ぴんぽーん。
どこか間の抜けた、チャイムの音。
私の上で、びくりと身体が震えた。
そっと、あなたが身体を浮かせようとする。
「す、すみません」
我に返った、とばかりに、少し照れたような口ぶり。
あと少し。あとほんの少しだった筈の、温もりがゆっくりと離れていく。
その首に回した手を離したくなくて、力を入れようとして。
そっと掛けられたあなたの手に、優しく放されてしまう。
それはあの時と同じような、どうしようもない優しさ。
脳裏を過る、誰も来ない私の部屋。
あなたがやってくる前触れだったその音。
私と、あなただけがいた小さな世界。
チャイムの音色も、その意味も。
あの頃とは、何もかもが違ってしまっている。
あなたが出て行ったあの日から。
そんなことは分かっていた。
だけど、それを、今この時ほど憎らしく思ったことはありませんでした。
少しだけ、慌てたような、ほっとしたような、その顔。
ほんの僅かな頬の赤さは、酒精によるものでしょうか。
それとも。
「い、いえ、私の方こそ。……ちょっと見てきますね」
ねえ、もう少しだけと縋るような言葉を吐くには、少しだけ遅くて。
ゆるりと身を起こし、余韻を確かめるように身だしなみを整える。
ずり落ちた帽子、スーツの皺。あなたの匂い。
頬に手を触れれば、いつもよりも火照っている。
きっとあなたと、同じ色をしているのでしょう。
いつまでも、同じ朱色を見ていたかったけれど、出なければ不審に思われるでしょう。
恐らく、来客は彼女たちのどちらか。
ああ、困りました。
少しだけ目を閉じて、気持ちを切り替える。
寮の部屋が復旧するまでの2日間、トレーナーさんはこの部屋に泊まる予定になっています。
迎えに来る、という事はないでしょうし、門限もそろそろというこの時間にわざわざ訪ねてきて、私と鉢合わせることは避けたいはず。
であれば、何か仕掛けてくるのではないでしょうか。
出たくはないですが、諦めて鍵を開け、ドアを押し開きます。
「はーい」
ドアを開ければ、そこには予想外の人物の姿がありました。
仕立ての良いストライプのスーツ。すらりと細い手足。
引き締められた表情。緩くウェーブの掛かった黒髪。
「こんばんは。夜分にすみません」
半年の海外出張に出ていた筈の、樫本さんがそこに居ました。
「樫本さん…?どうされたんですか、こんな時間に?」
確か理事長の名代としての海外出張から、そろそろ戻っていらっしゃる予定ではありましたが……それは確か、来週だった筈。
その彼女が、なぜ今ここに?
「つい今しがたフランスより帰国しました。お土産を配って歩いていたところ、今夜ここで飲み会を開かれていると聞き。丁度おつまみに良いものがあったので、届けに伺いました」
「は、はぁ……わざわざありがとう、ございます……?」
「どうぞ。ハムとチーズなので、おつまみに合うと思います。それと、成田土産の鉄砲漬けだそうです」
ずい、と無表情のまま、紙袋が二つ手渡されました。
……しかし何故、成田土産なんでしょうか?
「あ、これはありがとうございます」
「どうしましたか?」
有無を言わさぬ口調で手渡された紙袋を手に、さてどうしたものかと逡巡したその隙間。
ひょい、とトレーナーさんが、私の肩越しに顔を出した。
「聞き覚えのある声だと思ったら。帰国されたんですね、お帰りなさい」
「ただいま帰りました、トレーナーさん」
そう言って、引き締めた顔をほんの少し緩める樫本さん。
……待ってください。
それはちょっとおかしいです。
なぜ、出張で疲れて帰ってきたパートナーをお迎えする仲の良い家族みたいな構図になってるんですか。それはさっきまで私の物だった筈ではありませんか。
そもそも、樫本さんも疲れているのになぜわざわざ届け……に……。
……成田土産「だそうです」?
ああ、これは……間違いないですね。
体力がなく、あまり重いものを持てない樫本さんが、わざわざ国内でいくらでも手に入る空港近辺のお土産を買ってくるわけがない。
これはシンボリルドルフさんの仕業でしょう。
彼女の実家、シンボリ家。千葉県は成田を中心に形成された名家の一族。
一体どこで干渉したんでしょうか。
帰国した樫本さんに知らせて、今日予定していた飲み会にぴったりなどと吹き込んで買って来させた?それとも、シンボリ家から送られたものを樫本さんに手渡した?
どちらにせよ、間違いなく、シンボリルドルフさんが何かしらの干渉を仕掛けていることは分かります。
なるほど、この時間帯に生徒が訪れるのは現実的ではないですし、未成年が酒席に入り込んで妨害するのも出来なくはないですが、それではトレーナーさんの心証を悪化させる。
門限の問題もありますしね。
だから、入り込んでも問題の無い人を送ってきた、そういうことですか。
樫本さんは時折ご一緒することのある、飲み仲間。
であれば、この場に放り込んでも、共通の飲み仲間であれば角は立たないと。
帰国したばかりの彼女が、わざわざおつまみにいいですよとお土産を届けにまで来た彼女を除け者にできるトレーナーさんではありません。
そこまで読んで、分かりやすいお土産を使って釘を刺しに来たということでしょうね。
本心を言えば、水を差されたとしか思えない所ではあります。
しかし、トレーナーさんにも見つかった今、ここでお帰り願うのは得策ではありません。
海外から帰ってきたばかりの、何の悪意のない樫本さんを送り込んで来るあたり、やり口が本当に悪辣ですね。
……いいでしょう。シンボリルドルフさんの策にまんまと乗ってあげましょう。
「樫本さん、もし宜しければご一緒に如何ですか?」
「よろしいのですか?」
にっこりと笑顔を作って、飲みのお誘いを掛ければ、樫本さんはほとんど表情を変えないままで、ふんわりと嬉しそうな雰囲気を放ち始める。
この方、色々と下手すぎませんか?
