疲れた。
朝はルドルフの侵食に始まり、昼はゴールドシップに絡まれ、新入生を前にやらかし、怪文書をばら撒かれ、トウカイテイオーには轟音を喰らわされ、挙げ句の果てにメジロマックイーンには野球勝負を挑まれるという、濃いと表現するには十分な盛り沢山な内容だった。
1日に一度あれば十分お腹いっぱいになるような事件が立て続けに発生したおかげで、トレセン学園に戻ってきた頃にはすでに疲労困憊という状態だった。
帰りたい。
もう本当に帰りたい。
帰って寝たい。
そう思うのも止む方なしだと思う。
あのお嬢様の残念な暴走にトドメを刺されたのか、前へ進むための足がすこぶる重い。
体力的な疲れというよりは、これは間違いなく気疲れというやつだろう。
だが、携帯端末のリマインダーは無慈悲にも「トレーニングの様子確認@シンボリルドルフ」と本日の積み残しを知らせてくる。
電話したらサボりを許してくれないかな。
許してくれないだろうな。
疲れたから今日はごめん、等と口にすれば恐ろしい勢いで曲解するのはまず間違いない。
一日一緒にいたならおそらく快く許してくれるだろうが、今日は許されないだろう。
担当を増やすというだけですでに起爆寸前の爆発物と化して居る状況なのだ。
むしろシンボリルドルフが普段奥底に押し込めている、あのルナがよく耐えていると感動さえ覚える。
成長したなあ。
担当ウマ娘の成長はとても喜ばしい事だが、素直に喜べない。
適度に発散しなければしなかった分だけ、それはいずれ激発するのだから。
さて。
いくら疲れてるとはいえ、あまり担当ウマ娘の前で疲労を顔に出すことはできない。
トレーナーにとって体調管理は必修項目だ。
彼女たちにも自分の時間というものがあるので、あくまで「可能な限り」という注釈がついてしまうが、常に自制してコンディションのコントロールを行うようにまだ若い彼女たちに求める以上、私たちトレーナー自身のコンディション管理は当然のように徹底されていなければならない。
自分が上手くできないことを指導するというのは簡単だが、流石に不摂生ばかりしている奴にコンディションがどうとか語られたくないだろう、ということだ。
ただし、睡眠時間だけは別だ。
ウマ娘の担当などやっていると、睡眠時間はガリガリと下ろし金で勢いよく削られていく。
ウマ娘たち自体の睡眠時間は、同年代の子供と大差ないが、トレーナーは時期によっては非常にやる事が多い。
レース分析、書類整理、記者対応から運営側への対応に至るまで、それこそ多種多様にわたる。
人気になればウマ娘に支援者が付くようになるが、支援者というのもまた面倒を助長する存在である。
金銭面のバックアップが受けられること自体は大変ありがたいが、要は個人スポンサーに近い。ある程度そちらの意向も反映させなければならないのだ。
幸いにしてシンボリルドルフの支援者は人格者なので、余計な横槍は入れてこない。
というか、何か仮にあったとしても彼女なら私の介入がなくともなんとかしてしまいかねないので、余計なお節介という奴であろう。
そんなことをつらつらと考えているうちに、トレーニング場にたどり着いた。
日はすっかり沈んでおり、ナイター用のライトによって煌々と照らされたトレーニング場は、常と違った不思議な魅力を放っていると個人的には思う。
そして。
ターフのど真ん中で、腕を組み、仁王立ちしている人影があった。
どう見てもシンボリルドルフだった。
本日最後の山場がやってきた。
「おかえり、トレーナー君」
「ただいま。ゴールドシップのばら撒いた怪文書のおかげで随分と逃げ回る羽目になったよ」
やれやれ、とため息をつきながら肩にかけたバッグを下ろすと、ストップウォッチやトレーニングメニューを記載した紙を綴じたバインダーなど、練習に使用する道具を取り出し始める。
「それは大変だったな。ところで、少し聞きたい事があるのだが、いいかい」
「できればお断り申し上げたいところだけど、どうかしたかい」
ルドルフはまだターフのど真ん中で仁王立ちをしている。
