ドアを前に、深呼吸を一つ。
ポケットに伸ばした指が、金属に触れて動きを止める。
硬質でありながらも、自分の体温が移ったそれ。
指で摘んで、ポケットから取り出す。
ただそれだけの事が、酷く大変な行為に思えて仕方がない。
ここはただのスタッフ寮。
仮眠室として使われるフロアの一室の前。
止む無く寮から追い出され、行き先を失った私を受け入れてくれる、仮初の宿。
ただそれだけ。
それだけの筈だ。
表札として挿し込まれている紙には、油性のマジックで書いたらしい、少々丸みを帯びた文字。仕事上でもよく見かける、見慣れた文字。
『駿川』
昨日は何も考えず、鍵を捻る事が出来た。
鍵を取り出そうとして、指先が空回る。
彷徨ったそれが金属を揺らし、ちゃりと硬質でくぐもった音を立てる。
彷徨った指先が意を決して掴んだのは、鍵とは違う、少しばかり安っぽい質感。
「……あ」
触れたのは、過去に置いてきた筈の金属片。
思い出すのは、少し斜に構えて、虚勢を張った笑顔。
先に来ているのだろうか。
いや、もう帰ってきているのだろうか。
覚悟を決める。
きっと今日は、いつもの飲み会では居られないような、そんな気がしていた。
ドアノブに手をかけようとした。
鍵も取り出さないくせに、何故かそうしなくてはならないと思った。
鍵のかかったドアノブを下ろしても、意味はないというのに。
私は何がしたいのだろうか。逃げたがっているのかもしれない。
この鍵は、返そう。
流石にテント泊は恐ろしいが、トレセン学園所有のバスか何かに車中泊させて貰えばいい。
そう思って、金属の冷たい表面に触れる、その瞬間。
ドアノブが私の指を避けるように、下がった。
思わず差し出した手を引っ込める。
がちゃり、と。
音を立てて、ドアが開かれた。
予想と違ったのは、普段の緑のスーツとは違う、私服姿。
柔らかい笑顔。
「あ、トレーナーさん。……お帰りなさい!」
「………ただいま、駿川さん」
帰る場所、というのは少々違うのかもしれない。
それでも、反射的にそう答えたということは、何か私にも思うところがあったのかもしれない。
「かんぱーい」
「うん、乾杯」
グラスを付き合わせる澄んだ音ではなく、缶同士が触れるこつんという音が響いた。
色気もへったくれもない、まるで大学生の飲み会。
これでカップ酒だったら、よりひどい絵面だっただろうが、幸いにして部屋の隅に設置された冷蔵庫の中にその手の酒はないようだった。
しかし何故ソファに二人掛けなんでしょうか、という言葉は、喉越しの良いよく冷えたビールと共に喉を滑り落ちていった。
「さ、おつまみも用意しましたから召し上がってくださいね」
にこにこ、と笑う駿川さんが、横からそっと箸を差し出す。
何故か割り箸ではなく、シンプルな茶色の一膳。
「……うわ、懐かしい」
「私、物持ちは良い方なんですよ?」
そういって微笑むが、私とすれば何故捨てていなかったのか不思議な程だ。
机の上には、湯気を立てる料理の数々。
おつまみ、と言っていた通り、もつ煮込みや茄子の揚げ浸しなど、居酒屋のような料理が立ち並ぶ。
今朝覗いた冷蔵庫には缶ビールがやたら充実していたので、今日はビール日和ということなのだろう。
「……いただきます」
箸をつければ、濃いめの味付けにアルコールが進む。
珍しく、無言で箸を進める。
味付けは、昔と変わらない。私の好きな、地元の味と言えば良いのか。
「……」
時折、缶ビールに口を付けつつ、箸を進めていると、視線に顔を上げる。
にこにこ、と楽しそうに目を細めた駿川さんと、視線が行き当たった。
「どうしました?」
「お茄子、随分好きになりましたよね」
「……おかげさまで」
茄子、茄子か。
そう言えば子供の頃は嫌いだったか。
食べられるようになったのは、確か、どこかの同級生にバ鹿にされてから。
「そういえば、シンボリルドルフさんの様子はいかがですか?」
「ルドルフですか。どうも最近は、テイオーの担当契約を切っ掛けに少し落ち着きを失っていますね」
それはそうだろう、と思う。
シンボリルドルフさんと、トレーナーさんの関係は強固に閉ざされた二人だけの世界だった。
トレーナーという職業は、多くのウマ娘と歩んでいくことになる。
トゥインクルシリーズは、一番大切な3年間を共に歩き、その後引退するのか、現役続行するのかで大きく進路が別れる。
引退するウマ娘が多いなか、それでも、最初の一人というのはトレーナーにとっても大きな影響を及ぼすのだから。
「幸いなことに、ルドルフの自制心のおかげでそこまで大事には発展していませんよ」
嘘ですね。
本当にそんな自制心があったのならば、こうして今、私の部屋に避難してくることもなかったでしょうし。
「なるほど、流石シンボリルドルフさんですね」
