翌朝。
今日の天気は生憎の雨。
昨夜、どうも一気に降ったようではあるが、今は精々が霧雨といったところ。
こんな雨の日でも、ウマ娘たちはトレーニングを欠かさない。
室内で行うこともあるが、レース当日が雨で走れません、なんてことは許されない世界だ。
日ごろから雨の中でも走り、重バ場に慣れておく、ということも立派なトレーニング。
…とはいえ、今日は私の仕事はほとんど無い。
昨夜ルドルフが夜回りだったので、午前のトレーニングはお休みである。
その夜回り…生徒会役員たちの努力の甲斐あってか、今年はそう、非常に珍しく犠牲者も出なければ事件も起きなかった。
寮の外壁に梯子も立てかけてなければ、ガラスも割れていない。
隣室から破滅的な音が響いてくることもなければ、トレーナー用の情報交換アプリにも緊急速報通知が届いていない。
こんな4月1日ははじめて。
実に平和な朝だった。
トレーニングがないのを良い事に二度寝でもと考えたが、結局眠れずにのそのそと寮の食堂へ向かい、朝食を取る。
今日の朝食はオーソドックスな洋風。
ふわふわに焼き上げたパンに、スクランブルエッグ。カリカリのベーコンなどが付け合わせだ。
こういう時、福利厚生が充実した職場というのは素晴らしい。
学園のカフェテリアで朝食を取ることも可能だが、ウマ娘たちがざわつくので、まるで不審者扱いを受けているような気分になるためそちらはあまり利用することがない。
精々が寝坊して朝食にありつけなかった際に、ルドルフと一緒に訪れる程度である。
さて、中途半端な時間になってしまったため、食堂に同僚はほとんどいなかった。
だが、見かける顔は誰も彼も、ほっとしたような顔をしていた。
食後のコーヒーを頂きながらゆったりと過ごしていれば、あっという間に出勤時間になる。
食器を片付け、寮を出る。
「おはようございまーす」
横合いから声が掛けられ、思わずびくりと反応してしまった。
声のした方へ目をやれば、濃紺色の制服を身にまとい、全身のあちこちにプロテクターを装備した一際目立つ集団だった。
バイザーの付いたヘルメットの頂点付近からぴょこんと飛び出す耳。地味な色彩ではあるが、目立つ集団。
制服に記された所属を確認するまでもない。我らが愛しの騎動隊の方々だ。
持ち前の機動力と膂力を活かし、重機を入れづらい場所などに駆けつけ、時には対ウマ娘の鎮圧までも担う、市民にとって頼もしい存在。
どうみても華奢な少女がコスプレをしているようにしか見えないが、あれで横転した車をひとりでひっくり返したりと、人類の枠を軽々と超えた活躍をしてくれる。
そんな彼女たちは、今年もトレセン学園の敷地周辺を警邏し、トレーナー寮の周辺に封鎖線を敷いて防衛に努めていてくれたらしい。
手にポリカーボネート製であろう分厚い透明なシールドと、いかにもな警棒を装備したウマ娘隊員の方々は、まだ警戒を完全に解いてはいないものの「無事に夜を越せた」ことに少しほっとしたような顔をしている。
見れば、ぺりぺりと黄色いバリケードテープを剥がして回収している隊員もいる。
…どれだけ毎年警察の皆様の手を煩わせているのかと思うと頭痛がしてくる。
「おはようございます」
軽く会釈して挨拶を返すと、周辺にウマ娘たちがいないことを確認したうえで一度引き返す。逃げた訳ではなく、玄関脇にある購買で適当な本数、飲み物を購入する。
「お疲れ様です」と声を掛けて温かい飲み物を差し入れる。
去年は大変でしたね。今年は何事もなくて本当に良かったです。
毎年訪れる地獄の一晩を事件一つ無く乗り切れたことにほっとしたのか、或いは温かい飲み物で一息つきたかったのか。
きゃっきゃと明るい歓声を挙げて集まってくると、飲み物を受け取ってはにこにこと嬉しそうにして色々と教えてくれた。
このあたり、警察機構に所属していてもウマ娘の人懐っこさがよく現れている。
聞くところによればあのポリカーボネートの盾、ウマ娘が全力で蹴っても割れないらしい。
この時期はトレーナーの方にも配備したほうがいいかもしれないと呟いていたが、それを構えているところを蹴られたりしたら腕が粉砕された挙句、もぎとられてしまうと思うのですが、とは言えなかった。
立ち話に花を咲かせることしばし。
若干湿り気を帯びたような気のする彼女たちの視線から逃れるように、「あ、そろそろ時間がやばいので、これで」などと言ってそそくさと場を辞した。
ウマ娘全般に言えることだが、ある種「ウマ娘最大の理解者」であるがゆえか、トレーナーという生き物にある種の憧れのようなものがあるらしい。
「運動のできる男の子が妙にモテる、みたいな感覚」とは誰から聞いた話だったか。
ベテラン曰く、一線を引いて常に一定の距離を置くべきだ、とのことだが、いつも有事の際に助けて頂いている手前、無下にもしづらい。
