あーあ、つまんないの。
逃げられちゃったよ。
トレーナーが走り去った方向を眺めながら、残念だなあ、とため息をついた。
カイチョーにクビにされたって聞いたから、せっかくお祝いしに来たのになー。
カバンには、お気に入りのハチミツクッキー。
クビになったお祝いというのもどうかと思うけど、そういう気分だったんだ。
ベンチに座って、背もたれに身体を預ける。
自然と、これから花開くだろう桜のつぼみと、その向こうにきれいな青空。
…ボクは何をやってるんだろうね。
自分でも、ボクらしくないことをしていることは自覚している。
そっと瞼を閉じる。
ずっとカイチョーと一緒にいた、あのトレーナー。
入学してすぐにトレーナーと出会ったんだって。
それから二人で、トレーニングも、勉強も、一緒に乗り越えていった。
皐月賞で勝って。
日本ダービーで勝って。
ボクの見ていた菊花賞でも勝った。
無敗の三冠バ。サイキョーの証明。
ボクのヒーロー。
ボクはカイチョーみたいになりたくて、トレーニングを頑張って、勉強もいっぱいして、このトレセン学園に入ったんだ。
そこからは、カイチョーを追いかける毎日。
見かけたら飛んでいくし、たくさんお話もした。
エアグルーヴ副カイチョーより、もしかしたらボクの方がお話してるんじゃないかな。
だって、ボクの夢がそこにいるんだ。
ついつい、追いかけちゃうのは仕方のないことだよね。
カイチョーみたいになりたくて、ずっと頑張ってきたんだ。
トレーニングもカイチョーを参考にして考えたし、色々と直接インタビューしてみたりもしたよ。
カイチョーは優しいから、ボクみたいな年の離れたウマ娘にも、親切に色々教えてくれる。
コーヒーは…ちょっとボクには合わなかったけど。
ねえ、カイチョー。
カイチョーみたいになるにはどうしたらいいのかな。
そんなことばかり聞いていたし、そんなことばかり考えていた。
偶然だけど、ボクの流星はカイチョーのとよく似ていたし、よく遊んで貰っていたことや、名前が「テイオー」だったこともあって、「シンボリルドルフの後継かも」なんて言われて舞い上がっていた時期もあった。
ボクは、カイチョーみたいになる事しか頭になくて。
それだけを追いかけるのに、必死だった。
―――その夢の前で、膝を着いたあの日まで。
無敗の三冠。そして伝説の七冠。
それがどれだけ「とんでもない事」だったのか気付いたのは、駄々をこねるボクを見かねて、あの冴えないトレーナーがカイチョーに取りなしてくれた、初めての模擬レースの時だった。
結果は「大差」だった。
影さえ踏めないほどの距離を放されて、ボクは惨敗した。
もちろん、ボクの名誉のために言えば、デビューもしていないウマ娘の挑戦に、最強の七冠バが全力で応えたのだから、そんな結果にもなるよね。
ボクはボク自身の才能に思いあがっていたし、カイチョーはそれをはっきり見抜いていた。
だから、本気で「上には上がいる」事を教えてくれたんだ。
そこからの日々は、どうしようもなく辛くて、苦しい日々だった。
カイチョーみたいになりたかったから、ボクはチームに入ることに躊躇していた。
新入生の中で、ボクがかなり上の方に居たのは自覚していたし、選抜レースでは中央の優秀なトレーナーが何人もボクを誘いに来ていたから、そのことで、妙に安心してしまっていた。
ボクは、強い。
その中に、あのトレーナーの姿はなかった。
その時は、特別不思議な事だとは思わなかった。
ボクは安心して、スカウトを保留にした。
トゥインクルシリーズに挑むことができるのは、一生に一度きり。
トレーナーが付けば、デビューすることになる。
だから、もっと力を付けて、これだというトレーナーを見つけて、最高の状態でデビューしたかった。
だから、教官の指導を受けながら、毎日遅くまで自主トレを重ねることにした。
カイチョーとあのトレーナーが一緒に練り上げてきたというそのトレーニングは、
確かにすごく効いている感じもあったし、どんどん自分が成長していくのを感じた。
身体もまだ出来上がっていないボクには、カイチョーほどに何セットもこなせるようなものじゃないことは知っていたけれど、できるだけ沢山こなせるように努力もしてきた。
だから、ある日突然「ぽきん」なんて軽い音を立てて、脚が折れてしまうなんて、考えたこともなかった。
やっちゃった、なんて笑ってしまった。
デビュー前に骨折だなんて、カッコ悪いったらないよ。
そのうえ、治ってまた走れるようになるかは分からない、という診断結果だ。
三冠の夢も、七冠の伝説も、憧れのあの人の後を追いかけることもできなくなるかもしれない、だなんて。
認められない。
絶対に、認められなかった。
だから必死にリハビリをした。
夜だろうが、雨だろうが構わず。
カイチョーならこんなことで折れたりしない。
でも、ボクの自信は、すでに揺らいでいた。
もしも。
もしもその夢に手が届かなかったとき。
