道を開けてください、と。
聞き慣れた声が、聞いたことのないような大きな声で叫ぶ。
周囲にいた記者が、ファンがゆっくりと道を開けてゆく。
若干の動揺と共に。
ざり、と砂利混じりの地面を踏む音。
人垣を割るようにして出てきたのは、他ならぬトレーナー君。
インタビューの最中だというのに、記者も、ギャラリーも、全てが意識の中から遠ざかっていく。
まるで潮が引くように、視野が狭まっていく。
表情を固くしたトレーナー君の腕に抱かれているのは、アグネスタキオン。
腕に抱かれたアグネスタキオンが若干頬を赤くしているのに対して、抱き抱えているトレーナー君の表情は固く、随分と青ざめた顔をして視線を落としている。
足早に立ち去ろうとする、その進路に足を進める。
トレーナー君の、ウマ娘を助けようとするそれの邪魔をする気はない。
いくら私でも、それは弁えているつもりだ。
「トレーナー君」
声を掛ければ、ぴたりと足を止める。
良かった。私の声は届く。
落としていた視線が、ついとこちらを見た。
注がれていた先は、アグネスタキオンの足。
「ルドルフ」
私がトレーナー君の行動に文句を言える筋合いではない。
分かっている。弁えている。知っている。
トレーナー君の今の行いにはなんの落ち度もない。
何一つ、そんなものはないのだから。
足を痛めて蹲るウマ娘を見つけて、駆け寄って行った。
そして医務室へ担ぎ込もうという、ただそれだけの行動。
トレセン学園のトレーナーとして、実に模範的な振る舞いだ。
声をかけたのは、それを邪魔してやろうと思ってのことではない。
私を使ったほうが、医療の手配もスムーズに行く筈だ。
ちょうど、駿川さんも近くに居るし、学園関係者の数も多い。
あぁ。だけれど。
私はこの後に及んで、まだアグネスタキオンを抱き抱えて運ぼうとするトレーナー君が、どうにも、そう、どうにも気に入らないらしい。
酷く醜い感情だ。
私はトレーナー君に。
いや、正直に言おう。
『もっと私を見ていて欲しい』
君は、私のものだ。レースが終わった私を出迎えるのは君の役目で、君の義務で、私の権利だ。
これまでの付き合いで築き上げてきた何もかもを飛ばして、アグネスタキオンに向かったこと。それが、私の精神をぎりぎりと締め付けるような痛みを与えていた。
視線が交錯する。
真っ黒な瞳に浮かぶのは、ああ。これは知っている。
―――焦燥。
私はこれをよく知っている。
よく知っていて、しかし私には注がれた記憶がない、濁った感情の発露。
粘ついて、仄暗く、覚悟めいたもの。
「トレーナー君。聞いてくれ。学園関係者がすでにここに集まっている」
「分かっている。だけど、急ぐんだ」
ちらと視線が向けられた先は、アグネスタキオンの足。
そしてこちらに戻る視線。
じくじくと膿んだような傷みが、増していく。
『君がそこまでする必要はない』。
そんな言葉が、口を衝いて出てしまいそうになる。
押さえろ、シンボリルドルフ。
分かっていたことじゃないか。
「……すぐ近くに養護スタッフが控えている。案内しよう」
幸いにして、私の口から放たれた言葉にはきちんと理性が働いていた。
もう一度、視線が重なる。
「わかった」
踵を返す。
道を開けてくれ、と大声を上げるまでもなく、やり取りから何かを察したギャラリーや取材班が引いていく。
開けてもらった道を先導しながら、ちらと振り返る。
抱きかかえられたアグネスタキオンは、顔を赤らめながら、茫然とトレーナー君を見上げている。あれは、レース後の高揚でもなければ、衆目の中で抱えあげられた羞恥からでもない。
そんなもの、見れば分かる。
もはや土気色のような顔色になりつつあるトレーナー君が、額から脂汗を滴らせた。
トレーナー君は、特定の事象に対してひどく敏感に反応する性質だ。
『
トレーナーなら誰しも恐れるそれ。
そして一方でウマ娘の面倒を見る以上は避けては通れない、それ。
