「歓迎!よく来てくれた!」
駿川さんに促され、理事長室に足を踏み入れると、楽しそうな笑顔を浮かべた秋川理事長に出迎えられた。
基本的に呼び出されでもしない限りは脚を踏み入れることがない理事長室は、相変わらずその羽振りの良さから見ればむしろ質素と言える程度の設備しか置いていない。
トレセン学園のボス、と言えば相当稼いでいそうなイメージがあるが、実際は自身への報酬もぽんと設備投資に突っ込んでしまう、小柄な少女にしか見えない人物であった。
「お呼びとの事でしたが、何の御用でしょうか?」
理事長直々に呼び出されると言うのは、これまで無かったことだ。
故に、この部屋に足を踏み入れるのも、採用試験の最終面接を受けた時以来である。
というのも、秋川理事長は基本的にアグレッシブに飛び回っていたりすることが多い。
突然巨大な地均しマシンでダート練習場に乗りつけたりと忙しない。
そのどれもが全て、「ウマ娘のためを想っての行動である」点については尊敬に値する大人物だ。
行動原理がシンボリルドルフの掲げる「総てのウマ娘の幸福」に近しいものがあることから、時折やらかすことがあるらしい事を考慮しても、この人物の下で働くことについて異論はない。
「制止!まずはお茶でも飲んで欲しい!」
たたた、と近づいてきたと思えば、私の手を掴んで応接用のソファまで引っ張られる。
予想だにしていない反応に、思わず手を引かれるままになってしまう。
…それにしても、小柄な体格をしている割には、見た目と結びつかない程度には力が強い。
「は、はあ…」
ソファに座らされると、ぼす、と音を立てて身体が沈み込む。
沈み込みすぎるということはなく、程よく身体が支えられるような感覚。
良いものを使っているのだなあ、と、どこか遠い世界での出来事のように感じた。
いそいそと対面に腰掛けた秋川理事長は、にこにこと笑顔を浮かべている。
「君とこのような場で話すのは初めてだな!」
「はい。採用面接以来だったかと」
当時、最終面接としてこの部屋に通された時のことはよく覚えている。
秋川やよい理事長。事前に名前も写真も確認はしていたものの、実際に対面したときはやはり驚いてしまった。
トレセン学園の理事長という重責を担っているのが、ほど小さな少女にしか見えない人物なのだから。
「もう4、5年は経ったか。あの時の私が君を採用したことが、今こうして学園にとって最も価値のある人材の一人となってくれたこと、嬉しく思う!」
「過分なご評価をいただいており、恐縮です」
「無用!そう身構えなくても良い!今日は君と話がしたかったのだ!」
そう言われると、余計に一体何の話が飛び出すのか、と身構えてしまう。
無礼講だ、と言われて本当に無礼を働く者もそういないのだから。
「はい、どうぞ」
すっ、と音もなく、眼前のテーブルにティーカップが差し出された。
駿川さんだ。
普段、正門前での声掛けなどあまり秘書らしくない仕事をしているところを見かけるため、こうして改めて秘書業務をしている姿を見るのは珍しい。
「あ、ありがとうございます」
「うむ、ありがとう!」
ゆらゆらと湯気が踊るティーカップからは、紅茶の香りがふわりと舞い上がる。
理事長に、ジェスチャーで促され、そっとカップを手に取ると、口元へ運ぶ。
「…美味しいですね」
「無論!とっておきだからな!」
随分と良い紅茶だ。
茶葉自体も相当に良いものなのだろう。
あまりこうした品に触れる機会はないが、飲みやすい。
渋みがほとんど出ていない。今度駿川さんにコツでも聞いてみたいところだ。
カップをソーサーに戻し、一息つける。
自分の所属する組織のボスとテーブルを挟んで1対1、という状況は、私から冷静さを奪うに十分だったが、暖かい紅茶のおかげか、少しずつ鮮明になっていく。
…随分落ち着きを取り戻せただろうか。
もう一度カップを口に運び、ゆっくりと味わう。
「…秋川理事長直々に呼び出しというのは珍しいですね。私に、何の御用なのでしょうか?」
今度はしっかりと、冷静に話ができると判断し、切り出す。
「うむ!」
