熱狂の余韻を感じることすらなく、スタンドの歓声は鳴り止まない。
……とはいえ。
レースを終えたら、当然ウイニングライブだ。
それはこの小さな……小さな?
模擬レースだったとしても、それは変わらない。
二人を迎えに行ってやらなければ。
「行くのか?」
身を翻したところで、シリウスシンボリと目が合った。
「ああ。健闘したふたりを出迎えてやらないといけないからね」
「ふーん。じゃあ皇帝サマによろしく伝えておいてくれ。仕事ばっかりしてねえで、今度ビリヤードに付き合えってな。それが運賃だ」
「わかった。伝えておこう。……それと、助かったよ。ありがとう」
軽く頭を下げてここまで連れてきてくれた礼をすれば、シリウスシンボリはふらりと背を向け、ひらひらと軽く手を振って去って行った。
後輩だけでなく私にまで気を使っていたあたり、あれで案外面倒見は良いらしい。
さて、行かなければ。
通常のレースであれば、レース後に計量があり、そして着順が確定する。
そして表彰式やインタビューなどが始まるが、今回は模擬レース。
通常の模擬レースであれば、表彰式含めセレモニーなどは当然行われないが、感謝祭の出し物の一環として設けたレースであるため、本物さながらにウイニングライブまで全て行われる。
ライブ自体に不安があるわけではないが、レース後の状態確認などトレーナーの仕事は多く、余韻に浸っているわけにもいかないし、ゆっくり考えるべきことは後回しにすべきだ。
急ぎウィナーズサークルの方へと、足を踏み出そうとした瞬間。
がしり、と後ろから肩を掴まれた。
「……え?」
突然のことに振り返れば。
「トレーナーさん?あなた一体何をしているんですか?」
にっこり笑顔の駿川さんが、どアップで迫ってきていた。
「は、駿川さん……?」
にっこり笑顔の癖に、妙に陰影が強い。
不味い。怒っている時の笑顔だ。
なにせ額に青筋がちょっと浮いているし。
最近すっかり見ていなかったというか、怒らせることも無かったので忘れかけていたが、学生時分によく見た顔である。
それだけ怒らせてきたということなのだが。
「これ、私聞いていなかったのですけれど」
そう言いながら目の前に突きつけられたのは、一枚の紙。
なんだかつい先ほど見上げたばかりなような気がするイラストと共に、何やら煽り文句が大きく踊っている。
『史上最大規模の選抜レース⁉︎』などと過激なキャッチコピーが。
……待て。
「選抜レース……?」
「………………その顔だと、あなたも知らなかったんですね?」
「そもそもこのフライヤーを初めて目にしたのですが……模擬レースの誤植では?」
「そうですよね、あなたさっきまで誘拐されてましたものね……」
はぁぁ、と深いため息と共に、ずり落ちそうになった帽子の位置を直す駿川さん。
この人は本当に、頑なに外では帽子を脱がないな、と。
何か大変に不穏な空気を放ち始めたこのフライヤーから目を逸らしつつ、現実逃避を始めたところ、怒ったような目で睨まれてしまった。
「ここを見てください」
「ええと……は?」
駿川さんの細い指先が示した文字を目で追いかければ。
『本レースの勝者はシンボリルドルフのトレーナーとの契約権を無条件で得られます!』
などと。
どう考えても不味い一言が書き添えられていた。
「聞いてない」
「ですよねぇ……はぁ。これ、生徒が自主的に制作したもののようですし……」
よく見れば絵柄に見覚えがある。
恐らくはアグネスデジタルの仕業だろう。
アグネスタキオンが同室だし、この件に加担させられたと見るべきだろうか。
いや、そんな事より不味いことがある。
私の胃に穴が開く程度ならまだいいが、もしかすると本当のスキャンダルになりかねない、大きな問題が。
「ええと……これ、賭けレースには……?」
そう、このレースはURAの公式でさえない模擬レース。
トレセン学園が関わって開催するにしても、何らかの財物を賭けたレース……とは言い難い……とは思うのだが、もし、万が一、仮にこれが「違法な賭けレース」と認定されるのであればとんでもない不祥事だ。
下手をすれば私の手首に手錠が嵌る可能性さえある。
「学園法務に確認して、弁護士の方とURA本部にも確認しましたが、財物の得喪を争う形でもないおかげで違法性自体はありませんでした。それについては大丈夫とのことです。小賢……えー、きちんと名目も模擬レースではなく『選抜レース』と記載してくれていますし、そこについても誤解を招くような表現でないとのことですし……」
駿川さんの口調が若干崩れ掛けている。
これは相当あちこち奔走させてしまったということだろう。
思い出すのはこのレースをやりたいと言い出した者の顔。
私にこの件を持ちかけたのはルドルフだ。
