「ふゥん…図らずもウマ娘で臨床試験ができてしまった訳だけれど、意外な結果になったね」
顎に手を当てたアグネスタキオンが、目を輝かせて頷く。
随分とまた他人事のような事を言い出した。
ゴールドシップは倒れたまま微動だにしないし、メジロマックイーンはびたんびたんと簀巻きになったまま暴れている。
廊下の隅には栗毛のウマ娘も転がっており、死屍累々といった様相。
廊下に充満していた白煙は薄くなりつつあり、そろそろここから脱出したい訳だが、先ほどからアグネスタキオンが服の裾を掴んで離さない。
離してもらおうにも、データ取りに集中してしまっているためか、ウマ娘の握力でがっちりと掴まれてしまっているため、脱出にはシャツを犠牲にしなければならないという状況。
この廊下は、トレーナーに割り当てられた執務室が立ち並んでいる場所。
つまり、そこかしこにトレーナーがいる筈なのだが、誰も彼もが息を潜め、嵐が通り過ぎるのを待っているのか、跳ねるメジロマックイーンと楽しそうなアグネスタキオンを除いては物音一つしない。
そんな中、がたと小さく音を立て、廊下に立ち並ぶドアの一つが開いた。
そして、そこから同僚が恐る恐る顔を出し、状況確認のためかきょろきょろと周囲を見渡す。
目が合った。
パタン、と。
無慈悲にも、ドアはそっと閉じられた。
助けてくださいよ。
「しかし起きないね、彼女」
くいくい、と。
ようやくこちらの存在を思い出したかのように、掴んだままの袖を引いてアグネスタキオンが言う。
勝手に飲んだゴールドシップも悪いとは思うが、基本的には妙な薬品を作ったアグネスタキオンのせいだと思うのだが、どうにも自分のしでかしたことに対する危機感というか、責任感が薄い。
しかし嵐の前の静けさ、とでも言うのだろうか。
あのゴールドシップが、気絶でもしているのかは不明だがとにかく静かである。
動いていない、という状況が起きるというのがある種信じられない事態だとさえ思える。
いくらゴールドシップとはいえ、生き物であることには変わらないので睡眠は取るだろうが、なんというか想像のつかない姿であった。
直立不動でうつ伏せで倒れているというのはある意味、らしい姿ではあるが。
「…大丈夫?」
アグネスタキオンを引きずるようにしてゴールドシップに近づき、しゃがみ込んで声を掛けてみるも、反応がない。
まさか死んでいるのでは、と思い、手を差し込んでひっくり返してみるが、微動だにしていない。
一応、胸は上下にゆっくりと動いているので、死んでいないことだけは確かなのだが、なんというか恐ろしくなってくる。
「前頭前野の機能をちょっとばかり低下させて、大脳辺緑系のあたりの機能を高める薬だからね。ふゥん…鎮静作用が強く出て、睡眠薬のように作用したのかな?トレーナー君はどう思うかい?」
「アグネスタキオン。思ったんだけど、前頭前野は確かに理性関連で合っているのだけど、論理的思考だけじゃなくて行動力などもそっちの管轄だったはずだよ」
「…おや?もしや前提条件を誤っていたかな」
「それこそアルコールで良かったのでは?」
気分を高揚させ、理性を低下させるのであればアルコールが最も手軽だろう。
その可能性に思い至らない彼女ではないと思うのだが。
しかしこうして眠っていると、あのゴールドシップが美人に見えてくるから不思議である。
普段は奇行が先に立つため、全くそんな気配は感じさせないが、大人しく眠っている限りは彼女もウマ娘。必要以上に顔が整っていることに例外がないのは羨ましい限りだ。
「…なるほど、その手があったか。流石はモルモット君だ」
アグネスタキオンが目から鱗、というような反応を見せる。
そういえば、まだ未成年だったか。
「うん?ちょっと待て。つまりゴールドシップは今、アルコールを取ったような状況になっているのか?」
「少々違うね。狙った効果は近いものがあるが、アルコールは大脳新皮質あたりから脳機能を麻痺させるから…まぁ、薬効も流石に脳に関わるものだから微量に抑えてあるし、似たようなものになるかな」
もう少々マシな結論を戴きたかった。
例えば、逆に大人しくなるだとか、記憶が一時的に吹き飛ぶとか。
そういう類のものであればどれほど良かったことだろうか。
「なんてことをーーー」
瞬間、がばっと音を立ててゴールドシップが身を起こした。
素早く伸ばされる腕。
白魚のように、すらりと細い指が伸びてきて、その外観からは予想もつかない強さで握り締められた。
アグネスタキオンの腕が。