しかしトレーナー君は、それに過剰とすら言えるほど動揺してしまう。まるでトラウマのように。
トレーニングの最中に、見ず知らずのウマ娘が足を捻挫していただけでも血相を変えて飛んでいく程だ。相手にトレーナーが付いていれば自制は効くようだが。
……なぜか、と問うたことはある。しかし頑なに口を開くことはなかった。
その時はそれでもいいと思った。
過去に何か、心的外傷を負うような事態に直面したということだけは分かっているのだ。それ以上トレーナー君の古傷を抉るような真似はしたくないと思ったから。
これはいずれ聞いておかなければならないかもしれない。
私自身はトレーナー君のおかげで何事もなくここまで来ているが、テイオーはまだ足に不安がある。
ぞくり、と背筋に冷たいものが落ちる。
担当ではないウマ娘でさえこれなのだ。
もしテイオーに何かあった時。
トレーナー君は、壊れてしまうのではないか。
仮設医務室に入っていくトレーナー君を見送りながら、そんな恐ろしい考えがふと脳裏をよぎった。
……いや、そんな筈はない。
軽く頭を振って、そんな最悪を頭から追い出そうとした。
臨時医務スペースに辿り着き、というにはほんの目と鼻の先ではあったが、ともあれアグネスタキオンを仮設ベッドに座らせて。
いつだったかと同じように、アグネスタキオンの足に触れようとしたところ、何故かひょいと足がどけられてしまった。
「アグネスタキオン?」
何を?と彼女を見上げようとして、ばさりと頭から何かに視界を塞がれた。
一瞬見えた布のようなものは、ベッドに置かれていたタオルケットだろうか。
「……うん?」
「ちょっ、トレーナーくん待ちたまえ、今は」
布越しのせいか、くぐもって聞こえるそれは、何故か焦ったような色を帯びている。
とはいえ、そんな事を言われても困るのだが。
「いや、見えないと困るんだけど……」
「あの、トレーナーさん……」
困惑していると、ちょんちょんと肩を叩かれた。
声のした方を振り返るも、頭から何かを被せられたままなので何も見えないのだが。
「はい?」
「わっ、そのまま振り向かないでくださいよ……」
お化けみたいですよ、もう、とぼやく声には聞き覚えがあった。
「ああ、保険医の先生ですか」
トレセン学園に努めている保険医は多い。
というのも、やはりスポーツ関連の教育機関であるため、怪我を伴う事故というのは日常的に発生しがちだ。
その際、一人が掛かりっきりになってしまうと困るということで、いつでも対応できるよう、附属病院から交代で勤務してくれており、小さな病院かと思うほどの人員体制が敷かれている。
大抵はトレーナーないし教官が一時対応に入る上、安全には人一倍厳しい学校のため、比較的暇とのことらしいが腕は確かだ。
もぞもぞとタオルケットを引っぺがしてみれば、やはり見知った顔だった。
「ふぅ。……それで、ええと」
「私が代わりますから大丈夫ですよ」
「しかし」
そう言われても、散々彼女のリハビリを行ってきたのは私なので、状況は良く知っている。
できれば面倒を見たいと思い口を開いたのだが。
「大丈夫ですよ」
被せるようにして、妙な圧の強さの笑顔が迫ってきた。
「追い出されてしまった」
仮設医務室のカーテンの向こうに追い出され、首を傾げる。
解せぬ、というか。
アグネスタキオンに拒絶されたこともそうだが、その後の保険医の先生からの対応も追い出すようなものだった。
「……戻るか」
何が何だか良くわからないが、しかしトレセン学園に詰めている保険医たちの腕は信用に足るそれだ。
今、私にできることはない、ということだろう。
いくらトレーナーといえども、医療は専門家には及ばないのだから。
さて、ルドルフとテイオーのところへ行かなければ。
やらなければならないことをやるべく、足を踏み出した。
だいぶ待たせてしまっているので正直恐ろしくはあるが。