「全身が痛い」
「大丈夫、トレーナー?」
全身がギシギシと痛む。
昨夜のバ鹿騒ぎの影響が肉体面に確実にフィードバックされていた。
翌々日にフィードバックが返ってこなくてよかったと思う反面、トレーナー業をやっているうちに、いつの間にかこんなに簡単に筋肉痛になるほど鈍っていたことに驚いてしまう。
外での仕事が中心とはいえ、なんだかんだで午前中いっぱいはほぼデスクワークだ。
それに、ウマ娘のトレーニングを見ているのに自分が一緒に走るわけにもいかない。
まぁ、いくらトレーナー養成課程でスポーツ医学などのスポーツ科学を学び、肉体面のトレーニングを積んできたとはいえ、当然ながらウマ娘にそんなことをしても絶望的な時速差でぶっちぎられるだけなので、並走など間違ってもやらないのだが。
今はターフを駆けるウマ娘達を肉眼と双眼鏡を使い分けて眺めているわけだが、付近に担当ウマ娘であるシンボリルドルフの姿はない。
どうも昨晩、鼻出血を起こしたらしい。
念の為今日いっぱいは安静にするとのことであった。
ウマ娘にとって鼻出血は幸にして致命傷とはならないものの、あまり洒落になっていない。
今朝お見舞いに寮へ足を運んだが、どうも寝ているらしいため、昼過ぎにでも再度顔を出すとして、ひとまずはお見舞いの品だけ置いて撤収してきた。
さて。
視界の端でぴょこぴょことポニーテールが弾んでいる。
「トレーナー、カイチョーいないならヒマでしょ?ボクのトレーニング見てよー」
いつものことながら元気いっぱいなトウカイテイオーにまとわりつかれていた。
「トウカイテイオー。君はまだリハビリ中だろう」
「うん、でもあと1週間!」
もう走り出したくてたまらない、と言ったように、うずうずと身体を動かしている。
ウマ娘の本能が疼いて仕方がないのだろう。
相手をしなければまた鼓膜破壊兵器の餌食になりかねない。
ルドルフも今日は不在のため、多少であれば意識を向けることも吝かではない。
単純に、話し相手がいない状況で他のウマ娘のトレーニングの様子を眺めている自分の姿を客観視した際、ただの不審者に成り下がるから緩衝材が欲しいという切実な理由もある。
トレーナーとはいえ、バッジをつけてなければただの不審者だ。
「まだ我慢だ。できればきちんと完治の診断が出るまで全力疾走はやめるべきだ」
「うー!」
不満そうに頬を膨らませるトウカイテイオー。
こうして見ているとまだまだ幼さを感じさせるが、骨折前の走りは鬼気迫る物があった。
何かの影に取り憑かれたように。
シンボリルドルフに憧れている、というのは聞いている。
入学時からそれを公言して憚らなかったし、実際にルドルフとよく話している姿を見かける。ただのファンというレベルで終わる可能性も十二分にあったし、一時期の不安定なメンタルを引きずっていたならば今頃足を壊していてもおかしくはなかった。
骨折によって走れなくなったことで、心境に変化があったのだろうか。
彼女が纏う雰囲気は、今ではきちんと前を向いているように感じられる。
優秀な才能に努力できる気質。
骨折前の時点では同世代では頭ひとつ抜けていたことは確かだ。
引く手数多であろう彼女は、これからどうなっていくのか。
何を目指し、何を乗り越えて、どこへ辿り着くのか。
興味がない、といえば嘘になる。
「トウカイテイオー」
「ん?なーに、トレーナー」
「さっきからぴょこぴょこと髪が視界に入る。もう少し後ろでやってくれないか」
「ぶー!!」
わかりやすくぶーぶーと文句を言うトウカイテイオーを他所に、双眼鏡を覗き込む。
覗き込んだ双眼鏡の先では、ターフの隅に転がったグラスワンダーが幸せそうな顔をしてたんぽぽを食んでいた。
…平和だ。
違う。そうじゃない。
今ターフをせっせと走っているのは、新入生たち。
昨日の日中にオリエンテーションが終わり、今日から早くもトレーニングが始まっているのだ。
その中でも特に目立つ者を探しているところだが、見覚えのある二人組が先頭付近をどんどん抜きながら爆走している。
「…ダイワスカーレットと、ウオッカか」
あの時の二人組だ。
いかにも仲が良さそうな二人は、競い合うようにして爆走している。
大逃げと思しき青い髪をした小柄なウマ娘が、後からひどい形相をして追い上げてくる二人に追い立てられるような状況だった。
前を走っている小柄なウマ娘は面白い物を持っていると思うが、私とは相性が悪そうだ。
そうなると、後ろの二人はどうか?
