「…背中が痛い」
首を回せば、ごきごきと小気味の良い音が鳴り響く。
板張りの床などで寝たものだから、身体が悲鳴を上げていることを必死に肉体が訴えてきている。その割に睡眠自体は取れているらしく、眠気はきちんと取れている。
朝日がとても目に染みる。
本日は晴天だ。洗濯物を干すにはうってつけの快晴。
小鳥が心地よい声で囀っている。
ついでに、ウマ娘たちがざわつき囀る声が耳朶を打つ。
実に爽やかな朝だ。
そうとでも思わなければやってられない。
現在時刻は6時を少々回ったあたり。
これから朝練に向かうウマ娘たちが寮の自室から吐き出されてくるのを横目に、私は寮の廊下を可能な限り何も考えないようにして歩いていた。
まさかの朝帰りというか、お泊まりである。
しかも、外泊するにしても、学生寮にお泊まり、である。
自室から出てきたウマ娘がこちらに気付き、元気よく挨拶して駆けていく。
そして何かに気付き、振り返って二度見し、硬直する。
それはどう考えてもそうなるだろう。
ほぼ治外法権であるはずの寮内をトレーナーが闊歩しているのだから。
いくら隣をシンボリルドルフが歩いているとはいえ、そもそも規則上足を踏み入れることが許されていないトレーナーの私が、なぜか早朝に寮を当たり前のような顔をして歩いているのだ。当然、二度見もするだろう。
そういうことにしておこう。
元気よく挨拶してきたサクラバクシンオーが何か消化しきれないものを見たような顔をして、三度見した後に結局考えることをやめたのか、再び元気よく挨拶をして通り過ぎて行った。
あのサクラバクシンオーですらどう対応するのか悩むような事態である。
「ルドルフ」
「なんだい」
「トレーニング機器のことなんだけど」
「先日言っていた機材の老朽化についてかな」
「うん。そのことなんだけど」
せめてもの抵抗として、機材の老朽化をダシに打ち合わせ時間を確保するために寮を訪れた風を装ってみる。
耳のいいウマ娘たちのことだ。
この手の話をしておけば、いい感じに解釈してーーー
「結局帰れなかったみたいだな」
呆れた顔をしたヒシアマゾンが、壁に背をつけて立っていた。
いきなり作戦の崩壊を悟らされる。
その先はここではやめてくれ、という意思を懸命に込めてのアイコンタクトも虚しく、ヒシアマゾンは容赦無く口を開く。
「…そんな目で見んなよ。だから忠告してやったってのに。アンタ、結局泊まったのか」
視線の意味を何か勘違いされたようであった。
「あー…連絡できなくて済まなかったね。あの後、結局激論を…」
「激論、ねえ?そんな匂いさせておいて良く言うよな」
「…あ」
…また匂いか。
そう言われても、昨日は結局シャワーも浴びることができずに寝ていただけだなのだが。
ルドルフの膝で。
そのせいか。
昨晩散々テイオーの匂いがついていた事が理由で酷い目にあったと言うのに、喉元すぎれば、と言う事だろうか。
学習しない人間であると言うことは散々これまでも自覚していたが、これは予想していなかった。
序でに言えば、ヒトの鼻はそこまで効かない。
袖を近づけて匂いを確かめてみても、精々が普段通りの匂い、というか。
特段何かの匂いがするようにも感じられない。
「部屋に泊めるというのに連絡せずにすまない、ヒシアマゾン。もちろん、誓って疚しい事はしていないよ」
先ほどまで隣を歩いていたルドルフが、ずいと前に出る。
疚しい事になりかけたところではあったが、未遂は未遂。
実行に移されず、バレなければそれは罪にはならないのだ。
「ふぅん?まー、アタシが関与するようなことでもないとは思うけどよ、ほどほどにしてくれよな。寮の中でトラブルを起こされると流石に困る」
「トラブル、といえば。昨晩少々…なんだ、少しトレーナー君と喧嘩してしまってね。揉めたはずみで窓ガラスを破損してしまった。手間をかけてすまないが、修理の手配をお願いしたい」
頭に直撃弾をもらったとはいえ、流石に理性を取り戻すきっかけを作ってくれたメジロマックイーンに対する配慮は失っていなかったらしい。
だが、そう言う配慮を発揮できるならこの場をうまいこと乗り切っていただきたかった。
