ウイニングライブの練習を終えて。
アグネスタキオンの脚の検査のため、片付けとクールダウンの時間、書類を片手にスタジオを抜け出した私は、学園の学生課へ訪れていた。
「はい、外出申請は受理しました。担当外のことまで大変ですね」
「まぁ、乗りかかった船なので」
公休と外出届の申請書類を学生課の担当職員に提出したところ、微妙な顔をして笑われてしまった。
確かに、担当外の学生であるアグネスタキオンを検査に連れていくからとわざわざルドルフとテイオーまで「ついでに」検査をねじ込み、公休を取らせると言うのは正直どうなのかと思うところではある。
通常であれば、ルドルフとテイオーの公休に関しては問題なく通るが、担当外であるアグネスタキオンの検査は間違いなく受理されない。
本来は担当外の学園生に公休を取得させるには、それこそ理事長の裁可を要するような手続きを経る必要があるのだが、抜け道があるのだ。
しかし、コミュニケーションに欠陥を抱えると自他ともに認める私には、適切な反応というものは思いつかなかった。
仕方なしに、曖昧な笑みを返しつつ撤退を決め込もうとして、ふと思い出す。
「ああ、申し訳ないのですが、これは必要以上に他言しないで頂けると」
「構いませんが……何故です?」
きょとんと首を傾げる事務の女性。動作に連動して頭の上でふりふりと揺れるウマ耳。
「バツが悪いじゃないですか。担当にも取っていないのに検査に連れて行ったなんて、理事長の耳に入ったらことですから」
そう、あまりよろしくないのだ。
一時期ではあるが理事長より面倒を見るようにと言われた際、その辺りの権限を与えられていたからこそ、こうしてごく普通のように受理されてはいるものの、できるだけやりたくなかった。
その理由は二つある。
ひとつは、今日を逃せば感謝祭期間に突入してしまうということ。
そうなれば、病院へ連れていく時間が取れなくなってしまうのだ。
いくらアグネスタキオンの脚が心配だったとしても、私の担当ウマ娘はシンボリルドルフとトウカイテイオーの2名である。
最優先すべき担当ウマ娘との約束を放り出したがためにコンディションを落としてしまっては、私の存在意義が消失する。
そしてもう一つの理由が案外深刻だったりするのだ。
正式なトレーナーでもなんでもないのにウマ娘を見る、ということは、もし彼女に目をつけていたトレーナーが万が一いた場合、ひどい横槍を入れたようなものになってしまう。
正式なトレーナーの指導下にあるにもかかわらず、先頭民族にそっとアドバイスを吹き込んだ結果大化けさせてしまった先輩からの忠告であった。
ついでに、吹き込まれてしまった側であるところの正式なトレーナーからの苦言でもあった。
……その二人に酒席で両脇を固められ、延々とそれぞれからクダを巻かれたのは鮮烈な記憶として脳裏に焼きついている。
そして、どう対応して良いか分からなくなった当時の私は、必要以上にアルコールを胃に流し込み、最終的に前後不覚となってルドルフに回収されるという大失態をやらかしている。どちらかというと苦い記憶だった。
そんな内心が表情に出てしまっていただろうか。
事務の女性は納得したように頷き、「内部で必要な手続きは取りますが、他言はしません」と約束してくれた。
持つべきものは物分かりの良い同僚である。
なお、このウマ娘の担当職員は既婚であり、三年走り切るまでトレーナーにモーションをかけ続け、卒業と同時に籍を入れるまで追い込みをかけた恐ろしい女性であることを申し添えたい。
しかし、検査のための公休というと随分と久しぶりの手続きだった。
学生課を後にしてしばらく。スタジオへ足を向けつつそんな事を思う。
自慢ではないが、ルドルフは基本的に怪我らしい怪我をほとんどしない。
精々が時折、目にごみが入ってしまったとか、書類で指を切ってしまったとか、その程度。
無事之名バ、という言葉があるが、体調不良から黒星をつけてしまったあのジャパンカップの反省からか、ルドルフの自己管理は「なにもそこまで」と思うほどに徹底されている。