しかし必要以上に仲良くなってしまうことも避けたいので、このぐらいが丁度いい距離感だろう。
仕事中の警察の方にフレンドリーに絡みに行くのは大体そっちの道の人ばかりだし。
おそらく黒沼トレーナーならばサマになるのだろう。
てくてくと学園棟へ向かう足取りは、天候の割に軽い。
あまりにも何事もなさすぎたため、思わず何度か携帯端末を取り出して日付を確認してしまうが、本日は4月1日。
いわゆる春休みのため、ウマ娘たちの始業自体はまだ一週間ほど先になる。
一方でトレーナーという生物には春休みなる概念は存在が許されない。
在校中のウマ娘を担当していればそちらのトレーニングに。そうでなければ新入生のリストを精査し、スカウトすべきウマ娘の経歴や能力などを確認しておかなければならないからだ。
ベテラン曰く、なんとなくこういう傾向のウマ娘と相性がいい、というのがトレーナーごとに分かってくるらしいが、まだ数年目の私にはその沼の深みは分からない。
ふと気がついて視線をやれば、道の左右にあったはずの植栽がへし折れていたり、舗装された石畳の一部が陥没していたり、人の形に地面がへこんでいたりと、昨夜に何が起きたか朧げながら分かってしまうのだった。
急激に私の足が重くなった気がした。
しかしこうも霧雨が降っていると、傘を差していても問答無用で濡れてしまうので困る。
仕事柄、雨のなかでトレーニングの指導をすることも多いため、濡れること自体は慣れていると言えばその通りなのだが、とはいえ朝からいきなり服がじっとりと湿り気を帯びた状態で出勤するというのは心情的にうんざりするものがある。
出勤、とは言っても精々が寮から学園まで、敷地内をてくてくと歩いていくだけだが、たったそれだけの距離で随分と服が濡れてしまった。
ビニール傘を畳み、スタッフ用昇降口から学園棟へ入ろうとしたところ、ぴしゃりと音を立てて雷が鳴り響いた。
…これは予報の通り、荒れそうだな。
4月1日と言えば、ここトレセン学園のスタッフにとっての「辞令交付」の日だ。
ここトレセン学園は、学園としての運営を行うスタッフを除けば我々トレーナーを始め、カフェテリアを支える調理スタッフ、ターフの管理や敷地内の植栽を管理するガーデナーなどのスペシャリストが多い。
そのため、辞令交付式と言っても、一般の企業のように部署異動やジョブローテーションがあるわけではなく、主に昇進があるスタッフが壇上に呼ばれ、秋川理事長から直接交付されるという形を取る。
昇給などの通知については人数が多いため、別途給与明細に入って届くという仕組みである。
トレセン学園は基本的にはホワイト法人なので、定期昇給も毎年しっかりあるし、インセンティブ、というかいわゆるボーナスについても、活躍すればとんでもない額がぽんと振り込まれる。たまに理事長のポケットマネーからとんでもない額の奨励金が出ることもあるらしい。
そしてトレーナーの立場でこの辞令交付式を見た際、最も重要なのは「チーム設立」の許可が出ることだ。
チームを「設立」できるのは、国内でもトップクラスの人材が集まってくるこの中央トレセン学園でも、上澄みの更に上澄みだけ。
言ってしまえば、国内最高峰の超一流トレーナーと認められた者に与えられる一種の特権であり名誉なのである。
…今年も私には関係の無い話なのだが。
何せ、担当ウマ娘のシンボリルドルフはまだ数年は在校予定であるし、専属契約を交わしているのも彼女だけだ。
まだまだ複数のウマ娘を担当するには早いと自分でも思っているし、内示も出ていない。
秋川理事長は割と即断即決、いいアイデアは即実行という情熱の人だし、時折ポカをやらかすことがあるとはいえ、辞令交付などは理事会の承認を通っているわけなので、あのしっかり者の駿川さんが内示を忘れるという事件さえ起きなければ平穏無事に進んでいく。
相変わらず秋川理事長は小さいが思い切りと勢いは凄いな、等とぼんやり考えていた。
しかし、辞令の内容によって扇子を開くたびに文字が変わっているのはどうやっているのだろうか。
昇進、昇格、感謝…。
たまに「無念」が混ざるのが諸行無常を感じる。
まぁ、無念の文字が現れるのは「諸般の事情により、〇〇トレーナーはご退職されました」と理事長秘書の駿川さんからアナウンスが入る時だけである。
本人が居ないところに哀愁が漂う。皆軽く目を伏せて黙祷を捧げている。
きっと、何かこういい感じに遠い所へ連れて行かれてしまったのだろう。実家とか。
この穏やかな4月1日を迎えることができなくなるのもまだ当分先だろう。
そう、思っていたのだが。
「辞令!新年度より担当ウマ娘を新たに2人以上持つこと!」
私は何か悪い事でもしたのだろうか。