勢いで押し切ってしまった。
右から左へ。条件反射のように書類に目を通しては処理を済ませて次へ。
次。
次。
次。
書類仕事自体はそう不得手とはしていない。
私まで決裁が回ってくる書類というのはある程度限られているし、大抵は副会長として辣腕を振るうエアグルーヴが事前に確認してくれている。
私の仕事は最後の判断をするだけ、とある程度割り切ってはいるが、癖なのだろうか。ついついしっかり全て目を通してしまう。
落ち着かない時ほど、顕著に書類仕事が進んでしまう。
仕事をしていると落ち着いてくるというのは些かワーカーホリックの気があるのではないか、などと、古ぼけた振り子時計を眺めながら溜息を吐く。
時刻はぴったり十五時。体内時計は正確に機能している様で何よりだ。
人気のない生徒会室。
音を立てるのは精々が時計と、私が書類を捲る紙擦れの音ばかり。
時折、練習に励む生徒たちの掛け声が聞こえてくるが、防音のしっかりした生徒会室に届く声は遥か遠くでの出来事のように感じてしまう。
……遠くの出来事、ね。
今頃テイオーはトレーナー君とショッピングを楽しんでいるのだろう。
時間的にはそろそろどこかでお茶でも、という頃合いだろうか。
業腹だが、一息つくには丁度いい時間だ。
オフの日に仕事に邁進するのも嫌いではない。私の夢のためには、このぐらいはどうということはない。
だが、これまでずっと、オフの日はトレーナー君と過ごしていたおかげだろうか。
私はどうにも時間を持て余していた。
未決裁の書類を一旦仕舞い込み、執務机を後にする。
電気ポットの蓋を開き、湯量が十分入っているか確認する。
メーターを覗けば良いだけなのに、こうした習慣というか、癖というのはなかなか取れないものだ。
今朝、トレーナー君に約束を取り付けてからこちらへ出てきた際に水を入れた後、結局使っていないため、ポット一杯になみなみと湯が満たされたままだというのに。
普段であればきちんと湯を沸かしてお茶を淹れるところだが、誰も見ていない今は多少手を抜いても許されるだろう。
ティーポットに、お気に入りの茶葉をひと匙多く放り込んでから、はたと手を止める。
しまった。トレーナー君は今いないのだった。
……。
これはいわゆる「ポットのためのもう一杯」という伝統だ、ということにして、電気ポットから湯を注ぎ落としていく。
まったく。軟水にひと匙多く入れれば濃くなってしまうというのに。
ある程度注いだところで、ポットと、ついでに空転する思考に蓋をする。
手近に置いてあった砂時計をひっくり返し、スツールに腰掛ける。
なんとなしに、机に肘をついて窓の外を眺めてしまう。
……トレーナー君が常にそばに居たせいで、最近はどうにも調子が狂ってよろしくない。
レースにまで問題を持ち込まないだけの分別はあるつもりだが、生活面でどれほど常に側にいたのだろうか。
ガラスの中で、さらさらと砂が落ちてゆく。
生徒会室にいる間はあまり意識していない事ではあった。
しかし、オフの日に仕事をしていると大抵はトレーナー君がひょっこり差し入れなどを持って顔を出しにきていたことを思い返せば、無性に寂しさが込み上げてくる。
最後の一欠片が、落ちた。
重い腰を持ち上げて、温めたティーカップに紅茶を注ぐ。
とぽとぽ、と音を立てて琥珀色が白磁を満たしてゆく。
カップを手に、執務机に戻る。
なけなしの理性でもって、かろうじてソーサーだけは持ってきたが、どうにも締まらない。
執務机の向かい。接遇のために置かれたソファ。
オフの日、授業もなく、トレーニングもなく。
所謂、普通の休日。
天気は今日も穏やかだ。
窓辺から差し込む日光は、とても暖かい。
琥珀色が満たされたカップを覗き込む。
揺れる琥珀色の水面を覗き込めば、少々香りと色が濃いか。
「……渋そうだな」
吐いたため息が、立ち上る湯気と水面を揺らす。
映り込んだ私が、頼りなく揺れる。
側にトレーナー君がいない。たったそれだけで、私はこんなにも弱くなってしまうのか。
ただそばに君がいない。
君が私ではない誰かと出かけている。
それだけ。
言ってしまえば、ただそれだけのことだ。
頼りなく揺れる自分を見ていたくなくて。
カップに口をつける。
……渋い。これは失敗だろうな。
……失敗と言えば。
今朝壊してしまった部屋の鍵について改めてお詫びした方が良いだろう。
よりによって駿川さんの部屋の鍵だ。
正直なところ、何かを壊してしまったという感覚さえなかった。
ドアノブを捻ったら開いた。
普通に考えれば、ドアの鍵が壊れるほど力を入れることはない。
本来抱くべき「違和感」も、そうした気遣いも、どこかへ放り出してしまっているとしか思えない。
幼稚な嫉妬心と独占欲が、私から冷静さを奪っていた。
反省すべきだろう。反省した上で、きっとまた繰り返してしまうのだろうとは思うが。
普段から使っていない部屋とは知っているが、だからといってトレーナー君に部屋を貸してくれている彼女の部屋の鍵を壊してしまったのは不味かった。
トレーナー君がすでに連絡を入れてくれているとは思うが、だからといって素知らぬ顔をしていられるほど私の面の皮は厚くない。
端末を取り出して、駿川さんにお詫びの連絡を入れようとして。
待ち受け画面に設定していた写真を目にして手が止まる。
トレーナー君と二人で映った写真。
三冠を獲ったあの日、二人で撮った写真。
……ああ。
明日の「デート」。勢いで押し切ってしまった事でトレーナー君は気分を害してはいないだろうか。
ここのところ負担をかけ通しだというのに、テイオーとの外出と、そして朝のメッセージが私の元へ謝って届いた時点で、私の自制心はもうどうにもならなかった。
つい先日、自分が先んじて約束を取り付けた事だし、テイオーはきちんと約束を守っている。
だというのに私は、明日はデートだと言い張り、本来大切であるはずの巡回もファンサービスも「ついで」と言い切ってしまった。
……私も随分と狭量になったものだ。
たかが1日も、トレーナー君が側にいないことに我慢ならないらしい。
今もこうして反省だなんだと言いながらも、その実頭を占めているのは別のことばかり。
明日のデートのことや、どうにかして上手くテイオーとのデートに横槍を入れられないか、だとか、帰ってきたトレーナー君から根掘り葉掘り聞き出せないか、なんて。
嫉妬に狂った様な思考で、頭が一杯になってしまっているのだから。
溢れ落ちたため息が、再び紅茶と、映り込む私を揺らした。