にこにこ、と。
笑うと垂れ目気味になる笑顔が、小走りに駆けてくる。
動きに合わせて、ぴょこぴょことポニーテイルが弾む。
私の心臓はどきどきと弾む。
春の訪れ、そして芽吹き。
もちろん、悪い意味でどきどきと心臓はビートを刻んでいたし、春の嵐が訪れた感と併せて恐怖心が芽生えていた。
「おはよー!ボク待ってたんだ!」
ぶんぶん、と手を振り、実に楽しそうなトウカイテイオーだった。
「おはよう、テイオー」
ひとまず、怪しまれる事がないように表面上は取り繕う。
ウマ娘の耳の良さは、果たして他人の鼓動までも拾い上げられるのだろうか。
「今日はどうしたんだ?」
「担当がついたウマ娘は、朝練の前にトレーナーを迎えにいくのが良いんだってみんなが言ってたんだ。ボクも楽しみにしてたんだよねー」
うん、まぁ。
毎朝見る光景なだけに、トレーナーなどやっていると当たり前になってくるが、朝出勤する時間にうら若き乙女が迎えが来ていると言うのは気恥ずかしいものがあるなと今更ながらに実感する。
ルドルフの場合は、何日かおきに早めに目が覚めた日だけなので、すっかり忘れていた。
彼女の場合は、生徒会活動とトレーニング、そして学問と一日がかなり忙しいため、基本的にはギリギリまできちんと休養をとるようにさせているので、忘れがちになる。
「トレーナーのお迎え、憧れだったんだよねー!ついに叶ったから、今朝は4時に目が覚めちゃって!」
遠足前の子供か。
そうは言っても流石に中等部だと、まだそこまで大人びた振る舞いを期待する方が酷というものか。
「そんなものなんだね」
「そういえば、トレーナーこれから出勤だったんじゃないの?お散歩でもしてた?」
来た。
やはりこの質問が来た。
まぁ当然ではある。
おそらくこの調子であれば、結構前から寮の前で待機していた可能性がある。
破綻なく言い訳をしなければならないだろう。私の名誉のためにも。
「昨日、ルドルフが完全オフになってしまったからね。それを取り戻すために、少し早めに始めようとしたんだけどね…普段の時間より早く起きて慌てて出たものだから、トレーニングメニューなんかを印刷し忘れてたことに気づいて、途中で戻ってきたんだ」
苦しい。
非常に苦しい展開である。
そして、明らかに私の口数が多い。
怪しんでくれと言っているようなものだが、しかしこれ以外にいい言い訳も思いつかない。
テレビドラマなどで、不倫した旦那が奥さんに言い訳しているような姿になっていないかと不安になるが、誰も優しくそのことを指摘してはくれない。
「ふーん?カイチョー忙しいもんね。トレーナーも大変だなあ」
「はは…。しかも朝寝坊しかけて走ったものだから汗だくでね。一度シャワーでも浴びて出直しかな」
「ふーん…?」
とと、と一歩二歩と近づいてきて、鼻を寄せてきた。
まずい。
「ほんとだ、
だが、テイオーの口から出た感想は、予想とは大きく異なるものだった。
時間が経過して多少はルドルフの匂いが取れたのか?