ギギギ、と油をさしていない機械のような音を立てて、ゆっくりとヒシアマゾンがこちらに首を向けた。
「………揉めた、って………トレーナー、よく生きてたなアンタ」
「本当にね」
思わず肩をすくめる。
本当に、メジロマックイーンの奇跡のサヨナラ満塁逆転ホームランがスタンドを直撃していなければ、今頃どうなっていたか分からない。
メジロマックイーンには何らかの御礼をせねばなるまい。
勿論、白球を放り込んだ先が私の元ではなく、他のウマ娘の部屋だったら大事件なのは間違いないが、偶然とはいえ助けてくれた彼女に罪をそのままかぶせてしまうのも後味が悪い。
ちらり、とルドルフとアイコンタクトを取れば、彼女は微かに顎を引いて肯定した。
「まぁ、ちょっとした意見の相違で珍しく揉み合いになってね。私のバッグが放り出されて窓に当たってしまったんだ。始末書は後で駿川さんに提出しておくよ」
「…ったく。分かった、分かったよ。ガラスの修理は手配しておく」
頭をガリガリと掻いて、ヒシアマゾンは現場へと向かっていった。
あの様子だと何かしら察しているようだが、追及してこないのは配慮か、それとも優しさか。
そして残されたのは静寂…と、ひそひそと噂をする小さな囁きばかり。
まったくもって面倒な事態になった。
せめてシャワーぐらい借りるべきだった、と後悔の念に堪えない。
頭を抱えたくなる事態だが、今から引き返してシャワーを浴びたところで、匂いを察知されるのであれば着替えを持っていない以上、意味を成さない。
肚を括って、さっさと寮から脱出することにした。
「流石に昨日からシャワーも浴びてないし、一度寮に戻ってから朝練に顔を出すよ」
「…そうか?私は気にならないが…とはいえ、着替えも必要か」
「うん。流石にべたべたして気持ち悪いからね、汗で」
とっととトレーナー寮に引き返して、着替えとシャワーを済ませて、そして改めて朝練に向かおうと決意を固める。
トレーナー寮は、学生寮からはそこそこ距離がある。
学園棟やトレーニング場という、トレセン学園の主要機関を挟んで、ほぼ対角にあるような位置関係のため、結局トレーニング場周辺を通らなければならない。
自分の匂いというのは、ヒトの鼻ではなかなか分からないものではあるが、指摘を受けたという事は匂っているのだろう。
昨日は結構動いていたし、朝から汗臭いというのもどうかと思うので、朝練に向かうウマ娘たちの列から若干距離を取りつつ歩いていく。
彼女らの嗅覚の強さを考えると、あまり意味を成さないのが悲しいところである。
できれば、よく見知ったウマ娘たちにだけは見つかりませんようにと信じてもいない神に祈りを捧げる始末だった。
「流石にあの『お仕置き』は堪えたよ」
「軽くしても気に病むでしょうに」
「まあ、そうだな」
「一晩経ったけど、頭は冷えた?」
「無論だ。改めて、昨晩は申し訳ない事をした。すまない」
「もう罰は受けたんだし、いいよ」
朝まで正座したままだったためか、私が起き上がったと同時にすぐに立ち上がろうとして転倒し、そのまま這うようにして備え付けのシャワールームに向かっていたので、余程辛かったのだろう。
珍しい姿だったと同時に、痺れているであろう足をつつくという誘惑に打ち克った自分をほめてやりたい気分だった。
「…ありがとう」
言葉少ないが、これで十分だ。
わざわざ掘り返して詰る必要も感じない。
ルドルフなら、という信頼ありきでの結論ではあるが、冷静にさえなれば自分で反省できるからだ。
「今日の朝練は…ん、どう考えてもコンディションが悪いのは解ってるから、柔軟を徹底して。私が戻ってくるまで、時間をかけてゆっくり」
「分かった。トレーニングに影響は出さないつもりだったが、そうさせて貰おう」
「本当は仮眠取らせたいんだけどね」
「流石にそれは自分が許せないな」
「だよね。だから朝練はとにかく柔軟。あとはレース分析で相談したいことがあるから、それで。午後は仮眠取ってから調子見て考えるよ」
「承知した」
「それじゃ、ちょっと寮戻って準備してくる」
「あ、トレーナー!おはよー!!」
トレーナー寮の前で、今この瞬間に世界で一番会いたくなかった奴に見つかってしまった。