「……は?」
今何かちょっと見てはならないものを見てしまった気がする。
先日の騒動により、会長のトレーナーが住んでいる部屋が破壊されたというのは記憶に新しいが、その件で少々営繕部スタッフとの緊急の打ち合わせが必要となったため、朝からスタッフ寮へ向かっていた。
時間は早朝。まだスタッフたちも出勤前であり、人出も少ない時間帯のため、打ち合わせ資料を確認しながら歩いていたところ。
「エアグルーヴか。おはよう」
そんな声が聞こえた。
いやに聴き慣れた声に、顔をあげる。
「失礼、急いでいるのでねぇ」
「ちょちょちょ、待ってください!!」
ぱたぱたと足音を立てながら、勢いよく声が通り過ぎて行く。
「え?ああ、おはよ……う?」
振り返れば、ふたつの栗毛色の尻尾が揺れながら遠ざかって行く。
朝から随分と元気なことだ。
スタッフ寮の方角から駆けてきていたが、一体何事だろうか。
特段生徒会への通報などはなかったので、寮関係で何かスタッフを呼ばなくてはならない事情でも発生したか。
まあ、経費が生じる場合は生徒会へ回ってくるのだから、後で報告を聞けば良いか。
そう考え、再び資料に目を落とした瞬間、ふとおかしなことに気がついた。
思わず再度振り返ってしまう。
もう随分と遠ざかっているが、栗毛のウマ娘、いやアグネスタキオンが何か抱えている。
隣、というか数歩後ろを追走しているウマ娘は見覚えがないのでおそらく新入生だろうとは思うが、何故追走しているのか。
そしてアグネスタキオンは、何故人を抱えているのだろうか。
「トレーナーか、あれは……?」
もう随分と見慣れた顔。
そして、ウマ娘がトレーナーを抱えて走って行くのまあ、それなりに見慣れた姿。
しかし、会長のトレーナーが会長以外に抱えられているのは、そこそこ長くなる付き合いの中でも初めて見た。
「……………………いや、待て」
会長のトレーナーが連れ去られて行っていた。
こつこつ、と脚の調子を確かめるように地面を軽く叩いているアグネスタキオン。
脚の不安がひとまずのところ解消されたからか、機嫌良さそうにぴょこぴょこ、ぱたぱたと脚を動かしている。
こうして嬉しそうにしているところを見ると、案外年相応なところがあるのだなと感心してしまう。
もちろん、その不安を完全に解消させるために、朝練の終了次第アグネスタキオンはトレセン学園附属病院に検査に放り込むが。
私の触診だけで安心して、もし何か起きでもしたら大問題だ。
放置しておくと研究を優先して検査に行かないからな、このウマ娘は。
「……それで、ダイワスカーレットはなんでこんな時間に?」
赤い顔をしたまま固まっているダイワスカーレットに改めて目を向ける。
「さぁ?……にしてもいい筋肉をしているねぇ、彼女……どれ」
すすす、と固まったままのダイワスカーレットの背後へ回り込んだアグネスタキオンが、そのままがばりと後ろから抱きついた。
「っ!?え!?タキオン先輩!?」
びっくりしたのか、再起動したらしいダイワスカーレットを抱え込んで、アグネスタキオンが頬擦りをしている。
「いやぁこれは失敬。なんだか君は他人という気がしなくてねぇ」
「!?」
確かにアグネスタキオンが言う通り、どことなく毛色も似ているが。
ダイワスカーレットがびっくりしすぎて声が出なくなっているのだが、いいのだろうか。
「そうそう、私が引き止めておいてなんだがね、時間は大丈夫なのかい、きみ」
じたばたと藻掻いて脱出しようと試みるダイワスカーレットを見事に押さえ込みながら言われた言葉に、慌てて時計を確認すれば。
「うわ、まずい」
トレーニングの集合時間まで、残り数分だった。
ルドルフやテイオーには申し訳ないが、桐生院トレーナーもいるので先にウォーミングアップをしてもらって……。
桐生院トレーナーの連絡先を呼び出そうとした瞬間、膝裏に何かがぶつかった。
かくん、と力が抜け、ふわりと身体が浮いた。仰向けになるように、身体が回る。
しかし、背中に衝撃はやってこない。代わりにあるのは、柔らかく背中を支える手の感触。
見れば、機嫌良さそうなアグネスタキオンがこちらを覗き込んでいる。
