重くてもしっとりルドルフしていても、彼女の聡明さに陰りはないんだと思います。
そっと窓が閉められた。
私とトレーナー君の間が、薄い磨りガラス一枚に隔てられた。
ただそれだけ。
それだけのことが、寂しくて仕方がない。
だからと言って、こんな深夜にトレーナー君を困らせるのも本意ではない。
努めて視線をやらないようにしていたが、タオル一枚だけ巻いた姿は、私には随分と刺激が強い。じろじろ見ないように気を付けては居たつもりだが、私のはしたない視線には気づかれなかっただろうかと多少不安になる。
…桜月も今夜で終わる。
正確に言えば、既に新たな月の訪れは過ぎている時刻だが、私にとってはトレーナー君の「おやすみ」の挨拶を聞いてからが「一日の終わり」。
そして今日は年度の締め日。3月を禊月、と形容することがあるが、まさしく区切りの時期だ。
…だからこそ、脱走者や暴徒が出てしまう訳だが。
しかし私とて、退寮し学園から離れなければならなくなったなら…きっと、彼女たちと同じような過ちを犯していたことだろう。
故に、今夜は残業だ。
生徒会、という身分で残業という表現を取るのも妙な話だという自覚はあるが、与えて頂いている裁量権の大きさを考えれば、この程度どうということはない。
そろそろ業務に戻らなければ、と身を翻そうとして、シャワーの音が微かに聞こえ出した。
しまった。いくら春先とは言え、身体を冷やさせてしまったかもしれない。
…どうにも申し訳なく、そして名残惜しい。
私は実のところ「気性難」に部類される性質だと自覚している。
意志によって外面だけは「皇帝」に恥じぬ姿を見せんと常々努力を重ねているが、周囲の目が無ければ途端に崩れ去ってしまう。
顔を合わせない日がない、というほど毎日一緒にいる筈なのだが、この年になっても寮の門限、そして課業によって引き離される時は後ろ髪が引かれて仕方がない。
トレーナー君と専属契約を結ぶ前までは、あまり長くなかったはずの後ろ髪は、いつの間にか随分と伸びてしまっていた。
懐から時計を取り出し、時刻を確認する。
トレーナー君から「無敗の三冠」を記念してプレゼントされた懐中時計。
スマートウォッチを始め、活動量計、いわゆるフィットネストラッカーが全盛のこの時代に、わざわざ若干重く、メンテナンスが必要で、随分とレトロな物を寄越したものだと笑った事を思い出す。
龍頭を押し込むと、ぱかりと蓋が開く。
蓋の裏には、若干雑に貼り付けられた私とのツーショット写真の切り抜きが貼られている。
涙を湛えた、満面の笑み。
私よりもトレーナー君の方がよほど感極まっていた事は間違いないだろう。
思わず、口許が緩んでしまう。
ああ、こんな顔はエアグルーヴやブライアンには見せられないな。
かちかちと時を刻んでいくさまをぼんやりと眺めながら、ふぅと肺の空気を吐き出す。
熱く、熱を持った吐息を。
トレーナー君と接しているとすぐこれだ。我ながら単純すぎる。
いくら花冷えにしても、頬は自覚できる程度に上気してしまっているし、尻尾は抑えようとしても私の言う事を無視して暴れている。
ああこら、はしたないじゃないか。
もう少し、もう少しだけ。
いくら摺りガラスとはいえ、窓の向こうに私が立ったままではトレーナー君も心配してしまうと思い出し、一歩脇にずれてから、滴る水音を背に、壁に身体を預ける。
落ち着きを取り戻すために、そっと空を見上げる。
星空が見えれば言う事なしなのだが、残念なことに今夜は曇り。
月明りは望めないが、ぼんやりと照らし出された雲のおかげか、今夜は明るい。
脱走者を見つけるには程よいだろう。
明日の天候は大荒れだと天気予報が出ていたが、幸いにして明日はオフだ。
願わくば、せめて日が上るまでは降り出さないでいてほしいものだ。
…まだもう少し時間がある。
トレーナー寮に異変が無いか確認してくる、等と。
自分でも適当な言い訳だと思うが、それでも。
もう一度、空を見上げる。
湿った空が、ぽつぽつと涙を零し始めていた。
「…少しでも長く、一緒に居たいんだ」
泣き出した空を見上げながら、そっと心の裡を吐き出す。
私が私であるために。そして、自ら背負い込んだ重圧に抗うために。
なあ、トレーナー君。
君は時折、私から目を逸らそうとするな。
私が君に執着―――いや、依存していることは十分承知している。
きっと、君のように優秀なトレーナーのことだ。私だけでなく、他のウマ娘達の事も支えてあげたいと考えているのだろう。
それはトレーナーの本分。仕方がない事だ。
多くのウマ娘を勝利へと導く杖であらんとする君の意志は、星の輝きのように尊い。
だけど。
だけれど私は、きっとその輝きを覆い隠す雲になりたいんだ。
トゥインクルシリーズ。
「煌めき」の名を関した、一生に一度の大舞台。
彼女たちは星々を目指している。
君はいっとう輝く星の一つ。皆、君に手を伸ばすだろう。
私も「そちら」に引き上げてくれと。
…。
「総てのウマ娘の幸福を」。
あの時はまだ、君に語ったこの夢に嘘はなかった。
だけど。
私は、それらを遮り覆い隠す、雲になりたいんだ。
吹けば散り散りになって飛んで行ってしまう雲。
だが、都合がいい事に私にだけは「絶対」がある。
なあ、トレーナー君。
君はきっと、私から離れて行こうとするのだろう。
だけれど、もう、とうの昔から―――
「君を手放すつもりは毛頭ないよ」
…ふふっ。
さて、そろそろ役目に戻るとしよう。
エアグルーヴも、ブライアンも、待っている事だろうからな。