いつも通りといってしまえばその通りではあるのだが、妙な威圧感を撒き散らしている。
この時間帯ならばまだ他の生徒が練習に残っていてもおかしくないのだが、見渡す限りはルドルフの他には誰もいなかった。
「いや何、今日は随分と方々で活躍したそうじゃないか」
「活躍?トラブルに巻き込まれ続けたの間違いだと思うけど」
文字通り、厄介ごとにひたすら巻き込まれ続けたのである。
「テイオーに横抱きにされていたのが事件かな?随分と仲陸ましげだったと報告があったよ」
「目眩がして転んだところを支えてもらったんだよ」
ここでうっかり、本当のことを話してしまうと拗らせてしまうので、意図的に当たり障りのない範囲で回答する。
横抱きにされていたことはすでに知られて居るので、例えばそれが「耳元ででかい声を出されて」だとか、私がダメージを受けたような内容を語れば、それは修羅場というよりは鉄火場の始まりだ。
「随分タイミング良く、都合の良い場所にいたんだな?」
「ああ、トウカイテイオー君は、ルドルフも知っての通り例の怪文書がばら撒かれていたから「隠れてたほうがいいんじゃない?」と忠告しにきてくれてね。君に随分と懐いて居るから、気を遣ってくれたのだろう」
「…そうか。それならいいんだ。あとでテイオーにはお礼をしておこう」
「わかってくれて嬉しいよ。君からのお礼ならトウカイテイオーも喜ぶだろう。…怪文書はどうしたものかな」
「そちらは始末…もとい、エアグルーヴとブライアンが捕縛した。一晩反省室送りになっているよ」
アスリートとはいえ、年頃の少女たちは噂が好きだ。
あんなことをしては流石に学内の風紀に悪影響を及ぼすからだろう。
さらりとゴールドシップが始末されていた。今頃はアタシを出せと暴れていることだろう。
…ゴールドシップ自体が風紀に悪影響を及ぼしているのでは、という思いは心の底にしまっておこう。
「新年度早々にもう…」
「それで?こちらに戻ってくる前に連絡があったが、メジロマックイーンとカラオケを楽しみ、さらに彼女の趣味であるところの野球にまで付き合って一緒に遊び、最後には泣かせたトレーナーがいるという話があるんだが、こちらは申し開きがあるかな?」
つい数時間前の出来事だぞ、それは。
どうやって情報を仕入れているんだ。
もしかしたら、カラオケの店員としてアルバイトしているウマ娘がいたのかもしれないが、それにしたって野球の話まで抑えて居るというのは情報が速すぎる。
恐らく、なんらかの形で監視が入っているな。
盗聴や盗撮機器類が私の所持品の中に紛れ込んでいたなら、この質問は出てこないはずだ。
そうであるならば、トウカイテイオーによって音響攻撃を受けた事を把握していなければおかしい。
そうなってくると、学内に設置された監視カメラの類か、あるいは監視情報を生徒間で共有しているか…。
どちらにせよ、迂闊な行動をとれば私は酷い目に遭わされる。
諸々の物理的・電子的監視の排除がつい昨日実施されたばかりだというのに、監視網の構築が速すぎる。
「メジロマックイーンの名誉のために言うけれど、私と彼女はそれぞれ別室にいてね。私はルドルフのトレーニングの分析、計画を立てていたんだ。そこに飲み物を取りに行った彼女が間違えて入室してきてね」
「野球を楽しんだと言うのは?」
「彼女にとって、その…一人カラオケではしゃいでる姿は見られたくない場面だったらしくてね…。錯乱した結果、ひと打席勝負を行うことになったんだよ」
「それで泣かせた?と」
まぁ、普通それで泣くとは思わない。
「本当に泣かせてしまうとは思わなかったんだ。ウマ娘の身体能力なら当然のようにかっ飛ばされると思って変化球を投げたら、野球自体した事がなかったみたいで、三球三振で終わった不甲斐なさに嘆き始めた、と言うのが真相かな」
ボールを遥か向こうまで飛ばされたら、道具を借りた少年たちに申し訳ないからな。
それにしても、事実しか語っていないのに恐ろしく嘘臭いのはどうにかならないだろうか。
「ふむ…なるほど」