「は?」
「いや何、私のせいで遅刻させてしまっては、後で何を言われるか分かったものではないからねえ。私が連れて行ってあげようとも。捕まっていてくれたまえよ。落ちて怪我させては私がひどい目に遭わされる」
抱え上げられていた。しかも、横抱きに。
「待っ……」
ぐい、と身体に強い加速感。
慌てて端末を放り出して、アグネスタキオンに捕まる。
「あぁスカーレットくん!すまないがその端末を拾って来てくれたまえ!」
走り出したアグネスタキオンが、まだ混乱の只中にいるダイワスカーレットにそんな無体を言っていた。
「……アグネスタキオン。急ぐのはいいけど脚の違和感は大丈夫なのかい」
「委細問題ないよ。君のお墨付きだからねぇ。それよりもトレーニングの時間に遅れるのは良くないからねえ」
なるべく揺らさないようにという気遣いなのだろうか。
アグネスタキオンの腕の中は、思っていたよりも揺れず、居心地が良かった。色々と。
とはいえ、ウマ娘の脚で走っているおかげでごうごうと吹き付ける風音で落ち着かないし、周囲から向けられる奇異の目線のおかげで精神的な居心地は最悪だ。
せめて風防を付けて欲しいと切に思う。バイクに乗るたびに思うが、この速度域でシールドもなしに目を開けていられるあたり、やはり眼球の機能も人よりも高いのだろう。
見上げてみれば、アグネスタキオンの涼しげな顔。
余裕という表情をしているが、その中に混ざる喜色が珍しく前に出ている。
瞳の色は変わらない。相変わらず濁ったような目をしている。
走っている彼女はいつも苦しそうだった。
それが今、こうして楽しそうに走っているのを見られるのは、トレーナーとして実に嬉しいことだった。
……それは、こんな至近距離でもなければ格別だったことだろう。
人を抱えていると言うのに、全く体幹もブレていないし、足取りに乱れもない。一定のリズムを刻む彼女の腕の中は、存外心地よく揺れる。
風を切って走る、とはまさにこのことだろう。
わざわざ端末を拾って追いかけてきてくれているダイワスカーレットを振り切らない程度の速度ではあるが、後ろを走る彼女は少し息が上がっているように見える。
入学したての彼女には、結構な距離を涼しい顔をして飛ばしているアグネスタキオンについていくのが精一杯というところだろうか。何の準備もなくこの距離を走らされるのは辛いだろう。
脚質というか、適正距離の問題もあるかもしれないが。
しかし彼女が握りしめた私の端末が、どうにも着信ランプを光らせているような気がしてならない。
あっという間にトレーニング場が見えてきた。
「アグネスタキオン。ここまで来れば間に合うから、下ろしてもらえーーー」
「スパートを掛けるよ。舌を噛むから黙っているように」
「っ!」
どん、と一際強い加速。
今朝の不安げな顔は一体どこへ置いてきたと言うのか。
ギアをあげたのか、あっと言う間に加速していく。
ターフやダートでもないのにこうして速度を上げて走ることには危険がつきまとう。
転倒時のダメージが洒落にならないと言うところもあるが、きちんとシューズを履いていなければ脚に負担が掛かってしまうのだから。
……しかし、あのアグネスタキオンが「走ること」を楽しそうにしているので、できるだけ水は差したくないとも思う。
「ふゥん……食い下がってくるとは、スカーレットくんは意外と根性があるねぇ。……きみ、どう思う?見込みはありそうかい?」
ちらりと後ろを見て、アグネスタキオンが妙に嬉しそうに呟いた。
言われるがままに振り返ってみれば、ダイワスカーレットとの距離がじりじりと開いていくが、諦めようとはしていないらしい。フォームも崩れていない。ウォーミングアップもなしについてきているので、スタミナは割とある方だろう。
端末を拾ってきてくれと言われただけなのに、随分と律儀な物だ。
「……」
走り出したアグネスタキオンに思わず付いてきてしまったのかもしれないが、しかしいい脚を持っている。ここで振り落とされているので、一瞬の切れ味があるタイプでは……いや、ついてきている?
