衝撃か、はたまた音圧か。
びりびりと窓が揺れる。
同時に軽い揺れを感じたので、おそらくは前者。
そしてこういう事が起きた時、取るべき行動はそう多くない。
ここトレセン学園で何かしらの事故に巻き込まれるときは、大体の原因がウマ娘だ。
優秀なスタッフたちが日々細心の注意を払って管理している学園施設で爆発事故などは起きた事がないし、これからも起こすつもりは当然ないだろう。
揺れ方、そして爆発音から考えるに、これは当然天災ではない。
雷でもなければ地震でもない。
つまり人災である。
こういった事態に備え、トレーナーには徹底した防災訓練が施されている。
避難必需品、身の回りのものを持って、頭を低くし、その場から音の反対方向へと全力で逃げる。
可能であればヘルメット等の防護具があるのが最も望ましい。
とはいえ、ヘルメットなど持ち歩いているはずもない。
つまりは兎にも角にも逃げろ、という事である。
幸いにして私に宛てがわれたトレーナー室は1階だ。
音が響いたのは廊下側。
であれば、窓から逃げるべきである。
窓辺へと駆け寄り、窓に手をかける。
そして思い切り押し開こうとして、ふと気づく。
…。
………?
外では、メジロマックイーンがゴールドシップと何かやっていた。
いちいち観察しなくてもわかる。
確実にしょうもないことをやっている。
何せ、ゴールドシップがプロレス技で締め上げられているし。
あんな場面にのこのこ無防備に近づきたいとは思えない。
…ゴールドシップと目があった。
ガラス越しのため何を言っているかは不明だが、こちらを見て何か騒ぎ出したようで、メジロマックイーンが手を焼いている。
ぜひそのまま抑えていて頂きたい。
私はそっとカーテンを引いた。
火災が廊下で起きていない限り、窓側から逃走を図る方がより地獄に近いということはよく理解できた。
とはいえ、廊下側から逃げようにも、何が起きているのか全く分からない状態で出ていくのも危険極まりない。
こういう物理的な事故を起こすウマ娘などというのはある程度限られているが、大抵が何とか被害を抑え込むので、いっそのことこの場に留まった方が安全を確保できるかもしれない。
廊下が騒がしいが、ひとまずこの部屋に何かが飛び込んでくるというわけでも…
「大変だ!!メジロが攻めてきやがった!!」
窓から何やらとても厄介な芦毛が飛び込んできた。
何故かティアドロップ型のサングラスを掛けている。
メジロが攻めてきたと口走っているが、私からすれば面倒な奴が窓から攻め込んできたとしか思えない。
どう考えても廊下から逃げた方がまだ生存率が高かったものと思われる。
これは判断ミスだった。
窓をどうやって外から開けたのかは聞きたくもない。
鍵のあたりを丸く切り取っていても不思議ではないし、まだ窓ガラスを破壊されなくて良かったとすら思う。
二日連続で私の近辺で窓を割られても困る。
「メジロ組がカチコミに来やがったんです!」
「穏やかじゃないな。メジロ組に手を出したの?」
「あっしがメジロ組の会合に仕掛けてやったんでさ!」
鼻の下を擦りながら胸を張って答えるゴールドシップ。
一体今度は何をやったのだろうか。
前回は確かメジロマックイーンの飲んでいたブリックパックをカラシのボトルに差し替えて反撃を受けていたと思うが。
「カスタードクリームを全部カラシにしてやったら、あいつら蜂の巣を突いたような騒ぎでしたぜ!」
「なんてことをするんだ」
メジロマックイーン単体ではなく、メジロ家の会合に仕掛けた、ということは、メジロライアンとメジロパーマー、メジロドーベルまで被害に遭ったということだろうか。
名家であるメジロ家のウマ娘達がそれぞれカラシ入りシュークリームを食べた際、どのような反応を取るのか若干気になるところだが、怖いので聞きたくない。
「いやそんな事言ってる場合じゃねえ!ここは俺に任せて早く逃げろ!」
「車は」
「廊下に回してある!キーはこれだ!」
ビュン、と投げつけられた何かを慌てて掴み取る。
ぐにゃりとした感触。
タコの形を模したキーホルダーだった。鍵なぞ付いていない。
握ると目が飛び出す柔らか素材である。
こういうの、今だに高速道路のサービスエリアだとか、温泉地のお土産屋で売ってるよね。
「ゴールドシップさん!?貴女何してくれるんですの!?もうメジロに来ましたわ!今日という今日はシバき回しますわよ!!!!!」
いけない。
我を失ったお嬢様が乗り込んできた。
ちょっとばかり美少女がしてはいけないようなお顔をされている。
私のことも目に入っていないらしく、それはもう大ハッスルしており、スカートだというのに窓枠に足をかけて乗り込んできているため、あられもない事態になっている。
平時のお嬢様然とした態度の時にその所作を見れば多少はどきりとするかもしれないが、上に乗っている本来の美少女顔はちょっと見た事がないほど怒り狂っており、むしろ顔が青くなる。まるで嬉しくない。