それを見て取ったのか、理事長も今度は素直に説明するようで、カップを机に戻すと、いそいそと扇子を取り出して広げた。
「説明!実はーーーーー」
詰んだ。
たった一言で味が全くしなくなった紅茶を飲み切ると、一言二言交わして理事長室を辞した。
そしてその場で崩れ落ちた。
「あの…元気出してください、トレーナーさん」
駿川さんが肩を支えてくれるが、今の私に優しさは凶器しかならない。
ーーー秋川理事長は私に何か恨みでもあるのだろうか。
数日で立て続けにあの幼い声で死刑宣告を受けているが、これはそう言うタイプの負荷テストなのだろうか。
乗り越えたら給与が倍になるとか、そういうことがないのであれば、今すぐにでも逃げ出したい。
いや駄目だ。
ここから逃げ出したところで早晩ルドルフに捕捉されて連れ戻される。
それに、私はトレーナーという生き方しか知らない。今更他の仕事も…いや、できるかもしれないが、しかし別の世界へ飛び込んでいく度胸は残念なことに母のお腹の中に忘れてきた。
詰んだ。おしまいだ。
「…その、今年はなかなか決まらず…最終的に、担当を増やすのだからもうベテラン扱いで良いのではと秋川理事長が決めてしまいまして…」
「いずれ私がそうなる日が来ることは、承知していました。覚悟もしていました。ですが今夜いきなりとはまた、いくらなんでも性急ではありませんか?」
「私もそう思ったのですが…」
すっ、と目を逸らす駿川さん。
止められなかったんですね。
「ルドルフは…いや、この手の話はルドルフが反対したはずでは?」
そうだ、こんな圧政にはルドルフが反対するはず。
きっと上手いこと矛先をーーーー
「ルドルフさんも『それを任せてもらえるのは一流の証左。私個人としては歓迎こそすれど、反対は致しません』と」
「私を裏切ったな…裏切ったな、ルナ…っ」
「ま、まぁまぁ…トレーナーさんなら立派にやり遂げると見込まれての事ですから…」
「駿川さん、私の目を見て言えますか?」
駿川さんの目を正面から見つめる。
深みのあるエメラルドグリーンの瞳が、すっと横に逸らされた。
「…ごめんなさい」
「やっぱりそうなるじゃないですか」
トレセン学園内のことでは大抵頼りになる駿川さんも、やはり秋川理事長の決定には逆らえないようである。
理事長室からトレーナー室への移動の道すがら、頭に反響する秋川理事長の声。
『決定っ!今夜の講話担当が君に決まった!』
絶望的な通達。
抵抗も虚しく、秋川理事長はその無闇にまっすぐな目をして言い切った。
君ならできる、と。
一方でそれを通達された私の側は心中穏やかではない。
ーーー講話担当。
それはベテランが毎年涙目で震え上がる恐ろしいイベントである。
任されるのは、学園を代表するようなベテランだけ。
そうならば当然、新人や実績のないトレーナーにはこの役目は回されない。
秋川理事長が手ずから書いたらしい、やけに丸っこい文字で概要が記されたオリエンテーションシートに目を落とすと、途端に頭痛と胃痛を発症する。
可愛らしく描かれた秋川理事長をデフォルメしたようなイラストが煽っているようにすら感じてしまう。
本人にそんな気は一切なく、純粋な気持ちであることが声と目から伝わってくるだけに、やるせない気持ちが押し寄せてくる。
…『トレセン学園新年度オリエンテーション』。
通称を『講話』と呼ぶこのイベントは、オリエンテーションの名を冠していることからわかる通り、毎年4月、新入生が入寮し、新人トレーナーたちが赴任したタイミングで行われる。
屋外のライブ練習場を最大限活用し、日の沈んだ頃に開催される、いわゆる懇親イベントである。
ウマ娘たちはトレーナーとの二人三脚でのトゥインクルシリーズ出走を夢見て入学するが、トレーナーというものについて造詣の深い新入生は滅多にいない。
名門出身のウマ娘でさえ、現役かつ中央という最大の大舞台で活動しているトレーナーとの接点を持つ機会はほとんどない。
入学前の子供たちをターゲットとしたオープンキャンパスなどが年に何度も実施されてはいるものの、トレーナーたちが全面に立つことはない。
理由は単純だ。子供とはいえ年頃の少女たちにうっかり「余計な夢」を見せてしまいかねないからである。