アグネスタキオンが私を抱えていて、慎重に走ってくれているという相当なハンデを含めたとしても、入学したての新入生と、然るべきトレーニングを積んだ在校生では能力の差は歴然としている。
それでも尚、食い下がってくるのであれば。
身体も悪くない。アグネスタキオンが細いというのもあるが、脚回りもしっかりとした身体をしている。
以前初期教育の様子を視察した際も、頭一つ抜けていた印象を受けた。
あの時であったもう一人の……ウオッカだったか。彼女も大概だったが、この時点で他の新入生と比較しても能力は高い、と。
なるほど、なるほど。
しかし、アグネスタキオンが「他人のような気がしない」などと言っていたが、私には彼女が何を感じたのかはわからない。
ウマ娘は時折、「領域」なるものを展開しているらしかったり、「運命的な何かを感じる」と宣ったり、突如能力が伸びたりと……人間である私からは理解し難い挙動をすることもあるが、それらも引っくるめて理解できないままに受け入れている。
「聞いているかい?」
「面白い。少し観察させて」
確かに良いものを持っている。
普通諦めても良さそうなところをわざわざついてきているあたり、根性と負けん気も持ち合わせているようだし、或いは真面目なのかもしれない。
入学したてでこれだけ走るというのも中々良い。身体もしっかりしているので、今後の伸びも期待できそうだ。
しかし、それだけだ。
では、何故こんなにも気になるのか。
アグネスタキオンが他者を褒めることは多々あれど、こうして「期待をかける」ような素振りは今まで見せてこなかった。結果に、積み上げてきたものを正当に測定し評価できるのは彼女の美徳だ。
随分前、ルドルフと模擬レースをした際にも割合正直に評価を述べていた。
だが、彼女の評価というのは過去に対するそれだ。
結果に対する評価、とでも言えばいいだろうか。観測したものを正しく理解し表現する。
こうだろう、と仮説を立てて実験し、トライアンドエラーを繰り返して立証するのが彼女のやり方。
しかし、期待というのはこれからの希望であり、これからをあてにするということ。
元々ロマンチストなところはあったが、他人には割合ドライなところがあった彼女が、どうにも期待しているような素振りを見せた。
こうして走らせたのも、何か思うところがあったのではないか、と思う。わざわざスパートをかけたのも。
見ていた限り、既知の仲、と言う感じでもなかったが。
ルドルフは正当に評価はするが、生徒会長としての目線が強く出る。つまり、誰も彼も期待の対象に入ってしまう。
テイオーはまだそういう目は養われていない。どちらかというと自分のことで手一杯だろう。
だから。
いちトレーナーとして、彼女が何に興味を抱いたのか、気になったのだ。
「あっはっは!これは失敬。安心してくれたまえ。きみはきちんと責任を持って私がデリバリーするからねぇ。
アグネスタキオン。
理知的でロマンチストな変人。足の激痛さえ顔に出さず、自らの理想を追い続ける強靭な精神を持った狂人。
そして一つ、補足するべき事項があることを思い出した。
これで案外
にやりと笑いながら紡がれたその言葉に、嫌な汗が吹き出した。
最近お待たせしてしまっていて申し訳ないです。
スランプ気味のため、気分転換に新しくシリーズ始めてたりします。
そちらはクソ重タマちゃん話となる予定です。
(今のところPixivの方のみですが……)
よろしければ更新までの暇つぶしにどうぞ。