よく絡みに行っているらしいことはゴールドシップから聞いた事がある。
絡むとおもしれーんだよ、などと抜かしていたが、恐らく被害に遭うメジロマックイーンは面白くないだろう。
これまでの怒りが爆発したのだろうか。
廊下側と窓側で、挟まれるように何がしかの爆発が起きていて洒落になっていない。
ただでさえこちらは、手元にはシンボリルドルフとトウカイテイオーという不発弾を抱えているのだ。
こんなことで引火させたくないし、そもそも面倒ごとに巻き込まれたくない。
「生きて帰るんだよ、ゴの字…」
「…ふっ。また飲みましょうや。二人で、ココナッツジュースを」
何を言っているかはさっぱり不明だが、流れに逆らっても碌な目に遭わないということだけは身を持って理解している。
むしろノリが悪いと余計に構ってくるのだ、この厄介な芦毛は。
そして更に厄介な芦毛まで乗り込んできたので、もはや廊下に避難するしかない。
それと、一緒にココナッツジュースを飲んだことは確かにあったが、あれは拉致された挙句二人して遭難した結果である。
せめてトレーナー室が更地にならないように祈りながら、廊下へと飛び出した。
焼け出されるような気分で飛び出したところ、何が起きたのかは全くもって不明であるものの、何故か廊下一面に薄らと白煙が立ち込めていた。
あの音から察するに、本当におそらく何かが爆発したのではないだろうか。
それによって怪我でもしたのか、あるいは音に驚いたのか。見慣れないウマ娘が廊下の隅で目を回して倒れている。
助けなければ、というトレーナーとしての本能が沸き立つが、同時に今すぐ逃げたいという生存本能がぶつかり合い、一瞬だけ思考に空白ができる。
そして、往々にしてその瞬間の判断こそが生死を分かつのである。
「おや、ちょうど良いところにいるじゃないか、都合のいい被検体もといトレーナー君が」
ぬるり、と。
背後から手が回され、がっちりと腰がおさえられた。
視線を落とせば、だぼだぼの袖、そして白衣。
トレセン学園の問題児がこの問題を引き起こした事が確定し、思わず天井を仰ぎ見る。
「また君か…」
若干癖のある栗毛に、ベンゼン環の耳飾り。
目つき自体は柔らかく、髪型と相俟って穏やかそうに見えるが、目を見れば残念なことに淀んだように濁っている。
普段は制服で活動しているはずだが、研究を行う際はだぼっとした袖の、丈の長い白衣を着ているウマ娘。
…アグネスタキオン。
有能だが厄介なウマ娘がたくさん在籍していることに定評のあるトレセン学園内でも、更に有能かつ厄介なことで有名なウマ娘である。
「いかにも、私だよ。君は相変わらずぼんやりしているようで何よりだ」
「それはどうも。また研究事故かい」
「ウマ娘の進歩に犠牲はつきものだよ。爆発はしたが、創薬自体は成功した。…それと、君はどうにも私のことを誤解してやいないかい?」
抱きつくようにして私を確保したまま、ぐいと上体だけ私の正面に伸ばし、実に不服ありげな顔をして、私を見上げてくる。
ふてぶてしい言動とは裏腹に、存外小柄な体躯をしているため、どうしても見上げる形になる。
「誤解も何も、ねえ」
得体の知れない薬品の経口投与で私を光らせてルドルフを怒らせたり、ゴールドシップをダウンサイジングしたり、惚れ薬なる胡乱な薬品を作成して暴動を引き起こしたり、うっかり黒煙を学園内で大量発生させたり。
あの時は光りすぎて眠れなくて大変困った。
清々しい程までにやりたい放題やり、そして事故を起こしては周囲が巻き込まれるという典型的なトラブルメーカーという認識である。
あまりにも事故を起こしすぎているものの、彼女の脚は本物である。
生活改善等を通じたメンタル面の改善により、怪我の不安も随分と解消されたらしい彼女は、あれできちんと実績を上げ続けている。
そのお陰で、微妙に処分しづらくなってしまい、困った学園側が薬品の漏洩事故などによるウマ娘への影響を最小限にすべくリスクヘッジを取った結果、「トレーナーの執務室のすぐ近くだったら彼女も無茶をしないのでは」という希望的観測を元にラボを無理矢理移設したのだ。
やはりトレーナーに人権はないらしい。
そして案の定彼女の研究には何の影響も与えなかった。
「えーっ!君がそんな風に私を認識していたとは、実に心外だよ…傷ついた」
びっくりしたような顔をしているが、それでも妙に胡散臭い点が彼女の欠点だろう。
尻尾と耳の動きを見るに、本当に心外だと思っていそうではあるのだが。
「毎度巻き込まれる身になってほしいんだけどね」
「巻き込まれる?これはおかしなことを言うじゃないか」
おかしなことを宣っているのはアグネスタキオンだと思うのだが。どう考えても。
「つい先日も講演していたじゃないか。君の夢は、ウマ娘の夢を叶える杖になることだと。私もこの耳でちゃんと聞いていたから間違いないはずだよ。だからこそ、私のモルモットになることは君の悲願成就に繋がる筈だよ?」