毎年新入生を見かけるたびに思うが、レース運びをろくに知らない素の状態というのは、得意脚質が出やすい。
本能的にレース勘を持っているでもなければ、大体最も得意な走りというのが露骨に出やすいのだ。
そこに「新入生」というある種の状態補正がかかる。
いわば、皆猫をかぶっている状態に近い。
自分を教導する教官が見ている前で、いきなり自分の好きに走れるウマ娘というのは案外少ない。
大体が小さくまとまって、というか、集団に敢えて埋もれることを選択しがちになる。
そんな状況で、ライバルがいるからかどうかは分からないが、あの大逃げと追い上げだ。
賢いタイプではないが、追い上げている二人に関しては、明らかに闘争心は十分持ち合わせているように思える。
「良さそうな子でもいたの?」
「新入生はまだ判断材料が少ない」
声をかけてきた、という縁があるため、多少判断にバイアスがかかっていることは否めない。冷静に判断する必要がーーー。
「迷ってるよね」
思考が、トウカイテイオーの声で遮られた。
「…どういうことだ?」
「トレーナー、なんかぐらぐらしてる」
どきり、と心臓が跳ねたような気がした。
まさか、トウカイテイオーから指摘を受けるとは思わなかった。
確かに、その通りだ。
冷静に判断?
私はいつ、そんな価値観を求めた?
トレーナーとしての在り方、その根幹。
昨日偉そうに壇上で語ったはずのそれ。
…違うだろう。
「…やめだ」
「…ごめん、余計なことを言っちゃった」
「そうじゃない」
荷物を手早くまとめはじめると、トウカイテイオーは余計なことを言ってしまったという後悔を滲ませながら、しょんぼりと耳を萎れさせる。
そうじゃないよ。
荷物を押し込みながら取り出したキャンディ。
皇帝のご機嫌取りに常備していたそれではなく、時折私が口にする糖分補給用のミントキャンディ。
トウカイテイオーの唇に、いつも常備しているキャンディを押し付けてやる。
彼女はきょとんと不思議そうな表情をしながらも、素直にぱくりと口に入れた。
「またね」
私は後ろ手に軽く手を振って、その場から立ち去った。
さらさらと水の音に包まれる。
河川敷はそれなりに閑静で、水の流れる音と、たまに通る車の音が全てだった。
まだ日も高いうちから河川敷をぶらぶらしているのは気が引けるが、今は頭を整理したかった。
…図星を突かれた程度で機嫌が悪くなるほど幼稚でもないつもりだ。
勘が鋭く、頭も回るルドルフと一緒にいると、そういう幼稚さがなんの解決にも寄与しないことはよくよく理解している。
つい先日、メジロマックイーンが泣いていたグラウンドを通り越えて、芝生の上を歩いていく。グラウンドでは、町内会と思しきご老人たちがゲートボールに精を出していた。
まだ涼しさの残る春の陽気。
河川敷を流れる風は、まだ冷たい。
…駄々をこねたところで、大人の対応で流されてしまう。
彼女との関係性を良好なまま維持することは難しい。
いや、ウマ娘全般がそうだ。
だからと言って、それが熱を失っていい口実にはならない。
別に本気じゃなかったと言う訳ではない。
手を抜いていたわけでもない。
だけれど、知らず知らずのうちに、どこかで諦めていたのも事実だった。
靴を脱いで、川に足を突っ込む。
まだ春を迎えたばかりの川は、ぴりぴりと刺すような冷たさで迎えてくれた。
『熱を入れすぎるな』
『入れ込みすぎるな』
『それはトレーナーとしての破滅に繋がる』
頭の中に声が反響する。よくよく言われてきた事。
確かにそれはその通りだ。
誤って踏み込みすぎてしまえば、冗談のような話だが自分の身が危ないことは分かっている。
本気で向き合えば向き合うほど、どうしても互いに融け合っていってしまうから。
彼女たちと私たちは、方向性が同じだからだ。
同じ目標を、目的を掲げ、それに向かって走る。
彼女たちはその足で走り、トレーナーはそれを支える杖となる。
いつしかそれが融け合って、自分と相手の境が曖昧になっていく。
それはどうしても、恋愛感情に結びつきやすい。
互いに一番近い他人になっていくのだ。
日々を共にして、目指す物を同じくし、共に歩いていく。
誰よりも、何よりも近くて遠い他人になっていく。
いつしか融け合って、混ざり合って、ひとつになっていく。
依存していく。
だから失うのを恐れる。
だから失うのをひどく嫌がる。
だから、自分の元に置こうとする。
ウマ娘からすれば、トレーナーというのは自分の夢を一番近くで応援して、支えてくれる他人だ。誰よりも夢を理解して、自身を理解して、そしてステージを押し上げてくれる存在。