つまり、敵を増やすことを担当ウマ娘たちが望まないから、理由をつけてトレーナー室に閉じ込められたり、なんなら遠征を勝手に組まれたりして惨事が起きる。
というか、実際に過去に起きている。
そのため、大抵はトレーナーとの接点がないまま、よく知らずに入学してくるのである。
また、新人トレーナーたちも、サブトレーナーとして実習などはすれど、本格的に配属されるにあたって、中央の第一線で戦うトレーナーたちが一体どのような存在なのかを勉強する必要がある。
彼らの口から語られるウマ娘という存在もまた、新入生にとっても、新人トレーナーにとっても、持ち合わせない目線での話だ。
そういった背景から行われる本イベントは、毎年、出席者たちがかぶりつきで話を聞きに来る一大イベントとして認識されている。
出席者は新人トレーナーたちと新入生、そして任意出席で在校生たち。
このイベントに参加し、数が少ない上に担当を抱えているためになかなか接点が持ちづらいトップトレーナーたちの想いやエピソード、覚悟のほどを知り、トレーナーとウマ娘は互いのことを理解する第一歩とするのである。
本イベントの担当に抜擢されたということは即ち、『現役トップトレーナーの一角』として話すことを期待されているということだ。
報道などは完全にシャットアウトしているし、話した内容が外部に出るようなイベントでもないのだが、その重圧は並大抵ではない。
そして、今年私がついに選ばれた。
それ自体は名誉な事だ。嬉しくないと言えば嘘になる。
しかし。
しかしだ。
今夜。
そう、今夜である。
崩れ落ちたり百面相したり、顔色が信号機のように点滅したりしている私を見かねてか、隣を歩いている駿川さんに思わず愚痴をこぼす。
「なんの準備もできないじゃないですか…」
今夜のイベントの準備を、当日の朝に言われてどうしろと言うのだ。
「あの、今回はルドルフさんも登壇いただきますから…彼女から何か聞いていませんか?」
「何も聞いてませんね。つい先ほどまで朝食を一緒に摂っていたはずなのですが」
「言いづらいでしょうからねえ…」
ただただご機嫌で朝食を食べていたルドルフの姿が脳裏を過るが、何か言わなければならないことを切り出せないでいるような雰囲気も、素振りもなかった。
これは恒例のあれだろうか。
彼女は私を全面的に信頼しすぎている気がある。
時折、その認識の齟齬からか、「ん?君なら当然できるのだろう?」と無自覚かつ無慈悲な信頼を向けられ、変にプライドのある私は「で、できらぁ!!!」と無駄に応えようとし、盛大に事故を引き起こすまでが恒例となっている。
そして不思議なことに、何度失敗してもその無闇矢鱈と厚い信頼感は小揺るぎもしないのだ。
お願いだからそういうところは揺るがせてくれと何度も目で訴えかけてきたが、未だ効果は表れていない。
そういえば、今回の連続死刑執行を通して感じたが、駿川さんはともかくとして、秋川理事長からもルドルフと似た種類の信頼を寄せられているような気がする。
流石にあの皇帝陛下のように「君なら空ぐらい駆けてみせるだろう」みたいなちょっと常軌を逸したとしか思えないような信頼ではないものの、「君ならできる!」みたいな、私の能力値を大幅に上回ったようなオーダーが時折降ってくるような気がする。
…買い被りすぎだよ、なんて。
ちょっとひねたことを言ってみたい気持ちもあるが、そんなことより命の危機を感じるレベルでの買い被りはやめていただきたい。
私はただのトレーナーなので、そういうのは切にご遠慮いただきたいと思う。
トレーナー室の付近まで来て、駿川さんと別れると、すぐさまルドルフの端末をコールする。
普段は授業中でもなければ3コール以内に出てくれる。
そのはずなのだが、出ない。
現在時刻を確認しても、まだ授業が始まる前の時間。
行動ルーチンから考えても、着替えも終わり、授業に向かっているぐらいの時間だ。
大丈夫だ。まだ日没まで時間はある。
まだ慌てるような時間ではない。
ひとまず、端末に講話の件について打ち合わせを行いたい旨のメッセージを送る。
