このハイペースに巻き込まれたレースの終盤も終盤。
4コーナー出口。最終直線に入る瞬間。
スイッチが切り替わろうかというその刹那に、最後方から外を回って飛び出してきた小さな影。
「……よし」
思わず、右手を握り締める。
『トウカイテイオーだ!トウカイテイオーが伸びてきた!』
わああ、とスタンドが一斉に沸き立つ。大きな歓声。
悲鳴か、絶叫か。
何にせよ、スタンド最前列に陣取った私とシリウスシンボリにとっては耳が痛くなるような熱狂。
普段は気にならないそれが、今日は耳にちりちりと不快感か、痛みのようなものを齎していた。邪魔をしないでくれ。
隣をちらと伺えば、手で耳を塞ぐような不作法はしていないが、耳がぺたんと寝かされていた。
「……おいおい、すげえな」
「どっちが?」
「アンタの所のおチビちゃんだよ」
「そうだろう?」
言うだけ言って、逸れかけた意識をレースへ引き戻す。
「……アンタ、そんな顔も出来たんだな」
シリウスシンボリが何事か呟いた言葉は、歓声の中に消えて聞こえない。
勢いよく上がっていくテイオーが、落ちてきたルドルフの背を捉えた。
「…………ん?」
今、何か。
小さな違和感。
動きが変わった?
ぐい、と。
跳ねるようなストライドを一際大きく踏み込んだテイオーの動きが、突然変わった。
怪我をした時のような違和感ではない。悪い方向での変化でもない。
荒々しいわけでもなく、先程までのような勢いがあるわけでもない。
ただ静かに、軽やかに。
するり、と。
ルドルフの脇を抜けて、その前へテイオーが躍り出ていく。
前には、二人。
ルドルフを抜いて勢いづいたか、苦もなくメジロマックイーンをかわした。
ここまで冷静そのもののレース運びをしていたメジロマックイーンが、テイオーに視線を取られた。
……しかし、快進撃はそこで止まる。
ーーーーアグネスタキオン。
このレースを想定した時、ルドルフに次いで強敵と見込まれたウマ娘。
面倒を見ていた際にデータは散々取っていたが、あれからさらに磨きをかけたらしい。
ここまで加速に次ぐ加速を繰り返して上がってきたテイオーが、捉えきれず膠着。
トップスピードが異常なまでに速いことは分かっていたが、今のテイオーが距離を詰められないのは尋常ではない。
『アグネスタキオン!アグネスタキオン先頭!トウカイテイオーかわせるか!?』
……ルドルフか!
ルドルフの失速を見て「ほんの一瞬」早くスパートに入った影響が出ている!
「……あ」
ぷつん、と。
体力が尽きたか、それともぎりぎりの削り合いに集中力が限界を迎えたか。
テイオーの足取りが揺れた。
先程から微動だにしていなかった先頭との距離が、わずかに開く。
ーーーー視線。
ぞわり、と背筋に冷たいものが流れた。
見られた?どこから?
はたと我に返り、テイオーを追っていた視線を一瞬止めれば。
ルドルフが大きく踏み込み、芝と土くれの混じった物を跳ね上げて加速する瞬間だった。
ぎらり、と獣のように獰猛な眼光が、前へと向けられる。
『シンボリルドルフが!』
垂れていたのは、一息入れていた?ここで?
メジロマックイーンを抜き去り、テイオーを捉え、そして瞬く間に抜き去っていく。
まるで最後方からの直線一気を見ているようなごぼう抜き。
『アグネスタキオンは譲れない!』
ーーーーふざけるな、と言いたくなってしまうねえ、これは。
どこかの掛かりウマ娘に巻き込まれたおかげで体力はもう限界付近。
ロングスパートはあまり得意ではないというのに、ねえ!
いい加減辛くなってきた心肺機能に、根性という名の鞭を入れて。
柄ではないんだけどねえ。
ゴール板はもう少しだというのに、ここで差されたのではたまらないよ。
……ぱち、と小さく何かが弾けるような音。
トウカイテイオーくんの冗談じみた追い上げを突き放したと思ったら、今度は落ちたと思った会長が外から飛んできたなんて、笑い話にもならないねえ。
じりじりと、並びかけようと後ろからの圧力が近づいてくる。
こちらはもうトップスピード。体力はもうほとんど残っていない。
じわりじわりと。一歩踏み出す事に出力が落ちていく。
もう少しだけ動いてくれたまえよ、私の脚。
もう走れないと思って大切にしていたのだから、十分すぎるほど休んできただろう。
今だけでいい。一瞬だけでも構わない。
もう少しだけ、保ってくれ。
『並んだ!並んだ!並んだ!アグネスタキオン粘る!アグネスタキオン粘る!』
…………ぱち、と。また音が聞こえた。
さっきからうるさいなあ。
集中力が切れてしまうじゃないか。
もっとだ、もっと没頭しろ。
深く、遠くへ。
私は果ての景色が見たいんだ。
この脚で、辿り着くのだ。
あの人のいいモルモットくんと、一緒に……ッ!
