腕を絡めたまま、トレーナー室に備え付けのソファへ腰を下す。
トレーナー君も、素直に腕を引かれるままに。
巡回に行こうか、とは言ったものの。
しかし、だからといってすぐに回り始めるということはしない。
理由は、窓の外で繰り広げられる景色にあった。
「……第0R、ね。今年も壮絶だ」
眼下では、人間も、ウマ娘もなくファンが一心不乱に激走しているところであった。
開場直後の名物、通称第0Rである。
レース場でもよくある「場所取り」の一種であり、毎度頭を悩ませるところではあるのだが……。
「今年はレーン分けしたんだって?」
そう、今年からは対0R対策として「ウマ娘専用レーン」と「人間専用レーン」を分けてラインを引いてあるのだ。
混走させてしまうと、後ろから突っ込んできたウマ娘に轢かれるファンが出てくるため、致し方ない処置であった。
もちろん、到着した先ではそれぞれ別の列で並ばせるとのことなので、一定の配慮を行うそうではあるが。
「危険だから、と止めたところで今更、な」
おかげで、どたばたと走り回りながらもある種整然とした列が成されている。
これから彼らは、所謂「最推し」の出場するイベントに向けて場所取りのための整理券獲得に奔走していく。
ここで全てが決まると言っても過言ではない、とのことだ。
ここでどれだけの整理券を獲得できるかによって、ファンとしてより良い場所から応援しているウマ娘を見ることができるとあれば、それはあの走りも仕方のないことだろう。
ふと、よく見かける姿が目に入った。
度々レース場やウィニングライブでも最前列で見かける男性二人組が、毎度のごとく全力疾走で突っ込んでいく姿。
……その隣のレーンを、幼いウマ娘たちが圧倒的な速度差で駆け抜けていくのはご愛嬌か。
なかなかいい足を持っている。いずれここへ入ってくる子たちかもしれない。
……誰も彼も、必死で、全力で。
みっともない姿と言えないこともない。
普段あまり運動する機会のなくなった大人が、必死になって走る機会はそうそうなくない。
それでも彼らは走るのだ。目を灼かれた輝きに向かって、一心不乱に。
改めて彼らの姿を見て、私にも少し思うところがあった。
それだけの輝きを放つウマ娘たち。
私はそれを支える側になることができた。
中央のトレーナーライセンスという狭き門を潜り抜け、こうして中央でトレーナー業に身を置いている。
しかし、そうならなかったとしたら。
今頃私も、あそこにいたのだろうか。
いや。
トレーナーになる前は、確かにあそこに私もいたのだったか。
「……随分と懐かしいものを見るような目をしているね」
ルドルフの声が聞こえて、一気に現実に引き戻されたような気がした。
思考を脇に避けて、窓の外から意識をルドルフへ向ける。
「ふふ、君もあそこにいたことがあった、ということかな?」
揶揄うように笑うルドルフに首肯して返す。
「ここに来る前に、何年かね」
もう何年前の出来事だっただろうか。
そう多くないお小遣いやアルバイトの給金を溜め込み、彼女の活躍を見るために何度かここまで足を運んだことがあった。
当時は両親も仕事が忙しく、学生の一人旅ではあったが。
ふと、定められたレーンから外れてショートカットしようとしたらしい男性が取り押さえられているのが見えた。
取り押さえているのは……ああ。ご愁傷様だ。
ため息をつきたくなる。
あの頃の私は、今の私をどう見るのだろうか。
今と昔で変わったことは多い。変わってしまったことは、多い。
「そうか。……さて、それではそろそろ下も落ち着いた頃だろう」
「うん、それじゃあ行こうか。最初は屋台の視察からだったかな」
「ああ。今年は特段問題ないとは思っているが……時折、当日になっておかしなものが販売されたりすることもあるからね。誰とは言わないが」
誰かと問われれば、あの芦毛の問題児と、何かと人を発光させたがるウマ娘の楽しそうな顔しか思い浮かばないところではあるが、彼女らも今日のレースの参加者だ。おかしな真似はしないことを願いたい。
ルドルフに腕を軽く引かれて廊下を出る。
先ほどからがっちりと掴んだまま全く離してくれる気配がないが、さて。
これだけがっちりと固定されていると、連行されているかのように思わなくもない。
流石に人前でまではやらないと思うが。
「何年か……ね」
ぎり、と。
絡められた腕が急に締められ、軽い痛みが走る。
「なあ、トレーナーくん」
声色に危機感を感じて、慌てて隣に視線を向ければ。
笑みの形は崩していないものの、頭の上の菱形が、若干後ろへと倒れかかっている。
「その時は一体、誰の尻尾を追いかけていたのかな?」
……しまった。
「ふゥん……しかし毎度この時期は騒がしいねえ……」
