『後方からトウカイテイオー!トウカイテイオーが一気に飛び出してきた!』
十分溜めた脚を、一気に爆発させる。
ボクは一瞬の切れ味に優れるタイプではないけれど、カイチョーが逃げを打ったこのレースはおそらくみんな想定外。
でも、ボクは事前に教わっていた。
トレーナーから、勝つための作戦を教わっていた。
『最も可能性の高い展開としては、メジロマックイーンが逃げを打つ形だろう。そうなった場合、ルドルフにとって一番都合の良い形になる』
カイチョーにとって一番良いのは、いつもの好位抜出。いわゆる「ルドルフ戦法」が取れる形。
特に出走人数も少なく、バ群に飲まれたり包囲されて身動きが取れなくなることはあまり考えられないから、先方集団に位置取るだろう、と。
その場合の対策について、たくさんレクチャーをしてもらった。
ボクの得意な走りを一旦捨てて、どのあたりに付けるだとか、どこで仕掛けるか、とか。
カイチョーの仕掛けの癖も教えてもらった。
だけど最後に、トレーナーはこんなことも言った。
『だけど、もしメジロマックイーンがいかなかった場合、逃げを打つのはルドルフだ。いいかい、その場合……』
そしてトレーナーの言う通りになった。
トレーナーがユーカイされかけたことでカイチョーが冷静さを欠いているのか、随分と大きく逃げを打ってくれたおかげで、『普段と違うレース模様』が出来上がっている。
もしかすると掛かっているのかもしれない。
でも、トレーナーは無事に帰ってきているし、シリウスが届けてきてくれた。
そのことをカイチョーが知らないとも思えない。
それでも、ボクは。
カイチョーが仮にそのことを知らなかったとしても、知っていたとしても。
トレーナーからもらった作戦だけを徹底することにした。
周りは焦って上がって行こうとするし、レースもハイペース化しているように思える中、ボクにも焦りはある。
それでも。
深く踏み込んで、前へ。
跳ね上げた左足。靴に隠れるように、銀色のお守りが揺れる。
脚は痛まない。ボクのトレーナーがここにいる。
『トウカイテイオーが伸びてくる!』
『落ちたと思いましたが、脚を溜めていたのでしょうか』
だから。
ここで、仕掛ける。
『どうやって勝とうか、テイオー』
勝利を、ボクが勝つことを疑わない、あの真っ黒な眼が脳裏を過ぎる。
あの声が、耳に響く。
トレーナーが一緒に考えてくれた作戦がある。
誰が勝つか、じゃない。
どうやって「ボクと勝とうか」とボクの目を覗き込んで。
「勝つよ、トレーナー」
揺れる尻尾。スカート。
追いかけてきた背中。
大きな大きな、その背中。
後少しで手が届く。
もう少し、もう少しなんだ。
ーーーー瞬間、周囲の音が全て消えた。
まるで時間の流れから切り離されたような感覚。
視野が一気に開けて、周りがよく見える。
脚が軽い。
ふわふわと、雲を踏むような感じ。
だというのに、一歩一歩が大きく飛んでいく。
軽快で、小気味よく、でもしっかりと。
一歩、また一歩と飛んでいく。
ああ。
そうか。
カイチョーから聞いたことがある。
極限の集中。心象風景でも映したかのような不思議な世界。
”領域”
そうか。ボクはそれを開いたのか。
不思議と、妙な納得がそこにはあった。
軽い足取りで一歩、また一歩とカイチョーの背に近づいて行く。
そして、並んで、一歩先へ。
そっか。
トレーナーが連れてきてくれたんだ。
いつだったか、忘れもしないあの夕方。
トレーナーと一緒に踊った、どうしようもなく不恰好なダンス。
それでも、あの時の僕たちの足取りは雲のように軽くて、どうしようもなく嬉しくて。
じゃあ、行こーか、トレーナー!
マックイーンとタキオン先輩が、ちらりとこちらを見た。
逃げていた会長が3番手に沈み、メジロマックイーンくんと私が1番手争い。
スタミナはあるメジロマックイーンくんだが、トップスピードに乗った私には。
「追いつかせないよ」
一歩、また一歩と踏み込むたび、じりじりと速度差で距離が開いていく。
そんな中、耳に飛び込んでくる実況の声。
『トウカイテイオーが伸びてくる!』
『シンボリルドルフを捉え、先頭争いに加わりました!』
予想外、とはこのことかな。
ちらと振り返れば、トウカイテイオーくんが会長を抜いたところ。
敵となるのはまだ先のことだと思っていたが、よほどうまく立ち回ったのだろう。
恐ろしい末脚を爆発させて一気に上がってきたようだ。
随分と速い。脚を温存していた?