話す内容のドラフトを作って、ルドルフと打ち合わせをして…トレーニングを妨害するような形になってしまうが、少しばかり時間を割いてもらえればなんとか夕方までには…。
メッセージに返信がついた。
『すまない、今朝伝え損ねていたのだが、今日の午後は生徒会の用事で夕方まで体が空かないんだ』
待って、待ってルドルフさん。
そして、とても忙しいらしいルドルフが全く捕まらず、珍しく朝から夕方まで顔を合わせることさえできずに夜を迎えた。
迎えてしまった。
嘘でしょ。
ライブ練習場には、例年通り新入生、新任トレーナーはもとより、在校生にとっても一大イベントとして認知されているせいで大勢が詰めかけている。
私は逃げようとしたところをこれから講話の会場へ向かうものだと勘違いあそばされた笑顔の駿川さんにとっ捕まり、逃げる機会を喪失して引きずられて現場へ到着していた。
おそらくこの会場にいるであろうルドルフを探し回るものの、探しているところをルドルフの腹心であるエアグルーヴに捕縛され、舞台袖に放り込まれた。
捕縛や放り込まれた、という過激なワードで表現したが、エアグルーヴが丁寧な態度で私を案内する形で穏便に、あくまで表面上は穏便にここまで連れてこられてしまった。
さっきから駿川さんといい、エアグルーヴといい、笑顔の圧が強い。
まずい。このままではほとんどぶっつけ本番になってしまう。
原稿も大したものができていない。
もともと、私は文章を書くのが下手くそなのだ。
データをまとめたりするのは職業柄得意なのだが、人の心に響く話し方なんて知る由もないし、精々がウマ娘を焚き付けるためのトーク技術ぐらいなものだ。
袖から壇上を見やれば、普段は対談形式ではないため演台一つで事足りるものを今回はわざわざ壇上に長机をハの字に置いて、対談としてしっかり設営しておられる。
わざわざペットボトルの水とグラスを用意する念の入れようだ。
机の前にはやけに達筆に名前が書かれた垂れ幕がぶら下がっており、妙な本気度を感じさせる。
『本日の講話は、当学園の生徒会長を務める、シンボリルドルフさん。そしてその活躍を影に日向に支える最大の功労者。若くして無敗の3冠バを育て上げ、トップトレーナーとして頭角を表した担当トレーナーさんにご担当いただきます。よろしくお願いいたします』
舞台照明が絞られ、駿川さんから会場に向けてアナウンスが入った。
大変よろしくされたくないです、駿川さん。
アナウンスに合わせて、向かい側の舞台袖からルドルフが姿を見せた。
君、そっちにいたのかよ。
瞬間、会場からは爆発的な歓声が送られる。
舞台のライトを浴びてもなお、自らが放つ輝きは揺るがない。
大舞台でも変わらぬその堂々たる立ち振る舞い。
流石は、『皇帝』。
毎日のように顔を見ている彼女ではあるが、こういう場面で見るのはやはり格別だ。
惜しむらくは、この後私は死ぬという点だろうか。
ルドルフが着席すると同時、進行管理を務めるエアグルーヴに押し出されるようにして舞台袖から壇上に転がり出る。
叩きつけられるライトが目に突き刺さる。
トレーナーなんていうのは基本的に裏方、というか。
自らがスポットライトを浴びるような場には出ることが滅多にない仕事だ。
取材を受けるにしても、会見を行うにしても、あくまで代理人のようなポジションで話をするだけなので、こうして自分自身にライトを浴びせかけられた時、どういう立ち振る舞いをして良いのかが分からなくなる。
逃げ場がない。
観客席からはひどくキラキラとした光を宿した視線がこれでもかとばかりに突き刺さるし、よく目を凝らさなくともトウカイテイオーやゴールドシップまでもが嫌がらせのつもりか最前列に陣取っている。
なんとか自分自身を立て直し、壇上を進んで自分に割り当てられた場所へ着席する。
先ほどから表情筋が仕事をしておらず、貼り付けたように動いてくれない。
なんとかルドルフとアイコンタクトを取り、助けてと念を送ってみるものの、彼女は悠然と微笑んだままだ。
やはりこれは闇雲な信頼感が仕事をしている。
今この場であっちに座っているのは、皇帝シンボリルドルフというよりはウチのルナちゃんだと思った方がいい。
