トレセン学園は今日も重バ場です   作:しゃちくらげ

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外巧内嫉

 

 

 

まずい。

本格的に頭に血が上っているようだ。

眼前に、というか私に覆い被さっているシンボリルドルフは目を充血させ、完全に冷静さを失っている。掛かりだ。

耳も後ろに寝かされており、機嫌が最悪な状況であることが分かる。

 

完全にしくじった。

 

これがあるから気を抜いてはならなかったのに、私は何をやっているんだ。

心機一転、改めて向き合おうと決めたことで、経験値までリセットされたとでもいうのか?

それとも、ルドルフ以外との珍しいまともな交流に浮き足立ったか?

だとすれば始末に負えない。

 

ヒシアマゾンが言っていた「雰囲気が変わった」というのはこれか。

彼女は彼女なりに、遠回しに警告をしていたのだ。

 

「ふー、ふー」

 

荒い呼吸を繰り返しながらこちらを凝視するルドルフの視線から逃れるのは困難だ。

こう押さえつけられてしまっていれば、恐らく人類の膂力では、一度引っくり返すことくらいは可能かもしれないが、この窮地から逃れるには不十分だろう。

逃げたとしても、圧倒的な速度差がある上に、耳もハナも、人類とは比較にならない。

個として高性能すぎるのも考えものだ。

 

腕力による解決は悪手。

かと言って、逃走も不可能。

 

「理性では理解しているとも。君はもっと多くのウマ娘を導く義務がある」

 

声を上げようにも、襟首を締め上げられているため呼吸も十分に取れない。

背中から床に叩きつけられた影響で、肺から空気を絞り出されてしまっている。

そもそも、声を上げたところでこの防音仕様の寮内ではろくに届かない。

 

ばん、と大きな音をさせて、私の耳元に手が叩きつけられた。

やるにしても、せめて壁を背にした状態であればもう少し絵になっただろうに。

 

「だが、だがな、そうもあからさまに他の女(テイオー)の匂いをさせて君が帰ってきた」

 

押さえつけられていなければ、力の限りでもって窓をぶち破り、助けを求めるという選択肢はあったのだが、それも不可能。

 

物理的には、もはや詰みだ。

 

「それは、嫌だ」

 

珍しく、はっきりとした拒絶の意思。

それは、子供が駄々をこねるかのような音色で持って告げられる。

 

…最悪の手段として、トレーナーに配備された防犯ブザーのピンを引っこ抜くという手段が残されている。

まるで小学生に配られる防犯ブザーのようなそれは、しかしトレセン学園特有の無駄に高度な技術によって実現した最終防衛ラインであり、トレーナーの人権にもちゃんと配慮していますよという学園側のアピールによって成り立つ代物。

ゆえに常に携帯することを義務付けられているが、使うことがほぼないため、鞄の隅に追いやられている。

こういった緊急時に使用するための物の癖に、自分に火の粉が降りかかるまでは他人事として処理できてしまっていた自分の能天気さに嫌気が差す。

 

だが、これを引っこ抜いてしまえば、鼓膜をぶち破る勢いでブザーが鳴り響き、10秒後にはGPSで位置が割り出され、発報される。

発報した座標がトレセン学園内であればそこかしこに設置された防犯カメラがオンラインになり、トレーナー所有の個人端末が音声・カメラ共に全て問答無用で起動する。

同時に、学園内全施設の出入りが電子的・物理的にロックされ、シャッターの類が装備されていればそれも全て作動し、制圧用装備で身を固めた騎動隊が駆けつけるという、洒落にならないような厳戒態勢が即座に下されるというシステムが存在している。

 

「なあ、トレーナー君。私は、どれだけ我慢をしたらいいんだ?」

 

嫉妬に狂いながらも、彼女の理性がぎりぎりのところでブレーキを掛けている。

まるでドラッグレースのスタート直前だ。ホイールがスピンして白煙を撒き散らしているような、飛び出す瞬間を今か今かと待っているように。

 

