夜。
意地でも手を離さないテイオーを栗東寮へ送り届け、散々駄々を捏ねられた挙句引っ付かれ、軽い騒ぎになった。
散々涙目でごねるものだから、騒ぎを聞きつけてやってきた寮長のフジキセキと、そのフジキセキが呼び出したテイオーと同室のマヤノトップガンに「べりっ」と音がする勢いで引き剥がしてもらい、ようやく人心地ついた。
フジキセキといい、マヤノトップガンといい、『しょうがないなあこいつは』という目で私を見ていたのが気になった。
一方、取り押さえられたテイオーは、その大きな目に涙をいっぱいに湛え、最後まで私に向かって手を伸ばしていた。
「トレーナ゛ー!」
声がフェードアウトしていく。
今生の別れか何かだろうか。
寮の奥へ消えていく姿と涙声を見届けると、踵を返す。
大分遅くなってしまったが、ルドルフの様子を確認しに寄って帰ろう。
無闇に筆まめというか、細かくメッセージを送ってくる彼女だが、今日は珍しく静かにしている。
普段、ライブを観客席で見ることなどない彼女だ。気絶するほど興奮したとしても、まぁ、ルドルフのライブでは良く見かける光景である筈だが、余程羞恥心を刺激したのかもしれない。
美浦寮は栗東寮からほど近いが、隣接と呼ぶほどではない微妙な距離感がある。
寮同士では一応対抗意識のような物があるらしいので、近すぎない方が良いのかもしれないと思いつつ、歩みを進める。
空はすっかり夜に包まれており、三日月と星々が顔を出していた。
トレセン学園生の寮、というのは基本的にトレーナーの出入りが禁止されている。
大体の場合において、トレーナーが自らそこへ足を踏み入れることはなく、用事があったとしても寮長なりを介しての呼び出し、あるいは携帯端末で連絡を取り、寮の外まで出てきて貰ってようやく接触が取れる、というルールが存在しているからだ。
このため、見舞いに行くにしても、大体が室内まで足を踏み入れることはできない。
その理由の一つとして、寮生は基本的に二人一部屋だからだ。
どちらも同じトレーナーがついていればあまり気にされないかもしれないが、同室のウマ娘からすれば他人が自室へ入り込んでくるようなもの。
表向きの理由としてはそんなところだ。
もう一つの理由として挙げられるのは、ウマ娘自身がトレーナーを自室に引っ張り込むということ。
基本的にウマ娘に対し、人の肉体で対抗することはほとんど不可能である。
それこそ、護身の術を極めていようが、そのすらりと細い足から繰り出される蹴りの一発で大の大人を簡単に無力化してくるような相手だ。
もし、同室のウマ娘まで加担して『何かあったら』手の施しようがない。
故の立ち入り厳禁。
そのルールが破られることは、よほどの事態でもないとあり得ない。
見舞いですら許可されることは稀だ。
一方でなぜかトレーナー寮、いわゆる社宅においては出入り制限という聖域は存在せず、別にウマ娘も入っていいよ、ということになっている。理由は考えたくない。
そんな理由によって、寮長のヒシアマゾンに声をかけた折、そのまま寮内に通されたのは驚愕に値する出来事であった。
「不思議そうな顔してんな」
先導するように歩くヒシアマゾンが、前を向いたまま言う。
時間としてはそこまで遅い時間ではない。まだ寮の内部を彷徨いているウマ娘は多い。
私は奇異の目線に晒されて辟易しながらその後をついていく。
ウマ娘たちの耳はとても良いが、寮内は別室の雑音を良すぎる耳が拾ってしまわないよう、徹底された防音対策が取られている。
つい気が逸って廊下を走ってしまうウマ娘などもいるため、廊下には吸音材を兼ねた分厚いカーペットが敷かれているし、ドアも見た目の割には相当密閉性が高い物が採用されているし、壁にも吸音材や防振シートなど、音を通さないための素材の類が入っている。
繊細なウマ娘が話し声などで眠れなくなり、コンディションを低下させることを避けるために取られた措置だが、そのためか廊下を歩いているだけで少々感覚が狂う。
密閉されたスタジオや、防音室などに初めて足を踏み入れた時のような、微妙な感覚の違い。
入寮したてのウマ娘が戸惑うことがある、と言うのが今更ながらによくわかった。
「まさか寮長の手引きで入寮できるとは思わなかったよ」
「まー、アタシは別にそこまで厳密にやろうって気はないからな」
よく日に焼けた褐色の肌。笑うと八重歯が人懐っこい印象を与えるヒシアマゾンが、からからと笑う。
言動は比較的粗暴なものがあるが、面倒見が良く、根は真面目であるということはよく知られている。
そうでなければ寮長など任されないからだ。
時折やらかすらしいが、それが許されると言うのも人徳なのだろう。
「同室の者は私が入っても大丈夫なのかな」
「いや、流石に鼻出血で寝かされるのが恥ずかしいってんで、今は空き部屋に移動してるぞ。安心しろ、アタシも席を外してやるから、ちゃんとタイマンできる」
タイマン(意味深)はしたくない。
できればヒシアマゾン寮長におかれましてはぜひご同席賜りたい。
「…手間をかけさせたようで済まない。今度お詫びを届けさせるよ」
