沢山のアルコール。
濃いめに味を付けた料理。
チーズやハム。
疲れ果てた大人が3人。
何も起こるはずもなく。
何か起きては困るわけで。これ以上のトラブルはご勘弁いただきたい。
願いが届いたわけではないだろうが、幸いなことに樫本トレーナーの来訪と、テイオーの闖入を除き平穏な飲み会そのものだった。
久しぶりに面子の揃った飲み会メンバーでの話というのは弾むもので、近況報告と国内レースシーンの情報交換や、最近の事件の話は大いに盛り上がった。
話が盛り上がる、ということはつまり、酒が進むということと同義である。
机上に散乱するのは多量の空き缶。
料理も土産も、随分とまあ減り、しかしそれでも一体どれだけ詰め込んでいたのかと思うほど、次々とよく冷えたビールの缶が冷蔵庫から出てくる始末。
今朝見た時と比較しても明らかに本数が増えているように思える。
駿川さん、処理を手伝えと言っておきながら買い足しましたね。
そして散乱したような状態は机の上だけでなく。
「フランスはワインも料理は美味しかったですが、やはりこれですね」
もはや完全にソファーと同化し、若干正体を失ったような状態になりながらも表情とペースだけは変えずに樫本トレーナーは次々と缶ビールを煽っていく。
言葉だけを見れば意外としっかりしているように思えるが、音程というか、イントネーションがもはや狂いきっている。顔ももはや茹だったかのように赤い。
普段きりっとしているだけに、その姿はどうにもくたびれたOLのようである。
おつまみを取ろうとしてか、じたじたと藻掻いていた樫本トレーナーがこちらを見た。疲弊しきった身体にアルコールが入ったせいで余計に力が入らないのか、なかなか起き上がれないらしい。
若干目が焦点の定まらない動きをしている。
これは相当に出来上がっていらっしゃる。
「そちらのもつ煮を少し取って頂けますか」
「はい、このぐらいでいいですか」
「ありがとうございます」
ため息を一つ。もつ煮を小皿によそって手渡してやれば。
嬉しそうに、こくこくと頷きながら受け取った。
言葉は硬いままだが、ふにゃりと緩んだ笑顔が向けられて、少しばかりどきりとする。
この人、お酒が入ると表情筋が素直になるんだよなあ。
一方、この部屋の主はというと。
「……なんだかこのお漬け物、お酒に合うのが腹立ちますね」
この人は一体、何に腹を立てているのだろうか。
さっぱり分からないが、ともかくなんだか不服げにしながら、ぽりぽりと漬物を齧っている。
箸で摘み上げ、矯めつ眇めつしつつ不服げに口に運んでいるものの、しかし一方でビールを飲む手は止まらない。
そして先ほどからぐいぐいと私の脇腹を肘で押してくる。
何故なのか。
相当加減はしてくれているようだが、地味に効いてくる。
そろそろやめていただけはしないだろうかと思いを込めて視線を遣るが、じっとアルコールに蕩け、滲んだ目で見つめ返され、思わず目を逸らしてしまう。
強いくせに、こういう所で使ってくるのはやめていただきたい。
思わず、吸い込まれそうになる。
首を振って、ビールに口を付ける。
アルコールの苦味が、少しだけ正気を取り戻させてくれるから。
視線に屈したことに対するささやかな抵抗として、口に漬物を放り込み、再びビールに口を付ける。
机の上に散乱する缶の残骸の大半をこの二人で空けているのだが、一向にそのペースは衰えない。
樫本トレーナーは相応に酔っているようだが、駿川さんはほとんど顔色を変えていない。
しかし。
それにしても、なんだこの配置は。
座布団がないし、スカートだからという理由によって、私が床に座ることができないのはまあわかる。
家主とゲストがソファーに座るべきという論理も、まあ理解できる。
だからといって、3人で並んでソファに座ることはないと思うのだが、どうだろうか。
しかし、よりによって真ん中に配されてしまったのは何故なのだろうか。
いや、理屈としては解っている。
駿川さんはちょくちょくお酒を出したりと立ち上がるので、脇の方がいいと言う。
部屋を借りているとはいえ、あまり私が我が物顔で物色するのも気が引けるので、それはありがたい。
樫本トレーナーはどうだろうか。
この人はなんというかもう、だめだった。
ソファーの隅に最初に腰掛けて以降、微動だにせずに溶けている。
よほど疲れていたのだろう。