トレーナー棟の一角。
ラボとして占拠し………もとい、貸し与えられた一室は、今日も薄暗い。
普段は比較的静かな筈のここでさえ、楽しそうな歓声や音楽が響いてくるのだから、今日という日がどれだけ騒がしいのかよく解ろうというものだ。
カーテンを少しだけ開くと、普段とは圧倒的に違う人口密度。
まるで駅か何かのような賑わいに若干辟易としつつも、この目が捉えたものがあった。
「…………おや、トレーナーくん……と、生徒会長か」
呑気な顔をして屋台やら出し物を覗き込んでいるようだが……あの様子だと未だに今回のレースに掛けられているものが何なのか、教えられていないようで何よりだ。
もし知っていれば、あのトレーナーくんであれば胃のあたりを抑えてふらふらと歩いていたかもしれないしねえ。
「レース。レースか」
こうして模擬レースとはいえ、自分がレースに出走するのは随分久しぶりなものだ。
あのリハビリ生活を経て、そろそろデビューしたいところではあるが、残念なことに手頃なトレーナーというのはなかなか捕まるものでもない。
いいや、この際はっきりと意思を表明しておこうか。
あのトレーナーくんの下でもなければ、私はこの脚の可能性の向こう側を見ることが出来ないのだと、そう思っているから。
カーテンを閉め、今日の模擬レースの準備に取り掛かる。
準備、とは言っても、精々が念入りに身体をほぐしておくくらいしか、今更出来ることはないんだけれどねぇ……。
ぐい、と身体を伸ばして、一つずつ丁寧に身体を伸ばしていく。
このレースは極めて重要なレースではあるが、かと言って身体を壊してまで挑むようなレースではない。
身体に障らず、しかしベストを出せるよう、丁寧に、念入りに。
ぐいぐいと身体を伸ばしていると、からからと軽い音がしてラボのドアが開いた。
「……おはようございます」
顔を覗かせたのは、ラボに併設というか、私がここを使う条件としてルームシェア相手に指名されたカフェだった。
元々あったラボの頃からの付き合いだが、まさかこちらに彼女まで移されるとはねえ……。
「やあ、カフェ。キミもあの騒がしさから逃げてきたクチかい?」
「いえ。忘れ物を取りに……」
「それは残念。話し相手にでもなってもらおうかと思ったんだけどねえ」
「…………珍しいですね。ストレッチですか?」
「ん? ああ、今日は走るからねぇ。やっておかないとトレーナーくんがうるさいんだよ」
面倒ではあるが、格段に調子がよくなるのも事実。
普通に行う柔軟体操の範囲を超えている大袈裟なルーチンではあるのだけれど。
「……手伝いましょうか?」
「おや、今日は随分と協力的だねえ。よろしく頼むよ」
自分のスペースに荷物を置いたカフェが、そっと背中を押してくれる。
一つ一つ、丁寧に。
こうして彼女に手伝ってもらうことは今までなかったように思う。
「…………タキオンさんも普通に柔軟されることがあるんですね」
「カフェは一体私のことを何だと思っていたんだい?」
「あのトレーナーさんに怒られるからですか?」
耳元でぼそりとそんなことを呟かれると心臓に悪い。
「……そうだよ。私以上に私の身体を心配している、おかしなモルモットくんにね」
「……素直に嬉しかったと言えばいいのに」
そう言って、ぐい、と一際強く押し込まれる。
ぐいぐいと、若干痛いところまで。
「っ、カフェ、ちょっと強くないかい?あいたたた……」
「聞きましたよ。今日のレース。勝ちに行くんでしょう?」
「……さぁて、どうだろうねえ。どうしてそう思ったんだい?」
こんな時間から念入りに準備をしておいて今更だろうとは思いながらも、言葉を返す。
不意に背中を押す力が消えた。
同時に、正面に回り込んだ彼女の双眸と目が合った。
「…………あなたが珍しく、そんな顔をしているのだから」
金色の大きな瞳が、心を覗き込むようにじっと見つめてくる。
色は違えど、どこか心の裡を覗き込むような目は、あの真っ黒な瞳を彷彿とさせる。
……まったく。私の周りには厄介な者が多い。
「……今回はどうやら、勝たなくてはならないようだからねぇ」
「そうですか」
「聞いておいてなんだい、その淡白な反応は」
「……いえ、よく考えたら私には関係のない話だったなと」
「えーっ⁉︎ どうせだったら最後まで手伝っておくれよー、カフェ」
「……仕方ないですね」
「おや、やけに素直じゃないか。それならそこの棚にある試薬を……」
「お断りします」
「えーっ!」
「……それで、準備するにしても何ですか、それは」
「ああ、これは……」
……まあ、なんだ。
今回は勝たせてもらうよ、生徒会長。
いつだったかの恩義は忘れてはいないけれど、それはそれ。これはこれだ。