「いいよめんどくさい。今度リンゴ飴でも奢ってくれ。それにしてもアンタ…雰囲気変わったか?」
聡い。
ヒシアマゾンとはシンボリルドルフの関係で彼女を交えて比較的会話をする機会が多いが、ここまで容易く気付かれるとは思わなかった。
「そうかな」
「なんつーか…ま、アタシにゃ関係ねーか。…この部屋だ。アタシは戻るから、何かあったら呼び出してくれ」
「わかった」
じゃーな、と気軽に手を振って立ち去るヒシアマゾン。
その頼もしい背中が遠ざかるのが、今は無性に寂しい。心底。
息を吸って、吐く。
意思を固めて、ドアに備え付けられたインターフォンに指を掛け、押し込む。
カチリ、と押し込んだ感覚が指に伝わってきて、インターフォンのスピーカーから軽いチャイムが流れる。
一方で、室内に響いている筈の音は聞こえてこない。
防音対策が仕事をしている証左だった。
しばらくして、錠前の回る音がした。
ガチャリ、とドアが開く。
「なんだ、ヒシアマゾ…」
ドアから姿を見せたルドルフは、なんというか緩みきった姿だった。
具体的に形容するならば、くたびれた休日のOL、と言う感じだろうか。
前を開けたジャージの上下はよくよく見慣れたトレセン学園のジャージだが、中に着ているシャツには何事か筆文字で書かれており、読むだけでエアグルーヴの調子を下げに掛かってくる。
さらに髪もめずらしく後ろで緩く纏められており、眼鏡をかけているという姿。
完全にリラックスしておられる。
「…やあ、こんばんは」
「ン……失礼」
そっとドアが閉じられた。
「やあトレーナー君。わざわざ寮まで見舞いに来て貰ってすまない」
若干の震え声で部屋に招き入れられたのは、それから5分後の事だった。
「レース直前でないから、鼻出血もあまり気にすることはないと思ったのだが」
やれやれ、と肩を竦めるルドルフ。
肩を竦めたいのはこちらである。
今日連絡してこなかったのは、恐らくだがライブで興奮した挙句気絶し、さらに鼻出血という皇帝にあるまじき失態を重ねてしまったからだろう。
現に、盛大に目が泳いでいる。
私の部屋まで遊びに来て、甘えにかかる時は大抵ルナが顔を出しているが、案外あれでさえまだ多少は気を張っていたのかもしれない。
それにしても、意外な姿を見てしまった。
私服でも気を抜かない彼女が、きちんとリラックスできる環境があったことは素直に喜びたいところだ。
一時的に一人部屋に移動したことで気が抜けたのだろうか。
まぁ、おそらく他人には見せたくない姿だったのだろう。
若干だが頬が赤い。
勧められるままに椅子に座る。
普段使われていない部屋ではあるが、手入れは行き届いているらしく、特段埃っぽさなどはない。
慌てて整えたらしいベッドは、必要以上にピシリとシワが伸ばされており、むしろ不自然ですらある。
夜分に部屋を訪れるという不作法をしておいてなんだが、何も部屋に招き入れずとも良かったのではと思ってしまう。
なんとか立て直しを図ろうとしたのか、何度かレース前のように呼吸を整える姿をぼんやりと見ていると、どうやら持ち直したらしい。
「それで、わざわざーーー」
ーーー私が口を開こうとした瞬間、ルドルフの瞳孔が一気に収縮した。
全身の毛を逆立てたのではないか、と錯覚するほど、急激にルドルフのシルエットが膨らみ上がったように感じた。
ふわり、と身体が宙に放り出された。
ガタン、と大きな音が部屋の中に響く。
ウマ娘の聴覚は人の域を大幅に凌駕している。
彼女たちの感覚器類のうち、人と大差ないのはせいぜいが視覚程度だ。
故に、普段から気にしているのは聴覚ぐらいなものだった。
だから、油断していた。
気の抜けた姿に、一瞬でも油断してしまった。
床に叩きつけられてから、ようやく状況が把握できた。
意図してそうしたのではないだろうが、襟元を掴まれて押し倒された格好になっている。
フローリングの床には申し訳程度にカーペットが敷かれているものの、勢いよく叩きつけられれば痛いものは痛い。
叩きつけられた際、肺から空気が絞り出されたのか、呼吸が乱れる。
「違う匂いがする。それも、酷く強く」
ーーーー
ウマ娘は視覚を除き、感覚器類がヒトよりも優れている。
では、嗅覚は?
当然、人間よりも遥かに優れたものを持っている。
普段、彼女たちがそれを口に出さないのは、ある程度の分別がきちんとあるからだろう。
人と違う感覚を持っているがゆえに、気を使って口にしていないことも多いのだから。
「私が居ない間に何があった?いや、この匂い…」
床に組み伏せられて、瞳を覗き込まれながら、肺腑から絞り出すような低い声で詰問される。
覆い被さられているため、部屋のライトが逆光になって表情ははっきり見えない。
だが、目だけが異様な輝きを以て、私を、
私の答えなど求めていないだろう。
どのみちすぐにそこに辿り着くのだから。
そっと、鼻を寄せてくる。
幼名の元となった三日月が、空から降ってくるように近づく。
「
まるで獣のような瞳をして、シンボリルドルフが獰猛に牙を剥いた。