角の部分に沈み込むようにして溶けているので、おそらく真ん中に配した場合、どちらかに寄りかかって溶け出すだろう。
だからといって私が真ん中というのはどうなのか。
先ほどから若干ご機嫌が傾いた駿川さんにはつつかれ、樫本トレーナーは事あるごとにくいくいと軽く引っ張ってくる。
飲み会というのは大抵こんなものだとは思うが、メンバーの割に状況が混沌としてきていた。
「それでシンボリルドルフさんがドアを壊してですね……」
「はは、そんな事態に巻き込まれてよくご無事でしたね。私でしたら死んでいるのでは」
駿川さんはそもそもまともに酔っている姿を見たことがないし、樫本トレーナーもここまで無邪気に笑っているのは珍しい。
「笑い事ではないんですがね……危うく家なき子になるところでしたよ」
「私もトレーナー業に関わって長いですが、そう言った事例はこれまで見たことがないですね」
それはそうだろう。
見たことがあれば、何かしらの対策が施されていくのがこのトレセン学園である。
特に今回のように、下手をすればウマ娘の手によってトレーナー寮が爆破解体されかねないような事態に発展しうるような事件が起きていれば、当然何かしらの対策は施されていく。
「……そういえばフランスで見たレースですが」
ようやく人心地ついたのか、聞き手に回っていた樫本トレーナーがのっそりと身を起こした。
「おや」
身を起こして、そしてそのままぽすんと逆戻りしていった。
よほど回っているらしい。
「お疲れでしょうし、無理しない方がいいですよ?」
駿川さんが手際良く、グラスにアイスペールから氷を放り込み、水を注いで手渡すと、起き上がることを諦めたのか、グラスを受け取って一口付けた。
「……ふぅ。それでは、このままで失礼。そういえば視察でロワイヤルオーク賞を見学して来ましたが……」
開始から2時間。ようやくフランスでの話を聞くことができそうだった。
「すぅ……すぅ……」
フランスでの経験のうち、ハイライト部分を話すだけ話すと、樫本トレーナーは糸が切れたように眠ってしまった。
いちトレーナーとして、フランスやイギリス、アメリカといった海外での経験というのは積もうと思ってもなかなか出来るものではないので、貴重な話が聞けた。
一度担当を持ってしまうと、海外挑戦などによる遠征はあっても、基本的にそれはウマ娘主体。長期出張というのは難しいのだ。
今回、樫本トレーナーがファーストを放り出して出張にいけたのは、彼女たちのトゥインクルシリーズもひと段落し、束の間の休息を得ているからだ。
まぁ、あの二人はまだまだ引退する気はないようで、樫本トレーナーの代理としてついたトレーナーの元で日々トレーニングに勤しんでいたが。
再び彼女たちがレースを賑わす日もそう遠くないだろう。
なお、昔は尖っていたリトルココンも、樫本トレーナーとの信頼関係を築き上げていく中で随分と丸くなっている。
丸くなっているはずなのだが、私と目が合うと目つきが急に厳しくなるのはどうにかならないものだろうか。
ビターグラッセが止めてくれる場合はまだいいが、リトルココンが一人の時に出くわすと、手は出さないまでも、じろじろと下から抉りこむように睨んでくるので心臓に悪いのだ。
何故そこまで目の敵にされているのか。
……当時、徹底管理主義体制をトレセン学園に敷こうと奮闘していた樫本トレーナーと意見の対立があった。
割と私自身の信条とも似通った部分があったので、あまり抵抗なく受け入れていた所ではあったのだが、ふとしたことで酷く拗らせてしまったのである。
その後、何故かレースで雌雄を決することとなったのだが……ちょっと色々あってやらかしたのである。誰がって、ルドルフが。
それ以来、リトルココンには蛇蝎の如く忌み嫌われているのであった。
「……どうしましょう。樫本さん、寝ちゃいましたね」
「フランスから帰国して、そのままお土産を配り、こちらにいらしたようですからね。随分と疲れていたんでしょう」
そう考えると、あの樫本トレーナーがよく今の今まで耐えていたものだと思う。
疲労のピークでお酒を口にしたりすれば、そのままぱったりと行ってもおかしくないとは思うのだが、向こうでの生活がストレスになっていたのだろうか。
普段よりも饒舌だったことだし。
「珍しくお酒が進んでいたようですし……ううん、どうしましょう?樫本さんのお部屋って……」
「トレーナー寮ですね……」
