穏やかな、実に穏やかな時間が流れていた。
春になるたびにいつも思うが、時間の流れが緩やかになったように感じる瞬間がある。
トレーナー職というのは、主要な業務の大半は、屋外での仕事となる。
日照時間の短い冬から、温暖な気候へ変わり、夜の訪れが遅くなっていく。
その変化に気づく瞬間、時間が引き伸ばされていたような不思議な感覚に陥ることがある。
今がまさに、その時だった。
仕事を少しだけ早めに切り上げ、喫茶店の窓辺の席に陣取る。
穏やかな夕日をガラス越しに眺めながら、暖かい飲み物を頂く。
なんと平穏で、心地よい時間だろうか。
午前中というか、朝には少々問題が生じていたとはいえ、こうも穏やかな時間が得られると大変に心が安らぐ。
また、胃痛の種となっていた私の仮住まいの問題も、なにやら私の外泊許可申請書が私自身の与り知らぬところで発行されかかるという事態にまで発展していたようではあるが、効力を持つ前に無事に有能な理事長秘書の手によって棄却されたらしく、下手人の元へと稟議書が突き返されていた。
それと同時に、私の元へ一枚の書類が届いたことで、この問題についてはひとまずのところ、解決を見ることになったのである。
駿川さんが気を利かせてくれたのか、学園運営側から発出された通達によってルドルフの無理押しを抑え込んだのは、流石の対応だった。
正直なところ、ルドルフの部屋に泊まる、それ自体は吝かではない。
前回寮に上がった際はテイオーを担当に加えたことによる嫉妬で掛かっていたが、今回は若干毛色が違う。
自分でやってしまったことに対する自責の念からそうしているというのが、言葉の端々から伝わってくるのだ。
とはいえ、常に気を張っているルドルフが唯一気を抜いているらしい自室にまで私が入り込むことで、彼女がリラックスできる場所を奪ってしまいかねないという危惧がどうしてもあった。
いくら私が専属トレーナーであり、棲家を他ならぬルドルフの手によって失ったとはいえ、だからといってその償いのように、トレーナーを部屋に泊めるというのは、それが知られれば私の両手が後ろに回ることになりかねないし、それ以上にルドルフの夢を邪魔してしまいかねない。
それが本心から私を心配していたとしても、だ。
彼女と私の夢にとって、余計な醜聞となりかねない手段は、極力避けるべきだ。
ルドルフがそれを理解していないはずがない。
それでもその手段を選んだというのは、トレーナー冥利に尽きる話でもあるが、それはそれ。
指摘されるまですっかり頭から抜け落ちていたが、感謝祭前後は、世間からの注目が「トレセン学園」そのものへと特に集まりやすい。
そんな状況で、分かっていて悪手を打つというのは歓迎できない事態。
最悪の場合は、その辺で野営でもすればいい。
時折「山籠り」と称して、トレセン学園敷地内の山で自主的な追い込みを掛けるウマ娘が居るので、キャンプ用品を持っている者もいるし、無ければその辺で調達してくればいい。
ルドルフがあれほど無茶に押してきた、というのも、恐らく放置していると私がその辺でテント生活を始めるという事を危惧しているからだろう。
学生寮へ宿泊するよりは安全なように思えるテント泊だが、これも過去に事件が起きているので、その危惧も分からなくもない。
天体観測が趣味の後輩トレーナーが過去に居た。
よく、寮の屋上に望遠鏡を持ち込み、一人で、時には担当ウマ娘と星を眺めて語らうのが趣味だという、中々ロマンチストな後輩だったのだが、何を思ったか、寮の屋上より環境が良いからと、丁度いい季節になると学園敷地内の山にキャンプ道具を持ち込むようになった。
それ自体は構わない。
オフの日の前日にだけ行っていたし、仕事に支障がないよう徹底されていた。
担当ウマ娘の息抜きとしても好評だったし、学園側からの許可もしっかりと取っていた。
しかし、ある日。
悲しい事件は起きた。
そのトレーナーが、キャンプ道具や望遠鏡を残し、キャンプ地から忽然と姿を消したのである。
テント設営のために地面に打ち込まれた杭は無造作に打ち捨てられ、テントが張られていたと思しきスペースだけ、ぽっかりと空いていたのである。
調査の結果、現場から消えていたのは、テントと、トレーナーが一名。
そう。
テントもろともお持ち帰りされたのだ。
それを聞いた時、当時のルドルフが呟いた言葉が今でも忘れられない。
『成程、まさに袋の鼠……実にクレバーな手口だ』と、おかしな感想を呟いていた。
正直な所、その一言が頭から離れないがために、恐ろしくてテント泊を手段にカウントすることができなかったのである。
まさか家ごと持っていかれるとは、トレセン学園という魔境に揉まれたトレーナーの面々ですら唖然とするような出来事だった。
ふう、とカップを離し、深く息を吐き出す。
鼻を抜けていくコーヒーの香りは、流石に専門店には及ばないものの、自販機のそれとは当然比べ物にならない。
カップをソーサーに置く。小さくかちゃりという音が鳴った。
駿川さんの仮眠室を学園側からのお墨付きの上で暫く借りることが出来るというのは、渡りに船だった。
お陰で飛び出していきそうだった私の胃も、すっかり落ち着きを取り戻し、コーヒーを流し込まれるがままに大人しくしている。
その一件ですっかり機嫌を傾けていたルドルフだったが、何か思う所があったのだろうか。
今は落ち着いた様子で、私の対面でカップを傾けている。
何が何だか分かっていないまま巻き込まれていた様子のテイオーも、ルドルフの隣でケーキをつついては、眦を下げて嬉しそうにしている。
「…む。これは中々」
「カイチョー、それ一口ちょーだい」
「仕方ないな、ほら、こぼすなよ?」
ルドルフが一品一品コメントをするたびに、テイオーがひな鳥のように口を開けて「一口ちょーだい」とせがむ。