彼女がこの可能性を考慮していなかったとも思いづらいので、初めから計算づくか、あるいはURAの側などに確認を取っていた可能性も否定できない。
だが、駿川さんが血相を変えてあちこち確認に追われる羽目になったのは、紛れもない事実。
「申し訳ありません。私の監督不行き届きですし、後程始末書を提出します」
「いえ、それは結構です。今回の件、理事長も面白がって追認してしまったのでむしろ出さないでいただいた方が体裁上助かりますし、面倒がありません」
「重ね重ねご迷惑を……」
「貸し一つです」
ぴっ、と顔の前で指を立ててご立腹の駿川さんに、私は首を縦に振る以外の選択肢を持ち合わせてはいなかった。
「……おほん。それで、どうされるんですか?」
「どうするとは?」
「結局シンボリルドルフさんが1着になったわけですが……どなたか担当に取るんですか?」
ターフを振り返りながらそんなことを言う駿川さん。
お願いですからそういう不穏な事は口にしないでいただきたい。
そもそも、そんな話を聞いたのがつい数秒前という状態で、じゃあ誰を取りますとは言えないし、そもそも勝ったのがルドルフなのであれば、今回の話はご破産に、ということにならないだろうか。
『さぁ1着の特典である『無条件での担当契約』は残念ながらすでに担当契約を結んでいるシンボリルドルフが勝ち取ってしまいましたが、このレースは公開選抜レースです!一体誰が契約となるのか?それとも誰とも契約せずに終わるのか!各ウマ娘へのインタビュー後に発表となります!』
なりませんか。
なりませんね。
赤坂さん、せめてそれを発言する前にちょっと確認を入れて欲しかったです。
「……いや、しかし誰とも契約せずに終わるという逃げ道は残してもらえてますし」
「それが妥当ですよねぇ……」
それを強弁して言い逃れるしかない、と思うが、現在位置はまだスタンドだ。
誰を担当にするんだろうねー、などという無邪気な声が周囲から時折聞こえてくるのが大変に耳と胃を痛めつけに掛かってくる。
「胃が取れそうです」
「ま、まぁまだ時間もありますので……その、言い訳をなんとか考えてくださいね」
「ええ……」
気の毒なものを見るような目をしつつ、駿川さんが無慈悲な宣告を出した。
確かに、ことがここまで進行してしまえば、もはや学園側で出来る事は少ない。
ここで「結果発表は中止です!」と発表を出す事自体はできなくはないが、よりによってファン感謝祭でそんなことをしては、楽しみにしているファンに水を差してしまうことになる。
胃が痛い。
頭を抱えようと無意識に手を上げようとして。
ぱしり、と手首が掴まれた。
「手、怪我してますよ?」
「……え?」
掴まれた手を見やれば、手の平から血が滲んでいる。
どこかで切っただろうか、と思い出そうとして、やめた。
「はい、どうぞ。ちゃんと消毒してから貼ってくださいね」
見慣れた柄の絆創膏が目の前に突き出されたから。
反射的に受け取る。
「それでは、私はアグネスデジタルさんを迎えに行ってきますので、よろしくお願いしますね」
駿川さんはそう告げると小走りで去って行った。
置いていかないでほしいとつい縋りそうになる。
あまりにも朝から色々とトラブルに巻き込まれたおかげで、私の魂はおそらく随分と小さくなってしまっていることだろう。
……それにしても何故アグネスデジタル?と首を捻ったが、今回の件に絡んでいると思われるので事情聴取、ということだろうか。
今回は大事にはならずに……いや、大事には発展しているわけだが。
兎も角スキャンダルなどにならずに済んだのは不幸中の幸いだった。
とはいえ、今回の件を放置するわけにもいかないのだろう。
今回は良かったものの、仮に他の機会に、今度は法に触れるような事態を引き起こされては困る。
生徒が主導するイベントは生徒会のチェックが入っているとは言え、ルドルフでさえ見落としてしまう何かがあるかもしれない。
その時になってから慌てては遅いのである。
「……はぁ」
ひとつため息をついて。
両頬を軽く手で叩き、逃げていきがちな意識をはっきりさせる。
ひりひりと軽い痛みが残るが、ここで私が脱走したり現実逃避してみても何も変わらない。むしろ先延ばしにすることで目も当てられない事態を招き、余計な負担を負うことは良くわかっている。
私がやらなければならないのは、まずはルドルフとテイオーを迎え、労い、体調や脚の状態を確認しクールダウンさせること。
そして良い感じにファンの皆様を言いくるめることだ。
覚悟を決めて、歩き出す。
混雑したスタンドを出ようとして、誰かとすれ違おうとして。
「自分、ホンマにそれでええんか?」
するり、と。
滑らかに、私の意識の隙間を抜けるようにして。
すれ違い様に放たれた言葉が、耳の奥へ滑り込んできた。