シャワーを浴びて着替えて、準備を整えていく。
準備を、とはいえど、大体は端末類とトレーニングメニューを挟んだバインダー、あとは読みかけの書籍、キャンディなど、普段持っているものと大差ないのだが、一つ大きく変化があった。
ルドルフのプレゼントだったバッグのストラップが千切られてしまったのである。
学生寮を出る際に、一応安全ピンなどを駆使して応急処置こそしたが、液晶の破損したラップトップなどを積んでいるお陰で結構な重量となっているため、ピンを刺した穴がすでに広がってきてしまっている。
修理、あるいはリメイクに出すにしても、見事に引きちぎられたお陰で大規模なものになる。
大切に使っていたのだが、それでも毎日雨だろうがなんだろうが持ち歩いていたため、随分とボロボロになってしまっていることもあって、これは綺麗にして記念品扱いで仕舞い込むことになりそうで残念だ。
仕方なく、トレーナー養成学校時代に使っていたバッグを引っ張り出す。
引っ張り出したバッグは、まだ学生時分、当時ファンだったダービーウマ娘のキーホルダーやら、ストラップやらがじゃらじゃらと付けていた頃のものである。
ついでに、合格祈願のお守りなんかもぶら下がっている。
トレーナーとして配属されたタイミングで買い替えはしたものの、なんとなく捨てることも躊躇われて仕舞い込んで忘れていたが、これはなんというか。
「あれ、トレーナー、バッグ変えるの?可愛いね!」
背中にべったりと貼り付いていたテイオーが横から首を突っ込んできた。
…若気の至りだったなあ。
「使っていたバッグが壊れてしまって。変えるにしても学生の頃に使っていたものしかなくてね…」
壊れた、というか。
プレゼントしていただいた張本人が破壊したというか。
とりあえず、ちまちまとファングッズを取り外しては仕舞い込んでいく。
一応、古くはあるが多少はマシになっただろうか。
「えー、取っちゃうの?」
「流石にこの年でこれはちょっとね…後で買いに行かないと」
「あ、そうだよね。担当ウマ娘のグッズをつけた方がいいよね」
ちょっと違うんだけどなあ。
結局、その後ひっついて離れないテイオーをくっつけたまま寮を出ることとなった。
毎朝寮の入り口周辺に屯しているウマ娘たちは、時間的にすでにトレーナーと同伴出勤しているため見当たらず、久しぶりに静かな朝の景色となっていた。
先程からテイオーがくっついたまま離れない。
そういえば昔、地元のお祭りでこういうビニール人形を見たことがあった気がする。
楽しそうに、嬉しそうにハナを擦り寄せてくる姿は可愛らしいが、後ろから完全にしがみつかれているため、微妙に歩きづらい。
腰をやってしまいそうだ。
おんぶ紐もなく、私が支えるでもなくべたりと貼り付けているのは流石ウマ娘の膂力だと感心するが、使い道を完全に誤っていると思う。
「テイオー」
「なーに?」
若干くぐもった声が返ってくる。
先程から、背中に貼り付いて呼吸されているせいで背中が無駄に暖かい。
ようやく気候としては穏やかになってきた頃。
日も登ってきているので、早朝に比べれば気温は上がっているが、まだ肌寒い。
人の体温が有難いと言えば有難いのだが、あとで背中がしっとりしていそうだ。
「そろそろ降りてよ」
「え、なんで?」
きょとん、と不思議そうな声でテイオーが言う。
位置関係からして仕草は見えないものの、わずかに首を傾けたらしいことはわかる。
重いから、という言葉だけはぐっと喉の奥に仕舞っておくことにした。
なんだかんだで蹄鉄の付いたシューズやスポーツドリンクなどの重量物をバッグに入れて登下校しているウマ娘が多いので、本人の体重自体は軽くとも、割と装備品の全体で見れば結構な重量になっていることが多い。
数年前、ちょっと良いことがあってまだ小さかったルナを抱き上げようとして失敗し、盛大に機嫌を損ねた上に腰痛を患うという事故があったので、その辺りは慎重を期すに越したことはない。
本当は抱き上げてくるくる回そうかと思ったのだが、まさかトレーニング用の凄まじく重い蹄鉄を持ち歩いているとは思わなかった。
あんなのを肩掛けの学生鞄に入れて持ち歩いていたら、普通片腕だけ鍛えられそうなものだが、ウマ娘的には大した重さではないとのことだった。