その都度、仕方ないな、等と苦笑しつつルドルフがテイオーにケーキを一切れ差し出す、という、本当に平和な構図が先ほどから繰り広げられている。
飲み会を羨ましがって、というような年齢でもないとは思われるが、今朝から不安定だった精神面が嘘のように落ち着いている所を見るに、連れてきたのは正解だったのだろう。
やはり甘いものは正義、という事だろうか。
ゆったりとしたペースで食べている割に次々に注文していくものだから、手持ちの金額からすると少々厳しい所だが、彼女達のメンタルを落ち着かせ、コンディションを整えるのに役立つのであれば安い支出である。
こうして見ていると、テイオーは体格相応に少し食が細め。
担当になる前から知っていたことではあったが、甘いものは好みらしく、ちまちま食べながら嬉しそうにしている。
……あくまでもウマ娘基準での食の細さなので、私から見ればそれなりには食べているように見えてしまうが、多少心配になるところではある。
とにかく食べればいい、というものでは全くないが。
骨折からの復帰というのは、そう簡単なことではない。
特にテイオーの場合、むしろ才気とプライドの高さが足を引っ張っている側面がある。
このまま完治してデビューしたとしても、そのうちまた怪我をするだろう。
その辺りの折り合いをつけるのには、半年では少々不安が残る。
デビューを急げば年内に間に合わせることはできる。その時点で完璧に仕上げることも問題ないだろう。
だが、クラシック路線での活躍を目指すのであれば、万が一も許されない。
今年一杯は完全復帰に向けて慎重を期した方が良いだろう。
その点ではルドルフとも、テイオーとも一致しているので、焦る必要はない。
最短で来年の6月。
テイオーの体格、年齢であれば、余裕を見て12月でのメイクデビュー。
本格化もまだなので、時間的な猶予は十分にある。
ルドルフは……まあ、健啖家だ。
学園内でも大食いで有名なオグリキャップやスペシャルウィーク程ではないが、私からすれば胃が破裂するのではないかと思うような量を、楚々とした所作を崩さないままに細い体にどんどん収めていく。
結構な量を既に食べているはずだが、一定のペースで淡々と食べ続けている。
これだけ食べていて下品に見えないのは流石といえるが、その気品はもっと他に使うべきところがあったのではないかと考え……
「私の顔に何かついているかな?」
気取られた。
「ここ、クリーム付いてるよ」
誤魔化し半分に、口の端についたクリームを、そっと紙ナプキンで拭ってやる。
「む…ありがとう」
「カイチョーもそういうことあるんだねー」
「いやはや、随分と久しぶりに来たものだから、どうにも高揚してしまってな」
ここはケーキ店直営の喫茶店なので、ケーキや焼き菓子の品ぞろえが抜群に良い。
そんな店で、時間がもう夕方とはいえ、ショーケースに並んでいるケーキを一つずつ注文して、そろそろ全種類を制覇しそうである辺り、健啖家ぶりが窺えるというものだろう。
カフェテリアの試食会など、食べざるを得ないような状況でもない限り、ルドルフが自ら注文している以上はコントロール下にあると思われるが、明日はトレーニングの強度を少し上げておこうと心に決める。
「そういえば、先ほど営繕部から連絡があったよ。部屋の修復は2日後だそうだ」
ふと思い出したように、フォークを置き、口元を丁寧に拭ったルドルフが言う。
「思っていた以上に早いね。助かるよ」
「えっ、あの状況から二日で直るの?」
「ああ。幸いにして、建物の躯体には損害は出ていなかったようでな。壁の貼り替えや家具類の入れ替えで済みそうだ」
「トレセン学園って凄いね……」
凄い、というか。
普通に考えて、壁の張り替えなんて二日でできる物ではないと思うのだが。
おそらく、理事長あたりからまた無茶を言われている気がする。
今度営繕部に差し入れの一つも持っていかないとならないだろう。
「ウマ娘が勢い余って壊してしまうことがよくあるから、ある程度規格化してあったのが幸いしたな」
自分で壊しておいて他人事のような口ぶりだが、今はただただ、規格化を成し遂げた当時の担当者の手を握ってお礼を言いたい気持ちで一杯だった。
ただ、できればトレーナーの肉体面での代替パーツ類も取り揃えておいてくれると尚良かったのだが。
「ふーん……準備しておくって大切なんだね。……準備で思い出したんだけど、今年の感謝祭って何やるのかなー」
「ああ、今年は……」
穏やかな時間、というのは案外短く感じる物。
午睡のような、微睡んでいるうちに一瞬で通り過ぎてしまう平坦で、幸せな時間だった。
「……そろそろ時間だね」
「えー、もう行っちゃうの?」
「ごめんね、二人とも。先に出るからゆっくりしていって」
口を尖らせるテイオーに手を伸ばし、髪をくしゃりと撫でると、くすぐったそうに笑う。
ルドルフは、仕方ないなあと苦笑していた。
伝票を掴み、席を立つ。
「トレーナー君」
会計に向かおうとする私の背中に、声がかかった。
「なに?」
「今回
そう言って、ルドルフは柔らかく微笑み、ひらひらと手を振って見送ってくれた。
柔らかく細められたその目は、全く諦めていない目だった。
いつもお読みくださってありがとうございます。
いただいたコメントは全部見ては喜んだり凹んだりしてるみずくらげです。
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話の流れぶった切ってたまに渋では特別編をやってますが、こちらでも読まれたい方があれば載せてみたいと思ったり、びびってたり。
そんなわけで。
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