穏やかな気候になったな、と思うのは、私が窓際の席に座っているからだろうか。
気温はまだそこまで高くなっておらず、日光の温かさが実に程よい具合に快適さを演出してくれる。
優しく差し込んでくる陽だまりの中で、春風にカーテンがそよぐ姿をぼんやり眺めていた。
こうも気候が良いと、集中を保って座学を受けるというのは中々に難儀する。
トレセン学園の中等部及び高等部に在籍する生徒は、午前中の座学への出席は必須事項。
スターウマ娘であろうが、生徒会長であろうが、例え既に予習が完全に済んでおり、復習程度にしかならなかったとしても、基本的には全員出席が求められる。
高等部を卒業し、その先の課程へ進めばその限りではなくなり、比較的自由が効くようになるが、私はまだ高等部に在籍している。
故に、授業にはきちんと出席し、率先して範を示さねばならない。
昨晩引き起こしてしまった事件と、そしてトレーナー君から与えられた罰。そしてこの気候とくれば、どうしても若干の眠気が付き纏ってきてしまう。
それでも、意思の力で居眠りだけは堪えることに成功している。
自分の引き起こした事が原因で翌日の授業で居眠りしました、等と、被害に遭わせてしまったトレーナー君に申し訳が立たない。
とはいえ。
窓の外、結構な距離だが、恐らく授業より脱走を敢行したらしいウマ娘の姿が目に入った。後ろ姿だけなので、誰かまでは分からない。
分からないが、トレーナーと思しき男性の手を引いて駆けていく。
足取りは軽やか。弾むように、楽しそうに。
…そういった光景を目にしてしまうと、思う所もある。
学園側の立場としては宜しくない事だと見咎める他ないが、私個人としてはどうだろうか。
トレセン学園の生徒会という組織は、一般的な学校におけるそれよりも遥かに強い自治権を持つ。
教職員の大半がヒトであり、彼らスタッフもウマ娘のためにベストを尽くしてくれていることについては疑いようもないが、しかし、やはり「ヒト」と「ウマ娘」という、よく似た良き者同士の間では摩擦も起きやすい。
見た目での違いなど、尻尾と、耳ぐらいしかない。
そうであるが故に、互いが「同じ生き物だ」と錯覚してしまいやすいのだ。
故に、そうした種族差を埋めるべく、ヒトではカバーしきれない発想や気配りを実現するために生徒会は存在している。
そして当然、個体としてはヒトよりも強い力を持ってしまった私達が暴走した時に、即座に鎮圧ができるのも当然、同じウマ娘になる。
種族間の橋渡しでもあり、また特有のケアが必要となる事項に気付ける同年代だからこそ、トレセン学園の生徒会には強力な自治権や裁量を委ねられているのだ。
それは、先人たちが積み重ねてきた信頼、信用、そして実績の上に成り立っている。
だからこそ、私は私の意思で、徹底して己を律しなければならない。
しかし、それだけの裁量を持たせて貰えているという事は、一方で業務の質・量ともに比例して増えていく。激務に追われ、自分の時間が取れない事もままある。
授業を脱走し、さぼって遊びに繰り出すウマ娘の後ろ姿を眺めながら、ふと考えてしまう。
生徒会長となっていなければ、生徒会へ加入していなかったら。
私も、あんな風に。
無邪気に、振舞えたのだろうかと。
彼女のように、トレーナー君の手を引いて、笑っていられたのだろうかと。
「皇帝」「無敗の三冠バ」「七冠バ」。
無我夢中で駆け抜けていくうちに、私の肩にはいつの間にか、そんなものが載せられていた。
誰かの夢、憧憬、尊敬、そして敵対心。
そういった形のない何かが、形として結実したそれ。
そんな有形無形の想いや、私達の歩んできた道そのものを誇ることはあれど、重圧に感じる日がやってくるとは思いもしなかった。
昨夜、トレーナー君が見舞いに来てくれた時。他の
そして今朝、無邪気に私のトレーナー君に絡みつくテイオーの姿を見た時。
私は酷く後悔を覚えたのだ。
秋川理事長から水面下で事前に打診があった際、私は応えた。
優秀なトレーナーを遊ばせておけるほど、トレーナーの数に余裕はない。
毎年、トレーナーと巡り合えないままに卒業するウマ娘が沢山いる。
毎年、夢半ばで諦めて、去って行ってしまうウマ娘が、沢山いる。
戦って敗北する。それは仕方のない事だ。
1人のスター誕生の裏で、何人ものウマ娘が涙を呑んでいる。
レースとはそういうものだ。
だが、夢に破れるまでもなく、夢のステージに指をかける事さえ叶わない。
それはあまりにも寂しいことだと、理解しているから。
だから私は答えた。
ウマ娘の、そしてレースの繁栄のためには、そうすべきだ、と。
辞令が交付された後にしたトレーナー君との話でも、その意識に乖離は無かった筈だ。
だけど、簡単に。
本当に簡単に、それは吹き飛んだ。
これまで積み重ねて来た決意も、重みも、信頼も、理想も。
その悉くが、綺麗さっぱり吹き飛ばされてしまった。
たかが、良く知っている匂いが、トレーナー君からしたという、ただそれだけの事で。
惨めなものだ。
夢を掲げ、積み上げてきた
そして、私にとってトレーナー君という存在は、例え狂ってでも手放したくない存在だと感じているということを、ここまで痛烈に自覚させられてしまった。
手放すつもりはない、と言った。
誰にも譲らない、とも。
だが、いざ危機が迫った折、脳が赤熱し、理性が吹き飛ぶほど狂わされるとは自分でも思っていなかった。
油断していたのだろうか。
過信していたのだろうか。
トレーナー君の心の中に居るのは、私だけなのだと。
私だけが特別なのだと、それを確固たるものにしようともせずに。
それは、ただの甘えだったのだろう。
体裁や体面ばかりを気にして、回り道ばかりだ。
それを言い訳に使ってきた。
だから、横から手が伸びてきた。
だが、承服しがたい事に。
それが心地よい熱を私の中に灯していた。
身を灼かれるような強く、甘い熱を。
皇帝でも、無敗の三冠バでもない。
一人の
授業から意識を離し、そんな事を考えていたからだろうか。
不意に端末に届いた一通のメッセージを見て、授業中にも拘わらず、椅子を蹴って立ち上がってしまった。
差出人は、トレーナー君。
メッセージは「たしけて、ルナ」という、なんだか情けなくも可愛らしい、短いテキスト。
だけど私は、それに衝き動かされるように駆け出した。
「シンボリルドルフさん!?」
教師が何事かと声を上げる。
だけど、今の私にその声に応えている余裕は一切ない。
あのトレーナー君が、何かしらの危機に陥っている。
普段から沈着冷静に、端的に要件を整理して送ってくるトレーナー君が、シンプルに「助けて」と、私に呼びかけている。
トレーナー君は、何かしら事件に巻き込まれている。それは間違いない。
そして、その状況下で、普段ならば絶対に送ってこないような酷いメッセージを、慌てて送ってきた。
それはとりもなおさず、誰よりも私を頼っているという事の証。
他の誰でもなく、皇帝でも、生徒会長でもない。
わたしの名前を呼んだ。
愛する人が、わたしを呼んでいる。
―――肚の底が疼く。
悲観する必要なんてない。
もう油断なんてしない。
わたしのものだ。
トレーナーさんの心にあるのは、このわたしだ。
トレーナーさんの心は、わたしのものだ。
これまでも。
これからも、ずっと。
大丈夫だよ、トレーナーさん。