一昨日、少々はしゃぎすぎたという自覚はあった。
おかげで昨日は回復に当てるために活動を縮小して、トレーナーくんから教わったストレッチだのなんだのと、面倒な手順の反復に追われる羽目となり、研究の時間を割くこととなってしまったよ。
それでも、今朝目覚めた時に違和感が拭えなかった。
……参ったね、全く。
正直なところ、血の気が引いた。
またか、と。
またあの頃に逆戻りしてしまうのではないか、と。
……もう、どれぐらい前になるのだろうね。
足の痛みと、いつ壊れるかわからない不安。
強がっていたところで、着々と壊れゆく足元を冷静に観察していたところで、私の現状は何も解決しなかった。
必死で足掻いて、足掻いて。
可能性の果て、光の先。
そんな夢物語に躍起になって、ぼろぼろと崩れていく果てのカタチに意固地になって。
誰にも相談せず、この私が解決するのだと虚勢を張って。
ーーーPlan A to B。
遂に代替プランだのなんだのと嘯くようになった頃には、既に限界が近かった。
走る時間は短くなっていき、精々が負担の掛からないトレーニングに、研究ばかり。
ウマ娘の最盛期は短い。そんなことは百も承知だ。
身体が本格化を迎える前だったのは助かった。これでもし、本格化を迎えていれば私は走る他なかっただろうからねえ。
まあ、それ以前に。
これがいつ走れなくなるのかどうかも、分からないほどに崩れて行っていることだけは、私にも良くわかっていたけれど。
だから。
そんなことがフラッシュバックした。
血の気が引いて、浅くなった呼吸を繰り返して。
足を抱えて歯を食いしばるなんて無様を、朝から晒す羽目になった。
「………っ、ぐ………トレーナー………くん………」
喉の奥からこぼれ落ちた声に、応えるように。
ーーー『これで大丈夫。何かあったらすぐ知らせて』
私の足に触れて呟かれたあの声が、耳の奥でリフレインした。
幻痛に、暖かな何かが触れたような気がした。
「……っは、はは、あはははは」
笑いが込み上げてくる。
真っ先に思い浮かんだそれが、トレーナーくんの声。
どうするか、という考えに対して返された答えが、至極真っ当な「相談」だったというのは、我が事ながら随分と脆弱になったものだと笑う他なかったね、全く困ったものだよ。
たった半年足らずの、リハビリテーション。
まさしく社会復帰という言葉通り、食生活から就寝時間まで、それこそかつての樫本理事長代理……今はトレーナーだったかな?が唱えた徹底管理主義のような体制を敷かれ、当初は随分と辟易したものだったけれど。
私も大概だとは思うけれど、私とは全く異なるアプローチでこの足をどうにかしてしまったヒトの言葉は、なんだか釈然としないほど耳の奥にこびりついて離れないのだ。
嫌な汗で湿り気を帯びた寝巻きを脱ぎ捨て、制服に着替える。
酷い幻痛も、不思議と綺麗さっぱり押し流されていた。
何故か隣のベッドで、デジタルくんが枕を赤く染めて眠っている。
私の同居人は時折寝ている間に鼻出血を起こす癖があるらしいが、それでもすぐにケロッと復帰しているので、体質的なものなのだろう。
一応、体質に不安があるのなら、トレーナーくんに相談するといいとメモを書き残してから部屋を出る。
歩く。
あの痛みはないけれど、一度癒されたこの足は、少しばかりの違和感を訴えていた。
トレーナーくんの居場所はわかっていた。
昨日、少しばかりトレーナーくんにその不安を知らせてあげようと思って近づいたはいいが、あの二人が居て込み入った話も出来なかったが、どこに寝泊まりするのかと言う情報は得ることができていたからね。
スタッフ寮、というのは私も行ったことはなかったけれど、大体の位置をカフェに教わり、人の流れに逆らうように歩いていけば、簡単に見つかった。
なんだかんだ言いながらも、こんな時間に連絡しても眠そうにしながら教えてくれるあたり、カフェは付き合いがいいなあと思う。
携帯端末で時間を見れば、時間は6時まであと少し、と言うところ。