自慢の愛バを褒められて嫌な顔をするトレーナーはいない。
それが、どれだけ手のかかるウマ娘であったとしても。
少しばかり表情が和らぐのは、トレーナーさんが立派なトレーナーであるという証左。
話を振れば、いくらでも出てくるシンボリルドルフさんとのエピソード。
時に楽しそうに思い出を語り、時に真面目に今後の展開を語る。
しかしその顔は、どれも誇らしげで。
ずきん、と傷が疼く。
じくじくと、ずきずきと。
本当は、私がそこに居られたなら良かったのに。
「……それでもやっぱり、大変そうです。」
あの頃の、立派に皇帝として立っていた頃のシンボリルドルフさんであれば、私も安心して見ていることができたのかもしれません。
ですが、最近は。
……そこにいたのが、隣にいるのが彼女ではなく、私だったら。
一体今頃、どうしていたでしょうか。
なんて、年甲斐もなく「あったかもしれない話」に心が揺さぶられてしまうのは、アルコールのせいだと思うことにします。
トレーナーさんと共に戦う、という甘美な空想は、心の奥へ仕舞っておきましょう。
楽しそうに語るトレーナーさんが、一息ついた時、ぼそりと呟きました。
「……なんだかこうしてお酒を飲むのは、初めてかもしれませんね」
「え?いつも飲み会、一緒に行くじゃないですか」
解っていて、思わず惚けてしまった。
こういう事をトレーナーさんが言い出すのは珍しいな、と思いつつ。
「違いますよ。こうして、お家で一緒に飲んだことって無かったじゃないですか」
「そうですね。お誘いしてたら来てくれましたか?」
「………どうでしょう?ルドルフが怖いので」
「もう、そういうところですよ。………あの頃、お酒が飲めていたらこんな感じだったかもしれませんね」
「……あの頃は未成年でしたからね。驚きましたよ、帰ってきた時は」
なんだかとても懐かしい気持ちになりました。
地元に帰った頃。
私はもう、精神も肉体も満身創痍で。
折れてしまいそうだった私を支えてくれたのは、あなたでした。
……ここのところ、思い出に浸ることが増えたのは何故でしょうか。
いえ、考えるまでもないですね。
少し、トレーナーさんの周りが騒がしくなったから。
狭い世界が開かれていくように、その中で私もあまりのんびりしていられなくなった、というのが正直な所でしょうか。
こうして、私の部屋で飲み会をするというのは初めてなのに、懐かしくて、嬉しくて。
たくさん作ったお料理を食べてくれて、少し表情が柔らかくなったのは、お酒の力なのでしょうか。
お口に合うかしら、と悶々としながら作っているうちに、思った以上にたくさん出来てしまいましたが、この様子なら食べてもらえそうでよかった。
狭いワンルーム。
料理の香り、あなたの匂い。
思い出したのは、最後の日。
「私だってびっくりしましたよ。突然、上京すると言って居なくなっちゃうんですから」
「う……」
過去の傷。
お互いに、あまり触れたく無かったことというのは結構ありました。
一緒に暮らしていた、というと嘘になりますが、地元に帰ってきた私は、とあるワンルームマンションで生活していました。
そこで、こうしてあなたとよく食事をしていたことを思い出します。
「まぁ、ちゃんと再会できましたから」
「……あの時も驚きました。中央に面接に行って、案内してくれたのが、まさか駿川さんで……」
「もう、随分と他人行儀じゃないですか。たづなでいいですよ」
「………ええと」
お酒も入っているのですから、少しくらいそのガードを緩めてもいいじゃないですか、と頬を膨らませてみると、困ったように言葉が淀みます。
「あなたのた・づ・な・です」
にっこり笑って、もうひと押し。
「……たづなさんに案内されるとは思いませんでした」
「たづな「さん」……うーん、まぁいいでしょう」
これでも譲歩してくれた方でしょう。
悔しいことに、私は担当バでもなく、あくまで今は同僚。
同僚になったことで、そばにいることができている反面、妙な距離ができてしまったのもまた事実です。
「あなたを待ってたんですからね?」
「何も言わずに地元を飛び出したのに、どうして解ったんですか………」
「あれだけ私の部屋で勉強していたんですから、そのぐらいはわかりますよ」
スポーツ医学を中心に、時間があれば勉強をしていたあの背中。
学校に通いながらだったのに、私が元気になるまでずっと面倒を見て、夜中に勉強をしていたことを知っています。
あなたの将来を、私が決めてしまったことも、知っています。
「うっ……これだからウマ娘は」
辟易とした顔をするトレーナーさん。
確かに、職業上ウマ娘に執着されやすいのは当然ですが、あなたが一番最初に執着させたウマ娘は他でもない、この私なんですからね?
