してやられた。
「………」
授業中だと言うのに、私は自分の感情が全くコントロールできていなかった。
周囲に座るクラスメイトたちが、まるで戦場に放り出され銃声に怯えるかのように、背を丸めて物音一つにびくりと身を震わせていることに、大変申し訳のない気持ちにならないといえば嘘になる。
だが、ああ、思い出すだけでも腹が立つ。
失敗した。失敗したのだ。
完璧とまでは言わない。
だが、この短時間で打てる最大限の手を打ったと自負している。
数年前に手に入れた、トレーナー君の白紙委任状という、あまり公にしたくなかったまさに「切り札」の1枚までも投じ、可能な限り他の書類に紛れるよう、かつ人事部門の担当書が速やかに決裁するよう念入りに書類を作成した。
トレーナー君の思考力を奪うために、人の良さに付け込むような形で精神的負担を少しばかり掛けることも厭わなかった。
アグネスタキオンの仕掛けや、トレーナー君の言葉によって、実際に少しばかり私の精神が荒れていたのは紛れもない事実ではあったし、私の中の冷静な部分がそれを許可したという事でもある。
そこまでして、切り札までも投じ、仕掛けに行った。
だが、私の企てはあの理事長秘書の手によって打ち砕かれた。
差し戻された稟議書には、最終承認者の理事長が押印するための枠以外、必要な全ての印が揃っていたというのに。
気づいたのは理事長ではない。
細部まで読み込まず、組織人としての手本のように即断即決を是とする理事長は確かに傑出した人物だ。
だが、それは彼女が判断を誤らぬように補佐する影がいてこそ。
気付いたのは駿川たづなだ。間違いなく。
……生徒会は、学園内では大きな裁量権を付与されている。
しかし、それは大きく言えば「学園生に関連する事項の権限」と、「生徒代表としての発言権」の二つについてのみ。
一方、理事長が決裁権を握っているのは「学園運営に関する広域な権限」及び「人事権」だ。
人事権は生徒会からの干渉を受け付けることがない、ある種分権されたもの。
今回のように、トレーナー職スタッフの事案は、管轄が「人事権」に属する。
トレセン学園運営側の「柱」であるトレーナー職の取扱いに関しては、この私でさえ、発言権こそあれど、強権を振るうことはできない。
だからこそ、わざわざ白紙委任状まで持ち出して規則の穴を突き、気付かれないうちに決裁を通して、それを盾にするつもりだったというのに。
誰かが気づかなければ。一度決裁されてしまえば。
規則上何ら問題もなく、正規の手続きを踏んだ上での例外措置を取っているため、糾弾ができなくなる筈だった。
公序良俗上の問題は、もちろんある。
未成年であるトレセン学園のウマ娘と、トレーナーがよりによって学生寮の一室で、夜を明かすともいうのは大変に外聞が悪いと指摘されるなんてことは百も承知だ。
だが、そこを突いてくる事は、当然、それこそ百も承知だ。
反論は準備していた。
トレセン学園は巨大組織だ。
学園生に関する事項では、生徒会という一定の裁量権を与えた出先機関を設ける事で機動力を確保しているが、トレーナー職に関してはその力は及ばない。
つまり、トレーナー職に関する事項で、まともに制度を持ち出して糾弾しようとすれば、答弁に相当な時間を要する。
その間に、宿がないのだから仕方がないと言い張り、学園側からの救済措置が間に合わないのだから当然の措置として実行に移せばよかった。
その間、罪のない優秀な人材を、組織の都合で野宿でもさせるつもりか、と。
実際はどう考えても私の責任なのだが。
それはそれとして。
見抜かれた、と考えておいたほうが良いだろう。
どうもあの緑……もとい、駿川さんは大層な切れ者だ。
しかも、トレーナー君に妙に近い。
飲み会だのなんだのと、何かにつけて誘っている事は知っていた。
何度かそれでトレーナー君を締め上げたこともあった。
だが、今回は何か違和感がある。
嫌な予感、とでも呼べば良いのか。
或いは、虫の知らせか。
ビジネス上での親しい同僚としての付き合いという一線を超えたような。
……私が気づかなかっただけ、なのだろうか。
これだけの期間、常に寄り添っていたと言うのに?