懐かない、という方が難しい。
だから距離感を誤って仕舞えば、ついつい「独り占め」したくなってしまう。
そんな例を、随分と見てきた。
私は自分とルドルフの夢のためにそうなるまいと、必死で抵抗していた。
道半ばで、トレーナーとしての道を断たれてはお互いのためにならないからだ。
だけど。
私の思い描いた夢は、そうではなかったはずだ。
ざぶざぶ、と水をかき分けて。
裾が濡れるのも構わず、少しだけ川の深い方へ歩く。
もう指先の感覚は麻痺してしまったが、頭を冷やすにはこのぐらいがちょうどいい。
ぐらぐらしてる。
トウカイテイオーが放った、おそらく感覚的な一言。
その通りだ。
今の今まで、私自身気づいていなかった。
これだから天才と言われるような連中は嫌なんだ。私のような常人の目からは何もかもすっ飛ばして、核心に触れてくる。
ああ、そうだ。
私の目指した夢とは、そんな無味乾燥な物ではなかったはずだ。
ウマ娘に寄り添い、共に喜び、共に悔しがり、それでも前に進み、そして彼女たちの夢を叶える手伝いをする。
そういう者になりたかったはずだった。
そんなことばかり考えているから、道を間違えるのだ。
そうだ。トレーナーは別に有能でなくても構わない。
小手先の技術、指導効率。
そう言ったものも確かに要素の一つではあったが、それが最大のファクターではない。
そんなもの、いくらでも外部から補ってやれる要素だ。
思い入れが強ければ強いほど、ウマ娘もそれに答えてくれる。
人もそうだ。期待されることでプレッシャーになる者もいるが、それでも期待というのは前へ進むための原動力になってくれる。
だから、トレーナーというのは他の誰よりも担当のウマ娘のファンであり、誰よりも理解し、一番近くで寄り添って、支えていく存在であるべきだった。
それは当然、逆も然りだ。
私は、彼女たちを勝たせたい訳じゃない。
ウマ娘の夢を叶えたくて、トレーナーになったのだ。
当人の能力で選別する必要なんてなかった。
私は。
トレーナーを見つけることができたのは、偶然だった。
あの後、トレーナーがふらふらと学園の外に出ていったというのをスペちゃんから聞いて、ボクは何となく追いかけることにした。
本当はリハビリをしなきゃいけないんだけど、歩くのもちゃんとしたリハビリ。
それに、本当はもう治っている。
後1週間、念のために安静にするだけなんだから。
トレーナーはよく、カラオケボックスで仕事をしていると聞いたことがある。
マックイーンが昨日、何か言ってたし。
ボクが骨折している間に、ライバルがトレーナーになってたんだけど、なんで?
でも、頭を冷やすと言っていたから、多分どこかで仕事をしているよりも、川のあたりにいるんじゃないかな、と思って見にいけば、それは正解だった。
「トレーナー!?」
しかし、遠目にボクが見た光景は、トレーナーが入水自殺しようとしているところだった。
え!?なんで!?
ざぶざぶと川の深い方へ歩いていく。
ちょっ、止めないと!
慌てて河川敷を駆け降りると、靴とソックスを投げ捨ててボクも川に踏み込む。
…ちべたい。
でも、それどころじゃない。
「トレーナー!何してるの!」
ゆっくり進んでいくトレーナーは、ボクの声が聞こえていないようだった。
さっき話した時は、思い詰めたような顔をしていた。
ボクが言ってしまった言葉が、もし言いすぎていたなら謝りたい。
それに、もしトレーナーがもうダメなんだというなら、その時はーーー。
なんとかトレーナーの腰にしがみつく。
「トウカイテイオー?」
なぜか、びっくりしたような顔をしてトレーナーが振り返った。
「だめだよトレーナー。何か悩んでるのはボクも知ってるけど、それだけはだめだよ!」
「え?何が?」
「自殺はだめえええええええええええええー!!!!」
「落ち着いた?」
ぐっしょり、と濡れてしまったスカートの裾が張り付いてちょっと気持ち悪い。
あの後、ボクの早とちりだったことがわかった。
頭を冷やそうと思って、冷たい川の水に浸かっていただけだとトレーナーは言うけれど、あの顔をして川に入っていったらみんな死のうとしてるんじゃないかって同じことを考えると思う。
少し怒ったようにボクが言えば、トレーナーは「面目ない…」と、少し恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。
…え?笑った?
カイチョーもいないのに?