もちろん、専属トレーナーとしても最大限怪我をしないようにトレーニングには十分気を払っているし、体調管理も神経質なまでに気をつけるようにしている。
当然、トレーニングに使う用品類まで、私が管理に気を配るべきものだ。蹄鉄の減り、使うシューズなどの消耗品に至るまで、何から何まで。
それでも、最終的に結果を分けるのは本人の「気質」と「体質」だ。
闘争心の強いウマ娘という生き物が、それを最大に発露する瞬間であるレース。
勝ちたいという一心だけで限界を超えて行ってしまうような彼女たちが、その時に自分の判断で「足の調子がおかしいので競走中断します」というような判断が下せるはずもない。
それこそ、足を完全に折ってしまった、というような大事故であれば物理的に走ることを中断せざるを得ないが、そうなる前に気づいて「止める」という判断を下す、あるいは「怪我をしない範囲に留める」なんて事を選択することはほぼ不可能と言って良い。
アドレナリンが湧出し、幸福感と渇望に脳内を蹂躙されているその時に、そんな冷静な判断をして、「今」を諦めることができるのはごく少数だ。
しかしルドルフは、それができるウマ娘だった。
恵まれた身体に、本人の強靭な意思。
レースの熱に浮かされながらも、全力全開ではなく、勝つために、この先も勝つために・・・・・・・・・ベストを尽くすことのできる稀有な性質を宿した、理性的なウマ娘。
ただでさえ高い能力を、強靭な理性で、高い効率を保って運用できる。
まさに「無事之名バ」という格言を地で行くようなーーー。
角を折れて、トレーニングルームが立ち並ぶ廊下を少し早足で歩いていく。
ウマ娘は静かに走れという学則だが、トレーナーは走らない方がいい。飛び出してきたウマ娘との接触事故率が跳ね上がる。
がちゃん、がちゃん、と。
人の身体ではごく一部の極まった人間以外では持ち上げられないような重量のそれを軽々と振り回す音がドア越しに響いてくる中を歩いていく。
別にそんなものがドアを突き破って飛んでくることは……まあ滅多にないのだが、なんとなく一人で歩いている時はなるべくさっさと通り抜けてしまいたいと思う時間帯だった。
そんな事を考えていたからだろうか。
その一角を通り抜け、角を曲がったほんの一瞬。
少しばかり安心したのか、足元が疎かになっていた。
がっ、と何かを爪先で蹴飛ばしたような衝撃。
あ、何かに躓いたと思った時には、すでに身体は若干地面から離れていた。
慌てて両手をばたつかせるも、残念なことに手にしていた書類が指先から離れていく感触しか返ってこない。
奇妙な冷静さ。
走馬灯というのは思考が一瞬まで凝縮されるというが、転倒までの一瞬がこれほど長く感じるのだから、いざ生命の危機に瀕した時はこの比ではーーー
そして、びたんと少々湿った音が廊下に響いた。
痛い。
顔面を床に強打することはなんとか避けられたものの、咄嗟に突いた肘が大変に痛い。
のそりと身を起こす。
身体が痛いが、それ以上に状況をまず確認しなければならない。
まず真っ先にウマ娘によるなんらかの事故を疑ってしまうのはトレーナーの悪い癖だとは思うのだが、以前廊下の角でゴールドシップによるスライディングで足元を掬われてひどい目に逢ったことがある。
以来、曲がり角での事故には警戒していたはずだったのだが。
なお、私にスライディングをぶちかましたゴールドシップは私の少し後ろを歩いていたルドルフに頭を片手で鷲掴みにされ、そのままどこかへ連れ去られて行った。
いや、そうではない。
一体何が起きて、私は何に躓いたのかが問題だ。
躓いたポイントに視線を向ければ、なるほど。
下手人はダイワスカーレットだった。
長いツインテールが、クワガタ虫のように逆立ったような状態で倒れている。
位置的には、彼女の頭に躓いたのだろう。
「……いやいや、何で?」
じくじくと痛む肘、転倒時に他にもあちこち打ったらしく、地味なダメージに苛まれながらも、私の頭上には大きな疑問符が浮かんでいた。