ぴこぴこ、と誇らしげに耳を動かして見せる。
こう言うところは可愛らしい面もあるとは思うのだが、如何せん言うことが大変物騒である。
「なんでそう言う時だけ研究室から出ているんだ」
「適度な息抜きこそ知的生産性を増大させる秘訣だよ」
これも君が教えてくれたことだ。違うかい?と、微笑んで首を傾げるアグネスタキオン。
ぐうの音も出ない。
連日徹夜をした挙句、ふらふらのままでトレーニングを行っている姿を見て、思わず口を出してしまった事がある。
アグネスタキオンは賢い。当然、オーバーワークがデメリットしかないことは理解していたのだが、精神の面で問題があった。
その事を秋川理事長に報告し、然るべき者からの改善指導を期待したのだが、秋川理事長から帰って来た言葉は無慈悲なものであった。
「癖が強くてケアが難しいため、引き続き頼めないか」
毎度の大鉈が振り下ろされた。
その決断によって、期間限定ではあったがアグネスタキオンの生活改善に借り出される羽目となり、時折ディスカッションという名目でカウンセリングを行っていた時期がある。
ルドルフの機嫌が盛大に傾いたのは言うまでもない。
一時的であり、成果が出ても出なくても、一定期間で終了することを秋川理事長や駿川さんから説得してもらい、ようやく矛を収めてもらえたほどには機嫌が傾いていた。
努力の甲斐あって、ようやくオーバーワーク極まりない生活が多少改められるようになったため、アグネスタキオンの生活改善期間は無事に終了したのだが、人をモルモットと呼んで時折絡んでくるようになってしまった。
生活習慣改善のために敢行した餌付けが良くなかったのだろうか。
奇人変人の類として、ゴールドシップ同様に周囲から距離を置かれている上、本人から絡みに行く事が少ないこともあってアグネスタキオンには親しい友人が少ない。
また、スポーツ医学などについて意見交換をすることも多いため、トレーナーというよりは友人感覚に近いのだろう。
油断すると薬を盛られて身体が発光したりするため、彼女が近くに見えた場合は油断してはならない。
他人経由で薬を投入した差し入れを送ってくることもあるため、残念ながらマンハッタンカフェやアグネスデジタルなどの彼女の交友範囲とはなるべく飲食を伴う接触は控えなければならない程である。
そして、そんなアグネスタキオンが実に上機嫌で私の腰元に絡みついている。
こう言う時は、大体が実験素体を逃したくないという内心の現れである。
特段実験を希望している案件がなければ、彼女はここまで近づいて来ないのだから。
長い袖の中から見えている試験管の中で、毒々しい色合いをした液体が踊っている。
「抵抗しても飲まされるというのは理解しているけど、せめてルドルフに事前に許可をもらって来なさい」
「当然連絡は済ませたよ」
「許可をしたのかルドルフに確認しようか」
「えー!だって会長は許可してくれた試しがないじゃないか!」
実験に付き合ってくれないなら駄々をこねてやる、とばかりに手をばたつかせて嫌がるアグネスタキオン。
当初出会った際はもう少々理知的だと思っていたのだが、独立独歩の気質が強すぎた弊害か、どうにも人に甘えるというのが下手な事が禍して距離感がおかしい。
メンタル面の不安定さを克服したおかげで、きちんと休息を取り、食事に関してもミキサー料理なる地獄のような食事をやめ、きちんとカフェテリアなどで採るようになったようではあるのだが、ルドルフがそばに居ようが居まいが、実験のためなら平気で絡みついては薬品をぐいぐいと飲ませようとしてくる悪癖は一向に改善されない。
「なんだこれ?旨そうな色してんな」
暴れるタキオンの袖から、ひょいと試験管が横から抜き取られた。
さらりと流れる芦毛の髪。
先程死んだはずのゴールドシップであった。
制服は所々裂けており、際どい格好になりかけているが、やたらと堂々とした立ち姿のせいか色気よりも勇ましさが勝っている。
戦帰りのような出立ちであった。
「あっ、何をするんだい君」
「いやなんか楽しそうな事してんなーって」
「待てゴールドシップ。いけない。それに手を出してはいけなーーー」
なぜ生きている。メジロマックイーンはどうした?
違う、そうじゃない。
絶対に何かおかしな事態が起きる。
アグネスタキオンとゴールドシップという、問題児と問題児を掛け合わせた場合、どこぞの超人漫画のようにとんでもない倍率と規模の異常事態を引き起こすことは想像に難くない。
流石にゴールドシップに与えてはまずいと思ったのか、試験薬を奪われたアグネスタキオンが取り返そうとぴょんぴょんと跳ねるが、如何せん身長の違いか、爆発を生き残ったらしい電灯に試験薬を翳して「おー、すげえ色。まるで地球みてーだな」などと言っているゴールドシップからの奪還に失敗している。
「うえ、苦ぇな!?」
そして、いとも容易くそれは行われた。
「「あっ」」
「お?」