『お手数をおかけします』
「いえいえ、それでは……」
ふぅ。
通話を切って、ひとつだけため息を。
今日はアグネスタキオンさんの検査に外出したと聞いていたので、連絡があるとすれば「何かあった」か、あるいは別件か。
予想が悪い方向に振れなかったことには安堵を。
そして、あくまでビジネス的な対応に終始されてしまったことには、残念さを。
……ファン感謝祭の出し物として模擬レース、ですか。
切れた通話画面を名残惜しく見つめながらも、しかし頭は明瞭に動いていく。
確かに、感謝祭は飛び込みで何か始まることも多いので、スケジュールにはそれなりにバッファを見込んでいます。並列でいくつも動いていますけどね。
そして、今回模擬レースに出走するのは、いわゆるスター中のスター。
ーーーシンボリルドルフさん。
皇帝と呼び声高い七冠ウマ娘。
トゥインクルシリーズという一線をほとんど退いたとはいえ、その影響力も、人気も、いまだ一線級のままの彼女。
最近は専ら裏方としてトレセン学園を支えることに尽力している彼女がファンサービスとして模擬レースを行うと言うのであれば、数多のウマ娘ファンはこぞって詰め掛けることでしょう。
出場する面々は、未デビューのウマ娘もいますが、ナリタブライアンさん、トウカイテイオーさん、メジロマックイーンさん。そして、アグネスタキオンさん。……豪華な面子と表現しても差し支えないでしょう。
この申し出を断る理由は、学園側にはありません。
……しかしなぜ、この時期に?
自身の名声をわかっていない彼女ではないでしょう。
もし当初からその予定があったのであれば、早々に決定し、周知広報もしていたはず。
「強すぎて応援されにくい」という評価も一部ではありましたが、彼女の集客力は絶大。そこに名門のウマ娘たちや、入学前からファンからの評判が高いものの未デビューのウマ娘まで出走するとなればそれは、エンターテイメントとしての価値も高い。
……それを、トレーナーさんが忘れていた?
いや、それはないでしょう。
思い出して慌てて説明してきた、というような感じでもありませんでしたし、そもそもあの人がシンボリルドルフさんのことで手ぬかりをすることはまぁ、まずありません。腹が立ちますけれど。
走り書きのメモから、書類に模擬レースの希望を取りまとめていきます。
出走予定は、シンボリルドルフさん、トウカイテイオーさん、アグネスタキオンさん、ゴールドシップさん、タマモクロスさん、ナリタブライアンさん、メジロマックイーンさん………ですか。五十音順にしているあたり性格が出ていますね。
それにしても、どの方も時代の寵児と言えるような才を持つ子ばかりですね。
これが偶然集まるものでしょうか?
何か、ちょっときな臭いですね。
このところの彼女の、いえ彼女たちの動きは色々と活発になっています。
そうというのも、トレーナーさんの「複数担当」の発表以来、ずっと。
皇帝のシンパだったと思われるトウカイテイオーさんも、トレーナーさんにべったりですし、そうなってくるとシンボリルドルフさんとしては気が気ではない。
今のところ私の把握している範囲では、シンボリルドルフさん、トウカイテイオーさん、アグネスタキオンさんの三人は確定。ナリタブライアンさんもあれで随分と懐いている様子。
そしてゴールドシップさん……は、よく懐いていますが、あれはどうなのでしょう。
メジロマックイーンさんは情報が少ないですが……どうなのでしょう。トレーナーさんから頂いた報告書では野球に入れ込んでいるようですが。目指すところを間違えていそうな気もします。
トレーナーさんの関与しないところで、何かが動いているような気がします。
こういう時に必要なのは状況証拠からの推察ではなく、勘です。
考えるまでもなくなにかありますね。確実に。
理事長のお耳には入れないといけないでしょうが……あら?理事長……。
……あぁ、『三人目』。
そういうことですか。それでレースと。
あのシンボリルドルフさんも、その突き上げを突っ跳ねることはできなかった、ということでしょうか。
理事長にお知らせして、会場を抑えて、これから広報概要を作って……もうあと数日しかないというのに、まったくもう。
このくらい自分でやってほしいものです、と憤慨しようとした、そのとき。
ーーーーふと。
耳慣れたメロディが耳朶を打ちました。
随分と。それこそもう何年も聞いていなかった着信音。
いまだに個別で設定して、あの頃のままだなんて我ながら随分と未練がましいと思いながらも、結局端末が変わっても、同じように設定していたあの曲。
二人で聴いた、あの曲。
反射的に取り上げた携帯端末には、メッセージの着信通知。
『今夜また部屋に泊めてください』
そっけないメッセージ。
それでも、そんなメッセージが届くのは一体、いつ以来の事だったのでしょうか。
頑なに仕事の連絡ツールしか使わなかったと言うのに、今になって。
跳ねた心臓が落ち着くのを待って、ゆっくり文字に触れていきます。
まったくもう。言おうとしていた文句もどこかへ飛んでいってしまったじゃないですか。
『いいですよ。鍵は後で届けに行きますね』
違う。
文字に触れる。
違う。
文字に触れる。
違う。
そんなことを何度繰り返したでしょうか。
最後には、既読をつけたのに返信ができていないことに焦って、うっかり送信を押してしまったりして。
ああ、なんだか本当に振り回されているなあ、と。
すっかり弱くなってしまった私は、もう一度ため息をついて端末を仕舞い込んで。
さて、切り替えていきましょう。
理事長室の分厚い扉を心持ち強く、三度ノックします。
中から帰ってきた誰何の声に、表情も気持ちも切り替えて。
「失礼します。理事長のお耳に入れたいことがーーー」
『いいよ。鍵は後で渡すね』
なんて。我ながらそっけない文が、今の私の限界でした。
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3章完結です。
次から感謝祭編に(多分)突入。