そのままメジロマックイーンくんを抜いて、私の隣へ上がってこようとしている。
けれど、そう簡単に追いつかせてやるわけにはいかないねえ。
会長は脱落。先ほど振り返った際に表情を伺ったが、俯きがちに顔色までは見えなかったけれど、余裕のなさは伝わってくる。
随分と掛かってしまっていたようだし、あのハイペースを作り上げたはいいけれど、スタミナが尽きてしまった……というところかな。
そんな初歩的な失態をあのシンボリルドルフがやるのか、と思ってしまうところではあるが、しかし勝負にはこういうトラブルは付き物と言える。
ハードウェアとしてのスペックで言えば会長が最も有利ではあると思うけれど、しかしソフトウェア面の不調というのは想像以上に大きく響く。
こうなれば、トウカイテイオーくんがどこまで「やれるか」の勝負だ。
ゴール板がもう見えてきた。
脚はまだ残っている。
スピードもまだ私の方が有利。
テイオーくんとの差は縮まらない。
勝てる、と確信を得て、私は死力を振り絞って脚を前へと運んでいく。
このまま押し切る。
レース前のアナウンスにも仕込んだ通り、このレースの勝者には「ご褒美」がある。
喉から手が出るほど求めたそれに、ようやく手が届く。
私には、欲しいものがある。
ウマ娘の可能性の果て。光の先に自らの脚で辿り着きたいという、そんな荒唐無稽な夢。
荒唐無稽で、無理難題な『夢』に成り下がろうとしていたそれを繋ぎ止めてくれたヒトがいた。
斜に構えて諦めて、次の手をなどと嘯いていた私に、もう一度夢を見せたヒトがいた。
やれやれと、仕事だから仕方ないなどと言いながらも、甲斐甲斐しく私の面倒を見て。
隠していた脚の痛みをすぐに察知しては顔色を変えて飛んできて。
わざわざ毎食のメニューを考えて、毎食届けに来てくれて。
担当でもないのに、私の痛みに寄り添って、大丈夫だと励まして。
だから、あのトレーナーくんが欲しいと思った。
あのトレーナーくんが、『ウマ娘と共に夢を見る者』だというのは痛いほど分かっている。
ほんの少しの間だった。それこそ数ヶ月という程度の時間。
痛みのせいか、それとも熱にでも浮かされたか。
ある時、その夢をトレーナーくんに語ったことがある。
……ぱち、と頭の中で何かが弾けるような音が聞こえた。
トレーナーくんは笑わなかった。
「だったら、こうしよう」
そんなことを言って、私の夢を叶えるために奔走してくれた。
脚を治す、という形での関与ではあったけれど、あのひと時だけは共に夢を見てくれていたように思う。
結局、時間切れになってしまったトレーナーくんは夢から覚めてしまったけれど。
あの、それこそ夢のようだったひとときはどうしようもなく幸せで、どうしようもなく素敵で。
だから。
だから私の夢を、トレーナーくんに、もっと私と一緒に見ていて欲しいと、そう思ってしまった。
限界の果てへ辿り着くなら、きみとがいい。
トレーナーくんはこのレースに賭けられたものを知らない。
知らないが、きっとどこかで勘づいて慌てるだろうねえ。
でも、私が勝ってしまった後ではもう遅い。
私は意外とがめついんだよ、きみ。
夢を諦めなくても良いと、そう気づいてしまったとき、欲しいものが増えてしまったからねえ。
だから、悪いがトウカイテイオーくん。
君には、私に敗けてもらおう。
このハイペースに付き合わされて、私の足もだいぶん鈍ってきているような気さえしている。
だけれど。
勝つのは、私だ。
ぱち、と。
先ほど鳴った音が、もう一度鳴ったような気がした。
ーーーその、瞬間。
ぞわり、と。
背中に氷の刃でも差し込まれたような、嫌な予感がした。
視線だけで振り返ろうとして、気付く。
私の隣に、シンボリルドルフがいる。
「…………は?」
待て、おかしい。
先程沈んで行った筈では。
いや、待て。
待て。
違う、これはーー。
そうか、これは。
一歩、差が着いた。
前に出ていく、突き放しにかかる会長の目。
ーーーーーー紫色の瞳に、理性の色が戻っている。
やられた、ということか。