大体、トレーナーくんから連絡があるのは6時頃。そのぐらいが活動開始時刻だとすれば、そう大きく外してもいないだろう。
会長と違って私は特段位置監視などは行っていないから、こう言うところは多少なりとも運任せになってしまう。
ま、監視などしなくとも、必要とあれば会えるのだから。
私はロジックの信奉者だが、トレーナーくんが曰く「ロマンチスト」とのことらしいからねえ。
であれば、信じるかどうかは別として、運命論者の言を少々拝借するくらいは良いだろう。
手土産に持参した二日酔いの薬は、喜んでくれるといいねぇ。
「……それで、なんで付いてくるんだ?」
薬を押し付けた後。
何故だか話を切り出すことの出来なかった私は、仕方なくトレーナーくんについていくことにした。
「何でも何も、ラボに帰るからに決まっているだろう?戻る道がこれしかないのだから……ああ、これはアレかな?」
「……なんだい」
「最近少し読むようになった本に書いてあったよ。好きな子にちょっと刺々しい態度を取ってしまうというアレだろう?デジタルくんが特に詳しいが、そういう心理的な動きというものもあるというじゃないか」
「どういう目線でそれを読んだのか、そして何を読んだのかはとても気になるところではあるけど、違うよ。忘れてたんだ」
相変わらず、そっけないねえ、きみは。
「それは残念。ふゥん……こういうのは幼い時分に経験しておくべき事だったかな」
ま、仮に過去に戻れたところで、それは私にはもう不要な経験だっただろうが。
「何言ってるの。まだ若いんだから、これからいくらでも時間はあるでしょうに」
ため息をつきながら返されてしまった。
確かに、年齢を考えれば私もまだまだこれからなのだろう。
トレーナーくんの年齢でさえ、まだ若いと分類されるのだから。
とはいえ、軽く流されてしまったのは困ったな。
「……動揺は無しか。これは参考文献を見直す必要があるかな?デジタルくんに協力を仰いでみるのも悪くないか……」
何か感情の動きの参考になるような文献を、とデジタルくんに頼んでみたところ、まずはここからです!と言いながら児童文学から小説など、多種多様な文献を用意されてしまったのだが、もう少し年齢相応な物を参考とすべきかもしれない。
感情の爆発により力を増すという冒険譚などは、実に興味深い物ではあったが。
「………それで、朝からどういう風の吹き回しだったんだい」
おっと、ついつい思索に耽ってしまっていた。
しかし、何故だろうか。なかなか本題を切り出すことが出来ない。
「うん?私の善意がそんなに信用できないかな?」
顔を覗き込むようにして笑ってやれば、トレーナーくんの視線が動く。
動いた先で、視線が止まった。
「いや、何か言いたそうにして……」
雰囲気が、変わった。
仏頂面。感情の読めない瞳。
まあ、私が感情がどうこう言うのは間違いだとは思うんだけどねえ。
それでも、その中に昏い火が灯った事ぐらいは、これまでの付き合いの中から見て取れてしまう。
「待って、アグネスタキオン」
「何だい」
ああ、君は気づくんだね。
期待していなかった、といえば嘘になる。
だがそれでも、私の不調にこうして気づいてくれるのは、素直に嬉しいと思うよ。
……ああ、なんだ。私は気づいて欲しかったのか。
はは、全く。
随分とまあ、入れ込んでしまっているなあ。
「そこ座って。脱いで。今すぐ」
うん。そのために君に会いに来たんだ。
だから、なあ、トレーナーくん。
「……君はそう言うところは意外にせっかちだなあ」
言いたかった言葉は飲み込んで、私が口から発したのは、なんというか捻くれた言葉だった。
言われた通り、近くにあったベンチに腰掛け、靴とソックスを脱いでいく。
今のところ、足は腫れてはいない。
ただ違和感があるだけだと言うのに、我ながら随分と過敏に反応した物だと呆れてしまうが、仕方がないだろう?
「触るよ」
「うん、頼むよ」
ひたり、と暖かい手が足に触れた。
……だから、なあ、トレーナーくん。
また私を救ってくれないかい。
あの地獄のような日々には、もう戻りたくないから。