「助けに来たよ、トレーナーさん」
私の後頭部が廊下の床面と仲良くなるべく勢いよく落ちていくところを支え、蛍光灯の灯を遮るようにして私の顔を覗き込んできたのは、他ならぬシンボリルドルフだった。
思わず天井に向けて突き出してしまった手と、背中を支えられている。
まるで、所謂ピクチャーポーズのように。
思わずぽかんと口を開けてしまう。
メッセージを打ってから、このタイミングで飛び込んで来れたということは、距離から考えてもメッセージ受信直後から移動を始めた、ということが一つ。
授業中だったため、助けに来てくれるにしても授業終了後にメッセージを読んでからになると思っていたが、どうやら運よく授業中に見てくれたらしい。
珍しい、とは思うが、流石に鋼鉄の意思を持つルドルフとはいえ、年頃。
通知が来た際に思わず見てしまうこともあるだろう。
そして今ここにいるということは、授業を放棄したのであろう、ということ。
自分で助けを求めておいてどうかとは思うが、いいのだろうかと思わなくもない。
しかし、そんなことよりも。
私を覗き込むルドルフの顔が、いつになく凛々しいのだ。
レース場に立っている時とも、何かが決定的に違うように見えた。
思わず呆然としてその整った顔を眺めていると、ぐいと力強く体が引き起こされた。
「…あ、ありがとう」
そして顔が近い。
「君の愛バとして当然の事をしただけだよ…酷いね」
不意にルドルフが顔を顰める。
その視線を追っていけば、私のシャツ。
シャツというか、つい先程までシャツだったような気がしなくもない、襤褸である。
ボタンは千切れ、布地は大きく破れており、自分で言うのもなんだが、随分とパンクなファッションと化していた。
普段シャツの上に着ているベストは、トレーナー室で作業をする際に脱いでおり、そのためか相当にラフというか、酷い格好となっている。
「…ああ、破れたのか」
ボタンだけであればまだ付け直せばいいが、生地まで破れているとなると買い換えた方が手っ取り早い。
どの道、仕事着として扱っており、外仕事が多い都合上よく汚れるためストックだけは大量にある。
シャツ一枚がどう、と言うよりは、いい歳をして盛大に肌が見えるような格好になってしまった事の方が恥ずかしい。
私の肌を見たところで一体誰が得するのか、と言う話ではあるのだが。
黒沼トレーナーなんていつもあんな格好をしていることだし。
「ちょっと待ってね」
名指しで助けを求めてしまったためか、二人きりでないにも関わらず、口調が大分ルナに寄っている。
本当に慌ててやってきたために周りが見えていないのか、それとも何かあったのか。
ずかずかと私に割り当てられているトレーナー室へ入っていくと、赤いジャージを持って出てきた。
「ひとまず、これを羽織って」
そしてそれを肩にかけられた。
いや、ありがたい。
有難いのだけれど、なんというか違うのではないだろうか。
なんというか、立場的なものが。
先ほどから、私の身に何が起きているのだろうか。
思わず背景に宇宙が映っていそうな顔になってしまう。
「…それで、どうしたの、あれ?」
「ちょっと揉み合いというか、巻き込まれて」
「揉み合い、ねえ…。大丈夫?前にみたいに怪我はしてない?」
以前の事件を思い出しているのか、若干の疑惑が込められた目をこちらに向けられる。
今回は足も折れていなければ、肋骨が折れて内臓を傷つけていることもない。
手足もちゃんとついている。
こういった事態に巻き込まれてルドルフを呼んだのち、無傷で救助というのは珍しく、そして素晴らしいことだった。
「怪我する寸前で助けてもらったから、特にないよ。ありがとう」
「よかったー、今度はちゃんと間に合ったね」
安心したのか、ぎゅっと抱きついてくるルドルフもとい、ルナ。
今度は間に合った、という言い方をしているあたり、ルドルフからの認識も一致していたようで何よりである。なんとなく虚しさを感じるが。
しかし、他人の目があるのに良いのだろうか。