だが、ウマ娘のハナを舐めてかかってはならないと私の本能は警鐘を鳴らしている。
気づいてはいるが、トレーニングでついた匂いだと思ったのだろうか。
アップ時のストレッチなどを手伝う事はあるので、身体的な接触を行う場面は多い。
可能性に縋るしかないが、現在時点で事故に繋がらなかったことだけは救いだろうか。
「やっぱり匂うんだね。自分ではわかりづらいんだよね、こういうのって…」
思わず袖を鼻につけてみたりするが、ただただ若干の汗の匂いを嗅ぎ取れる程度。
…昨晩、酷く脂汗をかく羽目になったからな。
「あはは、ニンゲンの人にはちょっとわからない感覚かもね。こういう違いって分かってもらうのに苦労するんだよねー」
「露骨に身体能力の差があるとは言っても、感覚が違うっていうのは確かに分かりづらいかもね」
トレーナー養成過程においても、その事はしつこいほどに叩き込まれてきた。
とは言っても、あくまで知識として把握していただけであり、ルナとの付き合いの中で突然認識させられたり、昨晩のような事件が起きるたびに思い知らされるのが困りものだ。
一般人からすれば、周囲にウマ娘がいなければ気づく事はないし、何ならトレーナーよりも一般のファンの方が握手会などが行われた際には徹底的に身を清めてくるというほどだ。
以前、ルドルフがファン感謝祭でサイン会を開く羽目になった際は、ファンの大行列が発生したというのに異様なまでに無臭で驚いた記憶がある。
大柄な男性ですら、セキュリティのためにボディチェックをした際にはなんの匂いもしなかったのが恐ろしい。
ファンというのは凄まじく訓練された人々なのである。
我々ウマ娘に慣れ切ったトレーナーよりも、ファンの方に知識を叩き込んでトレーナーとしてトレセン学園にリリースした方が実は安全なのでは?という思いが脳裡を過る。
担当となれた場合、相思相愛になる確率が150%ぐらいに達しそうだ。
「そーなんだよ。あ、トレーナー、朝練とかってこれからどうしたらいいのかな?」
「テイオーの指導は、担当契約書を提出してからになるから、午後からかな。最初はオリエンテーションと、ルドルフとの顔合わせだから、今日は朝練始めててもらって構わないよ」
流石に学園側からの許可もないままトレーニングを開始する訳にもいかない。
以前、リハビリメニューを渡すにも大っぴらに渡すことができず、お見舞いの品に忍ばせて送り付けたほどだ。
何がまずいかといえば、学園からの正式な決定が降りる前だと、現担当ウマ娘の側に「排除してもいい理由」を持たせてしまうからである。
以前、書類の提出前にトレーニングに参加させたところ、事件が起きたという悲しい前例がある。
他のウマ娘の契約書を破損させたりなどの行動に出れば、重大な違反として放校処分となる可能性がある。
一方で、「トレーナーが提出しない」ことに関しては特段、規則として定められていない。
契約書は、双方がサインを行った上で、「トレーナーから学園教務課あるいは理事長など決裁者へ提出することで許可される」というルールが存在しているのだ。
これは、そもそもトレーナーが無理矢理サインさせられて契約を結ばされるという事態を回避するために意図的に規則として記載しなかったものだが、それを悪用する者が時折出てくる。
トレーナーを監禁し、契約書を提出できないようにしてしまうのだ。
恐ろしい話である。
昨夜にサインはもらったが、学園に戻った時点では既に教務課は閉まっていたし、秋川理事長のところへ直接決裁のお願いを持っていくにしても、秋川理事長は「ホワイト学校法人」を掲げているため、率先して定時で業務を切り上げて帰ってしまう。
理事職、というか管理職以上の職位に労働時間の概念は存在しないが、上の者がいれば帰れる者が帰らないことがあるから、というような理由でとっとと帰ってしまうのだ。
なお、管理職という概念の存在しないトレーナーというプロフェッショナル職については職人扱いなので、インセンティブ給が高い代わりにフリーランスじみた労働環境である。
福利厚生だけは全国の超優良企業を見渡しても「そこまでやるのか」というレベルで整えられているのだが。
つまるところ、現時点ではまだ正式にトレーニングをつける事はできないのだ。
「えー!せっかく来たんだもん、それはやだなー。準備が終わるまでここで待ってるよ!」
「ええ?こんな朝っぱらから待たせるのもなあ…」
「あ!」
テイオーが何か、良からぬことでも思い付いたのか、にんまりと笑った。
「トレーナーのお部屋!お部屋でのんびり待ってればいいよね!それじゃ、れっつごー!」
ぐい、と手首を掴まれて、引きずるようにして寮へと歩き出すトウカイテイオー。
快活な彼女らしくない、妙な威圧感を感じる横顔に、私は敗色を悟り口を噤んだ。
そういえば、ルナが初めてトレーナー寮へ突撃してきた時もこんな流れだったな、と思わず遠い目をしてしまった。