「えっ」
「あっ」
「どらっしゃあああああああああああああ!」
そして、突如咆哮しながら、発条のようにびよんと勢いよく身を起こしたゴールドシップが胸に抱え込んだ。
「むぐぅっ!?」
無駄に豊かなそれに顔を突っ込むようにして抱えられたアグネスタキオンの尾が、冗談のように直立している。
顔色は見えないが、相当に驚いたようである。
顔を突っ込んでしまい、呼吸ができないのか。
むーむーと唸りながら手足をばたつかせている。
「捕獲完了ォ!!!!かーっ!これこれ!あーやっぱ一本釣りだと活きがいいな、オイ!」
一方の加害者は、起きたと思えば、途端に訳のわからないことを口走っている。
確かに釣ったばかりの魚のようにびちびちと暴れているが。
「なあトレーナー!お前もそう思うだ…あれお前ちっちゃくなったか?成長期?」
「ぷはっ、離してくれ、私はトレーナー君ではないよ!」
まさか自分が巻き込まれると思っていなかったのか、目を白黒させて暴れるアグネスタキオンだが、体格差によって、ものの見事に押さえ込まれている。
それに体勢も悪い。
私が屈み込んだ際に一緒に屈んでいたこと、そして急に引っ張られて抱き抱えられてしまったため、中途半端な姿勢で身動きが取りづらくなっているらしい。
ただでさえ、アグネスタキオンではゴールドシップの筋力に対抗することは難しいだろうが、不利な体勢がより一層脱出を難しくさせている。
つまり、相当な力で押さえ込んでいるという事に他ならない。
これでもし私が捕まっていたら。
ウマ娘が脱出できない程度の力で抱え込まれていたら、背骨あたりの人体におけるクリティカルな器官がぽきりと行ってしまってもおかしくなかったのではないだろうか。
背筋を冷たいものが滑り落ちる。
ゴールドシップはゴールドシップで、判断力が大いに低下しているのか、アグネスタキオンを私と誤認した挙句に捕獲したことにご満悦なのか、頬擦りをして喜んでいる。
「やっとゴルシちゃんもメイクデビューじゃあ‼︎」
すまないゴールドシップ。
それを捕獲してもおそらくレースには出られないんだ。
できるのは人体実験ぐらいなものだろう。
だが、これはチャンスではないだろうか。
何のチャンスかって、この場から逃走を図るまたとない。
ゴールドシップは酔っているのに近い状態にあるのか、アグネスタキオンを誤認逮捕してこちらに意識を全く向けていないし、そのアグネスタキオンは完全に押さえ込まれている。
「…達者でね、アグネスタキオン」
小さく手を振って踵を返そうとすると、アグネスタキオンは悲痛な悲鳴をあげる。
「えーっ!?そこはトレーナー君が犠牲になるところじゃないのかい!?」
「たまには巻き込まれる側の苦労を知るといいよ。何かの役に立つだろうし」
それじゃあね、と言って立ち上がろうとした瞬間。
びぃん、と後ろから強く引っ張られた。
「えっ」
「逃がさないよ、モルモット君!死なば諸共という奴だね、あーっはっはっは!」
やけくそ気味に笑うアグネスタキオン。
問題児め。未だに私の服を離していなかったのか。
後ろへ倒れ込もうとする身体。
だが、ここで逃げ損ねると絶対に酷い目に遭う。
何故だかは論理的な説明が難しいが、とにかく嫌な予感が首を擡げているのだ。
なんとか抗えないものか、と。
たたらを踏むようにして、下げた足で踏み止まーーー。
ばりっ。
「あ」
ウマ娘の膂力により発生した張力に対して、着ていたシャツの強度は耐えられるように設計されていなかったらしい。
繊維が裂ける音。そしてボタンが弾け飛ぶ愉快な音がした。
ああ、シャツを破かれるのは久しぶりだな、なんて。
少々ずれた思考が空回りしていく中、うっかり反射的に被害を抑えようと抵抗する力を抜いてしまったことが仇となり、そのまま後ろ向きに倒れ込んでいく。
あ、まずい。
このままだと、アグネスタキオンの脚の上に倒れ込んでしまう。
流石にそれはまずい。
仕方ない。頭から落ちるかもしれないが、こんなことでウマ娘の足に傷を負わせてしまうのはトレーナーとしての信条に反する。
情けないが、ブリッジのようにして落ちれば被害は極限できるだろう。
私は悶絶する羽目になるかも知れないが。
なんとか体を捩り、脚の上に直接落ちることだけは避けようとしてーーー
ぽす、と軽い音を立てて、倒れ込む体が何かに受け止められた。
「ーーー助けに来たよ、トレーナーさん」
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