…どうしようか。
何を話せばいい。
どう話し出そうかと悩んでいると、ADと書かれた腕章をつけたナリタブライアンが屈みながらマイクを持ってきて、私の前にそっと設置した。
ナリタブライアン、君の地を這うような走行フォームは是非レースでだけ活かしてほしかった。
思わず、ぽんぽんとマイクに触れて音声を確かめる小細工で死ぬまでの時間を一瞬でも伸ばそうとしてしまった。
『えー…まずは新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。また新人トレーナーさん、同僚として歓迎します。今回は担当ウマ娘のシンボリルドルフとーーーー』
乗り切った。
乗り切ってやった。
当たり障りのない挨拶にはじまり、これまでの戦歴に沿って、自分の考え方や、どんなトレーナーが理想か、そしてどういう基準でウマ娘とトレーナーは組むべきかなど、出任せ気味ではあったものの、言えることは全て言い尽くしたと思う。
幸いなことに、こういう場でやっぱり滅法頼もしい我が愛しの皇帝陛下が丁寧に補足してくれたし、なんとか突っ走ることができた。
あのまま無邪気な信頼を寄せるルナちゃんのまま置物になられていたら、今頃私は泣きながら何処かへと逃走を図っていたことだろう。
流石は皇帝陛下。
私は手のひらを返しすぎて手首が予後不良になっても一向に構わない。
普段公の場で話をする機会が少ないのが仇となり、割としどろもどろになってしまっていたことは自覚できている。
ふと運営側の席へ視線をやれば、東条トレーナーや黒沼トレーナーをはじめ、ベテランの面々は腕を組んで深く頷いていた。
一瞬、話の内容として問題なかったのかとも思ったが、あれは違う種類だ。
ーーーあれは絶対に安堵の頷きだ。
押し付ける先がやっと増えたか、という思いでベテラントレーナーたちの心が一致している。
なるほど、これが毎年誰かしらが酷い目に遭わされるベテラントレーナーの心境か。
しかも今まで、担当ウマ娘と一対一での対談なんて誰もやっていなかったから1人で話していたのだ。心中を察するにあまりある。
『さて、それでは皆さまお待ちかね!ミニライブです!』
在校席の席から爆発するような歓声が上がった。
ーーーー忘れてた。
そうだ、これがあるからベテランが全員嫌がるんだ。
普段であれば「るどるふがんばえー」と遠い世界のように応援できるが、このミニライブだけはダメだ。
なぜならーーーー
『新入生の皆さんの中には、本学のトレーナー陣が『どれほど高いレベルで指導できるのか』まだ懐疑的な方もいらっしゃるかと思います』
『トレーナーの皆さんも、トップトレーナーたちの実力の程が気になるかと思います』
『本ライブでは、通常はウマ娘の皆さんが行うミニライブをーーーー』
ーーー
トレーナーとしての覚悟の程と、その高い指導水準を見せつける、という適当な理由によって就任時から秋川理事長が講話に加えたというミニライブである。
確かに、トレーナーがどれほどの技量を持っているか一目でわかりやすい。
さらに、新人トレーナーには、トレーナーという職務を担う者がどれほどの覚悟と研鑽を積まなければならないのかを伝えることができる。
そして、最後に。
在校生にとっては、普段自分達が行うライブをトレーナーが行うという非日常感は、大いに騒ぎ、娯楽とする機会なのである。
ルドルフを見れば、我が頼もしい愛バの姿は既に壇上にない。
…。
え?
は?
ルドルフきみ、そこは一緒にやらないの?
『それではお願いします!』
駿川さんのアナウンスに合わせ、照明が落ちる。
ファンファーレがけたたましく鳴り始める。
私の現在地は壇上一番上。つまりちょうど何故か都合よく開始位置だ。
ひっそりと誘導されていたことに気が付けなかった。
おのれナリタブライアン。
視線を巡らせれば、ルドルフは最前列でサイリウムを両手に握っていた。隣にはトウカイテイオー。
本当に仲良いね君たち。
またしても颯爽とナリタブライアンが走ってきて、素早く私にピンマイクをつけると去っていった。
ベテラン席は?
