されてしまう惧れもあるため、トレセン学園の委任状フォーマットというのは悪用できないよう、専用の紙に箔押し、エンボス加工、コピーガード印刷、透かし等徹底した対策を取っていますし、あくまでも学園外では無効である旨を随所に入れた物ではありますが、こんなものを担当ウマ娘に気軽に渡さないでください。
押印された朱色の褪せ方と、コピーガードの模様から見るに、恐らくは相当前に発行した委任状だとは思いますが……。
これが何枚も存在していて、仮に流出などすれば担当契約なども簡単に受理されてしまい、本当に大変な事になってしまいます。
後程しっかりお説教しておかなければ。
もう少しばかり気付くのが遅ければ、きっと手遅れになっていたと思うような、際どいところでした。気付けて良かったです。
恐らくは切り札の一つだったであろう白紙委任状というカードまで切って、一気に喉元に刃を突きつけるような、鋭い切れ味で差しに来ていたシンボリルドルフさん。
今回は相当本気で仕掛けに来ているようです。
……とはいえ、今回は予期せぬタイミングだったこともあり、アドリブ。
自分の仕出かした失敗を見事に再利用し、詰めてくるその手腕は末恐ろしいものがあります。
しかし、いくら有能で頭の切れる彼女でも、時間が足りなかったのでしょう。
これで文字の書体まで寄せられていれば、誰も気づかずに判が撞かれていたかもしれません。
ほんの少し、詰めが甘くなっていたのが幸いでした。
「はあ、油断も隙もないのですから……」
ウマ娘の煮えたぎるような情の強さと、一定の冷静さを同時に機能させることが出来る、或いは切り替えが徹底して成されているからでしょうか。
こうして悪知恵を働かせて来た時、海千山千の猛者がその辺りをうろついているようなこのトレセン学園全体で見ても、本当に厄介な相手になりますね。
それにしても。
「……二人きりでお話、ですか」
思わず声も弾んでしまいます。
冷蔵庫を閉めれば、押し出された冷気が足元を流れて。
買い出しで少し火照った身体には心地良い。
……うふふ、楽しみですね。
お酒は冷蔵庫にたっぷりと。
色気も何もあったものではありませんけれど、缶ビールや、辛めの焼酎。
それにウイスキーも。
あなたの言う通り、おつまみのために材料を買い込んで来ましたよ。
……ねえ、トレーナーさん。
たまにはとっておきのおつまみに、昔の話なんていかがでしょうか、だなんて。
きっとあなたは、嫌そうな顔をするでしょうけれど。
お酒みたいに苦味の強い、ほんの少しの痛みを伴う思い出話。
懐かしくて、錆色の中に沈んだ昔話。
お互いに触れられなかった傷口に、今夜、手を触れてみませんか。
それはきっと。
大人になった二人だけに許される、とっておきの贅沢。