「いいの?」
「……こほん。兎も角、無事息災で本当に良かった」
実に名残惜しそうな顔をしながら離れると、口調も元に戻したようだ。
「毎度申し訳ない。授業中だったろうに」
「最も大切なことを履き違えるほど私は愚かではないつもりだ。君からの救援要請であれば、授業を抜けるなど些細なことだよ」
「重ね重ね、ありがとう。頼りにしてる」
そう伝えると、得意げに耳をぶるりと震わせる。
若干頬が上気している気もするが、慌てて駆けつけてくれたからだろう。
微妙に手がそわそわとしているが、見なかったふりをする。
「それで、改めてどういう状況なのか説明して貰いたいところだが…その前に着替えだな。流石に君をそのままの格好で居させるわけにもいかない」
「私が妙な格好していたところで気にする人はいないと思うけど」
ああ、またあいつ何かに巻き込まれたんだな、ぐらいなものではないだろうか。
時折、ウマ娘にじゃれ付かれて盛大に服を破かれるトレーナーも時折いるぐらいだし。
「あれを見てもそう言えるか?」
くい、と親指で後ろを示すと、いくつかの視線とばったりと行き当たった。
先ほどまでじたばたと暴れていた問題児の二人、ゴールドシップとアグネスタキオンがこちらをじっと見つめていた。
…。
どうにも瞳孔が開き、目が充血しているような気がする。
アグネスタキオンに至っては、普段の目の色とだいぶ違っているような気さえする。
君、そんなに目がキラキラしていたか?
君たち、そのまま気づかないでいてくれたらよかったのに。
「おいおいおいおいトレーナー!随分とイカした格好になったじゃねーか!妖精たちが夏を刺激するって!?そんな格好して歩いてっとゴルゴル星じゃあっという間に攫われちまうぞ。いいからこのゴルシちゃんについて来い。…あん?てかなんでアタシはタキオンなんて抱えてんだ?」
「やあやあトレーナー君。シャツを破いてしまってすまなかったね。どれ、私のラボに寄って行ってくれないか。大きめの白衣があるからそれで肌を隠してくれたまえよ。なあに、何もしないさ。そうだ、お詫びに紅茶でも飲んでいかないかい?」
いかん。
問題児2名が活性化した。
ルドルフなら問題なく鎮圧すると思うが、私という荷物を抱えたままでは十分に動くことができない恐れがある。
「ほら、こうなるだろう」
「勘弁してほしいね、全く…逃げるか」
中途半端に絡み合っていたせいか、あの二人はすぐには立ち上がれない。
逃げるなら、今だ。
踵を返す。
「任せた」
「委細承知。後の始末はわたしに任せて」
ひょいと上げられたルドルフの手に、軽く手を合わせる。
ぱちん、と軽快な音が鳴った。
最近は微妙に意思疎通ができてなかったような気もするが、伊達にここまで連れ添っていない。
腕を組み、堂々と立つ姿はさすが皇帝と言うべきだろうか。
ばちばちと雷が鳴り響いているような気がしなくもないが、往々にしてレース終盤で彼女たちの気迫からか何か妙な幻覚を見ることもあるので今更である。
逃げる、とはいえど、私が走ったところでウマ娘の脚力にはどう足掻いても勝てない。
早晩追いつかれることは間違いない。
そんなことは百も承知だ。
だが、あのルドルフが取りこぼすということはないだろう。
だから、行き先も告げず、私は全速力で駆け出した。
どのみち、あの簡素な救援要請で的確に居場所を把握してやってくるようなルドルフだ。
端末のGPSか何かですでに所在地は把握されているだろう。
通りがけに、巻き込まれて昏倒したらしい栗毛のウマ娘を拾い、抱き上げる。
あとでルドルフには文句を言われるかもしれないが、しかし事故に巻き込まれて被害に遭った生徒を放置するというのはお互いの主義に反する。
まずは保健室。そのあとで着替えに戻り、ルドルフから鎮圧完了の報告をもらってから活動を再開すれば良いだろう。
背後で何か破滅的な酷い音が聞こえてくるが、私は振り返ることなくその場から逃げ出した。
あ、メジロマックイーンのことを忘れてた。