「この状態で運ぶのも……ええと……」
疲弊しきって、泥酔した状態の彼女をこれから徒歩で10分以上の距離のトレーナー寮まで運ぶのは正直、なんだか申し訳なくなってくる。
こういう時、学園外で飲んでいればタクシーに放り込んで、トレーナー寮の外部通用口に付けてもらえればすぐに部屋なのだが、学園内にタクシーが走っているはずもなく。
日中であればそれこそ胃の痛みを覚悟さえすればリトルココンないしルドルフでも呼べば良いのだが、現在時刻はすでに日付が変わっている。
「駿川さん、すみませんが樫本トレーナーを泊めてあげて貰えませんか?」
瞬間、駿川さんの目が突然鋭くなった。
鋭くなった、というか。
何かこう、光ってませんか、それ。
「へえ、トレーナーさんは樫本さんみたいな方がいいんですね?」
「……はい?」
一瞬、頭の中が真っ白になる。
「すらっとして細いですもんねー、樫本さん。それに私と違ってか弱いですし?私と違って」
「え?いや、何を言って……」
確かにこのトレセン学園にいる人間の中ではおそらく人としての運動性能も耐久性ももっとも脆弱な人ではあるが。
「私の部屋に樫本さんとお泊まりしたいんでしょう?ねえトレーナーさん?」
………………あ。
「すみません。自室に帰るつもりでいました」
「あなた本当に自分の状況理解してるの?」
ぺし、と軽く頭に手刀が振り下ろされた。
大分手加減してくれているので、痛みはなかったけれど。
なんだかその、呆れたような口調と、困ったものを見るような優しい目は、随分と懐かしいそれだった。
「……ちょっと夜風に当たって頭冷やして来ます」
この手の状況に陥った場合、私に出来ることはそう多くない。
駿川さんが樫本トレーナーの着衣の乱れを直し始めたので、席を外しがてら、アルコールで火照った頭を冷やしたくなって、部屋を出ようとする。
「あ、ちょっと待ってください」
玄関先で、アルコールでふらつく体で靴を履こうと格闘していたところで、背中に声が掛けられた。
「はい、忘れ物です。これで良かったですよね?」
ぽん、と手渡されたのは、小さなポーチ。
「大丈夫ですよ。ちゃんと中身は新しいので」
「……用意がいいことで」
受け取り、ポケットにねじ込むと部屋を出る。
ずらりと立ち並ぶ寮のドア。
どの部屋も灯りを落としていて、廊下も照明が抑えられ、だいぶ薄暗い。
立ち並ぶドアの前を、若干ふわふわとした足取りで通り過ぎていく。
トレーナー寮とは構造が若干異なるが、大体似たような構造をしているおかげで迷うことはない。
寮の玄関を出る。
ガス灯に模した街灯が整然と並び、敷かれた石畳に影が差す。
レースの話、海外のバ場の話、環境の違い。
そうした普段聞くことのない世界の話で火照った頬を夜風が撫でて、熱を冷ましていく。
海外か。
凱旋門をはじめとした世界の大レース。
高速バ場と揶揄される日本の芝とは何もかもが違う世界。
別に海外のG1で好成績を収めて、というような野心の持ち合わせはない。
既に、無敗の三冠バという今後破られるかも怪しい記録を打ち立てたその場に居合わせている。
とはいえ。
全く関心がないと言われれば、それは違った。
国内のレースはほぼ制し、絶対の皇帝として君臨するシンボリルドルフだが、唯一「挑戦することができなかった」レース。
ーーー凱旋門賞。
出走の機会はあった。肉体的にも全盛期といって過言ではなかった。
だけど、それを取り潰しにしたのは、他ならぬ私だった。
気に病んでいた、とは言わない。
あの時はそうするのがベストだった。
仮にそれが今だったとしても、その判断は変わらないだろう。
だけど。ルドルフに、挑戦さえ許さなかったその判断は、正しかったのだろうか。
私は、彼女の夢の為だのと甘い言葉を囁きながら、彼女の可能性を奪いやしなかっただろうか。
いや、違う。
私の実力不足がために、ルドルフに不調を生じさせた時点で、そんな判断の是非を問うことは意味をなさない。
あの時、私は確かに失敗していた。
失敗の中で、最善と思われる選択肢にしがみついただけだ。
思わず、握った手に力が入る。
何故、今になってこんなことを思い出すのか。
フランスの話を聞いたからか。
あるいは。
「こんばんは。こんな夜更けに散歩かな?」
街灯の下、一筋長く伸びる影は、随分と見慣れた姿をしていた。
ちょっとお仕事の都合にて更新滞ってます。すみません。