「だから、復学して、そのままスタッフとしてここで働いて………まさか秘書になるとは思ってみませんでしたが」
「同級生のたづなさんが理事長秘書になってるとは予想外でしたよ」
あなたが中央に来た時、その助けになりたくて頑張ったんですから。
もっと褒めてくれてもいいじゃないですか。
「初々しくて可愛かったですよ、広いトレセン学園の中で迷子になりかけて、きょろきょろしているところが」
「いや、それは……」
「実は写真も撮ってたりしました」
「えっ」
「ええと、あ、ほら、これです。なんかもう泣きそうなちょっぴり情けない顔が可愛くて」
「あああ、それは勘弁してください。ちょっ、消させてください」
こういうところを見られるのが苦手なあなたが、珍しく慌てたように手を伸ばしてくる。
でもだめです。これは私の宝物の一つなんですから。
「だめでーす。これは私のお気に入りで……きゃっ!?」
「っ」
体を引いて、ふざけて端末を遠ざけるように、戯れ合うように。
思ったよりも体を乗り出してきたあなたの顔が近くて、アルコールに浮かされた平衡感覚が少し仕事を放棄していて。驚いてソファから滑り落ちてしまう。
あなたの手が、私の腰を支えようとしたけれど。
体勢が悪かったのか、二人して床に転がり落ちてしまう。
「いたた……、あ……」
びっくりして、間抜けな声をあげてしまう。
覆い被さるように、トレーナーさんの顔がすぐ近くにあった。
「大丈夫ですか?どこか打ったりは?」
真剣な目。
相変わらず、変わらない瞳。
あの頃より随分と柔らかくなった黒い瞳は、時間の経過を強く感じさせる。
石の角が取れていくかのように。
それは、知らないうちにそうなっていたことで。
それでもまだ、私の奥底を見透かしてしまうようで。
手を伸ばす。
首に絡めるように。
「………たづなさん?」
するりと、忍び寄るように回した手に、困惑気味に眉を寄せるあなた。
「もう一度。……もう一度、私とーーー」
ああ、もう一度。
失ったものを取り戻すように。
全てが灰色だったあの頃のように。
ねえ、私と
ぴんぽーん。
チャイムというのはいつだって突然ではあるが、その音にびくり、と体が跳ねた。
「え?こんな時間に?」
その言葉に釣られるようにして、壁に掛けられた時計を見る。
時間はそろそろ21時になろうかという頃。
随分と遅い時間の来客に、慌てて立ち上がる。
「す、すみません」
「い、いえ私の方こそ。……ちょっと見てきます」
駿川さんは慌てて立ち上がると、ぱたぱたとスリッパを鳴らして玄関へ向かう。
その背中を目で追いながら、ぼんやりと懐かしさと、傷の痛みを思い出してしまう。
結局、返せなかった。
それに触れるには少しばかり勇気が足りなかったのかもしれない。
ポケットに手を突っ込む。
……いや。
私の指先は、思い出に背中を押されるように、それをしっかりと掴んだ。
ポケットから取り出す。
玄関の方から、駿川さんと誰かが話す声が聞こえる。
質素な、最低限のものと少々の生活感を感じさせる小物ぐらいしかない、小さな部屋で、それを灯りに翳す。
自分のものではない、仕事のものでもない。
誰かの部屋の鍵を持つことなんて、考えもしなかった。
小さな金属片は、天井から照らし出す灯りに照らされ、私の顔に影を落とす。
小さな鍵。
いつだったかの繋がりを思い起こさせる、古びたキーホルダー。
アルコールや食べ物の匂いで随分邪魔をされてはいるが、部屋に仄かに香る、桜の香り。
じゅくじゅくと膿んだ傷の、鈍い痛み。
手の中で、それが存在を叫ぶように小さく金属同士が触れる音を立てた。
すっかり鍍金も剥げて、随分とまあ貧相な見た目になってしまったけれど。
当時は、宝物のように見えていた。
その輝きは、鍍金が剥がれた今の姿同様、すっかり失われたけれど。
それでも。
それでも思い出の中では、美しい色を湛えた、あの頃の姿のままだった。
首に絡み付いた腕の暖かさが離れない。
「ーーー君は、綺麗になったよ」
あの頃の陰を振り払って、また前を向いて。
一度捨てたくせに、私は。
●お知らせ
まさか「いる」に90%もの方が投票いただけるとは思ってもおらず、嬉しい反面、結構びっくりいたしました。
つきましては、こちらでも特別編など掲載してまいりたいと思います。
三章内でも新たに盛り込むつもりではおります。
活動報告の方でアンケート取らせていただきます。
ガイドライン詳しくなくて申し訳ないです…
いつもやらかしを教えていただいてありがとうございます。