ーーーーーーーばちん、と一際大きな異音が聞こえた気がした。
ちりちり、という軋むような音だけを残して、全ての音が残響を引いて消えた。
ぶわ、と何かが拡大していく。視野か、或いは知覚か。
枷から解放されたような全能感。
シンボリルドルフの姿が私の真横に来た。視線を向けずとも、それがわかる。
流れ溶けていく景色が、しかし芝の一葉まで揺れが認識できる。
瞬きするような、ほんの一瞬がまるで永遠と錯覚するほどに引き伸ばされて行く。
不可解な体験。
しかし鉛のように重かった足が、動く。
今はそれでいい。それだけでいい。
拡大していく知覚に反して、世界は急速に光を失って行く。
ーーーけれど、私の脚はまだ動く。
一歩、また一歩と、鈍っていく足が俄かに息を吹き返ーーー。
ゴール板が、瞬きの刹那に通り過ぎていく。
待ってくれ、もう少しだけーーーー。
手を伸ばす。
もう少しだけ、一瞬でいいと。
過ぎ去った時間は、いくら引き伸ばそうが戻っていくことはない。
けれど、法則さえも今なら超えられると、そう信じて。
指先に何かが触れる。
その瞬間に。
ぱちん、と泡の弾けるような音が、いやに耳に障った。
『シンボリルドルフ1着!シンボリルドルフ1着!模擬レースとは思えないこの大激戦を制したのは皇帝シンボリルドルフ!七冠ウマ娘の意地を見せ、最終直線後半から一気に抜き去って堂々の1着です!ハナ差で2着アグネスタキオン、3着トウカイテイオー……』
絶叫のような実況が響き渡る。
1着でゴール板を駆け抜けたのは、シンボリルドルフ。
G1でもなく、重賞でさえない突発的に開催された模擬レースだというのに、その盛り上がりは想像を絶していると形容するほかない。
模擬レースだというのに、まるでG1レースのような盛り上がり方だった。
手を振りながらゆったりと駆けて行くルドルフの姿は、いつ見ても、何度目になろうと嬉しいものだ。
昔、感謝祭の模擬レースでルドルフを凡走させてしまったことがあったが、今回はファンの期待に十分応えることができたようでホッとする。
隣のシリウスシンボリが、ふんと鼻を鳴らした。
……一方、テイオーも素晴らしいと言う他ない走りを見せてくれた。
本当に、掛値なく。
ウィニングランに入ったルドルフが通り過ぎた後、少し耳を前に垂らしたテイオーが通り過ぎていく。
テイオーのパフォーマンスは目を見張るものだった。
特に、最終直線に入ってからの追い上げは恐ろしいほど。
まだ本格的なトレーニングを積んでいないというのに、あのルドルフとアグネスタキオンの二人にあそこまで肉薄し、僅差まで持ち込んだ。
だが、僅差。
テイオーは考えうる限り最高のパフォーマンスを叩き出している。
であれば、その僅差を。
敗北に至るその僅かな差を埋めることができなかったのは、私の責任だろう。
勝たせられた勝負だったのではないか、と。
もう少しやれることがあったのではないか、と。
そう、考えてしまう。
あれほどのパフォーマンスを発揮してくれたというのに。
感謝祭という舞台で、彼女を勝たせられなかった。
それが、堪らなく悔しい。
複数の感情が混線しているようだ。頭が混乱する。
ルドルフがあの激戦を制した事が、嬉しい。
テイオーが激戦の果てに敗れたのが、悔しい。
酷いジレンマだ。
担当を複数持つ、という事は「そういう事だ」と頭では理解していたつもりになっていた。
公式のレースでさえなく、結果が何か彼女たちのキャリアに影響するものでなくとも、担当同士が競い合った、ただそれだけの事にどうしようもなく感情が混乱する。
それに……いや。
思わず握りしめた拳が、ぎりと音を立てた。
目を閉じる。
大きく息を吸って、吐く。
切り替えるべきだ。
今は、やるべきことがある。