「ちょっと落ち込んでいてね」
「トレーナーが?」
「うん。自分の不甲斐なさに、ね」
「トレーナーも悩むことなんてあるんだね…くしゅっ。あ゛ー…ざむいよー…」
「あぁ、冷えてしまったな。良かったらこれ使って」
「え、でもトレーナーも寒いでしょ」
「私のために川に入った子に、風邪引かせるわけにもいかないでしょ」
「じゃあ、うん」
頭を冷やすために川に入ったトレーナーと、早とちりで川に突っ込んだボク。
お間抜けな二人は、ひとまず服が乾くまで日当たりのいい場所で待つことにした。
隣り合って、芝生の斜面に。
ぽかぽかとした日差しは、冷え切ってしまった身体をじんわりと温めてくれる。
なんとなく、ボクたちはお互いにさっきのことに触れる気にならなくて、他愛のない話をした。
最近のターフの様子がどうとか、カフェテリアのメニューがどうとか。
百味サイダーの入っている自販機の場所をトレーナーが知らないと言うのも意外だった。
あれ、人間が飲むものじゃないからね。
トレーナーって、こんな風に話すんだ。
相変わらず鉄面皮、というか。
あんまり表情そのものは変わらないけど、時折笑ったりする。
ボクはそんなことも知らなかった。
幸せな時間はあっという間に過ぎていく。
「日が落ちてきたな」
いつの間にか、すっかり服は乾いていた。
そろそろ帰るべき時間なんだろう、と思ったけれど、もう少しだけここにいたい。
カイチョーもいない。邪魔をする人は誰もいない。
近くを通る人はいるけれど、誰もボクたちのことを知らない。
ふとトレーナーが立ち上がり、芝生を危なっかしい足取りで降りていく。
そういえば、筋肉痛だって言ってたっけ。
「ねえ、トウカイテイオー」
芝生を降りて、軽く伸びをしたトレーナーが、後ろを向いたままボクの名前を呼んだ。
「なーに、トレーナー?」
「今の夢は何だい?」
無敗の三冠…ううん、違うね。
今までだったら、何も考えることなくそう口にしていたと思う。
ずっと、ボクの夢だったそれを。
でも、今は違う。
「ーーーー絶対の帝王・・・・・。ボクは、絶対の帝王になりたい」
皇帝も超えて、伝説を塗り替えて。
誰もの記憶に残る、そんなウマ娘になりたい。
「いいね・・・」
トレーナーは笑った。
ボクの夢を聞いて、嬉しそうに笑ってくれた。
「ねートレーナー」
「何?専属契約だったらーーー」
「寒い」
「…帰ろうか」
「んー。でも、まだもうちょっと」
「上着は売り切れてるけど」
「だからさー、踊ろーよ。あったまるよ?」
「は?」
ねえトレーナー。
一方的に愛を語らせてよ!
今はそれだけで我慢してあげる。
オレンジ色に染まっていた空が、夜の色に移り変わっていく。
カイチョーと、ボクのによく似た三日月が覗き込む中で。
さあボクの手を取って。鮮やかにステップを。
あ、トレーナーの手、暖かいね。
さ、テイオーステップについて来れるかな?
もうちょっとでいいんだ。
トレーナーの入水自殺未遂を止めたボクに、ちょっとご褒美があってもいいじゃん。ね?
だから、夜が来るまで。
「…ぜえ…ぜえ…」
ライブでやるようなダンスじゃなかったし、二人で踊るダンスなんてよく知らない。
めちゃくちゃだったけど、めちゃくちゃ楽しかった。
「ぜー…はー…。さすが噂のステップ…。ついていくのもキツい…」
まだ春の日暮れは早い。
もうすっかり星空になってしまった空を仰ぐように、トレーナーは芝生の上に大の字になって転がった。
ボクのステップについてこようだなんて、10年早いよ、なんて笑って言えば。
トウカイテイオーには最近教わってばかりだ、なんてトレーナーが笑う。
「
トレーナーがきつそうに身体を起こして、何かをポケットから取り出した。
もう周りは暗くて見えなかったから、寝転ぶトレーナーの近くに行く。
スカートの裾を押さえることも忘れない。
見れば、それは紙だった。
リハビリが終わるから、今度はトレーニングメニューかな。
近づくにつれ、何が書かれているかがはっきり見えてきた。
ーーー
ボクがトレーナーに抱きついて押し倒したのも、無理はないと思う。
ねえ、トレーナー。
これからは、「
まだボクのものじゃないけど、「シンボリルドルフのトレーナー」なんて呼び方は、すぐにボクが塗り替えてみせる。
誰よりもトレーナーのことが好きで、誰よりも強い、絶対の帝王が!
カイチョーだって、いつまでもトレセン学園にいるわけじゃない。
いつか必ず、ボクの事だけを見るようになるから。
だからさ、今はまだ、一方的に愛を語らせてよ!そのくらい、許してくれるでしょ?
「せっかくだから手を繋いで帰ろー!」
「ええ?」
さあボクの手を取って。軽やかなステップで。
後少しだけ。