だめだ全く当てにならない。ベテラン勢までサイリウム配られている。
黒沼トレーナーがなにやら気合を入れ出した。
コールする気だあれは。あの声で。
あの人なんであの見た目で職務には忠実なんだ。
エアグルーヴが手信号でカウントを出し始めた。
あと5秒。
私の味方はいない。
後3秒。
退路がないことも確認できてしまった。
後1秒。
手遅れだ。
がこん。
ゲートが開く音が聞こえた。
『位置について…よーい、どん!!!!!』
私は、反射的に飛び出した。
ーーーステップを降りるときは顔を下げない。
一歩一歩踏み出す感覚を叩き込んで。踏み外したら全部終わりだ。
この曲は最強のウマ娘にだけセンターが許される曲だよ。絶対に下を向いてはだめ。
降り切ったらすぐに手を離してハナに付けて。
自分には似合わないと思っても、恥ずかしさを一切見せない。
2位以下を振り切るより簡単でしょ?
「うーーーーーー!」
『『『うまだっち!』』』
在校生とトレーナー席から、勢いよく合いの手が叫ばれる。
ここまで来たらもう逃げ場もない。
両手を掲げて、自分こそが最強で、最も可愛いウマ娘だと定義して。
大丈夫、本気でやれば絶対に可愛くなるから。
可愛くなるのはウマ娘だからこそ、なのだが。
ーーーやってやるさ。
まさか自分を最も可愛いウマ娘になれと定義して踊る羽目になるとは当時思っていなかった。
私にはこの曲は似合わないのではないか、と困り顔で悩むルドルフにあれほど強弁しておいて、私が恥ずかしがっては示しがつかないではないか。
ねえ、ルドルフ。ちゃんと見ていてくれ。
君のトレーナーはやっと一流の仲間入りを許されたんだ。
「うーーーーー、うまぴょいうまぴょい!」
『『『うまぴょいうまぴょい!』』』
合いの手がきっちり入ってくる。
サイリウムを握りしめたベテラントレーナー達が、場を盛り上げにかかる的確なコールを飛ばす。
恐ろしいまでの一体感。
有難い援護射撃に涙が出そうになる。
できれば皆さんもこっちに上がってきませんかと縋るように目を向けるが、揃って首を横に振った。
どうにもあちら側とは一体感を共有させていただけないようだ。
「うーーー!」
『『『すきだっち!』』』
秋川理事長の意図は正しく会場に伝わっているだろうか。
我々トレセン学園は、大人の尊厳も何もかも擲ってでも、ウマ娘を導くことに全力を尽くすのだという覚悟と、確固たる意思があるのだと。
「うーーー!」
『『『うまぽい!!』』』
当然のように、現役のG1ウマ娘たちも負けじと声を張り上げる。
この曲を踊ることが許されるのは、数少ないG1ウマ娘の中でもほんの一部。
超一流でなければ、バックダンサーとして舞台に上がることさえ許されない。
そういう、「頂点」に自分の姿を重ねてしまえば、血が滾って仕方がないのだ。多分だが。
「うまうまうみゃうみゃ3,2,1!」
『『『ふぁいっ!!!』』』
ルドルフが何事か書かれたハチマキを額に装着し、左右にうちわまで装備してサイリウムを見事に振り回しているのが視界に入った。
残念なことに今日のシンボリルドルフとは何も分かり合えていないらしい。
ただただ、必死だった。
トレーナーとして決して無様を見せてはならないという責任に突き動かされるように身体を動かし、声を張り上げる。
もはや羞恥心はどこかへ捨ててきた。
ここにあるのは、ただただ完璧なうまぴょい伝説を求める求道者か何かだ。
「今日の勝利の女神は、私だけにチュゥする」
瞬間、雄叫びのような声が上がった。
誰かよく見慣れた奴が壇上に突撃しようとでもしたのか、トウカイテイオーとゴールドシップに押さえつけられている。
ライブの高揚感に当てられたのか、見えた限りでは押さえつけている二人も目が血走っている。ウマ娘の夢である最高峰、最強にのみセンターが許されるはちゃめちゃ楽しいと評判のライブを前に、興奮が抑え切れないのだろう。
実際のライブでもよく見られる光景を無感動に眺めながら、サビへと向けて全身全霊で持って盛り上げにかかる。
『君の愛バが!!』
『『『俺の愛バが!』』』
私はやり切った。
何か色々と大切なものを失った感はあるが、それでもやり切った。
なお、私の愛バはサビのあたりで興奮し過ぎて失神したらしいと、あとで聞かされた。