そこに残っているボクは、一体何者なんだろう、と。
「精が出るね。今度は予後不良でも目指しているのかい」
そんなふざけた言葉が投げかけられたのは、雨の降る寒い夜の日だった。
思わずカッとなって、トレーニングを放り出して、暴言を吐いたヒトに掴みかかってしまった。
ニンゲンは脆い。
ウマ娘たちは、それこそ耳にタコが出来るほど何度も何度も聞かされて育つ。
そんなことが、頭から吹き飛ぶほどに、頭に血が上ってしまった。
「キミに…キミに何が分かるんだ!」
今思えば、お互いに酷い。
予後不良なんて言葉を平気でリハビリしているウマ娘に放り投げるトレーナーもトレーナーだけど、ボクもこの時は頭がおかしくなっていた。
「トウカイテイオー。君の心情なんて知るはずがないだろ」
冷たい目。
ボクの事を、路傍の石程度にしか見ていなさそうな、興味の欠片もないような、真っ黒な眼。
底冷えするようなそれに、あの時ボクは確かに「怖い」と思った。
「…っ!」
だから、思わず突き飛ばした。
ニンゲンは脆い。
ウマ娘が軽く突き飛ばしたぐらいの感覚でも、車に轢かれるぐらいの衝撃があるのだという。
トレーナーは、勢いよく転がって、そのまま壁にぶつかった。
まずい、と思った。
ウマ娘は身体能力に秀でているけれど、それはつまり、加害者になってしまった時はどうしても罪が重くなりやすい、という事だ。
だけど。
トレーナーは、何事もなかったかのように立ち上がった。
相当なダメージが入ったようで、脚はがくがくと震えていたし、身体も少し揺れていた。
脳震盪かもしれない。
保健室、と思った瞬間、言葉が投げかけられた。
「君が、シンボリルドルフになれるわけがないだろう」
「そんな…ことは…」
当たり前の事実。
その通りだ。シンボリルドルフじゃないボクは、シンボリルドルフにはなれない。
それは、骨折してからずっとずっと、考えてきたことだった。
「それじゃあ、ボクは……」
言葉が出てこない。
ずっと目を逸らしていたそれ。
その夢を諦めてしまったら。
ボクは、その先を見てしまわないように、ずっと目をつぶっていた。
「トウカイテイオー」
「な、何…?」
その目が、吸い込まれるような真っ黒な瞳が、怖かった。恐ろしかった。
気圧されるように、足が下がる。
今すぐ、この怖い人間から逃げ出してしまいたいとさえ思った。
その奥に、何かが見えた気がしなければ。
「それが君の名前だ」
「…?」
「君は、君のままアレを超えろ」
「え?」
「“帝王”が“皇帝”を超えてみせろ。なんでもいい。君の名前で伝説を塗り替えてやれ」
「トレーナーのばーか」
青い空を見上げたまま、思わず口からでたのは、なんの捻りもない悪口。
きっと、あんなときに言われなければ、「ばかじゃないの」と一笑に付してしまうような、なんともだっさい激励だと思う。
というか、あれがエールだと気付くまでに一晩もの時間を要した。
なんなの、あのトレーナー。
ムードもへったくれもない。
大体、傷ついている女の子の心に付け込むなら、もっと気の利いたセリフっていうものがあると思う。
それに、タイミングも本当にひどい。
そんな言葉をかけられた直後、寮の門限5分前を告げるアラームが鳴ったのだから。
余韻すら味わう事もなく、「やばい門限だ!すぐに帰れトウカイテイオー!私のせいになるとルドルフに怒られる!」等と大慌てで、ぐいぐい背中を押してくる間抜けなトレーナー。
ボクに突き飛ばされて、ボロボロのくせに。
しかもそのあと、結局間に合わなくて、フジ寮長に二人で怒られた。
そこにカイチョーがやってきて、寮の玄関で正座してお説教もされた。
お説教されているときのトレーナーは、あの恐ろしい目が何だったのかと思うほど情けない姿で。
なんだか狐につままれたような気分だった。
そして、翌朝ボクは風邪を引いた。
マヤノが随分と心配してくれて、部屋の中をうろうろしていたけれど、午後になって花を持ってきた。
「会長からお見舞いだってー」
カイチョーがわざわざ?と思ったが、そこに小さなメッセージカードが添えられて居ることに気づいた。
花の下に、そっと隠すように。
カイチョーからのメッセージかな、と思って、二つ折りにされたそれをそっと開く。
会長の字とは違う、そっけない字で、簡潔な言葉が書いてあった。
『這い上がっておいで、帝王』
――――――“トウカイテイオー”のファンより。
そして、もう一枚。
相当がんばったのか、固く小さく折りたたまれたメモ用紙。
わざわざテープで留められている。
苦労して開けば、手書きのリハビリメニューが挟まっていた。
…あのさー。
その日からボクは、カイチョーのマネばかりしていたのを辞めた。
ファンに頼まれちゃったんだ。ほんと、仕方のないファンだよね。
仕方ないから、トウカイテイオーとして、ボクは走るよ。
ねえ、カイチョー。
だからね、
―――いつまでもその座にいられるとは、思わないでよね。