「そろそろトレーニング場に着くよ」
「うー!」
むずがるようにして、ぐいぐいとより一層強くハナを押し付けてくる。
ハナというか、顔だが。
「唸られても」
剥がそうにも、まるでガムのようにべたりと背中に貼り付かれているので非常に引き剥がしづらい。
そもそも、つい昨晩腕を掴まれた状態から脱出するにも、ウマ娘2名の助けが必要だったので、私一人の力では如何ともし難いというのが現状である。
仕方無い。ルドルフなら引き剥がしてくれるだろう。
致し方なし。
無駄な抵抗は諦め、衆人環視というか、周囲のウマ娘たちがすごい目をしてこちらを凝視してくるのを柳に風と受け流し、すたすたと普段使っている場所へ向かう。
ルドルフのようにスターウマ娘にもなると、なんとなく練習スペースが決まってくるのだ。
ある種の忖度というか、気遣いというか。
怖い先輩が食堂の指定席を持っている、というような感じだが、第一線で走っている中でもトップを務めるウマ娘たちが練習スペースを探してウロウロする、というのもよろしくないだろう、という配慮のもとで成り立っている暗黙の了解だった。
本来であれば、トレーナーがその日ごとに先にスペースを確保するなりすべきなのだろうが…。
不思議なことに、「私のトレーナーにそんなことさせられない」と言い出すウマ娘が多く存在しており、その結果として、学園側が定めている午後のトレーニングに関しては既定の時間内は利用予約を取っての利用になるが、自主練の性質が強い朝練などに関してはそうした取り決めというか、制度が存在しないため、結局の所は学生間の自治に任されることとなる。
そこにファン数や実績といったステータスが加味され、気づけばカーストのようなものが形成されるに至った、というわけだ。
「やあ、トレーナー君。おかえり」
その頂点であるところのルドルフの耳が、私に気づいた。
ぴこんと耳を立て、こちらに向けている。
「ただいま。昨日頭を打っていたけど、気分が悪かったりはしない?」
「ああ、多少眠くはあるが、むしろ頗る……快……」
そして事態を把握し、急速にその耳が後ろへと倒れていくところを、私は成す術なく見届けるしかなかった。
酷い重圧がじわりと漏れ出してくる。
その細い体のどこからこんな酷い圧力を出しているのか詳しく聞いてみたいところだが、正直深入りしたいとは思えない。
好奇心は猫をも殺すと言う。トレーナーに必要なのは好奇心ではなく、警戒心と理性だ。
冬が「ごめんちょっと忘れ物してた」とばかりに帰ってきたのかと思うほど、一気に空気が冷え込んだように感じる。
複数担当を持つということの難しさが、今になっていよいよ実態としての危機感を持って私の元へやってきていた。
そしてそんな絶望的な私の心境をよそに、背中にくっついていた小さいのはそのまま離れることなく、ぴょこんと横から覗き込むように顔を出した。
「あ、カイチョー!おはよー!」
天真爛漫、を地でいくようなにこやかな笑顔を浮かべたテイオーに対し、剣呑な色の光を瞳に宿しているルドルフ。
両者の間に挟まれた位置取りになっている私としては気が気ではない。
過去に複数担当を持つことになった先輩トレーナーが、初日に救急搬送された事件を思い出す。
事ここに至ってしまえば、物理的な力を行使しないだけの理性が二人に宿っていることに期待するほかなく、私にできることはもはや何もない。
担当を増やすということは顔合わせがどうしても必要となる。
つまり、遅かれ早かれこの綱渡りはいずれ渡らなければならない道なのだ。
であれば、ルドルフが今朝時点で私に対して酷く負い目のあるうちに済ませることで、何らかのアクションを起こす確率を下げてしまえというのが、テイオーを剥がそうとしながら至った結論である。
せこい真似を、とは言わないでいただきたい。
これはトレーナーとしての生存戦略の一環なのだから。
「ルドルフ」
当のルドルフは、人を4、5人は殺しているのではないかと思えるほど異様に鋭い目つきをして黙っていたが、私が声をかけると我に返ったのか、即座に立て直した。
耳を元の位置に戻し、いつも通りの所作で持って挨拶を返す。
「ああ、おはよう」