概ねこちらで調べた情報と食い違いはないな、などと呟いた声が聞こえた。
だったら尋問はやめてくれると嬉しいとは思うのだが、私の口から語らせないと気が済まなかったのだろう。
「…トレーニングの調子はどうなの?」
「ああ、報告が遅くなってすまない。今日のスケジュールは全て完了しているよ。思ったよりも早く生徒会の仕事が片付いてね」
「そうだったのか。間に合わなくて申し訳ないな…」
「だったら、罪滅ぼしにレクリエーションに付き合っては貰えないだろうか」
「いいよ、何する?」
「そうだな、面白そうなことをやっていたのに除け者にされてしまった。だから、私に野球を教えてくれないか」
少し不満そうに頬を膨らませて、ルドルフがそんなことを宣った。
「や、急に言われても…素人だよ?」
「いいんだ。君に教えてほしい」
「まあ、いいけど…」
その後、素人ながらルドルフにバットの振り方や変化球の投げ方を教える羽目になった。
ここはトレセン学園のはずなのだが。
…道具はなぜか既に用意されていた。最初からこのつもりだったのだろう。
「スイングするときは力任せに振っても飛ばない。腰を中心に身体を回転させて…そうそう、ここをぐいっと」
「んっ…ああ、腰を中心に全身を連動させるのか」
フォームを修正するために、身体に触れながら教えていく。
昔は走行フォームの修正を指導するにもいちいち触れるのに躊躇して確認を取っていたが、今ではもはや必要さえあれば腰でもなんでも触るし、それで蹴られるような信頼関係ではない。
流石に触ったらまずいところには絶対に触れないし、トレーニング外で触れることはないように徹底しているが。
「もう一度意識するべき箇所に触ってもらっていいかな?筋力トレーニングと同じ要領で、意識を向ける箇所を把握していたほうがよさそうだ」
「あー、なるほど。ここね、ここ。…まぁ、スポーツ科学は相当勉強したけど、野球自体は素人だからあんまりレベルの高いことはわからないよ?そこまで真面目に取り組まなくてもいいんじゃないかな」
「ふふ、それでもだ。せっかく君が教えてくれるのだから、ものにしたくてね」
「完璧主義だなあ」
流石に頭がいいため、教えたことがサクサクと吸収されていくのは見ていて楽しい。
ぜひ私のために防波堤になってほしい、という下心がないと言えば嘘になる。
いいぞ、今度メジロマックイーンがやってきたら叩きのめしてやれ。
他のスポーツでの身体の動かし方というのは、意外と参考になるケースがある。
野球はどちらかと言えば一瞬一瞬の高出力が繰り返し求められるタイプのスポーツだ。
スポーツとしての歴史も長く、その動き方、身体の使い方というのは洗練されている。
全く何の役に立たないということもないだろう。
「…ふう、ありがとう。大体理解したよ。これで子供に教える事があっても安心だ。聞くところによれば、キャッチボールは心の交流だとか。オフの日にでもやってみないか?」
そういえばトレセン学園は、ちびっ子探検隊など子供との交流が多い。
子供を相手にできる手段を色々持っていたほうが良い、という事だろう。
「いいよ。キャッチボールってよく親子でやるよね。最近…どうだ?」
「それは親子での距離感を掴みかねている世のお父さんが言うセリフだな。私たちの間には似つかわしくないぞ」
ふざけて声のトーンを低くして言えば、ふんすと鼻息も荒くルドルフが腰に手を当てて言い張る。
確かに今更どうだも何もないのだが。
「まあ、トレーナーってどうしても指示指導する側だからね。一緒にキャッチボール、って言うのはちょうどいいレクリエーションになるのかもしれないな」
変なところで本気を出しかねないルドルフなので、心の交流とか言って全力投球してくるかもしれない。どこからかキャッチャーの道具一式を借りておかないとならないか。
「…はっ。なるほど、野球だけに、や、急にか。ふふっ…さすがはトレーナー君だ。やるじゃないか」
「え、いまさら?」
エアグルーヴがいなくてよかった。
その後も、ルドルフは事あるごとに思い出し笑いをしていた。