「ええ、勿論。フランスでのお話もお聞きしたいですから」
「ボクも聞きたーい!」
「……え?」
「……それで、どうしてトウカイテイオーさんがここに?」
にこにこ、といつものような笑顔を貼り付けたまま、テイオーを床に正座させた駿川さんが、いつものトーンにも拘らず妙に底冷えのする声で問い質す。
流石のテイオーも、若干怯えているのか背筋が妙に真っすぐ伸びている。
一方、流石にフランスから帰ったばかりで疲れているであろう、というか、お土産を抱えたままうろうろと彷徨っていたらしい樫本トレーナーは既に満身創痍と言っていいような状態だった。
顔色は変わらないものの、ここに辿り着いたことで気が緩んだのか、今はソファーに沈んでいる。
相変わらず樫本トレーナーの体力の無さは凄まじい。
トレーナーは外仕事が多いので、基本的に誰も彼も体力自慢になりがちである。
だが、樫本トレーナーはその真逆を行く。
一日の業務を終え、家に帰るとそのまま倒れるようにして眠るという話は聞いたことがあるが、よくもまあ業務に耐えている物だと感心さえしてしまう。
体力と運動神経以外は、中央に所属するトレーナーの中でもトップクラスなのだが、残念なことに、その2点に関しては生活に支障をきたすレベルで低い。
喉が渇いているのか、差し出された缶ビールを手にそわそわし始めた樫本トレーナーは良いとして。
門限も近いというのに、何故テイオーがこんなところに居るのだろうか。
「テイオー。門限は?」
「はいごめんなさい!」
事情を問いただそうと声を掛けると、背筋を伸ばして、やけにいい返事が返ってきた。
明らかに駿川スマイルの圧力に屈しかけていた。
「ああ、あまり叱らないであげてください。彼女は私が荷物を引きずっていたのを見かねて、お土産配りの手伝いをしてくれていたのです」
そこに、すっかりソファーと同化しつつある樫本トレーナーが助け舟を出した。
それでも表情だけはいつも通り。
良く冷えたビールの缶が冷たすぎたのか、ころころと両手の上で転がしている姿は若干シュールな絵面になってきている。
机に置けばいいのにとは思うのだが、もしかすると程よく沈み込むソファーから身を起こすのも億劫になっているのかもしれない。
「樫本さん、リトルココンさんたちは?」
駿川さんが不思議そうに問いかける。
確か樫本トレーナーの担当バは、リトルココンとビターグラッセを中心としたチーム。
そして担当ウマ娘たちからは、そのか弱さ故にか過剰なまでに手厚く保護されるなど、異様なまでに慕われてはいる。
慕われているのだが、何故か執着はされないという稀有な例でもある。
以前ヒアリングした際、リトルココンが「庇護欲が爆発する」と訳の分からないことを真顔で宣っていた。
「学園に着いた時には、既に寮に帰っていたようです。随分と探し回ってから気付き……」
「ボクが帰るときに、転んでたのを見つけたんだよー」
「「あぁー……」」
駿川さんと私の声が重なった。
リトルココンやビターグラッセが傍に居ればすぐに支えるどころか、下手すると抱き上げて運んでしまうのだが、残念なことにその二人は今日帰国することを知らなかったのだろう。
呼び出してあげれば担当バたちは喜ぶだろうにとも思うが、恐らくいつも通り自分で何とかしようとしたのだろう。
「ねーねー、トレーナー」
「なに?」
「飲み会ってみんなどんなお話してるの?ボクもちょっとだけ大人のお話聞きたいんだけど」
好奇心に輝く瞳がじっとこちらを見つめている。
そわそわと動く耳と尻尾が、きらきらと輝くひとみが、いかにも「興味あります」と雄弁に語っている。
「駄目。もう門限だよ」
確かに、学生の頃は大人の世界というものに憧れる頃もあった。
とはいえ、規則は規則。
樫本トレーナーの手伝いという理由はあったものの、だからといって余計な事まで許してしまえば、そちらまで樫本トレーナーの責任になってしまうのだ。
「……樫本トレーナーのチーズに、はちみー、掛けたくない?美味しいはちみーがあるんだけど。とっておきの天然生はちみー」
……意外にも強かな交渉を仕掛けてきた。
何故美味しいはちみーを持ち歩いているのかという疑問もなくはないが、しかしあれだけ頻繁にはちみードリンクを飲んでいるテイオーなので、鞄に入れていてもおかしくはない。
いや、やっぱりおかしくないだろうか。
「……クラッカーもありますね」
しかし、駿川さんが何事か呟き、がさがさと袋を持ち出した。
駿川さん。あなたちょっと今揺らいでいませんか。
いいのですかこんな横暴を許して。
「カナッペですか。良いですね。お酒によく合いそうです」
樫本さん。
いつもだったら睡眠時間がどうとか言って絶対に反対するでしょう。
あなた疲れているからと結構適当になっていませんか。
「「……」」
まずい。味方が呆気なくはちみーで籠絡されかけている。
そして、疲れ果ててアルコールに染まった駄目な大人三名による合議の結果、残念ながら生徒の前でアルコールはまずいだろうと言う結論に至った。
決して、フジキセキが探しにやって来たからというわけではなく、トレセン学園職員としての矜持と鋼の意志によるものである。
我々の勝利である。(大本営発表)
なお、別途フランスの視察の話を樫本トレーナーが語る会を設けることを約束し、テイオーは渋々ながらも回収されていった。
活動報告の方は引き続きそのまま受け付けております。