これまでトレセン学園に勤めていて、発報されたのは一度しか経験がないが、その時は大騒ぎだった。

『生命の危機にのみ発報を許可する』というファジーな割に判断を求められる場面では既に手遅れになっているということが多いそれは、まず使おうという発想にさえ至らない。

 

トレーナーに危害を加えていたウマ娘は問答無用で現行犯逮捕の扱いを受けることとなる。

騎動隊まで動かしてしまうため、学園内で処理ができない。

トレセン学園という箱庭の「外」から力を借りてしまう以上は、どうしても事が大きくなってしまい、結果的に退学になってしまったり、必要以上の風評被害をウマ娘に与えることになりかねない。

 

「君を手放すつもりはない、と言った。奪われてしまうぐらいなら、いっそ」

 

至近距離でそんなことを囁かれても困る。

舌が、彼女の唇を湿らせた。

てらてらと妖しく光るそれは魅力的であり、同時にひどく恐ろしいものに見えた。

 

…生命の危機を感じた程度でいちいち発報していたら、ウマ娘のトレーナーなんてやっていられない。

私も一度、うっかり死ぬところだったし、病院送りも何度かあった。

まだ背が低かったルナが初めてレースに勝てて感極まった結果、勢いよく(上がり3ハロン最速レコード)突進してきたことがあった。あれで生死の境を彷徨ったのは今では笑い話だが、今現在の状況はそんな生易しい状況ではない。

だが、きっと数多のトレーナーが同様の状況で担当ウマ娘の「未来を閉ざす」行為を良しとしなかった。

 

防犯ブザーが入った鞄。

珍しくショルダーバッグを斜め掛けしていたことが功を奏し、この状況でも身から離したわけではない。

せめて抑止力として役立ってくれ、と手を伸ばそうとする。

 

「分かっている。今の状況では君にそれを鳴らされたところで文句は言えない」

 

ずい、と更に顔を寄せてくるルドルフ。

鼻と鼻が触れそうな距離。

いつもの口調で淡々と告げられる言葉が、逆に底寒いものを感じさせる。

 

「だけどーーー君は発報できないさ」

 

そうだろう?と、ぞっとするような音色で囁かれた。

 

「…っ」

 

そして何より、気付かれていた。

伊達にこれまで連れ添っていない。

私の性格も、何もかもが見透かされている。

 

「これは邪魔だな」

 

ぶち、と。呆気ない音がした。

最後の希望が入っているはずの鞄のストラップが引き千切られ、バッグが無造作に放り投げられた。

ああ、支給品のラップトップが入っているのに。と、呑気なことをぼんやりと考えた。

 

きっと、後悔するのだろう。

今も、彼女の冷静な部分が止めようとしているのだろう。

これだけの事をしていながら、酷く苦しそうな顔をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーがしゃん、と破滅的な音が、バッグが投げ捨てられた方から聞こえた。

 

私の狭い視界には、もうルドルフしか映っていない。

 

 

 

 

 

 

「なっ」

 

ーーー瞬間、ルドルフの頭が横にぶれた。

 

拘束が緩む。

何が起きた?

なんでもいい。今しかない。

疲れ果て、ぼろぼろになった身体に鞭打ち、拘束を外すために全てを注ぐ。

 

突き飛ばすと後が怖い。

今現在も目下恐ろしい目に遭わされているが、体を捻り、ルドルフを横に転がしてやる。

ウマ娘はとんでもない膂力を持っているが、体重自体は見た目からの深刻なズレがない。

そのぐらいは、私にもできる。

 

ごろり、と縺れ合いながら位置を入れ替えてやる。

思ったよりもスムーズに位置が入れ替わった。

 

とはいえ、現状が圧倒的に不利なのは分かっている。

しかし、組み伏せられたままより多少は状況が好転…ん?

 

「ぅ…」

 

なんだ、これは?

間違いなく反撃を仕掛けてくるはずのルドルフが、なぜか目を回して力なく横たわっている。

まるで、気絶したかのように。

 

助かった、と思わなかったといえば嘘になる。

だが、状況がさっぱり理解できなかった。

 

 

 

…え?

 

 

 

 

 


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