……掛かっていたのは、演技だったということかねえ。
あの模擬レースで、あれだけ差が付いていた筈だった君が、ここまで食い下がってくるとは想像もしていなかった。
高いポテンシャル、才能、感性。
そのどれもが素晴らしいものを秘めていつつも、どこか燻っていたテイオーが、私を追い抜くほどまでになっていることに、素直に感動さえ覚える。
負けても仕方がない、と諦めていたテイオーが、こうして全力で、勝利しか見えていないかのように食らい付いてくる姿は、自分のことのように嬉しく感じる。
それに、目を見れば分かる。
……”領域”を開いたか。
極限の集中の先に至る境地。
限界を超える力を引き出すそれ。
そこに至った理由が何かは、分からないが。
恐らくは、
さすがはトレーナー君だ。
心の中で喝采を送りたくなる気持ちと、一方で私には特段打ち合わせもなかったことに不満が渦巻いている。
しかし致し方あるまい。
あのタイミングで誘拐されかかったのだ。
私と打ち合わせをする時間はなかったし、私に策を授けてしまうのはある種「フェアではない」。
それでいい。
最終直線に入って、私の前には3人のウマ娘。
少し後ろにいるブライアンは、足元を気にする悪い癖が出たな。ゴールドシップはレース展開に翻弄されているようだ。
メジロマックイーン。トウカイテイオー。アグネスタキオンの3人。
意識を切り替えて、大きく一歩踏み出す。
一息入れたことで、スパートをかけるに十分な準備は整っている。
メジロマックイーンを追い越す。
二段スパートをかけたこちらに気がついたのか、驚愕の表情でこちらを見た。
テイオーを追い越して。
極限の集中の中にある空色の瞳が、こちらを捉えた。
この仕掛けはトレーナーくんの入れ知恵だろう。
自分が注目されていないことを利用し、上がってきた後団に沈んで行ったように装いながら息を入れて、脚を溜めていたな。
だが、見えていたよ。
それに、テイオー。
君が脚を溜めていたように、私も息を入れていた、そのことに気づくのが遅い。
気づいても、もう遅い。
ーーーーー
このレース、ただ模擬戦の一戦では終わるはずもない。
掛かっているのは、トレーナー君との契約権。
トレーナー君との担当契約を狙うアグネスタキオンが勝ってしまえば、無条件に私は彼女の加入を認めなければならない。
分かっている。それ自体は歓迎すべきことだ。
アグネスタキオンの才能も、その脚も、領域さえ開かず、正式なトレーナーもついていない不十分な状態でさえ、ここまでやれてしまうような突出したもの。
それをトレーナー君が担当すれば、私に続く3冠ウマ娘をもう一人輩出することも夢ではない。
実力のあるトレーナーの下へ有望なウマ娘が集まってくるということは、トレーナー君にとっても、ウマ娘にとっても、良いことだ。
分かっている。
ああ。
ーーーそんなことは分かっている!
噛み砕かんばかりに、奥歯を噛み締める。
八百長紛いの連絡。トレーナーくんの誘拐未遂。
下手人が誰かなどと今はどうでもいい。
ただ私は、ターフに立った私は。そう、実に単純な事に。
トレーナー君の前では、トレーナー君の前でだけは、どうしても負けたくないのだ。
私とともに駆け抜けてきたトレーナー君のため?
寄り添って、私を補佐し続けてくれたトレーナー君のため?
違う。
違う、違う、違う。
私はただ。
トレーナー君の前でだけは、負けたくない。
負ける訳にはいかない。
強い
他の全てに目がいかないほど鮮烈で、強い「シンボリルドルフ」の夢の輝きに目を灼かれればいい。
それだけを見てくれていればいい。
テイオーでもない。アグネスタキオンでもない。
他の誰でもない。どうか君は、
いつまでも君の記憶に焼き付いて離れない、膿んだ傷のようにだろうが、構うものか!
シンボリルドルフが
さあ、征こうか。
一つ大きく踏み込んで、私は”領域”を開く。
残念だが、まだ譲れないんだ。テイオーにも、アグネスタキオンにも。
君の目を奪うのは、他ならぬ私だけで良いのだから!
ーーーーー”