トレセン学園は今日も重バ場です   作:しゃちくらげ

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百載無窮

 

 

 

勝者を讃える歓声は鳴り止まない。

興奮に突き動かされるままに上げられるそれ。熱狂。

すごいレースだった、と賞賛する声。がしゃがしゃ、と音を立てて落ちるシャッターの音。

 

そして、開けた人垣の先。

耳を打つそれらの中に混ざって、よく知った声がいくつか聞こえた。

 

他にも、先にこちらに着いていた駿川さんや、他の面々が呼ぶ声。

まずはルドルフに、と思ったその瞬間、目に飛び込んできたのは。

 

 

ーーー足を抑えて蹲る姿。

 

 

瞬間、賑わっていた音の全てが消失する。

血の気が引く。

 

足が、勝手に前へと一歩踏み出した。

 

「トレーナー君」

通してください、と上げた声を拾ったのか。耳をこちらへ向け、次いで視線を寄越したシンボリルドルフの声。

メディアやファンに囲まれ、きりと引き締めていた表情に一瞬、柔らかい笑みが宿った。

 

「少し待って!」

 

その脇をすり抜ける。

 

「……トレーナー」

沈みがちに、テイオーの声。

勝者たるルドルフほどではないが、彼女も「あれだけのレースを見せた」ヒーローだ。

メディアからマイクを向けられて、なんとか胸を張ってしていた受け答えが、こちらを見た瞬間に耳がしなりと前へ倒れた。

 

「後で必ず行く、少し待って」

 

自分が何を言っているのか、理解している。

労わなければ、あれだけ良いレースをしてくれた二人に声をかけなければ。

そう思っていたはずなのに。理解した上でなお、口を衝いて出たのはそんな言葉。

 

早足は小走りへ。早く、早く。

観客も、勝者も、誰も彼も彼女を見ていなかった。

 

どくん、どくん、と、普段はそれなりに一定のリズムを刻んでいる心臓が狂ったように弾む。

血の気が引く感覚。視界が狭窄し、嫌な汗が吹き出してくる。

幻覚のように、かつて見たそれが視界に覆いかぶさり、呼吸が浅くなる。

 

なけなしの酸素を振り絞って、声を上げる。

 

 

「ーーーーアグネスタキオン!」

 

 

蹲る彼女が、顔を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……ぱち。

 

頭の中で何かが弾けるような体験。

その残滓が、私を焼いたその残滓が今だに燻っている。

音の消えた世界。引き伸ばされたような時間。

全てを置き去りにした果て。

そういった、チープな言葉で言い表すことができない、何か遠く、大きなものに触れたような感覚。

 

「……はっ、はっ……」

 

呼吸が整わない。心拍がまともな状態ではない。

参ったねぇ、これは。

 

茫洋とした喪失感。

何に触れようとしたのか、何を掴み損ねたのかがわからない。

 

指先を掠めた何か。何かを掴めたはずだった。

この足が、何かに到達しようとした筈だった。

 

可能性の果てはこんな近くにはない。それはわかっているさ。

しかし、私の目指すものに、研究にブレイクスルーがもたらされるような、そんな漠然とした確信だけがあった。

 

しかし、ああ。

 

芝生に触れる。

よく手入れされ、春を迎え一層青々とした芝生。

日々、学園の職員がメンテナンスをしていることを私はよく知っている。

 

それを掴んで、俯く。

ぎり、と、必要以上に力を込めてしまったことに気づき、そっと手を離す。

一本ずつ、指を剥がし取って、そっと左足首に触れる。

 

タイツ越しの熱を、指先が感じた。

使い果たした酸素がまだ十分に回っていない頭では、アドレナリンに支配された私の痛覚が麻痺しているのか、それとも。

 

あのチャンスに、これ以上ない望外のそれに。

私は届かなかった、ということだ。

あのとき、ぱちんと弾けて消えたのは、触れようとした何かだったのかねぇ。

 

熱が引いていく。身体の熱か、それとも。

 

 

 

 

「アグネスタキオン!」

 

 

 

 

ばちん、と。

頬を張るように、些か乱暴に私を呼ぶ声がした。

 

弾かれたように顔を上げる。

汗で肌に張り付く髪が鬱陶しい。

 

地面ばかり見ていたものだから、急激に光が目に飛び込んできて、ちかちかと。

輝かしい勝者の世界というのはいつだって目に眩しいものだよ。

まったく、眩しすぎてやや痛みすら感じる。

 

でも、ああ。

 

仏頂面を崩して、焦ったような顔をして。

走ってくる姿が、見えた。

 

 

 

ーーーーあ。

 

 

 

血相を変えて転がるように駆けてきたトレーナー君が、私の背中と、膝の裏にするりと手を差し込んで、そのまま横抱きにひょいと持ち上げてしまった。

 

思わず手足をばたつかせようとして、目が合った。

 

 

「保健室に運ぶから大人しくして」

 

「………ふぅン、仕方ないねえ」

 

 

その目を見て、ようやく私は理解した。

 

そうか。

だから、私は届かなかったんだ。

 

あそこでもう一歩、踏み込む事はできたのだろう。

それでもそこで足を止めたのは、否。止められたのは、そういうことか。

 

なんだい、まったく。

目に痛いほど輝いて見えたのは、きみか。

 

触れることのできた「果ての景色」をそのまま追うよりも、きっとそれは素晴らしいことだと、私はきっとそう思ったのだろう。

 

 

「通してください!」

 

 

声を張り上げる、真剣な顔。

あの仏頂面は一体どこへ置いてきてしまったのだろうねえ、なんて、まるで他人事のように考えながら見上げるその顔。

 

大袈裟だな、きみは。

私の足は大丈夫だよ。

 

きみの呪いのような想いが、守ってくれるんだろう?

足と引き換えに夢に届きかけた手を、一旦降ろさせてしまうぐらいには、確かによく効いていることだしねえ。

 

どき、どき、と。

鼓動がまた、レース後のそれとは違う意味で跳ねている。

 

目を一度閉じて、もう一度見上げる。

真剣な瞳が、こちらを気遣うように視線を落とした。

 

「大丈夫、痛みはない?」

「今のところは、ね」

 

確かに、夢に届きかけていた。

果ての景色かどうかは分からなかったけれど、しかしそこまで届けてくれたのは、きみで。

そこから先へ、踏み込もうとしたのを引き止めたのも、きみのせいだ。

 

狂ったような情念を宿した眼が、私が壊れることを許さない。

 

私は、トレーナーくんを欲しがっていた。

 

漠然としていたものが、急速に形を持ち始めるのを感じる。

心のかたちが、少しずつ変化していくような、不可思議な感触。

 

最近、少し気になって調べていた『感情のちから』。

少し研究してみるか、などと考えていたところで、このパラダイムシフトはいただけない。

 

どき、どき、と。

早鐘のように上がっていくそれが酷く耳障りで、ああ、聞こえてやしまわないかと心配になってくる。

 

いやはや、痛いほどよく分かったよ。

 

 

「トレーナーくん」

 

「痛む? 少しだけ我慢してくれるかな」

 

「夢が、ひとつ増えたよ」

 

 

 

私は、『きみと勝ちたい(きみに恋をした)』んだ。

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