ーーーいや。
手にしていたペンが、握力に耐えられずにみしみしと悲鳴を上げながら、ゆっくりと曲がっていく。
隣の席のクラスメイトが、いよいよ黒板ではなく、あらぬ方向に視線を、首を向け始めていた。
落ち着け、シンボリルドルフ。
トレーナー君は飲み会には参加する事になってしまったが、何もそれだけであの緑色の手に落ちるわけではない。
私の企みを粉砕したのはまだ良い。
計画を失敗したところで、次のプランへ切り替えていくだけだ。
だが、トレーナー君の約束を台無しにした挙句、無理に押し切って飲み会の約束を取り付けるなどと、冗談ではない。
そのまま職員寮の部屋に泊めるつもりだろうが、間違いなく二人で寝るつもりだ。
その人は私のトレーナーだぞ。
大切な人が奪われるのを、指を咥えて見ている私ではない。
だが、大人の酒席に乱入してしまうのは、いくつかの理由により難しい。
そんな場面に混ざろうとする生徒会長というのもまずいが、アルコールというのは心の休息でもある。
気の置けない友人との飲み会というのであれば、それはリフレッシュに必要なことだろう。
特に、抱え込みがちなトレーナー君が愚痴を吐き出すことができる場面をきちんと確保してやるというのも、できる愛バの務め。
私の前では言えないようなこともあるだろう。
だから、そう。
この手は使いたくは無かったが、これもある種のレースだ。
勝利のために、手段を選んでいられるほど私は温厚ではないのだから。
「……飲み会、ねえ」
授業を適当に聞き流しながら、さらさらと手元のノートにこれまでの整理をまとめていく。
特に、昨日と今日、あったことを中心に。
こつこつと黒板にチョークを走らせる音が耳に心地いい。
集中するなら、事業中に隠れて内職する時が一番捗るのだ。
もちろん、予習も復習も欠かしていないので、1日授業をきいていなかったからといって問題は起きない。
お酒はオトナの付き合いだってよく聞くけど、絶対にそれで終わるわけがないじゃん。
大体さ、前から思ってたけど……たづなさんって距離、やけに近くない?
するっといつの間にか近づいてきてて、トレーナーと仲良さそうに話しているのをよく見かけるんだよねえ。
仕事のドウリョーってことは、ボクよりも付き合いが長いからなんだろうけど。
それでも、仕事の付き合いの範囲?と聞かれれば、絶対違うよね。
ボクたちがトレーニングしてても、いつの間にか書類とか届けに来てるし。
たまに差し入れをくれるけど、普段からトレーナーだけにジュース渡してたりするし。
うーん。これ以上ライバルが増えると大変だなあ。
ただでさえカイチョーっていう一番厄介なウマ娘が最大の敵だと思ってたのに、いつの間にかタキオン先輩とか、たづなさんとか、いろんな人の存在がトレーナーの周りに見えるようになってきた。
いや、今までも見えていたハズなんだけど、確信を得たというか。
その結果、トレーナーの周りにいる人が、トレーナーにむける視線というのが何となくわかってきてしまったんだ。
多分、カイチョーがあれだけ威圧感を撒き散らしていたということは、何かしらの報復があると思って良い。
それも結構悪辣な感じの。
ボクはどうしようかなあ。
できればあの二人で潰しあって欲しいんだよね。
タキオン先輩の時みたいしに、共倒れになってくれるのが最上だよね。
うーん………あ、そうだ。
ボクだから出来ること、あるじゃん。
そしたら準備かなぁ。
「では、この問題を………トウカイテイオーさん」
「うぇ!?」
「聞いていませんでしたね?」
「うう、すみません……」
そう謝りながら、問題文を先生に教わり、黒板に回答を記していく。
「………よろしい。正解です。できれば授業もちゃんと聞くように」
「あ、あはは。ちゃんと聞いてますよー」
先生からの指名をなんとか躱すと、再びノートに目を落とす。
夜18時集合だったと思うから、少し遅れて仕掛けるのがベスト。
なるべく違和感なく、仕掛けられるかなあ。