「ルドルフ。知らない仲ではないだろうから詳細な紹介は省くけど、今日からトウカイテイオーを受け持つことになったから承知して欲しい。君の後輩だ。仲良くしてあげて。…それと、承認自体は午後になるから、朝練は見学になる」
若干早口で言い切った私を誰が責められようか。
こんな空気で紹介するのは、地雷原をタップダンスを踊りながら突っ切るようなものだ。
せめて探知機を構えた上で歩きたい。
「委細承知した。テイオーであれば資質も十分だ。きっと君に勝利を届けてくれることだろう。
事情を知らない人間から見れば先輩風を吹かせているようにも見えるだろう。
だが、内心は相当面白くないと感じているようだ。
昨晩のことで、明確に執着されているのは理解している。
その上で、担当を新しく持つということは、ルドルフのトレーニングを常につきっきりで見れていたこれまでと大きく環境が変わることを意味する。
ざり、と軽く静かに地面を蹴ったあたり、相当内心は荒ぶっているのは明白だ。
習性であるところの前掻きを抑えようとしているようではあるため、まだ理性がきちんと仕事をしていてくれている。
「テイオー」
「はーい!今日からトレーナーに
なんでこの子はこういう微妙な言い回しをするのだろうか。
あのプレッシャーを向けられていたにも関わらず、怯むことがないのはまあ、いいことだ。
格式の高いクラシックレースなどは、それこそ人生を賭けて挑んでくるウマ娘達が集まる場。つまりはレースへの出走者はすべからく『明確な敵』となる環境下では、こうした図太さというか、物怖じしないメンタルというのは大きな武器になる。
しかし一方で、表面上はどう見ても朗らかに挨拶している元気な子、というのがまた異常というか、ウマ娘的な対応だなと白目を剥きそうになる。
お互い知らない仲でもない、というか。
テイオーはルドルフに酷く懐いていたし、ルドルフは懐いてきたテイオーに対しては満更でもない様子であった。
それが現在は、お互い笑顔を浮かべながら底冷えするような空気を放っている。
「ああ、よろしく」
ルドルフが一歩進み出て、手を差し出した。
テイオーもそれに応えて、ようやく私の背から離れて進み出る。
「うん、よろしくね」
そして両者ともに笑顔のまま、がっちりと握手を交わした。
比較的に似ている気がする二人が手を取り合うという、微笑ましい絵面ではあるのだが、一方で誠に残念なことではあるが、みしりと人の身体から、そして握手の最中には間違っても鳴ってはいけないような音が聞こえた。
私の胃もギシギシと痛みを訴えている。
いち早く実家に帰りたい。
トレーナーとして自立してからは実家に一度も帰っていないが、ゴールデンウィークが待ち遠しい。今年は絶対に帰省してやる。
二人の間から脱出できたことだけは素直に喜ばしくはあるが、残念なことにこの二人とこれから毎日顔を合わせていかなければならない。
…必要以上に恐れる必要はない。
いつだって私は、ウマ娘の夢を叶えるための杖でありたいのだから。
だが、『
文明という巨大な力で身を守り、そして周囲の危険を片っ端から駆逐したのが人間だ。
その結果、危機感や警戒心を失った人間という生き物は、危機に陥った際には簡単に命を落とす。
慣れすぎるな。正しく恐れろ。
そして早急に複数担当を持った際の距離感の掴み方を構築しなければならない。
命に関わる事態を先んじて全て潰し、生命の危機を封じ込めてきたその知恵こそが、人が人として繁栄できた理由なのだから。
にこやかに握手をしたまま、だんだん尻尾を左右に振り回し始めた二人を他所に、私はひとまず、晴れやかな晴天を仰ぎ見ることにした。
そして私は、大変なことを思い出したのだ。
ーーーーああ、三女神様。
あと一人取らないといけないとか、嘘でしょう?
空に浮かぶ雲が、女神様がぐっと親指を立てた姿に見えた気がした。
一意専心。
私は、彼女達が輝き続けられるよう支える杖であり続けたい。
信頼し、信頼され、共に歩み続けられる関係でありたい。
だから、これまで以上に全霊を賭して戦うことを改めて決意した。
でも、腹立つので女神様の信仰やめます。
●プロローグ、完。
誰ですか二十八話も掛けてプロローグ書いたおバ鹿は。
頭にスイーツでも詰まってるんですの?